2012年11月アーカイブ

 紙の本(嫌な言い方だが)から電子書籍へという流れがあるとして、その大きな差異のひとつは、ページという概念が消失することである。したがって索引という意味も消える。かつて巻子本(巻物)その他から冊子本(コーデックス)に書物の形態が移行したときに初めてページという概念が成立した、まさにその逆の現象である。ページがないということは「行」という概念も消えることである。紙に印字され固定されたテクストの文字は、PDFで配布されるようなオリジナルの版面をそのまま流用した電子化ならともかく、いま一般に喧伝されている電子書籍、すなわちテクストがページや行から独立して(解放されて?)どのようにも見ることができる文字データとして動体化されることによって進化をとげると見なされ、紙の本はいずれ消滅するものとされている。
 そこで電子書籍の有利なところは、図書館などもふくめた管理スペースの限界の問題や本それ自体の劣化といった保管上の問題の解決、さらには携帯性において電子データはほぼ無限にパソコンなどに保存でき、いつでもどこでも閲覧できるといった便利性において考えられている。わたしもそのこと自体は否定しない。ただ、本を読むということだけ考えてみても、それだけでいいのだろうかというのがわたしの根本的な疑問である。
 ロジェ・シャルチエはグーグル問題が発生したときのコメントでこの危うさをいちはやく指摘している。
《「同じ」テクストであっても、それが記される媒体が変わると、もはや同じテクストではなくなってしまうのであり、したがって、新しい読者がそのテクストを読む方法も付与する意味も変わってしまうのである。》(「デジタル化と書物の未来」、「みすず」2009年12月号)
 シャルチエは、これまでのあらゆる「著述文化で媒体とジャンルと慣習とを密接に結びつけていた関連性」がパソコン画面に映し出されたテクストにおいては断ち切られてしまっていることを指摘している。つまり書物においてはどの文字も一冊の書物全体のなかに位置づけられざるをえず、必然的に書物の文化全体のどこかに場所を与えられている。それを読む者は、たとえその一部や断片しか読まなくても、その断片がどういう文化体系のなかに存在しているのかをいやでも意識せざるをえない。読者は本を読むそのローカリティにおいてそれぞれのテクストに対面しているのである。しかし電子書籍はそういった読書における読者の意識を解体し、浮遊させるのである。シャルチエはさらにこう述べている。
《(書物のような)媒体が存在していればこそ内容を整理し、階層化し、それぞれのアイデンティティによって識別できたのだが、デジタル化コンテンツの世界では内容はもはや媒体そのものに刻まれているのではない。それはコンテクストから切り離され、並べ置かれた断片で、限りなく再構成できる世界であり、それらが抽出された作品における関連性を知ることは必要とされず、望まれなくなってしまっているのである。》
 こうして「継続性がなく、断片化された新しい読み方」こそがグーグル社が意図した情報のインデックス化と階層化につながり、巨大化されたデータベースがいずれは商品化されていくだろうという認識をシャルチエはもっている。そのことが意味するのは、さらに言えば、読書の経験というものがかぎりなく断片化され、本全体がもっている意味の総体という固有の重厚さが失なわれて、しまいには解体されていくという恐るべき事態である。断片化された情報しか読むことができなくなった読み方は、そもそも長い作品を読むことに物理的に耐えられないし、作品のそれぞれの箇所がもっている意味の重層性や相互関連性を読み解く根気も養成されることができない。とりわけ文学作品のように表面上の意味を貫いて潜在する、より深い意味性を探りあてるような読解力は身につかないままになってしまうだろう。携帯電話の情報交換のようなものに代表される短絡的な意味のない情報、一時的な情報ばかりが猖獗し、本来の読書における、書物の内容と読者みずからの経験の相互交通から新しい自分を再構築していくようなダイナミズムはもはや必要とされなくなりつつある。
 電子書籍の有意味性はあくまでも、あるべき読書や書物を前提としてそれを補完するものでしかない。シャルチエが言うように、図書館の「基本的な任務」は、かつての読書が成立した媒体にそのままのかたちで温存されたテクストを保護し、カタログを作成し、ひとびとの手に届くようにすることであり、そのことを前提にしたうえでのデジタル化の問題なのであり、われわれはオリジナルの書物とその二次的産物たる電子書籍の価値を混同しないようにしなければならない。ひとことで言って、どんなに偉大な作品でも、その全体を知らずして部分だけをとりあげれば、ただの情報にすぎないということをわれわれは断固として主張すべきなのである。文化はそのかぎりにおいてしか保存することはできないからである。(2012/11/9)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)
 柴野京子さんから送ってもらった『書物の環境論』をおもしろく読んだ。この本は弘文堂が新しく始めた「現代社会学ライブラリー」というシリーズの一冊として書き下ろされたものであり、コンパクトななかに出版の歴史から直近の出版情報まで盛りだくさんに書き込まれており、なかなかよくまとまっている。いかにも取次の現場にいたひとらしく、流通という視点からみた書物の置かれる場所と環境といった現状を洗い出して、その問題点を過不足なく論じていく手さばきは堂に入ったものである。だからこその「環境論」ということなのだろう。この本の狙いはメディア論として本と出版について論じようとしたものだと柴野さんがはじめのほうで書いているとおりの成果を収めている。
 わたしのように本や出版について語るとおのずから編集の問題や文化論のほうへ傾いてしまう人間にとっては、こうした柴野流の外側からのアプローチには馴染みにくいところがあるが、それでも、たとえば、日本の出版業の歴史をふりかえって、取次という存在が日本において特異なかたちで発展した結果、欧米の業界にくらべてある種の合理性が獲得されているという指摘など、なるほどと思わせるところがある。世界大戦を契機として日本の出版界が統合されたことに起因する一元流通のしくみが、本の環境にとって「公共的」な環境となっていること、取次について言えば、「ここに投資や体力が必要な部分を集めることで、出版社が大きな資本の傘下に吸収されずにすむ」(本書40ページ)こと、そして取次とは出版業界ぐるみの「大型アウトソーシング」(同前)であることの指摘なども興味深い。この公共的環境があるために、「小さい規模の出版社や書店でも、大手とおなじように出版物の生産や流通が自由に行える」(46ページ)ことによって文化の多様性が保護されていると柴野さんは書いている。このあたりはやや目線がすこし上のほうに行き過ぎているように思えるところがあって、現実はもっと不平等な自由しか存在しないのではないかと思われるが。
 柴野さんの本で知ったことはいろいろあるが、おもしろかったのは、岩波文庫が初めて業界的に売上げスリップを始めたこと、文庫のオビ色を5種類にすることによって、書店への補充とその収納するべき棚の場所がわかりやすくなったこと、そしてそれが「書店の書棚空間を利用し、占有しようとするものだった」こと、「文庫は書店の棚を利用した」(138ページ)ものになったこと、といった見方で、これは一種のメディアテクノロジーであったといった指摘である。なるほど、本来は書店の自由と自発性の表現であったはずの書棚がこうして出版社主導の棚に変えられていったとすれば、岩波文庫の戦略はきわめて大きな影響を与えたことになる。わたしなども深くかかわった人文会による人文書の棚分類と必須アイテムのリスト作りなども、結局はこうした出版社主導の書店戦略と言われてもしかたのない面をもっていたかもしれない。こういう見方もあるのか、という視点の違いはこの本を読むうえでいろいろ参考にもなり、気づかせられたことも多かった。
 この本が流通現場の経験者の立場から書かれた「環境論」であるためか、出版の内実を支えている著者や編集者の仕事に内側から迫る観点がいっさい捨象されているのは、もちろんないものねだりであるが、製作現場の問題にもっと踏み込んでもらえたら、よりいっそう立体的な書物論、出版論が生まれるのではないかと思う。わたしがかかわってきているような編集的側面、文化論的視点がほとんど論及されていないのが、わずかに不満と言えば言えようか。(2012/10/4)

(この文章は「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)