2018年アーカイブ

 さて、あとは一般的な割付けのパターン処理である。
 すでにこの連載一回目の「3」で見出し類のタグの説明をすませたが、活字サイズの指定には、文中の文献注とか補注の類にほどこすべき小活字化というタグが必要になることが多い。たとえば本の発行年とか、ことばの説明(しばしば〔 〕で表示される)などは<S1>......</S1>で指定する。わたしはこれを10級で指定することが多い。これが二段階あるような場合には<S2>......</S2>を使うことも可能である。
 つぎに連載二回目の「4」では引用、エピグラフ、扉類、改丁・改頁の指定などについても説明した。さらにその「5」と「6」でルビ、傍点、外国語特殊表記などを説明した。
 残るのはもはやそんなに多くないからご安心を。イタリック、ゴチックについてはHTMLタグと同じで、<I>イタリック文字列</I>、<G>ゴチック文字列</G>とすればよい。半角算用数字二桁の場合、これを全角に変えると縦に並んでしまうので具合が悪い。縦中横という言い方があるが、縦組みで二分数字を横に並べたいときには【 】ではさむようにすればよい。【12】といった具合である。同じように時計数字(ローマ数字)の場合も原則として半角のIとVとX、さらにはLとかCを組み合わせて使うが、これも単独のI、V、Xのみは全角でいいが、それ以外は半角で組み合わせて【 】でつつめば、印刷所では縦に組んでくれる。もっとも欧文文献などで出てくるときは、当然ながら、横組みなのですべて半角でなければならず、【 】は不要である。
 注意しなければならないのは、時計数字をできあいの文字(たとえば「Ⅲ」など)を使うとOSの違いで文字化けすることが多い。これは文字コードの違いによるからである。原則的にこれらの文字はつかうべきではない。同じことは丸付き数字についても言える。①とか②というものだが、これも○1、○2に変換したい。
 これらはたとえば、秀丸マクロ上では
 replaceallfast "Ⅱ","【II】",inselect,regular;
 replaceallfast "Ⅲ","【III】",inselect,regular;
 <S1>(以下略)</S1>
 replaceallfast "①","○1",inselect,regular;
 replaceallfast "②","○2",inselect,regular;
 <S1>(以下略)</S1>
でという構文で変換できるし、
 sedスクリプト上では
 s/Ⅱ/【II】/g
 s/Ⅲ/【III】/g
 (以下略)
 s/①/○1/g
 s/②/○2/g
 (以下略)
で変換できる。これらをそれぞれ一括処理するためのツールは「時計数字の修正.mac」、「丸付き数字の修正.mac」、および「表記・表現の間違いを一括修正する.SED」として未來社ホームページの「アーカイブ」ページ(http://www.miraisha.co.jp/mirai/archive/)に「秀丸マクロ集」「SED用スクリプト一覧」として早くから公開している。面倒な作業を簡単に一括処理できる。すでにかなりの閲覧数になっているので、利用されているひとも多いと思うが、このさいあらためて紹介しておく。ただしWindows上では秀丸エディタ、Macintosh上ではSedMacというアプリケーションが必要で、これらもさきほどの「アーカイブ」ページからダウンロード可能である。ただし秀丸エディタはシェアウェア(安いが有料)であることはお断わりしておく。

(間奏曲)

F君 またまた「季刊 未来」用の次の原稿の時期がきましたね。今度はどんな手でくるんでしょうか。
偏執的編集者(以下、略して偏集者) すでに予告しておいたように、こんど来年の東大闘争安田講堂攻防戦五〇年を機に、この闘争の最終総括本を当時の有名な造反教官で知られていた折原浩先生が書き下ろした本を出すんだよ。とんでもなくおもしろい本になると思うよ。ところで君はまだ生まれていなかっただろうけど、この安田講堂攻防戦の話は聞いたこと、ある?
F君 ええ、話には聞いたことがあります。
偏集者 やっぱりその程度の話なんだよね。いまの若いひとはアメリカと戦争をやったことさえ学校で教わっていないから知らないひとが半分以上いるそうだから、東大闘争なんて縁がないと思っているんだろうね。だからいまの若いひとたちこそが、こんな時代悪を黙って甘受していないで、折原さんのようなひとの本を学んで、若者のエネルギーを立ち上げてほしいんだよね。
F君 ぜひ読んでみたいです。
偏集者 そうでなければいけないんだよ。この本の編集それ自体がこの連載の実体をなす「編集力」の成果でもあるんだから
F君 はあ。


[番外篇 東大闘争はいま、なぜ総括されるべきか]

 ことし二〇一八年もそろそろ暮れようとしている。そして来年一月十八日、十九日は東大闘争の象徴とも言える、本郷の安田講堂を占拠した全共闘学生と機動隊による攻防戦(というより権力側の一方的な弾圧・攻撃)の五〇周年を迎えようとしている。この〝安田砦〟をめぐる闘争は医学部闘争を発端とする東大闘争全体の事実上の終焉を告げるものであったが、当局による事態収拾の不手際と時間的逼迫からその年の入学試験がおこなわれず、新入生なし、という異例の事態に発展したものとして記憶しているひともまだまだ多いだろう。
 しかし、この東大闘争とはいったい何だったのか。当時の一連の大学闘争の流れ、そして世界的にみてもフランスやドイツでの学生運動にみられる世界的民主化闘争が、大学という知の牙城を舞台にして展開されたのには、先進国に共通する時代背景があったことは事実だろう。しかし、そのなかでも東大闘争は問題の大きさ、根の深さから言って、やはり特別な意味をもっているだろう。一部には特権学生による勝手な跳ね上がり、ととる向きもあったのはたしかだが、問題はそんなに簡単な問題ではなかったはずである。そしてこの安田講堂〝事件〟を境として大学闘争は急速に低迷し、はては過激派による内ゲバ殺人にまで及ぶ陰惨な事態に転落していく。その後の日本社会を見ていると、大学は社会へ出ていくためのたんなる〝就職予備校〟と化し、社会へ出てもひたすら出世コースに乗るため大学で学んだ技術を応用するだけで、ひとがよりよく生きるための思想や哲学を身につける実践の場ではなくなってしまった。人びとは分断され、大学は自治能力を失ない、見識も想像力もない強権政治家とそれに屈服した官僚や利権主義者がわがまま放題に権力を振り回せる国に成り下がってしまった。
 そんなときにこうした社会のなれの果てを見据え、さかのぼって東大闘争にかかわった当事者としてこの闘争の真の問題提起の意味をあらためて問い直し、それにかかわったひとたちの現在をも根底から問いただす、異色の書が年末に刊行される。折原浩『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』がそれである。この本の刊行に先立ってわたしが未來社ホームページその他で書いた案内文を以下に引用しておこう。
《世界的なヴェーバー学者でもある著者は一九六七年以降の東大闘争時代の造反教官としてもつとに著名であり、これまでもおりにふれて関連論著を発表されてきていますが、東大闘争の象徴的事件でもあった安田講堂攻防戦五〇周年を来年二〇一九年一月に迎えるにあたり、その後の社会のさまざまな問題がこの東大闘争で提起された諸問題が未解決のまま、あるいはいっそうの悪化をみる現状を憂慮されて、一気に書き下ろされた渾身の闘争総括書が本書である。ヴェーバー学者として東大闘争に立ち向かった著者が、大学内外のさまざまな矛盾や策動を綿密な資料調査と徹底した観察によって現場実践的に事実解明した驚くべき実態がついに明らかにされる。問題にかかわりのあるひとたちへの問題提起であるとともに鋭い挑発の書!》
 宣伝文として書いたものだけに粗いところがないわけではないが、とりあえず本書の成立をコンパクトに伝えると、こうなる。しかしこの本を編集する過程でさまざまな感慨や感想などが生じたことがきわめて多く、わたしの編集者魂がいちじるしく鼓舞されたことをここで書きとめておかないわけにはいかない、と思うようになった。いま連載中のこの《偏執的編集論》にも、技術処理上の諸問題を超えて、その根底にある本質的に思想的な問題を読者に提供する《偏集者》の義務として、番外篇のかたちで繰り入れる必要を感じたわけである。こんなことを書くと、さすがに折原さんからも笑われそうだが、編集者として踏み込めるかぎりの問題提起をしておきたいのである。
   *
 最初に個人的なことを言っておくと、わたし自身もこの東大闘争に自然にかかわらざるをえなかった人間のひとりである。高校を出たばかりの一九六八年入学でいきなり闘争の渦中に投げ込まれ、なにがなんだかわからないうちに二か月後には無期限ストライキに入るような異常な緊張の日々がつづいたなかにいたからである。安田講堂での入学式からしてすでにひと悶着あり、大河内総長の挨拶のあいだにも外の扉をドンドンと叩く医学部全学闘(全医学部闘争委員会)の学生や青医連(青年医師連合)のひとたちの抗議が構内に響き渡り、いったいどうなっているのかという空気がいつしか騒然としたものになった。《大河内一男総長から全学部の全教員に「入学式を、医学部学生の妨害から防衛せよ」という指令が飛びました。直前の卒業式が、大荒れに荒れて流れたあとの非常召集でした。》<S1>(一五二頁)</S1>と本書にもあるように、わたしは気がつかなかったが、東大の全教員が安田講堂に結集していたわけである。折原さんは中にいたということなので、もしかしたら近いところに立っていらしたのかもしれない。その後、正式にお会いしたのは、後述するように、羽入辰郎書批判のさいだから、ずいぶん間があいていることになる。それとは別に学生時代に校正アルバイトとして折原さんの最初の著書『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌』<S1>(一九六九年、未來社)の仕事を(おそらく志願して)やらせてもらっている。それ以来、折原さんの〈マージナル・マン〉という概念は頭に焼き付いている。なんてかっこいいことばだろう、と若者らしく考えたにちがいない。どう理解したかは覚えていないが、危機の場所としての境界というものがあり、そこに立つ人間はつねにクリティカル(危機的かつ批評的)な人間たらざるをえないのだ、という基本認識がそのときに生まれたような気がする。なにはともあれ、そういう私的な(一方的だが)出会いからすでにちょうど五〇年でもあるわけだ。駒場の一年生としては造反教官として有名な先生といってもあまりに距離がありすぎ、いまとちがって(?)まだそれほど戦闘的ではなかったから、折原さんのことは日常的にはよく知らなかった。こうして折原さん曰く「終活本」を編集させてもらえることになるとは不思議な縁である。
   *
 つぎに本書の成立について触れておこう。すでに早くから話には(佐々木力さんからも)聞いていたから、折原さんが東大闘争についての本を書くということはすでに知っていた。折原さんが熊本一規・三宅弘・清水靖久との共著『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』(緑風出版)を出版し、寄贈してもらったときに、わたしは「未来」二〇一三年十一月号の「[出版文化再生7]いまもつづく〈東大闘争〉――折原浩さんの最新総括から」でこの本について一筆書いている。《身のまわりすべてを「社会学する」姿勢が、ウェーバー学者としての「マージナル・マン(境界人)」折原さんを決定的に造反教官に仕立てていくライトモチーフになっていった。......わたしのような中途半端な学生の情報把握ではとうてい及びのつかない葛藤や事態の進展がこの時代にあったことをいまさらながらに知ることができて、折原さんの活動の一貫性と粘着性には驚かざるをえない。ずっと後年になって親しくつきあわせていただくことになる折原さんの柔らかい物腰と語り口のなかにもおのずから透けて見える情念の激しさと一徹さは、すでにこの時代から抜き差しならないほど強く折原さんの思想と行動にビルトインされていたのである。》などとわたしは書いている。(この文章に関心のある方は→http://www.miraisha.co.jp/shuppan_bunka_saisei/2013/10/73.htmlを見ていただきたい。)このあと、折原さんからこの書評を受けて本格的な東大闘争総括本を書く気になったとうれしい話を聞かせてもらった記憶がある。それが本書のきっかけになったとすれば、わたしもまんざらでもない気持ちになる。
 そんなわけでこの十月はじめに折原さんから連絡があって、この本の原稿が完成間近であること、来年の安田講堂攻防戦の前にこの本の刊行にこぎ着けたいという話になった。普通では間に合いっこないところが、どっこい、わたしの[テキスト実践技法]をもってすれば実現可能、と折原さんは踏んでいるのだった。そんなわけで最終原稿が十月十七日に届いて、そこから突貫工事でちょうど一か月後の十一月十七日の日曜日にドライブがてら茨城県取手市のご自宅まで仮ゲラを届けにうかがうことになった。いろいろファイル処理上の問題が多く、こちらが進めた部分をふくむ全文ファイルをメールでお送りして、ファイルのチェックと再修正を進めてもらう、というわたしとしても前例のないファイルの交換(むかし野球少年だった折原さんを喜ばせるような譬えで「キャッチボール」)をしながら相当な修正をさせてもらったことになる。くわしくは触れないが、折原さんの原稿はクセのある文章なので、介入するにはわたしのような強引さと確信が必要なのである。ともかく、ひと段落もなにもあったものではなく、それから四日後の二十一日には仮ゲラの赤字校正がもどり、翌日には赤字を直したうえで印刷所に入校、二十六日には初校出校と、とんとん拍子で進んだところで、こんどは索引問題で大変なことになっているのがいま現在である。なにしろ通常の索引ではなく、人名はむろん、事項索引も問題提起一覧をふくむ凝った索引ができることになっている。わたしのほうは一太郎というワープロソフトの索引作成機能を使った基本データを提供するだけしかできなかったので、残りは万事、折原さん任せという現状である。項目から削除したはずのわたしの名前まで挙げられているのは折原さんのサービス精神なのかと苦笑しているところである。
 さて、もうひとつ大きな問題は、書名に〈総括〉ということばを入れた件で、これにはわたしにも責任があり、実際、書名確定までには紆余曲折があった。もとはと言えば、「季刊 未来」秋号の後記の予告でわたしが東大闘争の「最終総括」本として言及したからで、折原さんも最初に気に入ってくれたのだが、途中でやはりこのことばは連合赤軍の仲間殺しのための符牒として使われたことから陰惨なイメージがこびりついているからやめたい、ということになって、わたしが東大闘争をメインとしたタイトルにしたいと再提案したことから、急遽、逆にこのことばの本来の意味でむしろ挑発的な意味もこめて採用したいということになった。メインタイトルが『東大闘争総括』となり、その内実を支える三つの主要モチーフとして「戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践」を取り付けるということになった。それも〈最終総括〉とはせず、これを読んだ元同僚、元闘争仲間にそれぞれの立場・位置からの〈総括〉がおのずから出てくることを期待するという、折原さん流のひそかな企みがあるのである。師のヴェーバーにならってキャッチコピーつくりのうまい折原さんは、わたしとの電話のなかで、自分のような論争を回避しない精神がさらに書名でもその後の言動でもダメ押しをするようなことをすると過剰な〈アクティヴ・チャレンジ〉になってしまうので、自分としては〈パッシヴ・チャレンジ〉の路線でいきたい、ということになり、そうした本の編集をした君こそが編集者の立場から〈アクティヴ・チャレンジ〉をすることは別にかまわない、おおいにやってくれ、と慫慂する高等戦術をとられる始末である。それに乗せられてこういう文章を書いているわけだが、まあ、この本のおもしろいのなんのって、東大闘争のいろいろ核心にあたる部分のたんなる事実確認だけでなく、調査と批判が実証的、徹底的であってミステリーふう読み物にもなっているところが多い。あまりにおもしろいので、ここではもったいなくてあまり紹介してあげられないが、それには以前、夫人からうかがったように、父親が検事だったこともあってそのあたりの論証の徹底ぶりは、批判される側からは脅威だったはずである。文学部処分をめぐる築島助教授と文スト実(文学部ストライキ実行委員会)の仲野君処分をめぐる、どちらが先に手を出したかをめぐる問題については《双方の恒常的(ないし類型的)習癖にかんする一般経験則も援用して、「築島―仲野行為連関」の明証的かつ経験的に妥当な説明》(二一八頁)の結果として《築島先手【―仲野後手という因果連関の「明証性」と(方法論上は明証性とは区別される)「経験的妥当性」とが、ともに論証されたことになります》(二一七頁)といった具合である。この学問的論述ふうの厳密さと事件の単純性がみごとにミスマッチするところなど、思わず笑いを呼び起こさざるをえない。
   *
 本書は自伝的な要素もあって、簡単ではあるが幼少期からの自分についても書いているところがあり、ヴェーバー学との出会い、安保闘争以後、東大闘争にいたる闘争前史も語られていて、その一貫性を読み取ることができる。それはいかなる事態に遭遇しても、合理的に納得できないことはとことん批判していくという精神が〈マージナル・マン〉の精神に依拠して、反復されるからである。このことが理由で、これまでもそうであっただろうように、折原さん自身にたいしても、そして本書にたいしても毀誉褒貶がはなはだしくなされるだろうことをわたしは予感する。しかし、この本を終活本として提案され指名されたことはわたしにとって名誉なことである。
 わたしが折原さんと(おそらく)親しくさせてもらったきっかけは先にも書いたように、羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(二〇〇二年、ミネルヴァ書房)というヴェーバーにたいする悪質な誹謗中傷本にたいする折原さんの怒りに端を発している。この本への批判書『ヴェーバー学のすすめ』をはじめたてつづけに四冊の関連書をだすことになったいきさつも「未来」のコラム[未来の窓]で書いている。「[未来の窓81]危機のなかの〈学問のすすめ〉──折原浩『ヴェーバー学のすすめ』の問いかけ」(http://www.miraisha.co.jp/mirai/mado/backnb/mado2003.html#81)、「[未来の窓102]折原ヴェーバー論争本の完結」(http://www.miraisha.co.jp/mirai/mado/backnb/mado2005.html#102)がそれである。この論争をめぐっては羽入書の出版社のS社長とのやりとりも苦々しく思い返される。ある会で同席したときに、この社長は「出版人が出版物についてとやかく意見を言うべきでない、学者にまかせておけばいい」とわたしの言論にたいしてイチャモンをつけてきたあげく、「訴えてやる」とまで脅したことがあった。もっともわたしには脅しにもなんにもなっていないし、現に訴えることもできなかったようだが、こうしたエセ学術書を出している出版社の社長らしい無見識ではわたしの相手になれるはずもなかったのである。出版人が自社の出版物にたいして無責任になってはおしまいである。
 ともかくまだまだ書くべきことはあるが、長くなりすぎたようなので、ここで終りにしたい。ともかく、東大闘争が本来的にもっていた日本近代の矛盾構造への巨大な問いと批判は一見思われているような表面的表層的なものではなくて、今日においてもますます根深く構造化された社会的、人間関係的な意味での歪みを早くから洞察したものであった。折原さんのこの東大闘争総括書は、そうした日本近代が孕みつづけている根本問題をあらためて摘出するもので、未解決のまま放擲されているこれらの問題を再提起することは、渦中にあったひとたちのそれぞれの総括への促しであると同時に、これからの若いひとたちがみずからの問題として真摯に検討すべき問題群となっているのである。これが本書の挑発性の由縁であり、広く読まれるべき必然性を示している。

(間奏曲)

偏集者 というわけで、えらく長い記述になってしまった。ここで元にもどろうと思うんだが、前回の編集タグの件では、チンプンカンプンというひとが何人も出てしまって、困っているんだ。なにも著者にこんな技術的なことまで理解してもらおうなんて思っていなかったんだけど、編集者までそんなことじゃ何をか言わんや、ということになる。
F君 そこを理解しようとしないと、ここから先は一歩も進めないことになりますね。
偏集者 そうなんだよ。なんでも楽して編集ができると思ったらいけないんだがね。まあ、むかしからそういう編集者で非効率でもかまわない、というひとはいるからね。
F君 とにかく先をつづけてください。

 つぎにこれも「3 目次は本の設計図である」で一部紹介したが、ドイツ語、フランス語、ギリシア語、その他の言語の特殊表記がある。翻訳書や研究書などには外国語表記のあるものが多い。英語以外のものはコンピュータの世界ではローカル言語とされるので、それらの言語の特殊文字は通常は互換性がない。ワープロなどでは環境設定をすればなんとか表記できるものもあるが、そうしたデータをテキストファイル化するととたんに消えてしまう。この場合、すべて消えてしまうわけでもないことが多く、それに近い文字に置き換えられるのがふつうだ。フランス語のアクサン(アクセント記号)やドイツ語のウムラウトはふつうのアルファベットにアクセント記号が付されているのが外れてしまうだけである。
 わたしが一般的に使用している特殊文字のテキスト指定は以下のようなものである。これ以外のものは必要に応じて設定する。
(フランス語)
 アクサンテギュ(文字の上部に右上から左下にかけて斜めの線が入るもの)→e+'/a+'/o+'/y+'/E+'など(l'、s'などの子音との組合せのときは通常のアポストロフィとして使用)
 アクサングラーヴ(文字の上部に左上から右下にかけて斜めの線が入るもの)→a`/e`など
 アクサンシルコンフレックス(文字の上部にキャレット「^」があるもの)→a^/i^/u^/e^/o^など
 セーセディーユ(Cまたはcの下部にヒゲが付く)→C&/c&
 リガチャー(合字)→o+e/a+e/O+E/A+Eなど(フランス語だけではない)
 ギュメ(フランス語特有の小さい引用符)→【<<】......【>>】で指定。
 なお、【 】は一般に特定の指定をするものであるが、多様な使い方をするので、組み指定書にそれぞれの意味を明記する必要がある。
(ドイツ語)
 ウムラウト(文字の上部にトレマが付く)→a``/i``/u``/e``/o``/A``/O``など(フランス語にもある)
 エスツェット(大文字のBを変形したもの)→B&
 ドイツ語特有の引用符(始まりが下付右よりの「"」「,」、終りが上付き左よりの「"」「'」)→【"】......【"】、【,】......【'】で指定。
(その他)
 ギリシャ語、ラテン語長音文字→e ̄/i ̄など
 半角ダブルクウォート「"」および半角シングルクウォート「'」→開き用はそのまま「"」と「'」で、閉じ用に「/"」と「/'」で指定。なお、ここでこれらはすべて半角なので、欧文と同じように開きの「"」および「'」の前には半角スペースを、閉じの「/"」および「/'」の後ろにも半角スペースを入れる必要がある。ただし前後に全角の句読点、カッコ類がある場合はこの限りでない。必要なアキはすでにこれらの文字に含まれているからである。

(間奏曲)

偏集者 というわけで、編集タグについてのとりあえずの基本的説明を終えたので、ちょっとF君を呼び出してみよう。
F君 なにかご用でしょうか。
偏集者 いやね、ちょっとひと段落したもんだから、このへんの記述ではどうかと思ってね。ここまでの編集タグというのは全体の構成とか見た目にかかわるところなんで、多少はデザイン的要素がある。これからはもっと具体的な字句単位の細かい指定に入らざるをえないのだが、読者(そういうものがいればだが)はどこまでついてきてくれるだろうかね。
F君 まあ、ついてくるひとはどこまでもついてきてくれるんじゃないですか。
偏集者 どこか投げやりな言い方だが、真実はついているようだね。じゃあ、また再開するか。


 世の中にはワープロソフトが入力ソフトの究極のツールだと思いこんでいるひとが多い。テキストエディタなどは存在も知らないか、知っていてもワープロより制限の多い、低級なツールだと思っているひとがほとんどではないか。たしかにWindowsに付属している「メモ帳」などをテキストエディタだと思っていれば、たいしたソフトではないと勘違いすることもありうるだろう。またテキストエディタはネット上でダウンロードして使えるシェアウェアまたはフリーウェアが一般的なので、市販ソフトに比べて安価(または無料)なので質もそれだけ落ちるとシロウトは考えがちである。
 ところがどっこい、いわゆる高機能エディタと呼ばれる多くのテキストエディタは、ワープロのような印刷機能や修飾機能に必要以上に力を入れているツールよりもテキスト入力とテキスト編集に特化したプロ用のツールなのであり、ワープロなどではろくに装備もされていない、テキスト処理(検索、置換など)に必要な「(タグ付き)正規表現」に完全に対応できるものが多いのである。これが使えないと、編集処理には使い物にならない。ワープロがせいぜい中間発表レベルの印刷用ソフトと言われるゆえんなのである。
 ここではなぜかデファクト・スタンダードと思われているMicrosoft Wordのもつ大きな欠陥についてとくに注意しておこう。そのうちのひとつにルビ(ふりがな)の問題がある。そもそもルビ処理というのはワープロソフトそれぞれのローカルな機能であり、そのアプリケーションの外ではまったく通用しないルールにもとづいている。端的に言えば、Wordでできたデータをテキストファイル化しようとすると、ルビの文字はおろか親文字ごと消失してしまうというとんでもない不出来なソフトなのだ。無理もない、ルビなどという概念を知らないアメリカ人が作っているソフトだからであろうか。たとえば、Word上で「パソコンは英語という言語帝国主義【インペリアリズム】の支配する世界であって、日本語のような限定された【ローカルな】言語は二次的な言語と見なされる」という文章があるとしよう(【】内はここではルビ)。これをWordからテキストファイル化すると、「パソコンは英語という言語の支配する世界であって、日本語のような言語は二次的な言語と見なされる」となってしまって帝国主義【インペリアリズム】、限定された【ローカルな】というニュアンスが全部とんでしまう。これなら――意味はまったくちがうが――まだ意味は通るが、もっとひどい例は「ランボーは『見者【ヴォワイヤン】』である」とか、同じくランボーの「絶対的に現代的【モデルヌ】でなければならない」といった有名なフレーズは「ランボーは『』である」「絶対的にでなければならない」というふうに形骸だけ残ってなんのことだかわからなくなってしまう。
 そこでどう対応するか。この場合には、テキスト保存するまえに、Word上でファイルの画面修正をおこなうか、Wordファイルを印刷しておいて、テキスト保存したデータにルビ文字を再入力するしかない。この作業は自動化するわけにはいかないので、ここは我慢してもらうしかないのである。
 ルビ指定は印刷所との約束でどうやってもいいが、印刷所の編集機で自動処理できるようにするためにはタグ付けが必要である。
 わたしの指定方式は、_^親文字【ルビ文字】^_というのが基本である。なお、親文字とルビ文字は原則的に1対2であるが、この比率ですべてのルビが振られているわけではもちろんない。親文字にたいしてルビ文字が長い場合(外国語をルビに振るような場合によくある。たとえば、英語【イングリッシュ】、など)もあれば、逆に親文字にたいしてルビ文字が短い場合(たとえば、場合【ケース】、など)、さらに言えば、日本語のふりがなが親文字と微妙にずれてしまう場合などもあり、ルビ問題はたんにWordの不備の問題だけでない、日本語の技術処理上の大きな問題である。
 くわしくはこの問題を具体例を挙げてかなりマニアックに論じた『出版のためのテキスト実践技法/総集篇』「II-6 ルビのふりかたを正確に指定する」を参照していただきたいが、要は、短いほうの親文字あるいは小文字にスペース(全角、半角、四分)を前後または/および中に挿入して、ルビ付き文字をいかに合理的かつきれいに見せるか、という問題なのである。日本語においては重要な課題なので、的確な対処が望まれる。

 日本語にはルビ(ふりがな)のほかに傍点(圏点)という独特な表記がある。通常はひと文字分の点が文字それぞれの横に振られるのだが、これもルビの一種とみなしてよい。Wordでは当然のように親文字ごと消失するのは前述したとおりなので、ここでも同じようにWord上でデータ処理するか、印刷してからテキスト保存したうえで再入力するしかない。テキストファイルでのタグ指定としては、わたしは
 _¨傍点を付ける文字列¨_
というタグを使っている。
 この傍点にも古い表記では点の代わりに小さい白丸、黒丸、二重丸、三角印などを付けたものがある。こういう場合には傍点タグのヴァリエーションとして、たとえば
 _¨●傍点を付ける文字列●¨_
などといったタグ指定をすればいいだろう。
 また傍点の代わりにまれに傍線などという場合もある。これなどは
 <傍線>傍線を引く文字列</傍線>
でいいだろう。言うまでもないが、これらはHTMLタグの原則を応用したものであり、< ></ >に挟むことによって開始点と終始点を表わしているのである。

(間奏曲)

F君 そろそろ「季刊 未来」用の次の原稿の時期がきましたが、進んでいますか。
偏集者(以下、略して偏集者) それがね、ある程度は予測していたんだけど、君も知っているとおり、日頃の忙しさに追われて時間がまったくない現状で、まだ切迫していない原稿の準備なんてものはできるものじゃない。それでも責了まであと四日ともなると、もう準備しなきゃならないよね。締切なんてとっくにすぎても、ほかのひとの原稿の処理に追われ、単行本編集の仕事だってあるけど、そうは言っていられない。何ページ分が必要かだいたいわかってきたので、いま書きはじめたところなんだ。まあ、この編集論だってどれだけのひとが読んでくれるものかわからないけど、肝腎の編集者が読んでくれないとおもしろくないよね。それでも取引先の社長が関心もってくれて、君にもいろいろ教えてもらいたいなんて言ってくれてるみたいじゃないか。
F君 うなんです。それでちょっと勉強しておかないと。
偏集者 なんだかんだ言っても、こういう仕事は実践が第一だから、わたしの仕事ぶりを見ているだけでも勉強になっていると思うよ。ちょっと気の毒だけどね。そんなわけで前回の続きを書こうと思うんだが、いろいろいっぺんに書いても、覚えきれないだろうから、ポイントはわかりやすく説明し、繰り返しも必要があると思っているんだが。
F君  それがいいと思います。
偏集者 じゃ、しばらく引っ込んでいていいよ。


 前回述べたように、本の原稿のテキスト処理にあたって目次をしっかりと確認することは、まず編集者がする最初の仕事である。こうした処理をあらかじめすませてしまうことで、全体の見通しがつきやすく、データ処理もしやすくなる。目次をなによりも優先するということは全体をより適切に配置し、それにあわせてレイアウトなどにも一貫性を与えることができるという意味で、今後の作業の基本となるのである。
 テキスト編集にあたっては、本ごとにさまざまな特徴(個人の著書なのか編集本なのか、テキスト中心なのか図版や表、写真が入る本なのか、など)があり、配慮しなくてはならないことは多岐にわたるが、場合によってはその本には必要のない方法(技法)もある。そのことを承知のうえで、いわゆる編集用のタグ(編集記号あるいは印刷用の指定記号)のそれぞれについてここで網羅的にとりまとめておこう。こうした考え方は、デザイナーの鈴木一誌さんに〈ページネーション〉という概念があり、デザインと編集では立場はちがうが、わたしのページ設計の基本と通ずるところがあることもあわせて確認しておこう。(鈴木一誌『ページと力――手わざ、そしてデジタルデザイン』青土社、二〇〇二年、参照)
 編集タグの種類はいくつかある。いくらか煩瑣になるが、これは避けて通れない。これらは一覧表にして印刷所に渡し、変換テーブルとして準備してもらうことで、以後はこのパターンを踏襲するだけでよい。わたしの経験でも、かりにタグに一部ミスがあっても、印刷所が慣れてくれれば事前にこのミスをカバーしてくれることができる(もちろん、最初からそれをアテにしてはいけないが。)
 それにあらかじめ言っておけば、こうした編集タグについての説明とあわせて、その本のための書体(フォント)とサイズ指定、ページの行数と一行の字数、行間などを「組み指定書」としてそのつど印刷所に渡すことが必要になる。編集タグが入っていれば、紙の原稿にわざわざ割付のための赤字指定をする必要がない。言いかえれば、この割付をテキストファイル上でやってしまうのが編集タグなのである。慣れてくると、同じ指定作業は一括処理で効率化することもできる。ちなみに、わたしはその本の性格にあわせてそれぞれの一括変換用マクロを作成して事前にこれをパソコン上で走らせることによって、作業の大幅短縮=軽減化をはかっているが、その説明をするのは時期尚早であろう。
 とにかくまず原稿を読むまえにできるだけこうした編集タグ付け作業をすませておくほうがいい。そうするとことで、原稿をしっかり読むことに集中できるのである。そして原稿を読むなかでそれらの指定に変更する必要があれば、訂正すればいいのである。
 あらためて言えば、編集タグとは最後の最後に組み指定書を作成するまえの、本全体の骨組みの設計なのであり、基本構造をはっきりさせることである。

(1)編集タグのうちの主要なひとつが前項「3 目次は本の設計図である」ですでに紹介した見出し系である。大見出し、中見出し、小見出し、節や項をどう指定するのかということである。これには既述のように、HTMLタグと同じ<H1>......</H1>、<H2>......</H2>、<H3>......</H3>という見出しタグを割り付ける。その見出しの前後のアキはそれぞれの好みとバランス感覚で改行コードやスペースの入力で設定するのがよい。
(2)つぎにおこないたいのが引用文の処理である。
 文中に引用記号(カッコ類)とともに組み込まれた引用文はそのままでいいが、独立した(つまり前後が行変えされたり、ひとつのセンテンスになっている)引用文の場合は、もし強調したいなら、前後一行アキにし、字下げインデントをした形にするのがいい。この場合は引用文の最初に「<引用>」タグを入れ、文末に「</引用>」を挿入する。組み指定書に、このタグにはさまれた文章はたとえば全文2字下げと指定するだけでよい。改行は自動的にインデントしてくれる。
 引用が複数段落にわたる場合は、各段落の最初に全角スペースを入れるだけで折り返しはインデントされる。逆に詩の引用などの場合は行頭を字下げせず、折り返しがある場合はさらに一字インデントして字下げする。こうしたことはあらかじめ組み指定書に記述しておくだけでいい。
 引用文の特殊な形態である、文頭などに置かれるエピグラフを設定する場合は「<エピ>」......「</エピ>」とする。この場合は書体と書体サイズ、一行の行数、行間などを独自に指定する必要がある。
(3)本の体裁にかんする設定をとりあえず先行的に記述していくが、まずはページ単位の指定としては【目次扉】【本扉】【中扉】など、わかりやすく表示することができる。これらは必然的に独立した一ページを構成するものである。【改丁】【改頁】の指示を入れるのもよい。こうしておけば、印刷所のほうで改ページしてくれる。なお、わたしが印刷所に渡す入校用仮ゲラの場合には、こうした指定だけではなく、「/*改頁*/」という独立した一行の文字列の入力で印刷時にその箇所で改ページが実現できるプリント・ユーティリティ(たとえばWinLPrt)を使っているので、入校原稿自体がすでに改ページされている。
 さらには特定の文字列を中揃えしたり下揃えしたい場合もある。その場合にはわたしは
 中揃え=<C>......</C>
 下揃え=<地ツキ>......</地ツキ>
などの編集タグを使っている。
 このほか、もし図版や表、写真などを挿入したい場合には、たとえば【このあたり図1を1ページ上部半分に入れる。文字組み込み】などといった指定をして、該当する対象を別途にサイズ指定をして入校時に添付する。
 いずれにせよ、これらの編集タグは、印刷所との連携でページ組みにさいして指定された処理が終われば、削除される。わたしはこれを「透体脱落」と呼んでいる。

 さて、著者から受け取った出版用原稿データをどう処理していくのか、基本的な方法と手順を記していこう。前提として原稿がワードでできたファイルを想定する。なぜなら昨今の出版用原稿入稿データは不幸なことに99パーセントと言っていいほどワードでできているからである。そしてワードでできたファイルをテキストファイルに変換することがまず最初におこなうべき仕事である。印刷所でゲラに出力するのはすべてテキストファイルが基本だからだ。
 このローカルで不出来なワープロソフト、ワードにもすこしだけ取り柄がある。原稿のタイプにもよるが、専門書などではドイツ語やフランス語の原語が使われたり、傍点やルビ機能が使われることがかなり多い。そうしたときに、いきなりテキスト化してしまうと、こうしたワード特有なローカル機能はすべて消失してしまう。とくにルビなどは親文字ごと消えてしまうのでタチが悪い。ドイツ語のウムラウト、エスツェット、フランス語のアクサンなどはすべて「?」に変換されてしまう。マイクロソフトのLINUX系無償対応ソフトであるOpen Officeもこれには対応できないし、それ以外でも閉じカッコ(」)が消えて改行されてしまうなど欠点も多い。結局、出版社側ではこのテキスト変換のためだけにでもMicrosoft Officeを買わされるハメになる。
 とにかくそれではどうするか。これは後述する手法とかかわるので、いまは簡単に記しておかざるをえないが、ウムラウト、アクサンなどはテキスト変換するまえにワード上で所定の文字データに検索・置換してしまうしかない。ワードでも単純な検索・置換はできるので、たとえばウムラウト付き文字(大文字小文字のAEIOU, aeiou)はそれぞれのうしろに「``」を付けて「a``」のように置換してしまう。(これはのちに印刷所のDTPで本来の形に戻すように指定すればいい。)傍点とルビはお手上げなので、ワード原稿を印刷しておいて確認しながらテキストデータにそれぞれの指定を入力していくしかない。
 さて、こうした最小限の処理をすませてしまったらワード上で[ファイル]メニューから[名前を付けて保存]を選択し、保存先を確定(通常は元原稿と同じフォルダでいい)したうえで、呼び出される保存画面で[ファイル名」欄にしかるべき名前を入力し、[ファイルの種類]で「書式なし」を選択して「保存」を押せばいい。すぐ警告画面でごちゃごちゃ言ってくるが、無視して「OK」を押せばテキストファイルに変換される。これだけで仕事のための準備は完了である。ほかのワープロソフト(たとえば「一太郎」)などでも基本的に同じ。もともとテキストファイルで入稿してきたものは、言うまでもなくそんな必要はない。
 これでとりあえず専門編集者として出発点に立ったわけである。

 そこでまず最初にすべきことは何か。編集者の仕事は、まずこの本がどういう構成でできているかを把握することである。どういうことかと言うと、この本が何部構成なのか、何章でできているのか、中見出し、小見出し、節といったようなランク付けされた構成をとっているのか、注はあるのか(原注と訳注がありうる)、図版や写真があるのか、といった全体をまず掌握することである。こうしたことは編集者なら誰でもあたりまえに考えることだから、ことさらに言うほどのこともない。しかし、問題はそこから始まるのである。それは「目次」作りをきちんとすることである。目次とは英語でcontentsと言うが、これはもともとは「内容」を意味する。つまり本の内容をメニューとして差し出したものが「目次」なのである。そしてこの目次には以下の内容をどのレヴェルまで表示するかという編集者にとって最初に意識しなければならない問題がある。そしてもちろんのことだが、章節などの本体と目次に違いがあってはならない。しょっちゅうあることだが、著者が最初に目次の原稿を作成したあと、当該の箇所で考えが変わって章節タイトルの変更がなされたさいに、目次の部分が修正されないままのことがある。編集者はそういうことまで配慮しなければならない。著者が最後にタイトルを付けたり、目次立てを考えるのとは逆に、編集者はできたものから逆算して目次をきちんと把握する必要があるのは、書いてみないとどうなるかわからない著者とは立場が逆だからである。それがプロとしての編集者意識である。本の目次は編集者にとって最初に全体の見取り図を与えるための設計図なのである。
 それでは具体的にどうするか。まずテキストデータを本文データとして一本化しておく必要がある。章ごとにファイルが分かれている場合などが多いが、それぞれのデータをテキスト化したあとで結合させておく。(たとえば秀丸エディタでは「カーソル位置への読み込み」コマンドでファイル連結させる。)注は別ファイルにしたほうがいいだろう。
 つぎに本の最初にあるべき目次扉(省略する場合もある)、目次、本扉、中扉などを指定する。ほかに凡例や装幀者名のページなどもある。これを順番に設定していく。ページの切れ目には【改ページ】などと入力しておく(印刷ユーティリティによっては「/*改頁*/」という文字列の入力で印刷時に改ページが実現できる。)
 ところで、ここでは目次を問題にしているわけだから、本文との対応は厳密になされなければならない。わたしのやりかたを言えば、章などの大見出しは<H1>......</H1>、中見出しは<H2>......</H2>、小見出しや節などさらに下位の項目があれば<H3>......</H3>、<G>......</G>などを設定する。これはHTMLタグ(注 Hyper Text Markup Language インターネットのブラウザなどの指定タグ)を応用したもので、そういう方面の知識のあるひとにはなんら異和感はないはずである。もちろん、最初のほうは開始タグ、スラッシュ「/」付きのほうは終止タグであり、該当する文字列をこの開始と終止のタグではさむのである。これは目次を確認しながら最初におこなうべきである。そして同時にその前後のアキ行も改行を入れることで設定する。たとえば大見出し(<H1>......</H1>)をページの右寄せ、文頭とのあいだを5行アキとする場合、大見出しのタグ付けのあとに改行を5回入力する。中見出しの場合(<H2>......</H2>)なら、たとえばその前に2行アキ、うしろに1行アキを入れるとすれば、その数だけの改行を入力する。さらに小見出し、節の場合(<H3>......</H3>、<G>......</G>)にはその前に1行分の改行を入れておく。こうしておけば、データをスクロールするさいにこうしたアキが目立つので、そうした見出しの位置などが見つけやすい。ちなみに秀丸エディタでは「マーク」というコマンドがあるのでそういう場所へのジャンプが容易である。また高機能テキストエディタでは改行コードやタブコードなどのコントロールコードとか全角半角スペースの画面表示が可能であるし、印刷ユーティリティによってはこれらの表示分を印字することも可能である。こうした表示機能がないと、文中に誤ってスペースが入力されていたり、よくあることだが、行頭に半角スペースが二つ入っていたりすることにも気づかない。編集者はこうした細部のチェックができなければならないので、そのためのツールを持ち合わせる必要がある。間違ってもワードではこうした編集は不可能なのである。
 なお、今後のテキスト編集についての議論は秀丸エディタをベースに説明するつもりである。興味のあるかたはわたしの『[編集者・執筆者のための]秀丸エディタ超活用術』(翔泳社、二〇〇五年)を参照してほしい。基本的なテクニックとテキスト編集にかんする高度な技法について詳述している。刊行は古いがまったく古びていない。テキスト編集の基本はそんなに変わらないからである。

偏集者 それでね、まず編集者は何をするのかということなんだけど、まずは著者からの原稿がとどいたとして、最初にするべきことは何だと思う?
F君 そうですね、まずは原稿の中身を確認することでしょうか。
偏集者 もちろん、そうだよね。内容もさることながら、原稿データがちゃんと使えるものになっているかどうかも確認する必要がある。データが壊れていたり、文字化けがあったりすることはいまでもよくある。おいおいそういう話題にもふれていかなければならないんだけど、編集者が最終的にするべきことは原稿データの中身を入校用のデータに変更することで、印刷所はそれをDTP(注 Desk Top Publishing、つまり机上編集機のこと)で出版用のデータをつくる。いまほどDTPが出版編集の中心でなかったころはいろんな編集ソフトが印刷所ごとにあって、電算写植なんて言われた時代があったことは知らないだろうね。
F君 そういう話は聞いたことがありますが。
偏集者 そのころのデータは復元できないなんてことが実際に起こっている。書物復権(注 一九九六年に専門書出版社が集まって共同復刊事業をつづけていまも継続中)の本なんかをひさしぶりに復刊しようと思うと既存データが使えず、君もすでに知っているように、本をスキャンして制作することになるなんてとんでもないことになっている。ところで何の話だったっけ。
F君 出版物の原稿データの話だったんですけど。
偏集者 そうだったね。印刷所に入校するデータの中身の話だったね。西谷流の編集技法は著者からとどいた原稿データをそのまま渡すんじゃなくて、それ以前にDTPオペレーターがする仕事のほとんどを自分のパソコンで先取り的にやってしまうところに真骨頂がある。あとでくわしく説明するけど、テキストエディタの検索・置換で正規表現(注 regular expression パソコンの演算処理能力を活用する検索・置換用ツール)を使って用字用語の高速変換処理をしたり、データを変換させるためのさまざまな編集タグと呼ばれる指定データを埋め込むことによって、印刷所での一括処理を実現できるようにする。これには多少のツールが必要ではあるけれど、基本的には高機能テキストエディタと周辺のユーティリティがすこしあれば、ほとんど実現可能なんだよ。印刷所がほしいデータ形式はどういうものかね、F君?
F君 いつもそうですが、理想的にはテキストファイルです。いまは著者がワード(注 Word マイクロソフト社のワープロソフト)で作成したままの原稿データが多いですね。
偏集者 それをワード帝国主義と呼ぶんだよ。ワープロ形式が一般的だと思っている著者も編集者も圧倒的に多いんじゃないかな。昔からそうだけど、ワープロというのはプレゼンテーション用ソフトで中間形式の発表媒体(たとえばパンフレット、紀要などそんなに専門的な編集の手がかからないもの)にはそれなりに見てくれのいいものを作ることはできるんだけど、専門的な出版編集のレヴェルに対応できるほど高度な機能を具えていない。たとえば、いずれくわしく論ずることになるが、さっき言ったタグ付き正規表現を使った検索・置換などの機能はまったく装着していないに等しい。まったくオモチャのようなソフトなんだよ、ワードっていうのは。すくなくとも編集者が使うべきソフトではない。それはともかく、ワープロのデータをテキストデータにしなきゃならないんだけど、その変換のさいにさまざまな機能が失なわれてしまうことがある。とくに日本語ネイティヴでないワードはね。
F君 それはどんな機能ですか。
偏集者 たとえば、ルビとか傍点、フランス語やドイツ語のアクサン、ウムラウトといった特殊記号のほかにもたくさんある。ワードは優れたソフトのように見えても、しょせんはローカルな機能、つまりはワードならワードの世界だけでしか流通しないもので、およそ標準的とは言えない。だけどそういうことを知らない編集者がワードをスタンダードだと思って著者にもワードでの入稿を推薦するなんて本末転倒の事態が現実のものになっているらしい。
F君 印刷所ではワードからテキストへの変換をひとつの業務としていますが......
偏集者 それをひとむかしまえはイヴァン・イリイチ(注 Ivan Illich オーストリア生まれの思想家)のタームを使って「シャドウワーク」と呼んでいたわけで、要するにお金にならない日陰の仕事というわけさ。いまは女性が強くなったけど、むかしは主婦の家庭での仕事は典型的なシャドウワークだった。夫は外で働いて稼ぎ、主婦は家で食事、洗濯、掃除からなにからなにまでおこない、それらはすべて無償労働。それとどこか同じで、パソコンのことを知らない編集者は著者からのワード入稿原稿がそのまま印刷所のゲラになると思っているから、出力原稿に昔ながらの赤字で割付指定をして入校すればいいだけだと思っている。データ入稿なんだから組み代が安くなって当然だとさえ言ってくる編集者もいるそうだ。しかし、F君も知っているように、ワード原稿はそのままでは印刷原稿には使えない。さっきも言ったような現象が起こるからだが、著者によってはどんな使い方をしているかわからないケースもある。印字されたものを鵜呑みにしているから、そんな無知がまかり通ると思っているわけだよ。印刷所にシャドウワークを強いていることの認識さえもっていない。データの変換などは本来は編集者の仕事だし、西谷流[出版のためのテキスト実践技法]はテキストデータへの変換から本格的なテキスト編集の仕事がはじまっていく。これから君に話そうとするのはそういう話だし、著者や編集者にも知っておいてもらいたいことばかりだよ。しばらくは黙ってていいよ。

F君 お聞きするところによると、なにか新しいアイデアがあるそうですが、何を書き始めるつもりなんですか。
偏執的編集者(以下、略して「偏集者」) いやあね、さきに「季刊 未来」二〇一七年秋号に「[出版文化再生【30】]ある編集者の一日」というのを書いて、さりげなく業界発言から足を洗って、自分が書きたいものを書くことに専念したいと思っていたんだが、どうもなにか書いていないと、どこかからだの具合でも悪いのかと心配してくださる読者がいてくれたりするので、この雑誌をやっていくかぎりはなにか役に立つことのひとつもしておかなくちゃいけないのかな、と思い直したんだけど、さて、いまさらなにか出版業界に物申すのもむなしい気がするし、それよりもなによりもこの業界にたいして発言したいこともなくなってしまったわけで、いろいろ考えていたら、やっぱりわたしの編集にたいする技法とか考え方をマニュアル化して後生のために残しておくぐらいしかやることが残っていないな、と思ったわけだ。F君はウチの担当になってまだ一年も経っていないけど、わたしが昨年十一月から隔月刊行で始めた加藤尚武著作集(全十五巻、既刊四冊)のほかにすでに何冊もわたしの編集本を手がけてくれているからもうわかっているだろうけど、わたしの編集技法がどれほど効率のいいものか、よく知っているだろう。
F君 ええ、そりゃもう。おかげで忙しくさせてもらっていますが、びっくりもしています。ほかにこんなに早く刊行するところなんてありませんから。
偏集者 もちろん、それにはわたしのパソコンを使う[出版のためのテキスト実践技法]がフルに活かされているからできるんだけど、そうは言っても、編集の基本は本を作るにあたってどういうコンセプトでどういう方向づけで進行するかということと、いかにそれを最初の読者として読み解くかというところにあるので、誰かさんがかつてわたしを批判したつもりでいたように、パソコンを使って本などできるものか、というようないまさら時代遅れが証明されたようなトンチンカンはさすがに消滅したようだけれど、いまだに校正を三校もとっているような前時代的編集が世の中ではつづけられていると聞いては、わたしのような経営者としては黙っていられないことになってしまうんだよ。知り合いの社長さんたちにももっと認識してもらっていいんじゃないかと思っているのも、編集者たちにこうした方法論があることを理解してもらうことで実際に経営的にもおおいに利用してもらいたいからなんだけど。これを「労働強化」だと言ったひともかつていたんだけど、言語道断だよね。まるで理解していない。F君ならわかるでしょ。
F君 わかります、わかりますとも。未來社の本は加藤尚武著作集のような厄介な内容のもので四五〇ページ以上になるような本がすべて初校責了なんですからね。初校の赤字も一〇ページに一、二箇所ぐらいですから、文句なしに初校責了になります。印刷営業としてこれほど回転のいい商品はありがたいですね。
偏集者 出版社としてもだらだら仕事をされるより資金回収が早くて都合はいいわけよ。まあ、作った本がもっと売れてくれればなおさらいいんだけど。それに、他社の編集者がどういうふうに仕事をしていようと、わたしがしゃしゃり出る必要はないけど、そのうちわたしもこういう仕事ができなくなるまえに、出版業界に遺しておけるわたしの独善的(笑)編集技法をマニュアル化しておこうという気持ちになったわけだ。社内的にもまだ十分に消化されていないところもあって、社員教育にもなるわけだ。まあ、出版界への遺書みたいなものだと思ってもらっていいよ。
F君 ちょっと、それはどうですか。(苦笑)
偏集者 ともかくこの原稿は「季刊 未来」に掲載しようと思っているが、原稿はどんどん書いてしまうかもしれないし、区切りごとに[出版文化再生]ブログにアップしていくことにしようかなとも思っているんだ。。どうせ「季刊 未来」の読者はあんまりブログなんか読まないだろうし、そもそも「季刊 未来」もほとんどわたしがひとりで編集していて、書き手もぎりぎりまでページが確定できないひともいるんで、台割(注 8ページ単位を基本とするページ配列のこと)の問題で余ったページにこの原稿を掲載することにしようと思っているんで、いつも余分に書いておくつもりなんだ。
F君 そうすると最大8ページ以内、書くということですか。
偏集者 しょうがないよね。不安定だけど台割で苦労することがなくなるからね。
F君 でもこんな調子でダラダラやるんですか。
偏集者 よくもわるくもそういうことになるね。