2012年アーカイブ

57 ルソーの勉強法

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 ルソーは二〇代半ばで死にそうになって、「毎日をこれが最後の一日」と考えるような状態になったとき、これまでなおざりにしてきた読書をつうじての研究によってこの危機を乗り越えることができた。医者の処方をあてにせず、体力の許すかぎりで普通の生活に戻ってみることによって、なんとか回復したのだが、そのときのことを回想してこんなふうに書いている。
《要するに、息を引きとるまで勉強するということがわたしにすばらしく思えたためか、あるいは生きられるというかすかな希望が心の底にひそんでいたためか、死のおとずれを待ちつつも、わたしの研究心はおとろえなかった。それどころか、かえってさかんになり、わたしは来世のためにわずかばかりの知識をせっせとかきあつめるのだった。》(『告白』第六巻)
 こうしてルソーは二十五歳ぐらいまでは「何も知らずいて、それからいっさいを学ぼうとするには、時間をうまく使う覚悟が必要だ」という認識に達し、「万難を排して、あらゆる事柄についての知識を獲得しよう」とする。二十五歳からの勉強というだけでも、これだけの熱意をもってすれば、すでにそれだけでなにものかであろう。ルソーはこの実践のなかで、ひとつの方法を発見する。
《精神の集中を要する本を数ページもつづけて読むと、気が散ってぼんやりしてしまう。それ以上がんばっても骨折り損で、目まいがしてきて、なにも見えなくなる。だが、異なった主題ならたてつづけにやってきても、目先がかわるから、中休みをしなくても楽につづけることができるのだ。》
 これはわたしにはとてもよくわかる。以前にも書いたが、ルソーの考え方はわたしには見習いやすいところがある。どこか気質が似ているのかもしれない。もっともルソーほどにすべての知識をいまさらめざそうというわたしではないのだが。
 先日、若い友人にわたしの古典読書法について感想を言われたのだが、わたしのルソー的分裂気質は一冊ずつの読書には集中できないところがあり、どうしても目先の読書の必要に迫られてそれに追われてしまうばかりで、本来の自分が読むべき本の山がどんどん堆積していってしまう。このままいくとどんどんバカになる(バカのままになる)という恐怖からいわゆる〈古典〉と呼ばれるものを最低一〇ページずつ寝るまえに読むという習慣をつけるようにした。三〇〇ページの本ならひと月以内に読了するというわけだ。さらにジャンルのちがう〈古典〉を複数読むようにしたから、おもしろいことに、そういうノルマを課すことによって、いろいろなレベルで読まなければならない本を同時並行的に読み進めることができるようになって、以前より読書量が格段に上がった。気分転換ができるからとっかえひっかえ読んでいても飽きるヒマがないからである。こういう読み方をすると、一冊ごとの読書のペースはさして上がらないが、同時に何冊も読んでいるので、どれかがしょっちゅう読み終わることになり、そのジャンルごとに後続本を決める楽しさも出てくるというわけである。いかにも教養主義的と思われるかもしれないが、まさにそうなのかもしれない。ルソーじゃないが、来世のための読書にすぎなくても、べつにかまわない。読書というものは読めば読むほど、読まなければ気がすまない本が増えていくものだが、こうしたネットワークのなかに既読本が出てくることが相対的に多くなると、読書の厚みが増してくるような気がしてくる。
 こうしてルソーの『告白』などという、もしかしたら積ん読に終わったかもしれないおもしろい本と出会うことができたのである。これを読まなければ、こんな文章を書くこともなかっただろうと思うと、読書の効用というのはなかなかのものであるとあらためて思う次第である。(2012/12/3)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を転載したものです。)

 紙の本(嫌な言い方だが)から電子書籍へという流れがあるとして、その大きな差異のひとつは、ページという概念が消失することである。したがって索引という意味も消える。かつて巻子本(巻物)その他から冊子本(コーデックス)に書物の形態が移行したときに初めてページという概念が成立した、まさにその逆の現象である。ページがないということは「行」という概念も消えることである。紙に印字され固定されたテクストの文字は、PDFで配布されるようなオリジナルの版面をそのまま流用した電子化ならともかく、いま一般に喧伝されている電子書籍、すなわちテクストがページや行から独立して(解放されて?)どのようにも見ることができる文字データとして動体化されることによって進化をとげると見なされ、紙の本はいずれ消滅するものとされている。
 そこで電子書籍の有利なところは、図書館などもふくめた管理スペースの限界の問題や本それ自体の劣化といった保管上の問題の解決、さらには携帯性において電子データはほぼ無限にパソコンなどに保存でき、いつでもどこでも閲覧できるといった便利性において考えられている。わたしもそのこと自体は否定しない。ただ、本を読むということだけ考えてみても、それだけでいいのだろうかというのがわたしの根本的な疑問である。
 ロジェ・シャルチエはグーグル問題が発生したときのコメントでこの危うさをいちはやく指摘している。
《「同じ」テクストであっても、それが記される媒体が変わると、もはや同じテクストではなくなってしまうのであり、したがって、新しい読者がそのテクストを読む方法も付与する意味も変わってしまうのである。》(「デジタル化と書物の未来」、「みすず」2009年12月号)
 シャルチエは、これまでのあらゆる「著述文化で媒体とジャンルと慣習とを密接に結びつけていた関連性」がパソコン画面に映し出されたテクストにおいては断ち切られてしまっていることを指摘している。つまり書物においてはどの文字も一冊の書物全体のなかに位置づけられざるをえず、必然的に書物の文化全体のどこかに場所を与えられている。それを読む者は、たとえその一部や断片しか読まなくても、その断片がどういう文化体系のなかに存在しているのかをいやでも意識せざるをえない。読者は本を読むそのローカリティにおいてそれぞれのテクストに対面しているのである。しかし電子書籍はそういった読書における読者の意識を解体し、浮遊させるのである。シャルチエはさらにこう述べている。
《(書物のような)媒体が存在していればこそ内容を整理し、階層化し、それぞれのアイデンティティによって識別できたのだが、デジタル化コンテンツの世界では内容はもはや媒体そのものに刻まれているのではない。それはコンテクストから切り離され、並べ置かれた断片で、限りなく再構成できる世界であり、それらが抽出された作品における関連性を知ることは必要とされず、望まれなくなってしまっているのである。》
 こうして「継続性がなく、断片化された新しい読み方」こそがグーグル社が意図した情報のインデックス化と階層化につながり、巨大化されたデータベースがいずれは商品化されていくだろうという認識をシャルチエはもっている。そのことが意味するのは、さらに言えば、読書の経験というものがかぎりなく断片化され、本全体がもっている意味の総体という固有の重厚さが失なわれて、しまいには解体されていくという恐るべき事態である。断片化された情報しか読むことができなくなった読み方は、そもそも長い作品を読むことに物理的に耐えられないし、作品のそれぞれの箇所がもっている意味の重層性や相互関連性を読み解く根気も養成されることができない。とりわけ文学作品のように表面上の意味を貫いて潜在する、より深い意味性を探りあてるような読解力は身につかないままになってしまうだろう。携帯電話の情報交換のようなものに代表される短絡的な意味のない情報、一時的な情報ばかりが猖獗し、本来の読書における、書物の内容と読者みずからの経験の相互交通から新しい自分を再構築していくようなダイナミズムはもはや必要とされなくなりつつある。
 電子書籍の有意味性はあくまでも、あるべき読書や書物を前提としてそれを補完するものでしかない。シャルチエが言うように、図書館の「基本的な任務」は、かつての読書が成立した媒体にそのままのかたちで温存されたテクストを保護し、カタログを作成し、ひとびとの手に届くようにすることであり、そのことを前提にしたうえでのデジタル化の問題なのであり、われわれはオリジナルの書物とその二次的産物たる電子書籍の価値を混同しないようにしなければならない。ひとことで言って、どんなに偉大な作品でも、その全体を知らずして部分だけをとりあげれば、ただの情報にすぎないということをわれわれは断固として主張すべきなのである。文化はそのかぎりにおいてしか保存することはできないからである。(2012/11/9)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)
 柴野京子さんから送ってもらった『書物の環境論』をおもしろく読んだ。この本は弘文堂が新しく始めた「現代社会学ライブラリー」というシリーズの一冊として書き下ろされたものであり、コンパクトななかに出版の歴史から直近の出版情報まで盛りだくさんに書き込まれており、なかなかよくまとまっている。いかにも取次の現場にいたひとらしく、流通という視点からみた書物の置かれる場所と環境といった現状を洗い出して、その問題点を過不足なく論じていく手さばきは堂に入ったものである。だからこその「環境論」ということなのだろう。この本の狙いはメディア論として本と出版について論じようとしたものだと柴野さんがはじめのほうで書いているとおりの成果を収めている。
 わたしのように本や出版について語るとおのずから編集の問題や文化論のほうへ傾いてしまう人間にとっては、こうした柴野流の外側からのアプローチには馴染みにくいところがあるが、それでも、たとえば、日本の出版業の歴史をふりかえって、取次という存在が日本において特異なかたちで発展した結果、欧米の業界にくらべてある種の合理性が獲得されているという指摘など、なるほどと思わせるところがある。世界大戦を契機として日本の出版界が統合されたことに起因する一元流通のしくみが、本の環境にとって「公共的」な環境となっていること、取次について言えば、「ここに投資や体力が必要な部分を集めることで、出版社が大きな資本の傘下に吸収されずにすむ」(本書40ページ)こと、そして取次とは出版業界ぐるみの「大型アウトソーシング」(同前)であることの指摘なども興味深い。この公共的環境があるために、「小さい規模の出版社や書店でも、大手とおなじように出版物の生産や流通が自由に行える」(46ページ)ことによって文化の多様性が保護されていると柴野さんは書いている。このあたりはやや目線がすこし上のほうに行き過ぎているように思えるところがあって、現実はもっと不平等な自由しか存在しないのではないかと思われるが。
 柴野さんの本で知ったことはいろいろあるが、おもしろかったのは、岩波文庫が初めて業界的に売上げスリップを始めたこと、文庫のオビ色を5種類にすることによって、書店への補充とその収納するべき棚の場所がわかりやすくなったこと、そしてそれが「書店の書棚空間を利用し、占有しようとするものだった」こと、「文庫は書店の棚を利用した」(138ページ)ものになったこと、といった見方で、これは一種のメディアテクノロジーであったといった指摘である。なるほど、本来は書店の自由と自発性の表現であったはずの書棚がこうして出版社主導の棚に変えられていったとすれば、岩波文庫の戦略はきわめて大きな影響を与えたことになる。わたしなども深くかかわった人文会による人文書の棚分類と必須アイテムのリスト作りなども、結局はこうした出版社主導の書店戦略と言われてもしかたのない面をもっていたかもしれない。こういう見方もあるのか、という視点の違いはこの本を読むうえでいろいろ参考にもなり、気づかせられたことも多かった。
 この本が流通現場の経験者の立場から書かれた「環境論」であるためか、出版の内実を支えている著者や編集者の仕事に内側から迫る観点がいっさい捨象されているのは、もちろんないものねだりであるが、製作現場の問題にもっと踏み込んでもらえたら、よりいっそう立体的な書物論、出版論が生まれるのではないかと思う。わたしがかかわってきているような編集的側面、文化論的視点がほとんど論及されていないのが、わずかに不満と言えば言えようか。(2012/10/4)

(この文章は「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)

 28日の夕方に那覇に着き、さっそく6時から首里のレストラン「FORATO」で仲里効『悲しき亜言語帯――沖縄・交差する植民地主義』(未來社)・崎山多美『月や、あらん』(なんよう文庫)の共同出版会に参加し、つづいて29日は6時から久米の沖縄青年会館で写真家・山田實さんの94歳の誕生祝いをかねた、写真集『故郷は戦場だった』(未來社)と『山田實が見た戦後沖縄』(琉球新報社)の出版を祝う会に出席した。後者はわたしが力を入れてきた沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉全9巻の完結祝いをかねての祝賀会でもあり盛大な集まりだった。めずらしく日曜と月曜という変則的日程だったが、いずれも仲里効さんがキーマンとしてからんだ企画の集大成であることもあり、いずれも版元挨拶が設定されていて、これは無理をしてでも参加しないわけにいかなかった。それに9月から沖縄県立博物館・美術館で開催されている「山田實展 人と時の往来」もきょうの朝早く出かけて行って急ぎ足ながら見て東京へ帰ってきたという次第である。
 仲里効さんの新著『悲しき亜言語帯』は、1972年という沖縄の「本土復帰」の年の映画と映像を対象とした『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』(2007年)と、沖縄に関係の深い写真家を論じた『フォトネシア――眼の回帰線』(2009年)とともに、わたしが命名したということになっている〈仲里効沖縄批評三部作〉の集大成として。小説、詩、戯曲を中心に論じた文学批評集である。いずれも沖縄のイメージや言説に深く食い込んだそれぞれの表現者の表現をめぐって、さらに批評的な鋭い分析をくわえた端倪すべからざる言説を縦横に展開した力作ぞろいである。この三部作のうち、実際にわたしが企画と編集にかかわったのは最後の2冊だが、これを〈沖縄〉と〈批評〉をコアにして仲里効という稀代の評論家に最新の論陣を張ってもらうという構想はなかなかのものだとわたしは確信している。そうしたなかで『悲しき亜言語帯』で熱く論じられた作家・崎山多美との合同出版会(出版記念会ではなく、自由に論じあうという意味での出版会だと主催者は主張していた)は、仲里さんの批評がたえず軸線を動かしながら他者との関係を構築し(直し)ていく力学を孕んでいることをおのずから示唆している。この流れのなかで崎山多美さんの小説にも今後かかわりがもてそうな予感がしている。(その後、きょうの帰りの飛行機の中で読んだ『月や、あらん』のタイトル作は、沖縄に移ってきたらしい「カリスマ女性編集者」の偏執的なこだわりが次第に内的な人格崩壊に導かれるという衝撃作で、ウチナーグチを随所に織り込んだ手法にはあらためて瞠目させられた。)
 こうした仲里効の批評が孕むおのずからなる運動の力学は、『フォトネシア』の元になった原稿を雑誌連載中に、わたしが無謀にも関心をもった(もたされた?)沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉という大企画を触発させることによって、このたび3年の年月をかけて完結した写真集全9冊にも反映している。きのうの山田實さんの祝賀会は、沖縄の写真界の草分け的存在であるばかりでなく、いまもその豊かで包容力のある人柄で沖縄の文化界の重鎮でありつづけている山田實という人間をあらためて浮彫りにした感銘深い会であった。そしてその山田さんをトリにしてシリーズ完結を意図した仲里効の文化戦略は、その意味できのうの沖縄文化人総結集の場を必然的に演出するものであったと言っても過言ではない。わたしはみごとにそのお先棒を担がせてもらったわけだが、こうした無謀ではあるが、手前味噌を覚悟で言えばおそらく日本の出版史上においても稀にみる写真集シリーズの企画の現実化は、たしかに仲里効という強力な個性と才能との遭遇なしには起こりえなかった。そのかぎりにおいて、出版人としてのわたしの仕事もここにひとつの達成をみたと自負してもいいと思う。
〈仲里効沖縄批評三部作〉と沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉全9巻のほぼ同時的完結によって、連日の出版祝賀会が開かれたのは、したがって、なんの偶然でもない。しかし、これが沖縄をめぐるわたしの一連の出版活動のひとつの大きな区切りになったことは事実であり、ある意味では寂しくなくもない。ここまでに築いてきた拠点をさらなるステップによって新しい展開を見出していかなければならないと気を引き締めなおそうと思っているところである。(2012/10/30)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)
 元東京堂店長の佐野衛さんのエッセイ集『書店の棚 本の気配』(亜紀書房)が刊行された。この11月には出版記念会も開かれる予定である。そう言えば、ちょっと前にも定年前に退職することになった佐野さんを激励する会があったのを思い出す。そのときには佐野さんについては言いたいことがあると幹事役の白石タイ塙書房社長に伝えておいたら、なんと出版社を代表してひとりだけ佐野さんへの挨拶をさせてもらったことがあった。言いたいことのほんのすこししか言い切れなかったような気がするが、持谷寿夫みすず書房社長からは挨拶がうまくなったとか、いちおうのお褒めももらった。もっとも以前がよっぽど下手だと思われていたからだろうが。事実、そうなんだけどね。そもそもこういうスピーチ嫌いだし。
 そんなこともあって、このエッセイ集についての感想のひとつも書いておきたい。先日のツイッターでも触れたが、哲学書も書いている佐野さんらしく、哲学者の引用が最後のほうは多くなっている。ハイデガーやショーペンハウアー、ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン、マルクス、それに廣松渉......といった具合。意外なのが小林秀雄についての言及がけっこう多いこと。そっちの方にも目配りしていたわけね。それからバッハしか聴かないという趣味も、へェー、という感じ。そんな佐野さんが東京堂書店という場を通じて本と人との出会いをどれほど演出していたのかがこの本を読んでいるとよくわかる。一見とっつきの悪そうに見える佐野さんが作家や物書きなどにも気に入られていることがわかって、なぜだかホッとする。わたしなんかよりよっぽどつきあい上手なんだ。出版界の知り合いもたくさん登場するが、わたしはいちども出てこない。残念な気もするが、もともとそんなにしょっちゅう出かけていたわけでもないから無理もないし、そもそもわたしなどお呼びでなかっただけかもしれない。(*)
『書店の棚 本の気配』にはそういう交友録から書店論、本とは何か、といったさまざまな話題が提供されていて、本好き人間の多面的なエッセイになっている。いくつか気にいった文言を以下に引いておく。
《本を探すということは、自分の内部のコンテクストを外部から触発されるということであり、そのコンテクストをさらに構成していくことである。この過程でさまざまな本が立ち現れてきて、それらをつぎつぎに手にとってみては内容を探るのである。》(14ページ)――本に触発されるということは自分の内部にそれを受け入れる準備がなされていることである。佐野さんはそういう準備のできているひとりである。
《もともと本というのは結果であり、それは必要なことを記述したものなのではないかと思う。アインシュタインの『相対性理論』や、ケインズの『一般理論』は、とてもベストセラー狙いで出版されたとは思えない。その内容が人間社会にとって必要だから本にしたのである。それが本として文化を支えてきたのだと思う。売って儲けようとして本を書いたのではない。》(95ページ)――まったくその通り。わたしの『出版文化再生――あらためて本の力を考える』ではそのことを主張している。これにつづけて佐野さんはこう書いているではないか。《転倒した出版文化というのは、いま述べたように必要な内容を記述するのが本であったものを、本という製品の産業形式が必要性を要請するようになってきてしまった、ということである。必要な本を出版するのが出版社なのではなく、出版産業を維持する必要が本を出版しているというのが現状ではないかという事態にたちいたっている》と。佐野さんの静かな怒りがこめられている。
《必要な本を読む読者は必ず存在する。こうした読者の数は多くないが、自分に向いた本が出れば必ず興味をもつのであり、その数は昔からそれほど変わっていない。この部分の活字離れはないと思う。こうした本を出版しようとしている編集者もまた必ずいる。》(96ページ)――そうであってほしいとわたしも念願しているし、そうした編集者のひとりであるつもりだ。
《書店はできる限り多様な読者のために役立てるような品揃えをしておければいいと思う。昔、わたしが教えられたのは、やむなく商品を絞っても、客層は絞るなという教えであった。》(97ページ)――こういう書店人ならではの発想はなるほどと思わせられた。専門書出版社はどちらかと言えば、その逆で、読者層を絞り込んでいく傾向にあるからだ。しかし、こうした本を作る側と受け入れる側の双方向へのそれぞれのベクトルがうまく作用してこそほんとうの出版文化の未来が開かれるのである。佐野さんは現場から離れたが、それにつづく書店界の人材が出てきてほしいと切に思う。

 *本稿の初出である「西谷の本音でトーク」ブログをアップしたら、それをすぐ読んでくれた佐野さんから電話があり、未來社のことも元原稿では書いたのに、ページ数の都合で割愛されることになったとのお詫び。こんど原稿を見せますと言われた。いかにも佐野さんらしい気の使い方で、逆に、半分冗談で書いたことでこちらが悪いことしちゃったかなと思ったぐらいであるが、この稿でもとくに削除していない。(2012/10/18)

(この文章は「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章[サブタイトルを一部修正]の後半を推敲のうえ転載したものです。)

 きのう書いた「51 沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉がついに完結」で書いたように、沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉が完結し、同じ日に『田中浩集』全10巻の第1回配本『田中浩集第一巻 ホッブズI』が刊行された。終わるものもあれば、始まるものもあるということだ。
 先日27日に書物復権8社の会例会があり、未來社が来年の東京国際ブックフェア2013への出展をとりやめる件が最終的に確定した。2004年に書物復権8社の会として初めて共同出展をして以来、来年は10年目になるが、この出展とりやめの件はすでにことしの出展終了後から社内的には方向性を定めてきたもので、8月2日の書物復権8社の会臨時例会のさいに公表した。それにたいして他の7社は来年も出展する意向を明確にしたので、未來社だけが来年からは脱落することになった。他の7社には足並みを乱すことになっていろいろ迷惑をかけるが、こればかりは未來社としては継続できないということを認めてもらうことになった。
 出展しない理由を単純に言えば、他の7社に比べて人員的に4日間の動員はむずかしくなってきたことがひとつと、年間新刊点数が不足していることがあげられる。最近の東京国際ブックフェアでは既刊書よりも新刊書が売上げの大半を占めてしまうという現実があり、これは世の趨勢でもあるからいたしかたない面があり、その点で未來社の売上げはブース代ほかのコストにも全然見合わないからである。こうした傾向は以前からもあり、経営の立場から見たら、いまのブース代その他の直接費用をクリアするには本来は何倍かの売上げがなければ成り立たない。本のマージンは売上げ分の何分の一かでしかないからである。このことは各社も原理的に同じはずだが、そうした観点は見かけの賑やかさに見えなくなりがちだ。とはいえ、以前のように目録を受け取らない読者もますます多くなってきているし、コミュニケーションをもとうとする読者もどんどん減ってきて、将来につながっていくというより、本を割引で買うことが主目的の読者になってきているように思えてしまう。このことがわたしには不満で、すでに4年前に「このひとたちが『読者』なのか」という総括の文章を書いたこともある(『出版文化再生――あらためて本の力を考える』161ページ)。このあたりから、わたしの出展への意欲は徐々に損なわれてきていたと思う。
 しかし、ことしに関しては、これまではあえて触れないできたもっとも大きな決定的な理由が別にある。というのは、わたしがここ最近、力を入れてきた沖縄関連書、とりわけ沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉がこういう場所では、手に取るひとの多いわりには購入するひとがきわめて少ないという現象がその理由である。ことしの4月に刊行された中平卓馬写真集『沖縄・奄美・吐カ喇1974-1978』は今回の超目玉のつもりで出品したのであったが、これもふくめてこの写真家シリーズはさすがにことしはかなり売れるだろうと期待せざるをえなかったのだが、まあ見事に惨敗したことになる。東京国際ブックフェアに集まる読者というのは、とりわけ書物復権8社の会のコーナーに集まる読者というのは、首都圏のかなり優良な読者層であるはずだけに、この期待はずれにはいまいちど落胆させられることになった。やはり首都圏のひとたちの〈沖縄問題〉への関心はこの程度のものだったのだという、あらためて考えてみれば、いまの日本(ヤマト)のひとたちが考えている〈沖縄問題〉へのレベルをもろに反映しているのであった。たしかに値段も(相対的に)高いし、大型判の写真集だということもあるかもしれないが、パラパラとめくっていくことは相当あっても、まずほとんどのひとがそのままパスするという光景は、わたしにはこの関心度を如実に表わしていると思われた。
 写真展の個展やなんらかのイベント会場など、〈沖縄問題〉に関心の高い読者が集まるような場所だとこういうことはないから、その落差を痛感せざるをえなかったのである。わたしは今後も〈沖縄問題〉に注力していくつもりなので、こうした光景が毎年くりかえされるのをもはや見るにはしのびない、それがわたしの気持ちを決定的にトーンダウンさせた理由なのである。わたしは、こう言ったからといって、東京国際ブックフェア自体も出版社が出展する判断自体も否定するつもりは毛頭ないので、いまは未來社の力量と方向性がこのフェアにはマッチしなくなったということを言いたいだけなのである。ほんとうは言わずもがなのことだろうし、こういうことを書くこと自体に反対するひともいるだろうが、いずれこういうことははっきりするべきだと思うので、あえて書いた次第である。(2012/9/30)

(この文章は「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)

 きのうの朝、沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉全9巻最終回配本の第1巻山田實写真集『故郷は戦場だった』の見本がとどき、このシリーズも三年ごしでついに完結させることができた。監修の仲里効さん、倉石信乃さんの全面協力とそれぞれの巻の解説者の方々の応援、そして装幀と本文レイアウトに携わってくれたデザイナーの戸田ツトムさん、さらには厄介な注文に財政的配慮もふくめて協力してくれた萩原印刷と東新紙業の方々には感謝のことばもない。こういうひとたちの力によってわたしの無謀とも思えるこの写真家シリーズの刊行もなんとか完結までほぼ順調に進めることができたのだった。
 これにくわえて売りにくい大型変型判の写真集を揃えてくれた各書店、とりわけ沖縄県での販売に力を発揮してくれたトーハン沖縄営業所、また書評や記事でこのシリーズの存在を知らしめてくれた「沖縄タイムス」「琉球新報」の地元2紙のほかに、さまざまな記事を掲載してくれたマスコミ各紙にあらためてお礼を述べたい。
 この仕事の企画から進行にかんしては、わたしの『出版文化再生――あらためて本の力を考える』(2011年、未來社刊)に収録されたPR誌「未来」の連載コラム[未来の窓]で何度も触れてきた。古くからの出版界の知人などは「西谷が書くのは沖縄ばかり」と冷やかされもしたほどだが、実際はそれほどでなくともたしかにこの写真家シリーズについてはそのつどの思いをメッセージとして(誰への?)送りつづけてきた。それがいよいよ完結したのだから、刊行までの前半戦は終了し、これからはこれをいかに広めるかという後半戦に入ることになる。
 この写真家シリーズを刊行すること自体が、現今の日本社会のなかでの〈沖縄問題〉をもっとも根底から支える内実をイメージとして提出することによって、沖縄の現実と歴史を理解していくことにつながるとわたしは信じている。米軍基地の問題にしてもたんに政治問題としての決着を急ぐだけでなく、沖縄社会の深い理解なくして安易な政治力学のなかで処理されてはならないからである。だからこの写真家シリーズのなかにあるのは、沖縄のさまざまな現実や生活であり、なかには当然のことながら基地問題や米軍にふれるイメージもふくまれるが、それらはたんなる政治的メッセージとして定着されているわけではない。そうしたリアルな現実をふくんだ生活の全体像を見てほしいと思う。このシリーズが沖縄ばかりでなく、広く知られ読まれて(見られて)いくことこそが、〈沖縄問題〉の真の解決にもつながっていくとわたしは心底から期待しているのである。だからこそこのシリーズの刊行とその販売こそ、出版が闘争であるというわたしの思いにダイレクトにつながるのである。後半戦の戦いはいよいよこれから始まるのである。(2012/9/29)

 出版業界紙「新文化」2951号(2012年9月20日)の「出版概況」を見ていて、あらためて出版不況の進行の度合いを確認することになったが、売上げの減少は言うまでもなく、ほかにもいくつか気になるところがあった。わたしに関心のあるところを3点だけにしぼって見ておこう。なお、統計は2011年から遡ること最近10年分である。
 まずは書籍の新刊発行点数とその平均定価の問題である。昨年(2011年)は新刊点数が取次のデータでは75, 810点で平均価格が1109円。問題は、平均価格(平均定価)が10年連続で低下しつづけていることである。これは新書と文庫の発行点数が頭打ちになっていることから言って、全体に値下げ傾向、すなわち軽薄短小化していることがよくわかる。
 つぎに書籍発行部数をみると、13億1165万冊と昨年より3%ダウンで毎年かなりの減少傾向にある。ピークの1997年には15億7354万冊だったから、それにくらべると16. 6%減である。この年の新刊発行点数は62, 336点だったから、初版部数もふくめて一般に1点あたりの部数がさらに大きく減少していることになる。これは売上げの減少と平行関係にあるとみてよいだろう。
 わたしの計算では、年間売上げが2兆6980億円でピークを記録した1996年の新刊発行点数は60, 462点だったのにたいして、2009年には新刊が80, 776点にもなっているにもかかわらず、売上げは2兆409億円。1996年にくらべてざっと点数で133%、売上げは75. 6%。1点あたりの売上げは56%になっている。この傾向はさらに進んでいると思われるので、数年のうちに1点あたりの売上げはピーク時の半分以下になるだろう。つまり出版界は半減期を迎えているのである。
 もうひとつわたしが気になるのは、書店の分類別売上げのなかで「専門書」のマイナス成長が一番高いことである。全体で4.3%減のところ「専門書」は11.0%減になっている。もっともなにをもって「専門書」とするかによってかなり差があるのでいちがいに否定的になるべきではないかもしれないが、やはりこういうかたちでほんとうの専門書が書店から閉め出されているのではないかと危惧せざるをえない。(2012/9/26)

(この文章は「西谷の本音でトーク」で掲載した同題の文章を事実確認と推敲のうえ、転載したものです。)

 このところいろいろなひとと電子書籍について話をするたびにわたしが言うことはほとんどいつも同じである。今週には放送大学でのオンエアでこの話題についてもしゃべることになるだろうから、いちど整理しておく必要がある。
 つまり、日本における電子書籍は今後どうなるのか、というお定まりの話題についてのわたしの考えであるが、端的に言って、日本で電子書籍はこれまでよりかはいくらか広がりと深まりを見せるだろうが、巷間いわれているようなアメリカにおけるような急速な展開は起こりえない、というものである。それは出版文化の歴史の厚みがちがうとか、英語のような文字数の少ない言語と日本語のような多文字言語のちがいがあるのは言うまでもない。もちろん、経済産業省が推進している「コンテンツ緊急電子化事業」のような公的バックアップがあって、大出版資本がそれにあわせてコミックや漫画、小説のような一過的な商品価値の高いものを便乗的に電子化しようとする動きがあるにはあるが、それらは冊子本というかたちで恒久的に保存すべき種類のものとは言えないものが多く、いずれにせよこの時代潮流のなかではおのずからほかの形式(ここでは主として電子書籍)に移行していくのは必然だからである。それに諸外国で人気のある日本のアニメやコミックが版権上の問題もあって、大手出版社がこれまでの利権を守ろうとする立場から早めに電子書籍化して版権を囲い込もうとする強い動機づけがあるからである。
 しかし現在の出版界を見てみると、これまでの通常ルートである出版社~取次~書店~読者という流れは、オンライン書店の出現以来、読者のオンライン注文というかたちで流通の中抜き現象が生じることによって書店現場を中心に弱体化を招いているし、それ以上に、携帯電話等の異常な発達によって些末な断片情報への関心の一面化と短絡化が起こり、人間の知への欲求が急速に矮小化されてきている結果を生じており、そのための書物離れが一段と加速化している現状はもはや誰も否定できなくなっている。このぶんでは、1996年のピーク時の2兆6900億円という業界売上げの数字がすでにいま現在で3割ダウンしているものが、早晩、ピーク時の半分以下になるだろうことは十分に予測できる。つまり何年かのちには業界は半減期を迎えるということである。これは悲観的な観測ではなく、峻厳な現実の観測結果である。
 そこで何が問題なのか。出版界は娯楽的にも情報的にも消費されたところで役目を終える出版物のための物量的産業であることをやめ、数は少ないけれど必要な読者にとって固有な価値をもつ出版物(という文化)をいかに生き残らせることができるようにするかを考えていくべきだろうということである。そうした出版物の大部分は電子書籍化には本質的に馴染まない種類の出版物である。つまりその種の出版物の電子化はあくまでもオリジナルあってのコピー、二次的派生物にすぎないということであって、出版物をおしのけてひとり歩きできるものではないということだ。言い換えれば、出版物は出版物としての固有性を維持しうるものだけが存在しつづけるようになるのではないか。
 そのとき、これまでの物量的流通を支えてきた取次を中心とする出版業界の流通構造はそのまま残ることは考えにくい。大幅な業務縮小を強いられる流通構造は、これまでの量指向から多様性という質指向に転換することは簡単でないからである。したがって取次はもちろん書店においても量から質(多様性)への大きな方針転換や決断が避けられないということになる。そしてこのことは出版社においても同様であり、たんなる合従連衡といった小手先の調整で片づく話ではない。業界再編という大問題がこれからの避けようもない課題なのである。
 もうひとつ問題なのは、現在の電子書籍化への流れが徐々にではあるが実現するとしても、携帯電話で些末な断片化した情報の処理に明け暮れている若者が(若者だけじゃないところおそろしいことでもあるが)質量ともにより大きな文字の文化に近づいていくことができるだろうか、という心配である。この場合、そうした若者たちは書物という形態はもちろん、電子書籍にさえも近づくようなことはないのではないか。読書とは習慣づけが必要な行為であり、そのための修練の場として携帯ではまったく不十分だからである。さきほども述べたように、情報や娯楽中心の出版物は電子書籍化されることでその目的はほぼ再現可能になるので、携帯からもアクセスしやすいかもしれない。とはいえ、そこには必要な最小限の情報をピンポイントで獲得するだけでよしとする習性から、より総体的な情報を取得しようとする動機づけまでにはおおきな距離があるわけで、したがって電子書籍がその手の読者を(出版物に代わって)獲得できることで出版物の売上げ減少分を補填することができると考えることは大いなる幻想と言わなければならない。出版物を手に取る習慣のないところに、電子書籍の可能性も低いはずである。専門書系出版社が電子書籍に積極的でない理由のひとつはそこにある。書物の価値をどうしたら広く理解してもらえるようにするのかが、電子書籍に走ることよりもはるかに切実な課題となるべきである。
 もしかしたらアナクロに見えるかもしれないこうしたことを考えながら上村忠男さんの『ヘテロトピア通信』を読んでいたら、上村さんが姜尚中との対談のなかで自分がめざすべき知識人のイメージをつぎのように提示しているのを見つけた。《権力という巨象にうるさくまとわりついて離れない虻のような存在としての知識人》《社会なり時代なりに大きな動きが生じたとき、その動きにアイロニカルな批判的懐疑の眼差しを向けることを忘れない知識人》(同書220ページ)と。上村さんはこの知識人像をサイード的知識人と呼んでいる。知識人であるかどうかはともかく、出版界の流れに棹さして電子書籍化への流れを批判しているわたしなどまさしく《権力という巨象にうるさくまとわりついて離れない虻のような存在》であり、《社会なり時代なりに大きな動きが生じたとき、その動きにアイロニカルな批判的懐疑の眼差しを向ける》のはわたしがおおいに心がけていることである。この懐疑精神と闘争心を失なわないようにしたい。(2012/9/16)

(この文章は「西谷の本音でトーク」で掲載した「電子書籍という幻想」と「虻のような存在としての懐疑精神」を大幅に推敲して転載したものです。)

 重厚で濃密な文章が書かれなくなってきているという実感はずいぶん以前からある。最近はツイッターやブログなどで簡単に意見を書いて発信できることもあり、それらの特徴は「早い、短い、軽い」といった点にあるので、思いついたらすぐ書いてすぐ発信してしまうところがあり、ますます情報が断片化し、軽量化してきている。なにしろ東日本大震災の渦中でもツイッターで被害の実況詩を書けば、リアルさがお手軽な感動を呼んで話題になる時代である。それもことばの力だと言えばそれまでだが、ことばがじっくり練られ熟成されて詩なり文章なりとして現われてくるということがめっきり少なくなった。著者も編集者もそうしたことばの熟成を待っていられないのである。かく言うわたしもこんなブログを書いているぐらいだから、同じ穴のムジナと言われてもしかたないのだが。
 こんな状況は、しかしもっと前からあったとも言えないわけではないらしい。1969年に亡くなったテオドール・W・アドルノは「句読点」というおもしろいエッセイで文章記号にかんするさまざまな問題について触れているなかで、セミコロンの死滅という現象について、それが数頁にわたる段落を恐れるという問題に結びつけてつぎのように書いている。
《この恐れは市場の産物であり、骨が折れることを嫌う顧客によって生み出され、それにまず編集者が、そして著者が、生活のために順応したのだが、彼らはみずから順応した挙げ句に、明晰さだとか、客観的な仮借のなさだとか、圧縮した正確さだとかいうイデオロギーを発明した。こうした傾向のもとにおかれるのは、言語だけではない。事柄も同様である。言語と事柄は分解できないのだから、複合文が犠牲にされることによって、思考の息が短くなる。》(「みすず」2009年6月号)
 ここでセミコロンの死滅というのは欧米語特有の文章記号にかかわる現象だが、そこで問題とされていることはセミコロンで切り分けられるひとまとまりの文が、それを一部にふくむより大きな文(ピリオドで完結する)という単位に統合されて、より大きな思考を形成することがない、という思考言語の貧弱化、浅薄さなのである。日本語のように句点と読点が主要な分節記号となっている言語においては直接的な問題ではないように見えるが、そうではなく、思考がひとつの文(フレーズ)の流れをおのずから形成し、それらが縒りあわされてひとつの段落(パラグラフ)を形成するという文章のおのずからなる営みが短絡的になりつつあるという、洋の東西を問わずに生じている思考の簡略化が日本語においても生じてきていることが問題なのである。一般的に文が短くなり、段落も短くなって、アドルノの言う〈圧縮した正確さ〉というイデオロギーによって、読者の知的怠慢に迎合し、編集者と著者の手抜きが正当化されることになる。
 著者の思考の息が短くなって適当にアガリにしてしまい、ちょっとした美辞麗句と簡便なチャートを付ければ読者に喜ばれる(=売れる)というどうしようもない知的頽廃の風潮を助長しているのが出版社と編集者なのだと言えば、すこしは反発するひともいるだろうか。すでにアドルノの慨嘆からも時代はだいぶ経てきて、この嘆きはますます大きくなるばかりか、息の長い思考を展開する著者も、それを読み抜く読者もいまや不在になりつつある昨今は、ついに印刷物という原初の形態さえも放棄して電子情報化への道へなぜか突き進もうとしているのだ。(2012/8/9)
(この文章は「西谷の本気でトーク」で掲載した同文の転載です。)
 先日、大阪屋の古市さんが取締役に就任されたのを期に、少人数でのお祝いの会を開いた。アマゾンとの取引を長年にわたって担当してきた経験からふだんでは聞けないような話を公私にわたっていろいろ聞くことができた。そのさいに、最近、アマゾンでの未來社の売行き良好書の勢いが急速に落ちてきていることを具体例を挙げて問いただしたところ、たしかにいくつかの問題があることが判明した。日をあらためて個別に話し合いをもとうということになり、今週はじめに実現した。
 アマゾンとの取引においては日販が好条件を出しているらしいことから情勢が不透明であるが、一方では、日販も相当な無理をしているはずで、たとえば専門書版元との取引などは必ずしも手厚いとはいえない。すくなくとも未來社にかんしては、アマゾンの担当者との合意があるにもかかわらず日販の窓口は積極的な取組みをしているとは思えない。新刊の初期入荷以後は、アマゾン側から日販の倉庫に補充をかけるが、在庫がなければ大阪屋の倉庫にあたりをかけるという仕組みになっているらしい。そういう序列ができているのはかなり以前からであるが、大阪屋のほうでもことしのはじめあたりから過剰在庫をできるだけ捌く方向で出版社からの補充を押さえたこともあって、専門書センター(未來社では大阪屋TBC)からの注文が激減した。その結果、かなり問題を解消したが、まだまだとのこと。売行き良好書の補充も従来にくらべて冊数をかなり減らして注文している。これではせっかく大阪屋の倉庫に補充のあたりをかけても在庫数が少ないためにアマゾンへの補充も供給不足気味になり、かなりの売り逃しをしているのではないか、とわたしが指摘して、それならということで対策を考えることになった。
 わたしはもともと、大阪屋には専門書取次としていまはなき鈴木書店のできなかったことをふくめて積極的に取り組んでもらいたいと思ってきた。そうは言ってもそんなに売れない専門書だから大きなことは言えないが、大阪屋にとっても不都合の少ない方法を考えることは可能である。話し合いによって解決すべき手だてはあるはずで、こんなことならもっと早く話し合いをしておけばよかったかとあとになって思ったぐらいである。
 大阪屋の考えでは、現在、一般の売行き良好書の注文を対象としたiBCと専門書の店売補充用のKBC(東京ではTBC)という二つの倉庫をもっている。この二つの倉庫を有効に稼働させることによって商品の回転と充足率を上げることが経営効率的にも具合がいい。できるだけこれらの倉庫を通過させることで商品の流れもよくなり、情報収集もしやすいということだろう。そのための方法としては両方の倉庫にできるだけ多くのアイテムの在庫を常備というかたちでもつことが提案された。これをベースに動きの早いものは追加補充のかたちで売り逃しを防ぐばかりでなく、商品補充のスピードアップによって売上げの向上もめざすことができる。そのために若干の条件変更の問題はあるが、結果を一年後に確認することで暫定的に実験してみようということになった。
 大阪屋でもこうした方向で専門書出版社がこれまでより以上に深くかかわってもらうことを望んでおり、未來社との話し合いは有益なものとなったとのことで、未來社としても大阪屋のこれからの動きがちょっと楽しみになろうとしているところである。(2012/8/2)

 ニーチェは書物とたんなる文献学者との関係をこんなふうに書いている。
《ただ書物を「ひっかきまわして検索する」ことだけしかしない学者は――並みの文献学者で日に約二百冊は扱わねばなるまい――しまいには、自分の頭でものを考える能力をまったくなくしてしまう。本をひっかきまわさなければ、考えられないのだ。彼が考えるとは、刺戟(――本から読んだ思想)に_¨返答する¨_ということ――要するにただ反応するだけなのだ。こういう学者は、すでに他人が考えたことに然りや否を言うこと、つまり批評することに、その全力を使いはたしてしまって――彼自身はもはや考えない......》(ニーチェ『この人を見よ』岩波文庫66ページ)
 ニーチェは最初はたしかギリシア古典の文献学者として生涯のスタートを切ったから、こうした学者たちの自己喪失のプロセスをよく見ていたのだろう。その世界からパージされるにつけルサンチマンも募ったことだろう。しかしこのニーチェの批判は当時ばかりでなく現代にもずばり当たっている。多くの学者が自分の考えをまとめられず、他人の意見の受け売りに終始しているのを見ることができる。もっとも現代の学者は以前より書物を読まないひとが増えているし、インターネットやデータベースの利用によって本をひっかきまわさなくても検索によって省エネできるからますます書物から離れているかもしれない。
 ニーチェは辛辣にもこうつづけている。
《学者――それは一種のデカダンだ。――わたしは自分の目で見て知っているが、天分あり、豊かで自由な素質をもつ人々が、三十代でもう「読書ですり切れ」、火花――つまり「思想」を発するためにはひとに擦ってもらわねばならないマッチになりさがっている。――一日のはじまる早朝、清新の気がみなぎって、自分の力も曙光と共にかがやいているのに、_¨本¨_を読むこと――それをわたしは悪徳と呼ぶ!――》(同前)
 なんと、最後には読書行為まで非難されてしまうのである。ここまで言わなくても、オリジナリティにあふれる学者というものはそんなに多いわけがないから、どのみち本を読むだけの学者も出版の世界にとってはお得意さんとして必要でもある。
 本を読むだけでなく、自分の考えをつねに清新にもちつづけること、これはなかなか至難のわざである。出版にかかわる人間としてはそうした著者をたえず発見していかなければならないし、ものを書き考える人間としての自分自身もまたそうであるようにつとめなければならないのだ。(2012/7/21)
 ことし一番の暑さを記録したきょうから東京ビックサイトで恒例の東京国際ブックフェア2012が開催された。1997年に書物の共同復刊事業として始められた書物復権8社の会はことしで16年目に入るが、会としては2004年以来、共同出展は9年目になる。これまで紀伊國屋書店の協力のもとに紀伊國屋ホールを使ってのマンスリーセミナーなど、さまざまな挑戦を試みてきた会だが、ことしは東京国際ブックフェアという会場を利用しての初めての試みである、大学・公共図書館を招いてのブック・ハンティングを紀伊國屋書店営業本部の全面的バックアップでおこなうことになり、きょうがその日になる。いったいどういうことになるのか、興味深くもありおおいに期待もあったので、わたしも様子を見に出かけていったわけである。
 大学出版部協会とも連繋することになった今回の試みには、上智大学、東京女子大学、早稲田大学教育学部、成城大学、お茶の水女子大学、荒川区立南千住図書館、文京区立真砂中央図書館の司書と学生が多数参加され、静かななかにも丹念な書目検索をされていたようだ。木曜にしては一般客も多かったせいか、思ったよりも目立たずに選書がおこなわれていた。終了後のセミナーには柴野京子さん(上智大学文学部新聞学科助教)、永江朗さん(評論家)が講師として参加され、みすず書房・持谷寿夫社長の司会進行のもとで活発な議論が展開された。フロアの学生たちの選書の実感などにかんしても、やはり現物を見ての選書はいつもの現物なしでの選書に比べてかなりインパクトがあったらしい。目次や索引、オビの推薦文なども選書のさいの判断材料にもなったといった話も出た。
 もうひとつの話題としては出版社には品切れ重版未定といった書籍が多すぎるといった批判(永江さん)や上製本が並製本になったりして図書館での寿命が短くなってしまう問題点なども出てきて、出版社側としてはロングセラーの衰退や重版の困難などの事情を説明する羽目になり、最近はオンデマンド復刊などでの対応が現実化しつつあることを指摘することになった(これはわたしの役)。こうした出版社と図書館人との意見交換の場があまりにもない現状からして、今回のブック・ハンティングの試みとそれにつづくセミナーは今後の布石になるいい試みになったような気がする。
 いずれにせよ、ハンディスキャナーを使っての選書作業が最終的にどういう結果を導くのか、ちょっと不安もあるが、意外な結果が待っているのではないかとひそかな期待もしているところである。(2012/7/5)
 この7月14日に東京外国語大学府中キャンパスにて仲里効さんを招いてシンポジウム「沖縄『復帰』40年――鳴動する活断層」が開催される。主催者の東京外国語大学大学院の西谷修さんからくわしく聞いていたのだが、ようやくチラシが届いた。5年前に行なわれたシンポジウム「沖縄・暴力論」の継続版だ。このシンポジウムの内容をふくんで増補された『沖縄/暴力論』が西谷修・仲里効共編でその後、未來社から刊行された。
 今回は沖縄「復帰」40年ということであらためて沖縄の「復帰」の問題を考えようという趣旨である。しかも第一部の仲里効の基調講演のあと、第二部は「『悲しき亜言語帯』と『自立』をめぐって」という総括討論が予定されている。質疑応答形式でそれぞれ原稿を事前に準備してもらい、その概要を口頭発表、仲里さんが応答するという形式が予定されている。質疑の予定者は土佐弘之(国際政治社会学)、崎山政毅(ラテンアメリカ)、中村隆之(クレオール文化)、中山智香子(社会思想)、真島一郎(国際政治社会学)、米谷匡史(東アジア)の6名。5月下旬に刊行された仲里さんの『悲しき亜言語帯――沖縄・交差する植民地主義』が論題にあてられる。沖縄の文学的言説(小説、詩、戯曲、エッセイ)を、沖縄といういまだ植民地的要素から脱却しきれていない独異な地政のもとにおかれた言説群にたいしてポストコロニアルの批評的視点とウチナーンチュの立場から徹底的に読み抜き、原理的な沖縄文学論として完結させたこの本は沖縄文学論としてこれまでに書かれ得なかった最高度の達成であることは(おそらく)間違いない。西谷修さんの見解も同じである。もしかすると今後も二度と書かれ得ないかもしれない、と。
 このシンポジウムでは第一部の「『復帰』40年を考える」では主催者の西谷修さんが「擬制の終焉」と題してプレゼンテーションをおこない、それを受けて仲里さんの「思想の自立的拠点」という基調講演になる。ことし3月に亡くなった吉本隆明の書名にちなんだタイトルを二本冠するのもどこか象徴的な感じもあるが、沖縄の日本「復帰」という〈擬制〉と、そうした日本(ヤマト)の仕組んだ沖縄の植民地環境の永続化からの〈自立〉を、どういう論理で展開することになるか、期待したいところである。そのためにも刊行されたばかりの『悲しき亜言語帯』が重要な視点を開示しているはずだ。
 まことにタイムリーに出されたこの『悲しき亜言語帯』(もちろん、「復帰」40年にあわせようとしたので偶然ではないのだが)は沖縄の「復帰」40年の内実を言語の内側から、言説の発動する場所や背景をも広角的にとらえるなかから、さまざまな文学テクストの可能性と意味の射程を探究し確認しようとしたものである。このイベントをひとつのきっかけにすこしでも広く知られるようにしたい。

 なお、シンポジウムの時間と場所は以下の通り。(予約不要、入場無料)
 時:7月14日(土)14時~17時半(開場は13時半)
 場所:東京外国語大学(府中キャンパス)研究講義棟226教室
 開始にあたって13時半から「Condition Delta OKINAWA」の上映があります。
 宮本常一『私の日本地図8 沖縄』の「沖縄雑感」というまとめの部分を読んでいると、宮本常一という人間がどれほど沖縄の振興に気をもんでいるかということが伝わってくる。離島振興に力を入れていた宮本だからよけいそうなのだろうが、1969年という「復帰」の3年前の渡航記である本書には、短期間であったとはいえ、現地の案内も得て離島もふくむ観察記事と多くの貴重な写真を残してくれている。いまも変わらない部分とまったく変わってしまった部分があるだろう。わたしは那覇中心にしか行く機会がなかなか得られないが、それ以外のところは案外そんなに変わっていないのではないか、とも思う。
 そうした宮本の文章は善意にあふれているが、ところどころ気になるところもある。たとえば1969年時点で、会うひとの誰もが日本への復帰を望んでいるという記述や、教職員の標準語教育が成功して誰もが日本語に習熟していることを讃美するようなところである。ほんとうにそうだったのか。仲里効の『悲しき亜言語帯――沖縄・交差する植民地主義』などによれば、そういう日本語教育がいかに歪んだものをふくんでいたか、ということを内部的に告発しているところがある。また「反復帰論」と呼ばれる思想的運動もそれなりに力をもっていたはずで、それが今日の沖縄独立論の源流にもなっているように思うが、その件にはまったく言及がない。このあたりに限界が見えるとも言えるが、それはないものねだりなのだろうか。
 宮本常一のこの本をどう読むかは読者の立場や見識によるだろうが、これからの沖縄を考える意味でもいぜんとして有効な問題提起をたくさん含んでいると思う。(2012/6/15)

 本ブログのいくつかの文章をPR誌「未来」に掲載することになった。すでにそこそこのアクセス数はあるものの、わたしが念頭においているような読者の多くはこの手のブログの文章まではフォローしてはくれないからである。自分が逆の場合にも言えることなので、それはやむをえないことだと思う。ブログの速報性や自在性は有効ではあるものの、自分でも主張しているとおり、活字でないときちんと読めない(頭に入らない)のであるから、わざわざプリントアウトまでして読むというのはよほどの場合にかぎられるのである。
 そういうこともあって、本ブログのうち比較的アクセス数の多い文章をピックアップして「未来」で「『出版文化再生ブログ』から」というタイトルを付けて適宜掲載する。今回は七月号に空きページが生じたのをきっかけに本ブログから「17 日販の『インセンティヴ-ペナルティ』方式の危険」までの6本を一部省略をくわえたかたちで再録した。ほかにも再録しておきたいものはないわけでもなかったが、本ブログで読めるのでいいことにした。残りもつづけて再録していく予定であるが、そのためにはこのブログもどんどん書いていかねばならない。初めての試みだが、これもまた出版文化再生のための闘争の一環であると言えようか。(2012/6/11)

41 新藤兼人さんの思い出

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 ドキュメンタリー映画の巨匠、がお亡くなりになりました。100歳という長寿を全うされましたが、まだまだお元気だったようで残念です。最近はお会いすることもないままになってしまいました。
 わたしが新藤さんの本を作らせてもらったのはなんと1978年のことで「竹山ひとり旅」という津軽三味線の名手、高橋竹山の映画のもとになるシナリオを含む撮影記録を収録した『映像ひとり旅――映画「竹山ひとり旅」創造の記録』でした。赤坂にあった近代映画協会に何度も足を運んでゲラの校正やら打合せやらで新藤さんほかスタッフの方々とお会いしたことが思い出されます。そのころ新藤さんは六十代半ば、わたしは駆け出しの編集者でまだ二十代。その撮影の厳しさは「シンドイカネト」とあだ名をもらっていたように、独立プロという所帯を切り盛りしながら映画を撮りつづけた新藤さんならではのもので、あるとき撮影現場を見せてもらえることになり、ベテラン俳優が新藤さんに何度もダメ出しされてしょげているのを見て、これは大変だなとひとごとながら思ったものでした。
 その後、新藤さんに気に入られたらしく、映像論集を出そうということになり、翌1979年にこれまで書かれたエッセイをまとめて『フィルムの裏側で』を刊行しました。映画にまつわるさまざまな仕事師たちとの交流や映画製作の機微に触れた文章が集められています。さらにこれまでのシナリオを全部集めて新藤兼人全シナリオといった企画も出されたように記憶していますが、それは実現しませんでした。
 あらためてご冥福を祈ります。(2012/5/31)
 きょうの「琉球新報」文化面に仲里効さんの「比嘉豊光氏に問う――写真家シリーズ批判に反論する」という記事が大きく掲載されている。これはやはり「琉球新報」5月8日号に掲載された二人の歌手との座談会で、比嘉豊光が仲里効さんも監修に参加している未來社版の沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉に対して「沖縄文化の侵略」というとんでもないレッテルを貼ってきたことにたいする反論(批判)である。
 これについてはわたしもいろいろ言いたいことはあるが、この時期にことさらに版元として口出しすることは、沖縄のひとたちにあらぬ誤解を招くことになるだろうから、いまは未來社のような出版社にたいしてさえ、「文化侵略」というあくどいデマを放言するひとがいるということを情けなく思うだけであることを言っておきたい。
 仲里さんも書いてくれているが、〈出版とは闘争である〉をモットーとして昨年11月に刊行したわたしの『出版文化再生――あらためて本の力を考える』には何度もこの写真家シリーズについて、あるいは沖縄にかんして書いた文章を収録している。わたしの沖縄および沖縄文化へのかかわりかたにはそんな文化侵略のかけらもないはずだと思っている。そもそも未來社ごとき小出版社が沖縄文化を「侵略」できるはずもないのは誰の目にも明らかではないか。そんなふうに見える比嘉のドン・キホーテぶりは滑稽と言うしかない。
 さいわい仲里さんの反論が的確に比嘉の被害妄想と独善を批判しているので、比嘉が責任をもってこれに応答してみせることができるか、見届けたいと思う。(2012/5/30)

 詩の同人誌「アリゼ」147号で藤田修二という元毎日新聞記者が、NHK経営委員会が議決した2012年から向こう3年間の経営計画について書いている。
 それによると、2001年のETV番組「戦争をどう裁くか」で従軍慰安婦問題をめぐって、当時の政権与党、自民党極右の安倍晋三、中川昭一が政治的に介入し、番組の改竄、ねつ造をおこなった事件で、それに関与した内部の人間が内部告発してNHKに激震が走った事件がある。これについては未來社から刊行されている高橋哲哉『証言のポリティクス』が、当時の番組出演者として放送前の台本と放送内容が著しく改竄されているのを証拠にもとづいて具体的に検証している。こうした事件をふまえて「放送倫理検証委員会」の批判的意見が出されていた。
 マスメディアの世界では、〈内部的自由〉という問題があるとのことで、企業の経営者や上司が記者や現場の表現・言論・取材の自由にたいして抑圧的に振る舞うことへの抵抗を実現しうることを言うらしく、欧米のマスメディアではそうした抵抗の根拠としての拒否権をもっている。ところがNHKの今回の経営計画には活力ある職場づくり、すなわちそうした〈内部的自由〉をどのように担保していくのかという問題への言及はまったく見られなかったという。《考えてみれば、経営委員の中にメディアや「表現の自由」についての専門家は一人も含まれていない。結果もむべなるかな。》と藤田は最後に書いている。
 こうしたマスメディアの「公共性」をタテにとった経営的・政治的抑圧はなにもNHKだけでなく、ほとんどすべてのマスメディアに現在はびこっている現象ではないだろうか。大新聞も同罪だ。へたをすると、その抑圧構造が末端にまで行き渡っている場合がある。ほとんどアメリカのジャパン・ハンドラーの言いなり、指図通りに動いているいまの日本の政治、メディア、官僚、大企業、御用学者の一体化した反動ぶり、無能ぶりを見るにつけ、このNHKの経営計画なるもののひどさは容易に想像できるのである。(2012/5/24)
   *
 ここまで書いたあとできょうの新聞によれば、NHKの経営委員会委員長をやっていた数土文夫なる男が辞任して東京電力社外取締役に専念するという。これまでNHK経営委員会委員長と東京電力の社外取締役の兼職は問題ないとしてきた当人も、これを任命した政府も兼職は規定違反ではないからまかり通ると思ってきたらしいが、経営委員会内部からも視聴者からも相当な批判があり、当人の「信念の問題」として辞職するという。ふざけた話だ。NHKと東電の二股をかけていたような奴がNHKの経営改善などできるはずがなかったのである。聞くところによれば、福島原発当時の最高責任者であった勝股元会長の後釜に座る可能性もあったという人間だ。こんな人間がNHKの経営改善に役立つわけがない。それどころか東電のしたいことを全国放送するNHKという構図ができていたことになる。マスコミが東電とつるんでいたことはこれでも明らかになったわけである。(2012/5/25追記)



 精神医学者の中井久夫さんの書くものはいつもすばらしい専門知識と啓示にあふれている。その中井さんがこんなことを書いている。
《この二一世紀の言語的抑圧は言語の恐ろしい単純化である。もはやわれわれは書いていない。つついているのである。携帯電話によるメールをみよ。書字とワープロの相違は書き文字とタイプライターの相違である。書字との間にはまだ往復性がある。(中略)コンピュータ以後はこの往復はない。携帯電話に至っては、これは肉体をほとんど失ってほとんど骨まで単純化された形での、会話言語への一種の回帰である。》(「言語と文字の起源について」「図書」2009年1月号)
 中井さんがパソコンを使って原稿を書いているのかは知らないが、いまのように言語発信のしかたが携帯メールはもちろんツイッターやブログ、フェイスブックなどによるいささか安易な方法によるものが多くなってくると、たしかに手で字を書いていた時代にくらべて内容が軽くなっていく傾向にあるのは事実だ。情報量はその意味で圧倒的に増えていると言ってよい。もちろん吹けば飛ぶような情報がそのほとんどだが。
 わたしもいまや原稿はすべてパソコン(テキストエディタ)による入力だし、ツイッターもブログもフェイスブックもやっている。それでもこれだけはというときは原稿をプリントアウトして読み直し、修正を入れてから公表するようにしているが、それでもブログ(この原稿もそうだ)などでの発表はどこか手軽さを否定できない。読むほうもほとんどはモニタ上で読んで終わりだろう。尾鍋史彦さんではないが、必要と思われる文章はかならずプリントして紙で読み、保存するという認知科学上の読書環境を設定しているというようなひとは少ないだろう。
 書くことが「骨まで単純化された」ものになりかねないなかで、それでも本として残すべき知は視覚から指先でキーボードを「つつく」行動の流れに現われる脳の認知システムのなかをどうやって生き延びることになっていくのだろうか。いささか心配だが、いまのところこの心配をクリアできる処方箋は見つかっていない。(2012/5/21)

 新宿紀伊國屋サザンシアターで青年劇場公演「臨界幻想2011」(ふじたあさや作・演出)を見た。坂手洋二戯曲『普天間』の刊行を機に関係が深まりつつある劇団の招待もあって、この30年前にいちど上演された戯曲の再演(というか再構成)を見せてもらうことになった。初演は1981年で、わたしもかかわりの深かった千田是也さんの演出。
 この戯曲は2011年3月11日の福島原発事故を受けて、かつてチェルノブイリ原発事故を契機として公演された戯曲にその後の情報をくわえて提出されたもので、原発の被曝労働の実態を暴き、利権に踊らされ地域ぐるみで原発誘致に狂奔する自治体やそれを操る政府(当時は自民党)の定見のなさ、悪どさを今回の福島の事故と重ねあわせることで批判する大変な力作だと思う。今回の事故を起こるべくして起こった事故として、ずさんな管理、下請け・孫請け労働者の被曝を前提とした虚構の安全神話などが舞台上でつぎつぎと暴露されていく。なかでも印象に残ったのは敦賀原発を導入した当時の敦賀市長が他の導入予定地の自治体幹部を前に演説したという、原発がいかにもうかるかをあからさまにぶち上げた利権まみれの自治体政治の醜さは、それを聞いていたひとたちの爆笑と大拍手によって増殖され、あたかもナチス・ドイツの悪魔的なプロパガンダを連想させた。そこで市長は50年後、100年後の子どもたちが全部「片輪」になろうと、いまを大もうけしていければいいじゃないか、とまで言い放っていたのだ。この荒廃の極致が当時の原発導入の自治体がかかえていた真相だったのであり、いまも基本的に変わらない「原発村」の実態なのだ。
 いま、原発事故をめぐる原発企業から政府、自治体とその推進派(警察や学校までふくむ)によるあきれるほどのこうした犯罪的実態がどんどん明らかにされているなかで、この戯曲はある被曝死事件の真相をひとつの家族を中心とする物語のなかでいきいきと視覚化してみせた。主演の農婦をつとめた藤木久美子は、息子を理不尽な被曝労働で失った母の苦しみと、あくまでも放射能による死を隠蔽しようとする東電(戯曲のうえでは「日電」)と裏金でカルテを偽造する町立医院の医師などへのじりじりこみ上げてくる怒りを最後に一気に爆発させる力演で、圧倒的な存在感と演劇的カタルシスをステージにもたらしていた。
 ひさしぶりに演劇の迫力を感じさせてくれたこの公演は初日18日朝のNHKテレビでも紹介されたが、27日までつづくので原発問題に関心のあるひとにはぜひ見てほしい問題作だと思う。(2012/5/19)

 きょうは沖縄の祖国「復帰」40周年の記念日。沖縄ではこの「復帰」にたいして祝うひともいれば、批判的に受け止めるひともいて、さぞやさまざまなかたちでイベントがおこなわれているだろう。そんななかで本土のマスコミは40周年にぶつけて特集記事や特集番組を組んでいる。こういう盛り上がりが一過的なお祭り騒ぎで終わらないことを切に望みたい。
 きょうの「朝日新聞」では1ページを使って知念ウシさんと高橋哲哉さんの対談「復帰と言わないで」を掲載している。ウシさんはつい最近も未來社から共著『闘争する境界――復帰後世代の沖縄からの報告』を刊行したばかりであり、高橋さんは第一論集の『逆光のロゴス』をはじめ未來社からは著訳書4冊がある。いずれもわたしとはとても親しいひとたちだ。興味深く読ませてもらった。
 知念ウシさんの論点は基本的に沖縄に米軍基地を置かせている日本全体で基地の問題を考えるべきであり、日米安保にもとづいて日本の安全保障が維持されていると考えるなら、基地を本土(とはウシさんは言わないが)でまず引き取り、そこから返還の問題を考えていくべきであるということである。さしもの高橋哲哉さんもタジタジといった図だ。
 おもしろいのは(おもしろくないか)、朝日新聞の司会者と思われる編集委員が対談にしばしば介入するところである。たとえば「安全保障の専門家の中には、沖縄に基地があるのは沖縄の安全にとってもいいことだという議論があるようですが」などといった具合である。「朝日」からすれば、沖縄に無理解な読者や沖縄に差別的な読者への気遣いからか、ウシさんの意見を一方的に受け容れていないことを示すことが必要なのだろう。
 もうひとつ、きょうの「読売新聞」の文化欄で未來社の沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉が前田恭二記者によって大きく取り上げられた。わたしのことも出てくるので、以下に原文を引用しながらコメントをつけさせてもらいたい。
《このところ沖縄関連の書籍を次々に送り出している出版社に未來社(本社・東京)がある。特に目をひくのは、全9巻の写真集シリーズ「琉球烈像」だ。
 批評家の仲里効、倉石信乃両氏の監修で、2010年秋に刊行が始まった。社長の西谷能英氏は『フォトネシア 眼の回帰線・沖縄』など仲里氏の写真・映像論集を手がけ、自分自身、論じられた写真をもっと見たいと出版を思い立った。
 既刊7巻。島に生きる群像や戦没者の遺影を抱いた妻たちを撮った比嘉康雄『情民』、米軍基地のある現実を内側からとらえた石川真生『FENCES, OKINAWA』、本土復帰前に地元でジャーナリストになり、米軍統治期を記録した森口豁『さよならアメリカ』、さらに東松照明氏ら沖縄に深く関わった写真家の巻もある。残る2巻もほどなく刊行予定だ。(注:7月ごろをメドに刊行予定、完結をめざしている。)
(中略)
 シリーズは、「眼差され撮られる対象から、眼差し撮る主体へ」とのメッセージを掲げる。それにとどまらず、自ら米兵向けのバーで働いた石川氏のように、一方的に撮る側に回らず、被写体と深く関わっていく方法論も生まれ、先鋭かつ豊かなイメージが蓄積されてきた。
(中略)
「琉球烈像」の版元として、西谷氏は「風土や人々の生活が写真の細部に現れているし、そこには政治的なものが入り込んでいる。トータルに沖縄が見えてくる」とした上で、「知らないままでいることが抑圧になることがある」と語る。確かに問われているのは、むしろ写真を見る側の意識に違いない。》
 こうした紹介(批評)自体、マスメディアの仕事として得がたいことであるし、対象をとらえるアングルも悪くない。なによりも存在そのものが知られにくい写真集であり、そこに沖縄というプロブレマティックがからむことによって世間の目を気にするマスメディアとしては果敢な試みであると言えよう。感謝する次第である。(2012/5/15)

35 「紙型」という廃棄物

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 さきほど精興社の小山さんが古い紙型リストを持ってやってきた。10年ぐらい前に、精興社が活版印刷をやめることになったときに、活版印刷機のあるうちに前倒し重版をできないか、という提案があっていくつか印刷してみた記憶があるが、それに漏れたものはその時点で処分されたものだと思っていた。実際にリストを見せてもらうと、たぶんそのときと状況は同じ。かつては版を重ねたものもあるが、いまとなっては重版は期待できそうもないものがほとんどである。残るはオンデマンド復刊ぐらいしか可能性はない。ということで、紙型は処分してもらい、原本はオンデマンド用に使えるかもしれないので、持って来てもらうことになった。
 小山さんはわたしと同い年。定年退職後もまだ精興社にかかわっている。「紙型」といってもいまの若い人にはわからないよな、というのがふたりの共通見解で、かつては出版社にとっても印刷所にとっても貴重な宝物、「金の成る木」であったものが、いまは何ソレ、と言われるだろう廃品になってしまった。まあ、そんなものをよく取っておいてくれたよな、さすがは精興社、どこかの勝手に処分して恥じない印刷所とは大違いだけど、結果は同じか。ただ志というか心映えがちがう。そこが決定的におおきいんだけど、経済効果は変わらない。いまの経済一辺倒の政治と同じだ。出版の世界でこうした人間の気持ちが反映する場所がどこかにまだ残っているだろうか。

 *「西谷の本音でトーク」ブログから移動しました。(2012/5/11)

 尾鍋史彦『紙と印刷の文化録――記憶と書物を担うもの』(2012年、印刷学会出版部刊)には昨今の電子書籍や専門書にたいする見解、出版の関連業界である製紙業、印刷業についての豊富な情報が盛り込まれていて、たいへん参考になった。尾鍋さんは東京大学大学院農学生命科学研究科、生物材料科学専攻、製紙科学研究室名誉教授、日本印刷学会・紙メディア研究会委員長を経て元日本印刷学会会長などを歴任し、紙の問題を包括的に扱う文理融合型学問としての〈紙の文化学〉を提唱している、いわば紙と印刷の専門家である。この本は「印刷雑誌」1999年1月号から2011年12月号まで13年間にわたって毎月連載された「わたしの印刷手帳」156篇のなかから70篇をセレクトして編集されている。わたしが昨年11月に刊行した『出版文化再生――あらためて本の力を考える』の長い書評を専門誌「紙パルプ技術タイムス」2012年3月号に書いてくれて、そのコピーとともに本書を恵贈されたものである。尾鍋さんとは、本書にも掲載されているように、書物復権8社の会が2006年5月16日に紀伊國屋ホールで「書物復権セミナー2006」の一環として「批評・教養の"場"再考/再興」セミナーを岩波書店と未來社で担当したさいに挨拶させてもらった記憶がある。
 それはともかく、本書は長期連載コラムの集約であり、テーマごとに再編集してあるという点でもわたしの『出版文化再生』と似た性格をもつ。そのため時評的性格もあり、若干の繰り返しまたはその再展開といった趣きをもつ論点がいろいろ出てくるが、逆に問題点がその時点その時点でどのように捉えられ、どのように深められていったかを知るうえで非常にわかりやすくなっている。製紙業界や印刷業界に関連するさまざまな歴史的動向や問題点は本書によってほとんど初めて統一的に理解できるようになったし、電子書籍にたいする解釈も認知科学の確固とした理論にもとづいているので十分に信憑しうるものとなっている。
 ここでは尾鍋さんの専門分野である製紙関連についてよりも、さしあたりわたしの関心に近いところを読み込んでみたい。
 尾鍋さんは読書行為についてつぎのように書いている。
《ホモサピエンスとしての人間は人類が誕生したときから直立二足歩行と言語の使用というほかの動物とは異なった生物種としての優れた特徴があり、そのために成長過程における経験や学習により個人特有の精神世界を形成する能力をもっている。すなわち外部の新たな刺激や情報の入力により日々認知構造を再編成し、再構造化し、精神世界を深化させ、精神的な進化を遂げてゆくのが人間である。この刺激や情報の源泉として書物は格別に重要であり、読書による新たな知識は既存の認知構造にある知識と照合しながら知識を再配列し、長期記憶に定着させ、新たな認知構造を作ってゆく。すなわちミクロコスモスを能動的に変容させる能力をもつ読書という行為は個人の精神世界、人格形成に不可欠である。》(147ページ)
 この認知科学的理論の導入による読書からの知識の学習、習得、脳内格納等のダイナミズムは尾鍋さんの創見によるものらしく、世界各地でもこの見地からの講演などをしてきたことがうかがわれる。ここで昨今の電子書籍と冊子本の読書行為にどのような違いが生ずるかが検討されている。
 人間は紙の本であれ電子書籍であれ「読む」という行為を通じて情報処理をおこない記憶する。情報処理システムとして人間を捉えることができると尾鍋さんは言う。文字でも画像でも情報として視覚から脳内に入った場合、情報処理過程を経て記憶装置に格納されることになるが、その記憶装置には「短期記憶装置」と「長期記憶装置」があるとされる。「紙の書籍の場合には記憶を妨げる要素はなく、安定的に深く記憶装置に入っていくと考えられ」、「それまでに蓄えられた知識を新しい知識が入れ替えながら長期記憶装置に定着させ、人間の新たな知識となり、知性の向上に寄与することになる」(154ページ)が、電子書籍の場合には「紙の書籍にはない違和感が記憶を阻害し、短期記憶装置に留まってしまい、長期記憶装置に移行しにくい」(154-155ページ)。結論的には「電子書籍はとりあえず情報を読み取れるので一時的な情報の検索や娯楽および格別の目的を持たない読書には役立つが、知識が長期記憶装置には定着しにくいので、人間の知的な向上への寄与という面では紙の書籍が今後も優位性を持ち続けるだろう」(155ページ)というのが、本書全体を通じて尾鍋さんが一貫して主張している眼目である。
 尾鍋さんがしばしば引用するマクルーハンのメディア理論によれば、「一般的に新しい技術が出現するとその新規性から市場形成能力が過度に評価され、既存技術に対する代替能力が過度に評価されがちとなるが、結局は新技術を人間と社会が受け入れるか否かが重要な点となる」ということであり、人間の親和性が最終的な審級であることになる。その点ですくなくとも尾鍋さんの世代やわたしぐらいの世代では、一時絡的な情報や知識の獲得のためならともかく専門書を通読し深く理解しようとするには紙の書籍による以外にはありえないとする結論が導かれることになる。
 またアメリカでの電子書籍の広がりについても、アメリカでは西欧や東アジアのような紙の歴史も書物の歴史も浅いために書籍文化への敬意も薄いためだと一蹴している。
《人間の持つ好奇心という性質はどの民族にもある普遍的なものなので、電子書籍が市場に登場した初期段階ではどの国民も興味を持つと思われるが、紙や紙の書籍の長い文化的伝統を持つ国々では電子書籍の市場はアメリカほどには拡がらないだろう。》(158ページ)
 こうした紙の書籍への信頼と敬意こそが書物の必然的存在理由を自明のものとすることは書物に深く関わってきた者にとってはわかりやすいところであるが、生まれたときからパソコンや携帯電話やネットに囲まれて生きていくことになる若い世代がこれからこうした書籍への信頼や敬意をもつ機会があるのかどうか、そうした世代が電子情報からの知識の習得、長期記憶装置への格納などの能力をどうやって身につけていくことにできるのかどうかも心配なところである。原発問題でも防衛問題でもそうだが、電子書籍の導入にあたっても、アメリカ主導の大国主義への無批判的追随はもういい加減にやめにしたらどうか。現世代が後世のために禍根を残すことのないように、目先の利益や新規性に短絡的に飛びつくのではなく、慎重な配慮をもって事態に取り組むべきであることを指摘しておきたい。
 最後になるが、電子書籍がほんとうに商売として成立するかどうかへの危惧も尾鍋さんは指摘している。このこともしっかり検討しておくべき問題である。
《デジタルとネットワークはいったんそこに情報が載せられると、個々の情報の価値を限りなくゼロに近づける危険性を秘めている。電子書籍端末やネットワーク環境がいかに進化しようと、電子書籍ビジネスには利益が出にくいと言われるゆえんはこのような原理が背後にあるからだ。》(38ページ)(2012/5/6)
 仲里効さんの沖縄文学批評集『悲しき亜言語帯――沖縄・交差する植民地主義』がいよいよ刊行される。きのう初校331ページが出校して仲里さんに送ったばかりである。5月連休明けには責了、下旬には刊行される予定。
 この本はPR誌「未来」にそのほとんどが断続連載され、今回、単行本にまとめられるにあたって大幅に加筆訂正された。さらに2本の旧稿も追加されて重厚な評論集となった。現在の沖縄の文学とコトバをめぐる歴史・情況を包括的に論じた、おそらくウチナンチュー(琉球人)による初めての本格的な文学批評集ということになろう。
 ここで論じられているのは、詩人としては山之口貘、川満信一、中里友豪、高良勉であり、小説家としては目取真俊、東峰夫、崎山多美であり、さらに知念正真の戯曲、儀間進のウチナーグチをめぐる連載コラムである。取り上げられているのはかならずしも沖縄出身のメジャーな書き手ばかりではない。しかし沖縄の総体的な文学地図を書くことに仲里効の批評の眼目があるのではなく、ここで論じられているのは現在の沖縄の文学的・言語的地政図を根底から解読するために必要なアイテムとしての書き手たちばかりである。それぞれにたいする評論を通じて浮かび上がってくるのは、その書き手たちがいかに沖縄という政治的・言語的環境のなかでウチナーグチ(沖縄ことば)をつうじて日本国家が強制してきた標準日本語(ヤマトグチ)に抵抗し、反逆し、みずからの立ち位置を創設してきたかの内面ドラマをそれぞれの作品言語の構造を解析するなかから浮き上がらせることである。また、そこに沖縄の書き手たちに共有されている言語植民地下にある〈悲しみ〉や闘いの精神が立体的に再構成されていく。これらの対象たちはそれぞれの個別のきびしい言語的格闘を通じてなにか〈沖縄文学〉と呼ぶべき核を探りあててきたのだが、こうして仲里効という力強い構想力をもった批評家によって初めてそれらが全体的な地平のなかに捉え直されることになった。その意味では沖縄の文学的地平、言語的地平がこの本の出現にともなって〈想像の共同体〉(ベネディクト・アンダーソン)として明快な像を結ぶことになったとも言えるだろう。これからは沖縄の文学を語るうえでここで論じられているさまざまな視角と論点を抜きにしては成り立たなくなる。
 思えば、仲里効さんとの最初の接点はかなり以前に遡るとはいえ、深くつきあうようになったのはここ最近のことである。未來社での最初の評論集『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』(二〇〇七年)はわたしの担当ではなかった。ただこの沖縄をめぐる映像論(映画論)をきっかけとして、つぎの写真家論集『フォトネシア――眼の回帰線・沖縄』(二〇〇九年)と今回の文学批評集『悲しき亜言語帯――沖縄・交差する植民地主義』をあわせて〈仲里効沖縄批評三部作〉をわたしが提案した結果がついにここに実現したことには格別な思いがある。その成果を著者とともに喜びたい。しかもその間に『フォトネシア』が引き金となって沖縄を主題とした沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉全9巻(倉石信乃さんと仲里さんの監修)という前代未聞の大企画を強力に推し進めることになったのも、この仲里効さんとの交友なしでは考えられないことである。この交友のなかからつぎつぎと沖縄の新しい書き手たちが出現してきており、いまや沖縄の書き手たちは未來社にとって一大鉱脈であると言ってよいのである。
 以上のようなさまざまな思いをこめて『悲しき亜言語帯』のオビにわたしはつぎのような文言を書いた。
《沖縄の言説シーンの深層をこれほど強力にえぐり出し解明したウチナーンチュ自身による批評はこれまで存在しなかった。「復帰」40年を迎えてついに出現した本格的ポストコロニアル沖縄文学批評集。『オキナワ、イメージの縁』『フォトネシア』につづく仲里効沖縄批評三部作完結!》
 この批評集が現在の沖縄を読み取るうえで必読文献として日本語世界のなかで正当に評価されることを期待する。(2012/4/28 かつての「沖縄デー」の日に)
 知念ウシ・與儀秀武・後田多敦・桃原一彦著『闘争する境界――復帰後世代の沖縄からの報告』が未來社からきょう刊行された。これは本ブログの「26 書名トレードのドタバタ」でも触れた本のひとつで、PR誌「未来」にこの2月までの2年間にわたってリレー連載された4人の著者によるレアな沖縄の現状報告集である。細かい経緯はこれも本ブログの「25 『沖縄からの報告(仮)』はじめに(下書き)」で書いているように、2010年1月にわたしが沖縄での仲里効『フォトネシア』出版祝賀会に参加したおりの二次会で知念ウシさんに出会ったことに端を発している。前述のブログ「25」は書名を変更した以外はとくに訂正することもなく、今回刊行された本の巻頭に「まえがき」としてそのまま掲載させてもらった。
 なにしろ「未来」での連載がなんの工夫もない「沖縄からの報告」だったから、そのまま書名にするわけにもいかず(サブタイトルに痕跡を残したが)、土壇場で仲里効さんの近刊の沖縄文学批評集に予定していたタイトルをトレードさせてもらってなんとか格好をつけたというかたちになった。さっそくきょう紀伊國屋書店から書名にかんする問合せがあったようで、新刊案内を出してしまったあとでのトレードだから書店現場には迷惑な話であるが、ご寛恕いただきたい。ともあれ、この書名バナシについては本書の「あとがき」で知念ウシさんがご丁寧にも言及してくれて、友人に「トウソウする~」という書名の話をしたら当然「逃走する」でしょ、と言われたらしい。わたしがウシさんに電話で最初に提案したときも「逃走する沖縄」ですか、といわれて一瞬まさかと思ったぐらいであるが、どうもウチナンチューには「基地問題」からはいい加減「逃走」したいという思いがあるようだ。でも闘っているんだからやっぱり「闘争」でしょ、ということで一件落着したというオチがある。まあ、おもしろい本だからぜひ読んでみてください。
 未來社の沖縄本は4月に入ってすぐ沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉の中平卓馬写真集『沖縄・奄美・吐カ喇1974-1978』が出たが、さらに昨日には宮本常一の『私の日本地図8 沖縄』も刊行された。これはわたしが編集にかかわっているものではないのだが、じつにタイムリーであった。このほかにもすでに本ブログの「14 沖縄関連本の連続刊行」でも予告しておいたように、坂手洋二戯曲『普天間』と、さきほどの仲里効さんの〈沖縄批評三部作〉とわたしが名づけたということになっているところの第三作、沖縄文学批評集『悲しき亜言語帯――沖縄・交差する植民地主義』が5月に、沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉の残りの2巻、伊志嶺隆写真集『光と陰の島』と山田實写真集『ゼロに萌える』が6~7月にかけて刊行される。このほかに知念ウシ評論集と高良勉文学論集『言振り』も夏から秋にかけて刊行予定である。
 この5月15日に「復帰」40周年を迎える沖縄にあわせて、いまヤマトのマスメディアもいろいろそれにあわせた番組製作や広告特集などが目白押しであり、こちらにもいろいろ問合せや取り持ちの依頼など、また出広依頼などがつづいている。こうした盛り上がりが例によって一過性のお祭り騒ぎに終わらないことを祈りたい。むろん沖縄ではそんなことがありえないのは、米軍に代わる自衛隊の進駐問題や高江のヘリパッド問題、また昨今の北朝鮮によるミサイル発射(失敗)騒ぎや、さらには石原慎太郎東京都知事による尖閣諸島の買収工作案など、沖縄にとっては目に余る問題が次々と生じていてお祭りどころではないはずだからである。
 そんななかで未來社の沖縄本はともかくも次々と刊行される予定だ。これらの本が沖縄の現状の打破にすこしでも役立つことを念じている。(2012/4/20)

「エディターシップ」1号という雑誌を読んでいろいろ思うところがあった。これは日本編集者学会というグループが発行している学会誌であり、その学会の副会長であり発行元であるトランスビューの中嶋廣さんから送ってもらったものであるが、こういう動きに疎いわたしはこういう学会が存在することも知らなかった。ちなみに会長は長谷川郁夫。長谷川さんと言えば、直接の面識はないが、かつての小沢書店の社主。いまは大阪芸術大学で教鞭をとっているらしい。
 こうした顔ぶれからも想像できるように、〈編集〉という営為になんらかの積極的な意味づけを与えようという意図のもとにさまざまな編集者が結集した学会らしい。わたしも編集者の社会的ありかたには〈レフェリー〉的役割があると考えているが、それにしても〈編集学〉のようなものが存在すると思ったことはない。同じようなものに日本出版学会があり、〈出版学〉の存在だってどんなものかなとは思うが、こちらには出版の歴史や出版業界のしくみの研究などいくらか学問的なフィールドの余地があるから学会と呼べなくもないが、編集者学会となるといささか鼻白むものがある。
 創刊号も全部読ませてもらったわけではないが、巻末の学会シンポジウム「書物の現在そして未来」などを読んでも、現役の編集者と元編集者の大学人たちの個人的体験にもとづく編集論はそれぞれの立場を反映したものとして興味深く読める反面、たとえば電子書籍にたいする見解などにはさほど傾聴に値するものは見られなかった。編集者といっても、出版社の規模やジャンル、方向性においてあまりにもさまざまな人種が存在するなかで、どこまで学会としての独自性を打ち出していけるのか、今後の展開を見ていく必要がある。
 このなかで元平凡社の編集者でもあったという石塚純一の「人文書の編集者」の最後で、これからの人文書の編集について触れたところがわたしにも納得できるものがあったので引いておこう。
「いまの状況を見て思うんですけれど、そもそも書物を読む人口は昔から多くはなかった。人文書を読む人の数を三千人だとすると、文学系を読む人は千五百人くらい、歴史好きは千人、その他宗教・芸術とかが五百人、そんなものです。まったくの専門書を出すならばそれぞれの数を目標にすればいい。しかし、ある専門の隣の領域の読者にも刺激的な内容の本だったら、千プラス五百の読者を得ることができる。このように領域が異なる良質な読者の小さな輪を想定し、そこにぶつけていくのが人文書編集者の腕ではないかという気がしています。」
 わたしもかつてほぼこれと同じようなことを話しかつ書いたことがある。(*)ジャンルオーバーする人文書の可能性はたしかに多く見積もっても三千人、狭くとれば千人という数字はきわめて現実的になってきている。千冊がひとまず売れることはいまや人文書にとって最初のハードルと言えなくもない。
 そうした厳しい現実はあっても、この水準で出版社を維持していくことができれば、出版業は今後もかろうじて成り立つ。しかし量を指向してきた出版業界としては崩壊していかざるをえないだろう。量の世界から質の世界へ、はたしてどういうかたちで出版は維持されていくのだろう。

 *昨年十一月に刊行した拙著『出版文化再生――あらためて本の力を考える』の「編集者と読者の交流の試み」を参照されたい。(2012/4/18)
 きのうは坂手洋二さんとの企画について書くつもりが、途中からマスコミ批判になってしまった。坂手さんの戯曲『普天間』の仮ゲラを渡し、いろいろ打合せをしたのだが、この戯曲のタイトルをめぐって坂手さんはけっこう緊張しているという。というのは、やはりヤマトンチューが沖縄の、それもいま政治問題としても渦中にある「普天間問題」をタイトルとする作品を本として出すことの心配があるらしい。
 わたしも青年劇場での上演台本を読み、それを修正した出版用原稿の通読をしたところだが、坂手さんも言うように、セリフのウラはいろいろとってあるので間違いはないがウチナンチューがどのように受け止めてくれるかということには自信がないとのこと。それは出版人としてのわたしもいつも痛感していることである。ヤマトンチューが沖縄のことについて本を出すということはある種の部外者的介入であるという側面は免れないところがある。そのことに無自覚な著者や出版者は論外としても、十分に意識的なはずの著者や出版人がそれでもくぐり抜けなければならないハードルはけっして低くない。
 その意味で今回の坂手洋二による戯曲『普天間』がウチナンチューがどのように受け入れられるか、おおいに気になるところである。しかしヤマトンチューによるオキナワ本がウチナンチューにも理解され、受け入れられるとともに、ヤマトンチューの事実認識、意識変革に結びつくものでないかぎり、出版される意味はない。わたしが読むかぎり、沖縄国際大学での米軍ヘリ墜落事故とその後始末にかんする米軍の隠蔽処理に始まって、「日米地位協定」にもとづく日本政府側の無力をはじめ、現在の普天間飛行場をめぐる諸問題は的確に主題化されているように思える。そのかぎりにおいて戯曲『普天間』は十分な問題提起になっていると思う。
 坂手さんには「推進派」という徳之島への基地移転(民主党鳩山政権時代の普天間基地移転代替案)をめぐる現地取材にもとづく戯曲もある。戯曲『普天間』につづいてできれば刊行してほしいという坂手さんの意向にはできるだけ添うようにしたいと思うが、それはたんに戯曲『普天間』との関連性だけではない。坂手さんの構想には韓国のチェジュド(済州島)と沖縄を関連させた戯曲が準備中であり、さらにはフクシマと沖縄というテーマも構想中であるという、その想像力の展開に期待したいからである。言うまでもなく、そこには時代の要請に真摯に応えようとする精神のありかたがみとめられるからである。(2012/4/7)
 昨年3月の福島原発事故以来、沖縄・普天間基地移転問題についての扱いは民主党政権はじめマスコミにおいて明らかに小さくなった。在沖米軍による震災被災地への「トモダチ作戦」なる、「核汚染下を想定した安上がりな軍事訓練」(米軍高官)については感謝のキャンペーンを張る一方で、沖縄の怒りの声は無視されている。たまたま起こった「沖縄はゆすりの名人」発言のケヴィン・メア(米国務省東アジア・太平洋局日本部部長)や、「犯す前に犯しますよと言いますか」発言の田中聡(防衛省沖縄防衛局長)のような暴言はさすがにメディアも取り上げ、アメリカ政府と民主党政権もこいつらのクビを飛ばすぐらいの対応を強いられたが、所詮それらは沖縄をめぐる支配の言説の一端にすぎない。そもそもこういう言説を生み出す政治経済の構造を打開していかないかぎり、そうした悪質な言説はいくらでも再生産されるだけだろう。
 しかし、ここへきてアメリカ寄りの報道に終始してきた「朝日新聞」(だけではないが)でさえ、5月に「復帰」40年を迎える沖縄の問題を取り上げざるをえなくなってきたようだ。3月30日の「朝日新聞」朝刊では沖縄の写真家・大城弘明さんの写真を数枚1ページ大にわたって記事を掲載していた。しかしこれらの主要な写真を収録した大城さんの唯一の写真集『地図にない村』(未來社)については一言の言及もなかった。また、きょうの朝刊においても、25年まえの沖縄国体で日の丸を引きずり下ろして火をつけたという行為で知られる知花昌一さんを「ひと」欄で取り上げながら、その行為に強いインパクトを受けて写真集『日の丸を視る目』(これも未來社)の巻頭に知花さんを掲載した石川真生さんとその写真集についての言及もなかった。これらはいずれも写真集の写真にヒントを得て記事がつくられていったことは明白であるのに、あえてそうしたソースにあたる部分についてはいっさい無視している。これは「朝日新聞」が沖縄についての本質的な関心をもっているかのように見せたいポーズであって、沖縄の基地問題をはじめとする諸矛盾について鋭く問題提起をしている未來社の沖縄本については知られてほしくない、という姿勢を一貫してとっていることを示している。おそらくこれは記者レベルではなく、その上部レベルでそういう検閲が働いているにちがいない。
 あらためて言うまでもなくすでに「記者クラブ」問題で暴かれているように、「朝日新聞」幹部もまたこうしたアメリカからのさまざまな優遇措置や権益システムに毒されているからである。この問題についてはわたしも『出版文化再生――あらためて本の力を考える』収録の「マスメディアこそが問題である――沖縄米軍基地問題にかんして」(「未来」2010年6月号)ではっきり批判したことがあるから、脛に傷あるマスコミ人なら当然知っているだろう。
 いちいち挙げないが、ほかにもこうした検閲が働いていると考えるしかない例がいくつもあるので言っているまでで、なにか被害妄想じゃないのかと言いたいひともなかにはいるだろうが、そのひとはマスコミの「良識」という幻想にいまだにとらわれているにすぎない。この問題は今後も厳しく点検していくつもりである。(2012/4/6)

 北川東子さんが乳ガンの宣告を受けたのは二〇〇九年十一月十八日のことである。なぜその日だとわかるのかと言えば、北川さん本人からその日にこの話を聞いたからである。小林康夫さんと仕事の打合せに下北沢の行きつけの店で会っているところに北川さんも来られて、きょう宣告を受けてきたのだと突然われわれは報告されたのである。かなり末期的とのことでショックを受けていたようで、二人でいろいろ励ましたことを覚えている。そしてしばらくこの話は内密にしようということになった。ただいずれにせよ、そんなに長くは保たないのではないかという懸念があって、なにか問題が生じたらわれわれ二人が力になろうということでその晩は早めに帰宅してもらった。
 その後、北川さんの自宅に近い八王子のほうにいい病院があるということで入院され、放射線治療の効果もあってか、思った以上に回復したときもあったようである。ところが昨年八月十六日に北川さんから電話があり、しばらく話をした。放射線治療を受けているが、なかなかマーカーが下がらないとのことだった。そのときは政治や原発事故の批判の話題になったが、東大駒場のあるドイツ語関係者の対応など微妙な話もいろいろ聞いて、暗澹たる気持ちになった。結局、北川さんと話をしたのはそれが最後になってしまった。そして二〇一一年十二月二日、ついに来るべきものが来てしまったのであるが、ガンの宣告から二年、いろいろ苦しかっただろうが、よく頑張ってくれたのではないかといまは思うしかない。
   *
 こういう交友関係ができるようになったのは、一九八八年にわたしが旧知の竹内信夫さんに頼んで東大駒場の若手教官たちとの勉強会を作らせてもらいたいと提案したことに端を発している。そこに小林康夫さんや、以前から知っていた湯浅博雄さん、桑野隆さんのほかに初対面の高橋哲哉さん、船曳建夫さんと北川東子さんが加わってくれることになった。わたしの記録によると、その年の七月十三日に渋谷で初会合をおこなっており、まわりもちでレポーターがなにかテキストを決めて月例で勉強会をおこなうことになった。この会の名前は小林さんの提案で《扉の会》(未来の扉を開くという意味だったと記憶する)となり、わたしが連絡と設定の係となって、一九九〇年代はじめまで三年間ほどほぼ毎月おこなわれた。この会は竹内さんを最年長として四十代前半から三十代前半の七名のまさにこれから日本を代表する研究者・論客になろうとしているひとたちが集った、ある意味では歴史的な研究会であったと言ってよいかもしれない。
 そこでの喧喧諤諤の熱い議論の一端をわたしがテープ起こししたデータは残っているが、それは公表しないという事前の原則のために陽の目をみないままになっている。学問研究のありかたをめぐる考え方をぶつけあった、それぞれにとってもその後の仕事を展開するための有益な場になっていたと思う。そこに参集されたひとたちとその後、出版の仕事をつうじていろいろと深いかかわりをもたせてもらうようになったのは、まさにこの会の成果であった。昨年の未來社六〇周年のために刊行された社史『ある軌跡』に《扉の会》の何人かに執筆していただいたが、一様にこの会について言及されているのも、そうしたインパクトがそれぞれの方に残っていることの証跡であると言えそうで、感慨深いものがある。
   *
 北川東子さんとはフーゴ・オットの大著『マルティン・ハイデガー──伝記への途上で』(一九九五年刊、故・藤澤賢一郎さん、忽那敬三さんとの共訳)の仕事しか実現できなかったのだが、じつは北川さんに女性哲学者としての思索をまとめてもらおうという企画をあるとき思いついて、筆の遅い北川さんにとにかく原稿を書いてもらうにはどうすればいいかと思案した結果、二〇〇六年から往復メールのかたちでこちらが質問を発し、それにたいして一週間以内に最低五枚以上の論考で返信してもらうという約束でひとつの試みを始めることになった。北川さんも最初は乗り気でなんとか三回ほどでいくつかのテーマに分けた返答をもらったあと、続かなくなってしまった。タイトルもこちらの提案で『女の哲学』とまで決まっていて、うまくいけば日本で初めての本格的な女性による哲学書が生まれるはずであった。
 それはこんな文章から始まっている。
《若い人からは想像もつかないだろうが、意識のなかで年月が残してくれる痕跡はひどく頼りない。実は、私も半世紀以上、この世に生きてきたのだ。もう随分長いこと生きてきた気がするし、まだまだ人生の初心者という気もする。数を数えれば、確かに五〇年以上の生命と、二〇年以上の職業生活とがあったのだ。けれど、相も変わらず成熟できなくて、相も変わらずなにもわかっていない気がする。ただ一点だけ、そこそこの年月生きてきたことの実感がある。この五〇年以上、「女として生きてきた」という実感である。
 そう、私は、もう随分長いあいだ、「女として」生きてきた。そうして、この随分の長い年月、「女として」という事態につきあってきた。》
 なんだかプルースト的な始まり方だと言えなくもないが、このあとにつづく文章はまさに自分の生誕から幼少女期の経験をその家庭環境までふくめて現時点であらためて洗い直すというかたちで開始されようとしている。自分では「ただひたすらとりとめもないことを書いている気がします」と書きつつも、ここから「戦後日本における道徳的心性の修復という問題とジェンダー」とか「例外状態と日常性をつなぐ女体の意味」とか「女はいつ『産みたい』気持ちになるのか」とか「『産む性』にとっての民族とは」といった小タイトルの付けられた文章がとにかく書かれたのである。未整理のままであったとはいえ、これがどういうふうに展開していくのかはおおいに期待していかなければならないはずであったのに、こちらの追求不足もあって、この企画がこのままになったことがいまとなっては取り返しがつかないことになってしまった。
 北川東子さんは日本語の著作が少ないために、ほんとうの力量が一般に知られることなく亡くなってしまった。わたしなどが喋々すべくもないが、北川さんのドイツ語の力、その読解力などには端倪すべからざるものがあり、こうした力量を発揮する機会をもっともっと提供すべきだったと思うと、その早すぎる死が悔やまれてならないのである。

 *この稿は「20 北川東子さん追悼ワークショップ『北川東子と女性の哲学』」の注で予告したように、小林康夫編『〈時代〉の閾──戦後日本の文学と真理』(UTCPブックレット25、2012年3月刊)に収録されたものであり、ブックレット刊行後に「出版文化再生ブログ」への転載を了解してもらったものである。前稿と重複するところがあるが、あわせてお読みいただければさいわいである。(2012/4/1)
 未來社での先輩でありわが営業の師匠とも言える藤森建二さんが独立して洋泉社を創業したのが1984年12月、44歳のときであった。昨年暮れのある会で会い、ひさしぶりに二人で二次会をしたさいに、近く回想記を出すので読んでみてくれ、と言われていたのが、そのしばらくあとに送られてきた『洋泉社私記──27年の軌跡』である。わたしが未來社に入って8年ぐらいで独立してからすでに27年になるのかと思うと、いまさらながら時間の経過の早さに感慨深いものがある。しかもすでに2年まえに古希を迎える年に引退しているのだからなおさらである。
 もっともこの間いろいろなところで遭遇したりいっしょに呑む会に参加したりしているので顔を合わせることがなかったわけではない。しかしこの回想記を読むと、なんといろいろなひとと会ったり交渉したりしているのかがわかる。もともと営業畑で広告関係もかかわりがあったから、創業者ということもあって、未來社時代の人脈もいろいろ活用しながら馬車馬(失礼!)のごとく業界内を動きまわっていたことがわかる。その結果が年間百数十点に及ぶ新刊を出すような出版社に成長をとげさせたのだから、親の仕事を引き継いだだけのわたしなどに比べるまでもなく、この厳しい時代の出版界にあってたいした成功者だと言っても過言ではないだろう。所轄税務署から優良企業としてお褒めのことばをいただくぐらいなのだから。
 この回想記について言えば、記述があまりにもメモ風なので、どういうひとと会い、なにをしていたかはわかるが、概略だけしかわからない。社員の出入りもいろいろあったからもっと思うところはあったはずだが、そういうところは淡々としているのがいかにも藤森さんらしい。
 出版傾向はわたしの意図するところとは相当ちがうので、べつにコメントをつけるつもりはないが、「あとがき」で「出版社の『目録』は、その社の暖簾と言われてきましたが、今日ではさほど重視されなくなってきています。......いつからか、書籍も一般の商品と変わらなくなりはてて......」という箇所があるが、やはり「それはちがうでしょう、藤森さん」というのがわたしの見方であることだけは言っておかなければならない。古くさいと言われようが、わたしはそういう一方の陣営に属している人間であって、いまだからこそ書籍の力を呼び戻さなければならないと思っているのである。それが『出版文化再生――あらためて本の力を考える』を刊行した理由であり、〈出版とは闘争である〉と考えるからである。(2012/3/28)
 このところ新刊の書名に苦労することがつづいている。
 2月に刊行した湯浅博雄さんの『翻訳のポイエーシス――他者の詩学』もさんざん迷ったあげくにわたしが思い切って提案して湯浅さんの了解を得たものだったが、これは内容的に言って副題もふくめてぴったりだったと自負している。湯浅さんの性格からやや説明的になりすぎるのをかなり強引に断定的なタイトルになった。わたしが創ってきたポイエーシス叢書にもちなんだ書名でもあり、わたしはとても気に入っている。これなどはあとづけで付けた書名にしては珍しくうまくいったほうである。
 3月に刊行した守中高明さんの『終わりなきパッション──デリダ、ブランショ、ドゥルーズ』は、当初、守中さんが希望した書名が『パッション』だったのだが、未來社にはジャック・デリダの同名の翻訳があり(これは原題のまま)、同じ出版社から同題の本が出るのはまずいということから再考してもらって、今回のものに落ち着いた。これは当人が決めてくれたのであり、いいタイトルだと思う。
 さて、いま難航中の書名問題がある。PR誌「未来」にリレー連載してもらってきた「沖縄からの報告」(前項参照。執筆者は知念ウシ、與儀秀武、後田多敦、桃原一彦の四氏)をこの4月に単行本にまとめるにあたって、連載タイトルをあまりに安直に付けてしまっていたため、まさかこれをそのまま書名にするわけにもいかず、とはいえ連載が本になったことをわかってもらうようにするにはその痕跡を残さねばならず、ハタと困ってしまったのである。知念ウシさんや與儀秀武さん、はてはこの連載の企画協力者でもある仲里効さんにまで知恵を借りる始末。
 わたしのイメージとしては「沖縄からの報告」をサブタイトルに残して、できればウチナーグチ(沖縄語)でわりとヤマトゥ(日本人)にもわかりやすそうなコトバがあればいいな、ということで検討してみたが、内容にそぐわないものばかりで、あとはあまりにもヤマトゥに理解が(いまの段階では)むずかしいコトバになってしまい、初志貫徹できず。いまにいたるも(すでに原稿はきょう印刷所に入稿してしまった)決着していない。なにを隠そう、窮余の一策として、ほぼ連続して刊行される予定の仲里効沖縄文学評論集に予定していた『闘争する境界』をトレードしてもらうことにしようかと思っている。執筆者にメールでこの旨を伝えて反応を待っているところであるが、いまのところ直接確認をとった知念ウシさん以外からの返答はない。どうやらこれでいけるかもしれない、という現状である。まったく前代未聞の書名トレード話だが、書名と内容をマッチさせ、今回のように執筆者が4人いて、それぞれの個性がちがうのをまとめつつ共通性を探るということになると、なかなかうまくいくわけではない。さいわいなことに、このリレー連載は沖縄の若手論客を中心にしてきただけに沖縄人のヤマト政府および日本人への不信感、批判精神はほぼ共通のものがあるので、こうした括りかたが可能になった。サブタイトルには「復帰後世代の沖縄からの報告」としたのはウシさんの提案だが、これは内容を明快に伝えていると思う。
 ところで、書名トレード元の仲里本には仲里さんのもともとの希望でもあった『悲しき亜言語帯――沖縄・交差する植民地主義』を付けることになった。すでに書店には元の名前で新刊案内を送ったばかりで恐縮のかぎりだが、こうして書名問題がなんとか解決しつつあることの報告である。(2012/3/26)

 わたしが沖縄に深くかかわるようになったのは、沖縄の批評家・仲里効さんと写真家論集『フォトネシア──眼の回帰線・沖縄』のための連載原稿をPR誌「未来」で発表してもらっていた二〇〇九年ごろからであるが、とりわけ足繁く沖縄を訪れるようになるのは、この本の出版祝賀会出席のためにひさしぶりに訪沖した二〇一〇年一月二十三日からである。その出版祝賀会で、『フォトネシア』で取り扱われている写真家を中心に沖縄在住の写真家および沖縄を主要なテーマとして写真を撮っているヤマトの写真家とをあわせた沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉という途方もない企画をスタートさせることになった経緯をおおいに宣伝してくれという仲里さんの促しに乗って、多くの写真家をふくむ沖縄の代表的文化人を前にアピールしてみたのだった。
 さらにその日の二次会で飛び入り参加された喜納昌吉さんと意気投合し、自身の音楽家人生と重ねあわせながら沖縄の歴史と現状を総括するような語り下ろし本を刊行しようということになり、その後、『沖縄の自己決定権』という本となって結実した。
 そういう稔りの多い訪沖の機会であったが、じつはそれだけではなかったのである。喜納昌吉さんと話している二次会のその場にいて刺戟的な発言をされたのが初対面の知念ウシさんだった。そのときの話をぜひ「未来」に書いてほしいという依頼を受けて書かれたのが、本書の第一回原稿「基地は本土へ返そう」である。この回をスタートにして、リレー連載というかたちでヤマトでは聞こえてこない沖縄からの生まの声をレポートしてもらうことになった。ここでも仲里効さんに協力してもらって適切な人選を推薦してもらった結果、與儀秀武さんと後田多敦さんが知念ウシさんともども三か月に一回という約束でそれぞれの観点や立場から最新の沖縄情報を書いてもらうことになった。二年目にはいるところで、事情があって後田多さんに代わって桃原一彦さんがあとを受けてくれることになって、とりあえず二年間二四回分の原稿が集積されたので、とりあえず単行本としてまとめさせてもらうことにした。
 この二年のあいだに民主党政権の混迷や沖縄問題対応の拙劣さから首相が二度も交替するという激動がつづいており、その渦中にはいつもオキナワがある。東日本大震災が起こったあとでも在沖米軍が「トモダチ作戦」と称して災害地救助の名目のもとにさまざまな軍事シミュレーションをおこなったりしているのも、沖縄人からみればじつにうさんくさい事情がある。本書ではそうした指摘もなされている。いずれにせよ、沖縄からの厳しい批判の声をヤマトの政府はもちろん、日本人それぞれが襟を正して聞くべきなのである。日本への「復帰」四〇年をまえにして本書が刊行される意義はそこにある。

 二〇一二年三月
 未來社代表取締役 西谷能英

 *これはこの四月に刊行予定の知念ウシ・與儀秀武・後田多敦・桃原一彦著『沖縄からの報告(仮)』の「まえがき」として書かれたものの下書きである。正式書名は現在のところまだ決まっていない。(2012/3/21)

24 守中高明さんと本の力

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 午前中、守中高明さんから電話があり、きのうできたばかりの新刊『終わりなきパッション――デリダ、ブランショ、ドゥルーズ』の仕上がりにとても満足しているという喜びの声を聞いた。高麗隆彦さんの装幀がオビもふくめて自分のイメージを120パーセント表現してくれているとのことで、原稿とはちがって本というまとまった形になることでやはり格別な手応えをもたらしてくれるものだと言って、なにより喜んでいるようであった。守中さんとはもう二十数年のつきあいになるが、自分でも言うように「喜びを表現するのが下手」かもしれないかれの喜びには尽くせぬ思いがあることをわたしは知っている。
 守中さんはこの間、公私にわたって相当しんどい時期があったこともあって、昨年、小社の60周年にあたっての社史『ある軌跡──未來社60年の記録』刊行にあたって執筆ができないくらいだったのである。それが昨年10月末に『ある軌跡』60年版への不参加のお詫びとともに今回の本の原稿が送られてきたのだった。わたしにとってもまったく青天の霹靂でわが目を疑ったものだが、とにかくあまり元気がなさそうであった守中さんと刊行の準備をすこしずつ整えながら、しだいに元気を回復していく守中さんを励ましつつ刊行にこぎつけたわけである。この本をともに担当した明るい長谷部和美さんの協力も守中さんには好影響を及ぼしたのではないかと思う。
 さきほどの電話で「こんなんだったら、もっと早くお願いすればよかった」と守中さんは言っていた。かれとしてもひさびさの単行本刊行ということもあって、あらためて〈本の力〉をふたりで確かめあうことになった。ここでも出版が著者を勇気づけ元気にすることによって〈本の力〉を生み出すための闘争であることが確認できた次第である。
 その余波かどうか知らないが、この3月31日(土)夕方には守中高明夫妻の主催で「詩歌の饗宴――朗読と語りのゆうべ」(出演:岡井隆、平出隆、倉田比羽子、進行:守中高明)が専念寺・本堂(新宿区原町2-59、Tel: 03-3203-5895)がおこなわれる。以下は守中さんが書いたチラシの文章である──「日本の詩歌の構造は不思議です。一方に、音数律・韻律・行分けの規則などいっさいの制約のない口語自由詩があります。他方に、1300年の長きにわたって定型を守り続けてきた現代短歌があります。両者の関係はどうなっているのでしょうか。ふたつのジャンルを越境しつつさまざまな詩形式を試みる3人の実作者を招き、作品の朗読と鼎談を行ないます。チェロの演奏と肉声の響き合い、そしてしずかで熱い語り合い──ひとときの饗宴の中に、さあ何が見えてくるでしょうか。」詩人・守中高明の元気な姿を見にいきましょう。(2012/3/15)
 3月6日の夕方、東大教養学部キャンパスの18号館ホールにて東大大学院言語情報科の湯浅博雄教授の最終講義がおこなわれた。それにあわせて最新刊『翻訳のポイエーシス──他者の言語』(ポイエーシス叢書)を刊行させてもらった。最終講義はこのなかのバタイユ論「エロティシズムと〈存在の連続性〉をめぐって」を湯浅さんが読み上げるというかたちで進められた。約1時間半にわたって粘りのある文体で書かれた高度な内容のテクストがホールにしみ透るように響き、誠実な湯浅さんの人柄そのままに淡々と読み終えられた。終了後、開かれた祝賀会パーティでこの本が参加者に寄贈された。
 このパーティでは長らく言語情報科の同僚であった宮下志朗さんがスピーチをおこなったあとを受けて、わたしも湯浅さんと手がけさせてもらったいくつかの本の話を中心に大学院時代からのエピソードを披露させてもらった。知り合った最初から着実な研究スタイルを築いてこられた湯浅博雄さんがこうして定年退官を迎えられるということはわたしなりに感慨深いものがあり、とくに1980年代末期に〈扉の会〉という勉強会をいっしょにやらせてもらって以降は著書に、翻訳にコンスタントに本作りを共同させてもらったことは大変ありがたいことであった。
 東大を定年になったからと言って、湯浅さんのことだからまだまだ新しい仕事をされていくことだろう。いつも謙虚な湯浅さんのこれからのますます充実した仕事に協力させていただきたい。さいわい優れたお弟子さんたちも育ってきているので、そういうひとたちとも連繋して日本の出版文化を支えていってもらうよう応援したいと思っている。(2012/3/7)
 ひさしぶりに熱い芝居を見た。きのう(3月4日、日曜日)の午後、誘われて武蔵関の"ブレヒトの芝居小屋"という劇場(といっても工場跡みたいな場所)へ出かけて行き、韓国のベテラン劇作家・鄭福根(チョン・ボックン)作(坂手洋二演出)「荷(チム)」の東京演劇アンサンブル公演の楽を見た。200席ほどのスペースが両側に分かれて舞台を見下ろすかたちの劇場で構造上の制約があるからだろうが、こういう舞台もなかなか新鮮だった。
 演目は第二次大戦直後の青森県大湊市を舞台に、大戦中に強制的に日本に連れてこられた朝鮮人をそこから船に乗せて朝鮮に送還するという設定で、そこには軍事工場などで強制的に働かされた者や従軍慰安婦として性奴隷とされた女性たちがひしめいていて、それぞれのドラマを抱えて乗船するが、その船は戦時中の悪事の露見を恐れた旧日本海軍の陰謀で大量に積み込まれた爆弾とともに途中で沈没させられることになっていた。七〇〇〇人余りを乗せて一九四五年八月二十四日、舞鶴沖で爆沈させられた浮島丸事件をテーマとする重い芝居である。そこに朝鮮の由緒ある旧家から連行され従軍慰安婦にさせられた女性と、その女性の存在を一族の恥とする朝鮮の家族の古風な考え方とが交錯し、そこに一種のセカンド・レイプ状況が生まれる。女性は爆沈した船からたまたま救われるのだが、大湊に戻って自死にも似た死を選んでしまう。その女性が死ぬまでかかえていた荷物が二〇年後の世界で日韓のあいだを何度も往復するという設定のドラマなのである。
 ドラマの筋は省略するが、ここで暴かれたのは、日本帝国主義の軍隊のあまりの凶暴さ、残忍さであり、その被害にあった朝鮮民族の苦しみであり、それが戦後においても容易に解決できないさまざまな軋轢をもつことの現実である。親兄弟や恋人、息子や娘を強制的に奪われ殺され辱めをうけた朝鮮民族の「恨(ハン)」の深さがこれ以上ない痛切さでことばと叫び、演技を通じて訴える。
 こういう重い主題であるが、満杯の観客には若い女性も目につき、彼女らがこういう現実から目をそらすことなく、今後の生き方のなかで歴史認識をきちんともちつづけてくれることを期待したい。出版社はこういう作品こそをもっともっと世に送り出すべきではないかと考えさせられた。(2012/3/5)
 未來社の漢字表記について東京大学出版会の竹中英俊さんから鋭い突っ込みがなされている。ツイッター上での発言なので見落としがちだが、どっこい何度も言及されているようなので、フォローし直さないわけにいかず、この自称「白川静の押しかけ弟子」の追及は放っておけない問題であるし、ほかにも竹中さんとツイッターでこの問題についてやりとりしている方がいることがわかったので、いちどこのあたりの事情を説明しておく必要があるだろう。あまり「出版文化再生」につながらないと思う(笑)が、この場を借りてひとこと釈明しておきたい。
 まず竹中さんはこんなことを書いている。
《西谷能英社長に話したことだが、「未来社」は、ロゴの文字のうち「来社」は旧字、PR誌「未来」のタイトルは新字である。社が編集しているPR誌面の「未来社」の文字は「来」だけを旧字にしている。こんないい加減な表記はやめて「未来社」と「未来」にしてほしいな。そして「来」の魅力を語りたい。》《白川静の弟子である私ですので、ならば「社」もシメスヘンの旧字にしていただきたいですし、PR誌の『未来』も旧字にしてほしいのです。一貫性がない姿勢を問題にしているのです。》《手もとにある最新刊の加藤節『同時代史考』をみると、「未来社」の表記において、「社」が新字旧字が混在していて、自社出版物でも混用してしまうものを、どうしたらいいのでしょうか。西谷さん、よろしくお願いします。》(いずれも2012年2月29日)
 まったくお節介なことだが、せっかくそう言ってくれるのも貴重なご意見なので弁明しなければならない。じつはこの「いい加減な」混在状態はいまに始まったことではなく、正確な日付は覚えていないが、あるときまで「未来社」も「未來社」も、そしてここでは表示できないが「示偏(しめすへん)」の「社」も編集者ごとにいろいろ使っていたらしいのを、わたしが今後はすべて「未來社」に統一しようと言い出して、以後は原則としてこの表記が使われている。本文の引用文献などでも著者の原稿を修正してまで直しているのである。記憶では20年以上前になるかな。1989年に交通事故で亡くなった小箕俊介がまだ生きていたころだったような気がするからそれ以上になるかもしれない。もっとも当時はどこまで徹底できたかはわからないが。PR誌「未来」にかんしては商標登録に関係あったかどうかは怪しいが、最初からこれで通してきているので、社名との不一致は最初から一貫(笑)しているのである。
 ところがおそらく2000年ごろを境として、書物の世界にもデジタル編集の時代がやってくることになり、これは竹中さんには叱られそうだが、パソコンで出力できる「來」はともかく、外字扱いになってしまう旧字の「社」は、さまざまな点を考慮して旧字はやめ「未來社」に統一することに決めたのである。ただし、装幀などでは「來」はもとより、旧字の「社」を使うこともないわけではない。しかしその場合でも、あくまでもデザインとしての画像扱いで、流通上は「未來社」としている。そうしないと、インターネットなどで流通するものもしなくなってしまうからである。現に書協のホームページでは「未來社」で検索しても該当する書名は出てこないで、「未来社」なら1621件ヒットする。最初のころ、書協に申し入れてどちらでもヒットするように「あいまい検索」できるように仕組みを変えてくれと要求したことがあったが、技術上の困難があったらしい当時はともかく、いまだに実現していない。まったく不親切な組織だ! 会費払うのやめようかな。平凡社だって同じだ。というかあちらのほうがもっと確信犯なのか、あんな泣きべそのような「平」の旧字だかなんだか知らないが最初からパソコンでは出てこないのだからしかたない。すみません、変なとばっちりを食わせてしまって、平凡社さん!
 というわけでネット流通上の不利にもかかわらず、せめて「來」の字にだけはこだわっているのが現状です。竹中さん、これでお答えになりましたでしょうか。
 そうそう、ついでにわたしのお得意の正規表現を使って、文中の「未来社」を一括変換する置換処理の方法を書いておきましょう。
 検索文字列:未来社\([^会]\)
 置換文字列:未來社\1
これは「未来社会」のような熟語以外の「未来社~」にのみヒットさせ、「~」の部分をそのまま代入させることで「未来社の」「未来社は」「未来社が」などをそれぞれ「未來社の」「未來社は」「未來社が」と一括変換させるのである。ちなみにこれを秀丸エディタのマクロで表記すると
 replaceallfast "未来社\\f[^会]\\f","未來社\\1",inselect,regular;
となる。
 どうです、竹中さん、この一貫ぶりだけは貴兄のこだわりにひけをとらないように思いますが。(2012/3/1)

 きょう(2月28日)午後、東大駒場で昨年12月2日に59歳の若さで亡くなった女性哲学者北川東子さんを追悼するワークショップ「北川東子と女性の哲学」がUTCP(東京大学共生のための国際哲学交流センター)主催でおこなわれ、わたしもスピーカーとして参加させてもらった。これはUTCP拠点リーダーの小林康夫さんの依頼というか命令で、これまでの北川東子さんとの交流を出版社の人間としての立場から紹介し、人間としての北川さんの知られざる一面をも発表する機会が与えられたのである。すでにこのワークショップに先駆けてUTCPブックレット用に書いたエッセイ「北川東子さんと『女の哲学』」(*)と多少重複するところはあるが、わたしが北川さんと直接知り合いになった若手教官の会「扉の会」のことから、最後は女性の立場からその身体性を通じての哲学書をめざした『女の哲学』の刊行へ向けて原稿を書きはじめていたが中断してしまったことなどを、そこからの引用をまじえながら紹介させてもらった。
 同じくスピーカーとして参加された公共哲学京都フォーラム所長の金泰昌(キム・テチャン)さんのお話によると、北川さんは金さんと男と女のそれぞれの立場から哲学を論じあい、これまでの男性による男性のための男性の哲学を批判し、またこれを反転させただけにすぎない女性性を前面に打ち出した女性のための哲学でもなく、いわば男女が共生しうる哲学の新たな構築をめざそうとしていたということであった。わたしが北川さんと企画していた『女の哲学』もそうした文脈から考えられるものであり、どこかで男女の共生を可能とする哲学の構築がもくろまれていたはずである。産む性としての女性の身体性という地点から語られはじめていた北川東子さんの哲学がもっと自由に展開できるように働きかけるべきであったという大きな悔いがあらためて感じられる話であった。
 このワークショップにはフロアに高橋哲哉さんや田中純さん、若手では西山達也さんなども参加され、司会の中島隆博さんともどもそれぞれの北川さんへの思いや体験を語られ、北川東子さんという人間のさまざまな面が浮き彫りにされたいい会になったと思う。
 帰りに金泰昌さん、東京大学出版会の編集者竹中英俊さんとビールを呑みながら交わしたおしゃべりもいろいろな話題に及んで楽しいものであったが、こういう顔合せを実現してくれたのも北川東子という人間が残してくれた功徳なのであり、竹中さんなどは別の予定をキャンセルしてまで話し合う夕べとなった。
 それにしても、北川さんの亡くなる前後のさまざまな問題には古くからの友人としても力の足りなかった面もあり、またいかんともしがたい不都合も重なって北川さんとしても心残りだったはずである。UTCPがせめてもの供養のために今回のワークショップを実現してくれたことは、小林康夫さんの気持ちの現われでもあって、北川さんの冥福をあらためて祈らざるをえない。(2012/2/28)

 *このエッセイはUTCPの了解さえ得られれば、このブログでも公開させてもらいたいと思っている。そのうち今回の付録として掲載できるだろう。

 ここまで18回にわたって書きつづけてきたこの「出版文化再生ブログ」であるが、ここ数回、とりわけ前々回の「17 日販の『インセンティヴ-ペナルティ』方式の危険」を書いたことで、この記事のアクセスが1日で1500超というこれまでにない数を記録したことにより、以前から未來社ホームページという狭い場所でなく、より一般的な場所で広く公開したほうがアクセス数が一気に増えるだろうと未來社ホームページ担当者からアドバイスされていたことを踏まえて、いよいよNIFTYココログページにこのブログを開設することにした。これまではある程度、様子をみるかたちで書いてきたのだが、どうやらこの「出版文化再生ブログ」もコンスタントに記事を書くペースが確立し、定期的に読みにきてくれる読者も見えてきたので、さらなる拡大をめざすことにしたわけである。これまでもNIFTYココログページの別のブログで使っていたページを広げて新しく「出版文化再生ブログ」(http://poiesis1990.cocolog-nifty.com/shuppan_bunka_saisei/)を作り、そこにこれまで書いた分をコピーしてとりあえず公開できるところまできた。
 今回はこの情報を知らせることとし、未來社ホームページとうまく連動できるようになるまでは従来のページでも公開するが、いずれ一本化できるようにしたいと思っている。(2012/2/23)
 出版界は1996年をピークとして前年比割れをつづけて、いまや最盛時の2兆6000億円超の売上げが2兆円を割るようになってきており、このままでは出版業自体の存続が危ぶまれるような事態を迎えている。その原因としてインターネット、携帯電話等の情報機器の発展や、最近は電子書籍化の動きなどが取りざたされており、書店の衰退、図書館予算の削減などにより本がますます売れない状況が加速されているとも言われている。
 そこへもってきて昨年の東日本大震災とそれにつづく原発事故は日本の景気を一気に押し下げて低迷に拍車をかけてしまった。「がんばろう」のかけ声ばかりでは事態はいっこうに打開されないのが実情で、出版界もまたその例外ではない。
 昨年11月に未來社は創立60年を迎えた。それにあわせて社史『ある軌跡──未來社60年の記録』を刊行するとともに、わたしが未來社の月刊PR誌「未来」に十五年にわたって書きつづけてきた出版コラム[未来の窓]176回分のうち一部を削除し、テーマ別に再編集して『出版文化再生――あらためて本の力を考える』と題して同時に刊行した。A5判500ページになる大冊になったが、出版界および出版事業にたいするわたしの積年の思いを展開したものとして、いわば未來社の裏の公式文書としても、さいわい新聞等で紹介され、業界的にも話題になっている。
 今回、この本を機縁として未來社としても以前からかかわりの深い「中国新聞」に寄稿を求められたのはたいへんうれしいことである。というのは、小社からは中国新聞社編で『証言は消えない』ほかの広島の記録三部作(毎日出版文化賞受賞)、『中国山地』上下、『新中国山地』などドキュメンタリーものを刊行させていただいており、わたし自身も2004年に『中国山地 明日へのシナリオ』の編集を手がけている。また中国地方とも関係の深い宮本常一さんの『著作集』その他も継続刊行中である。
 さて出版はほんとうに力を取り戻せるのか。わたしが『出版文化再生』と書名でわざわざ「文化」を強調したのも、いまこそ出版の原点に立ち返り、本という紙媒体のもつ力をまず出版界のわれわれ自身が再認識し、そこから真に文化的に価値のある本づくりを勇気をもって実現していくことを通じて、新たな日本社会を再生していく基盤をつくろうと呼びかけることにあった。
 さいわいなことに本を書こうと念願している力量のある著者はすこしも減少しておらず、それを支える優秀な編集者も健在である。本は読者が手に取るところから始まり、その粋を凝らしたレイアウトや活字の美しさなどを通じて、読書のおもしろさや知識の深さをほんとうに味わえる器なのである。新しい文化はつねにここから始まるのである。
 出版界はこれまでのように大量生産―大量流通―大量販売という方式による安易な量的指向ではなく、出版物の文化性を強く志向する質的充実へと転換していかなければならないだろう。情報の一過性に頼る出版物や雑誌はすでにその傾向が顕著に現われているように、いっそうの退潮を強いられざるをえないだろう。
 出版界のこれまでの成長を支えてきたこれらの出版物が他のメディアに取って代わられることをいまやおそれてはならない。業界的な成長はもはや期待できないとしても、出版は本の力、活字の力を取り戻すことによって未来をつくっていくことはまだまだ可能なのである。

 *この原稿は2月初旬に書いて送ったが、新聞社の意向で表記その他の変更がなされ、「中国新聞」2012年2月19日号に掲載されたものである。ここに掲載するのはその元になった原稿である。(2012/2/22)

 最近の取次の書店への取組みの仕方をみていると、市場の冷え込みと不況を反映してか、無駄なコストを極力抑制して効率販売をこれまで以上に上げていこうとする姿勢が顕著である。その最たるものが日販が採用している「インセンティヴ-ペナルティ」というマネジメント理論を取り入れた方式で、要するに一定以上の成績を上げた書店には報償を、それ以下の成績の書店にはペナルティを課すというかたちで、料率に二面的な差配をつけて書店をコントロールするという考えである。
 日販はカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)と共同出資で2006年に立ち上げたMPD(Multi Package Distribution)に仕事の中枢を移行する方向で取次専業から徐々に離脱する指向性をもっていると見られるが、そうしたなかで取引先の収益力の強化を名目にさきの「インセンティヴ-ペナルティ」というマネジメントの方法論をその取引にあたっての原理に据えることによって出版不況に対応しようとしている。具体的には書店の返品率を35%をボーダーに設定することによって、それ以下に抑えた書店にはインセンティヴを、それ以上の結果が出ている書店にはペナルティを課すというものらしい。
 しかしそれによって書店は厳しい商品管理と商品仕入れを強いられている。売れる商品しか仕入れることができず、常備やフェアといった企画に対応することができにくくなり、まともな商品構成を実現できなくなりつつあるのである。
 なぜなら、ここでいう返品率とは、取次からみた総送品にたいする総返品の割合を指すので、理論上は100%返品されるはずの常備寄託や、売れ残りの多くなるフェア商品は返品率を高めるばかりになるので、返品率を下げることを至上目的とせざるをえない立場に追い込まれた書店は、こうした形態の入荷には否定的にならざるをえないからである。
 出版社の常備寄託にたいして日販系書店からの申込みがこのところ激減しているのはそうした背景があるからであって、このままでは書店の棚構成が形骸化するのは目に見えている。売れるものだけを並べようとしても、そもそも売れるものだけで書店の棚はカバーしきれるものではない。また常備寄託品に代表されるような(回転効率はかならずしもいいとは言えないかもしれない)基本商品を棚に置くことによって新刊や一部の売行き良好書が生きてくるのであって、そうした売れるものだけを並べている書店には読者は用がなくなれば寄りつかなくなってしまう。すでにそうした現象は深刻な事態を迎えているのであって、書店の荒廃をいっそう推し進めることになっていないか。売行きが目立って伸びにくい専門書、人文書の多くはそうした書店から排除される一方になってしまう。
 取次の自衛策としか思えないこうした「インセンティヴ-ペナルティ」方式は、あまりに短絡的であって、書店を締めつけることによって出版社にもマイナスの影響を与えるばかりか、それらをつうじて取次自体にもはねかえってくることになるのは明らかではないか。心配なのは、脱取次をめざしていると懸念される日販ばかりか、トーハンなどにもそうした方向性が見られはじめていると言われていることである。
 ここは出版界の再生のために大所高所からの判断を期待したい。出版界は三位一体などと言われるが、自己本位になっては業界の存立さえ危ういことになってしまう。それになによりも忘れてはならないのは読者の存在である。このまま読者の書店離れが進めば、もはや取り返しがつかなくなるのではなかろうか。(2012/2/21)
 トーハンのデジタル事業担当役員でデジタルパブリッシングサービス(DPS)の社長に返り咲いた鈴木仁さんが電子書籍担当のデジブック林社長とともに来社され、これからのオンデマンド本の構想について話を聞く機会があった。
 ひとつにはこれまでのDPSのオンデマンド復刊事業のさらなる発展として、出版社の負担を軽減するため桶川のQRセンターの一角にDPS専用の在庫を預かるスペースを確保して、出版社のオンデマンド製作にかんする発注、郵送、出荷等のコストと時間を圧縮するという提案である。これまで出版社はオンデマンド注文を受けると、まずDPSへの発注作業、納品の確認と倉庫等への発送作業(郵送料の発生)、さらには出荷倉庫での在庫管理、出荷作業(伝票起し、出荷料の発生)などの手間とコストをかけて1冊ごとの注文に応じてきた。それをDPSが注文を受けたあとは製作から管理、出荷までをすべて一貫しておこなうという合理化案なのである。
 これには、もうひとつセットになった話がある。これまでは出版社の判断で一冊ごとのオンデマンド製作あるいは場合によっては小部数のショートラン印刷と呼ばれる選択肢があって、出版社が後者の場合には先行投資的に注文数以上の製作をして在庫管理をおこなってきた。鈴木案では、これもふくめて在庫管理をし、なおかつ製作費は注文があるごとに出版社へ請求するだけでいいのではないかというもので、これは出版社にとってはありがたい話になる。オンデマンド機は面付けが4面なのでもっとも効率がいいのは4冊単位ということになり、1冊あたりのコストも若干だが軽減される。そうなればそのコストもいくらかは出版社に還元できるという、さらに具合のいい話なのである。つまり出版社はあるアイテムの注文が1冊くれば、4冊作ってもらい、3冊はQRセンターでの保管にまわしてもらって、とりあえずは1冊分の製作費の請求を受ける、残りは売れるたびに払っていくという仕組みである。オンデマンド本の場合はさほど回転率がいいわけではないから、出版社の負担もそれだけ軽減され、なおかつ在庫があるあいだは出荷がすぐできるという利点も出てくるのである。
 こうした鈴木案にわたしは原則的に大賛成で、通常重版がやりにくい専門書・学術書におけるオンデマンド復刊の必要性をさらに後押ししてくれるものとなる。ついつい面倒さが先に立って新しいアイテムの準備を怠ってしまいがちなオンデマンド本の拡大もこれでやりやすくなる可能性がある。こういう構想は同じような悩みをかかえる専門書系出版社にとってはおおいなる福音とも言えるもので、一社だけでなく、たとえば書物復権8社の会のようなところがある程度まとめてアイテムを拡充することになれば、これまでよりはるかに大きなマーケットの開拓につながることになるだろうし、読者の不満にもいくらかでも応えることができるようになる。それにDPSとしても業量が増えることによって1冊あたりの製作費用や移送費用なども軽減できることにつながり、すべてうまく回転することが可能になる。
 こうした発想は、鈴木仁さんがたんに業務拡大のためだけでなく、いまの出版界になんらかの貢献をトーハンとしてできることはないか、という文化論的立場から出てきたもので、この意気やよし!とするべきなのである。ちかくわたしは書物復権8社の会などに具体的な提案をしてみようかと思っている。(2012/2/15)

 本日(2012年2月14日)、いよいよトーハンの「Digital e-hon」ホームページ(http://www.de-hon.ne.jp/digital/)がリオープンされることになった。昨年四月、トーハンが呼びかけた「Tohan initiative for e-BOOK (Tie)」の電子書籍配信事業をめざして昨年後半からさまざまな配信会社を取り次ぐべくデジタル事業部を中心にネットワーク作りに邁進してきたトーハンだが、配信会社とのやりとりがもたつくなかで、トーハンが従来から紙の本で実働化してきた「e-hon」のデジタル版としてこの「Digital e-hon」ホームページが先行して立ち上がったわけだ。
 今回、このホームページ立ち上げにあたっては、デジタル事業部との連繋によりトップページに「未來社特集ページ」のバナーを設定してもらい、学術専門書版元としての栄えあるトップバッターに起用してもらったわけである。このページ開設にあたってわたしが依頼されて書いたガイド文が掲載されているので、それを以下に引いておこう。
《トーハンのデジタルe-hon事業開始にあわせて未來社としては初めての試みである電子書籍配信を始めました。小社は以前より書籍のテキストデータ保存に努めてきましたので、今日の電子書籍化をめぐる動きには原則的に対応できます。従来の一般書・小説・コミックを中心とした電子書籍配信の動きにたいして、人文・社会科学系専門書・学術書を中心にする出版社はいまのところあまり積極的ではない気がしますが、これまでとは異なる専門書の受け取られ方があるはずです。小社の試みは今後の書籍販売のあり方へ向けてひとつの実験のつもりです。》
 正確に言うと、未來社としてはすでに大学図書館向けの紀伊國屋NetLibraryへの出品があり、まったく初めての試みというわけではないが、広く一般読者にオープンにされたWebサイトへの配信は初めてと言える。ただ、ここでアップされたデータは基本的には紀伊國屋NetLibraryで使用したPDFファイルを流用したものであって、巷間よく言われるような動画的なファイルではない。そういうものを期待した読者にはがっかりされるかもしれないが、そもそも小社のような学術書、専門書のような出版物の読者にとってはそういうデータは必要ではあるまいと判断しているからである。紙の本と同じような感覚で本を読んでもらいたいということから、最初の数ページ分を「立ち読み」できるようにもしてある。また、価格も紙の本とまったく同一である。電子書籍だから紙の本より安くできるという説もあるが、わたしは同意しない。電子書籍とはあくまでも紙の本があってのものであって、電子書籍はその別形態にすぎないから、価格がちがうのはおかしいという考えである。
 ともかく、「Digital e-hon」ホームページ立ち上げにあたってこの試みがどういう方向へ発展していくのか、いかないのかを見きわめていきたいと思う。(2012/2/14)

14 沖縄関連本の連続刊行

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 きょうの沖縄県宜野湾市の市長選で伊波洋一氏が惜敗した。普天間基地の県外移設、海外移設を一貫して主張してきた伊波氏にたいして、自民党・公明党ほか推薦の佐喜真淳氏がやはり県外移設を唱えて仲井真弘多知事とも連繋した結果、宜野湾市民はより融通性のありそうな佐喜真氏を選択したということだ。だがこの結果をわたしは理解に苦しむ。そもそも沖縄の米軍統治、米政府への屈服政治、さらには普天間の辺野古移設を進めてきたのは歴代自民党(+公明党)政府だったのであり、そうした政治責任のある自民党・公明党のバックアップを受けながら、それと反対の主張をする佐喜真氏自身を県民が信用したということなのか。それとも強硬な伊波氏の反米路線にはついていけないと感じたからなのか。さらには以前、名護市長選で当時の民主党官房長官が官房機密費を自民党支持者に使って辺野古移転反対派の稲嶺現市長を落とそうとした一件にみられるような裏金工作がまたしてもおこなわれたのか。野田政権のアメリカ追随路線が今回の市長選でアンチ伊波に結びついていることは明らかで、民主党県連は自主投票を今回も選択せざるをえないという体たらくをさらし、結果的には佐喜真市長当選をとめられなかった。
 それにしても、宜野湾市民はいったいなにを考えているのだろう。普天間基地問題の存在やそれに付随して起きるさまざまな事件や事故を忘れたのか。
 いま未來社ではことしの沖縄の「本土復帰四〇周年」にむけてあらためて沖縄関連本を続々と準備中である。二年まえから継続刊行中の沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉全九巻の残りの三巻が中平卓馬写真集『沖縄・奄美・吐【カ】喇1974-1978』をはじめ故伊志嶺隆写真集、山田實写真集とつづけて刊行できそうである。それからPR誌「未来」で連載してもらった仲里効「沖縄と文学批評」全十七回、さらには知念ウシ・與儀秀武・後田多敦・桃原一彦各氏のリレー連載「沖縄からの報告」全二十四回もいよいよまとめに入る。宮本常一「私の日本地図」シリーズの第八巻「沖縄」も三月には刊行される予定である。さらには今回、2011年度沖縄タイムス芸術選賞文学部門(評論の部)大賞を受賞した高良勉『魂振り――琉球文化・芸術論』の続篇『言振り』や知念ウシ評論集もことしの後半には刊行予定に入っている。
 またヤマトンチュの坂手洋二さんの戯曲『普天間』もこの五月に刊行することになる。これは普天間問題を主題として沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故をはじめさまざまな事件や事故を扱い、その背景にある歴史的な問題ともからませて現在の沖縄の現実を明らかにしていく戯曲である。夫人が沖縄人であるという坂手さんの沖縄への想いが結集した作品になっていると思う。できれば現地での上演ができればいいが、伊波氏の敗北によってこうした可能性が低くなってしまったかもしれない。ともかくこの秋から青年劇場が全国公演を三十回おこなうのにあわせてこの戯曲を世に送り出そうと考えている。五月までに最大で七冊の沖縄関連本が生まれることになれば、いくらかでも沖縄の情勢にコミットできることになるだろう。(2012/2/12)
 紀伊國屋書店の外商部とJRC(人文・社会科学書流通センター)とがタイアップしてJRC取扱い出版社の前年の新刊を図書館に納入するカタログ販売の試みを始めて三年目になる。先日来社したJRC後藤社長の話によれば、この販売戦略がとても好調だとのことである。JRCも来年で創立十周年になる。不況の出版業界のなかで大取次の隙間をぬうようにして書店の要望に応え品不足を補うかたちで販売促進や納品をつづけてきたJRCの新たな試みとしてのこの新刊カタログ販売は、紀伊國屋書店外商部の要請もあって始められ、着実に成果を積み上げてきており、経営戦略としても大きな柱になりつつある。
 店舗販売が厳しい紀伊國屋書店にあって、外商部(営業)の力はいまや売上げ上での相当な寄与を実現している。これまで外販を競ってきた丸善の外商力が急激に落ち込んできていると言われるいま、紀伊國屋書店はこちらの面ではかなりのアドバンテージを得てきているようだ。そんななかで、丸善出版がライバルである紀伊國屋書店に販売協力を希望し、後藤氏の推薦と仲介もあってカタログ販売への参加が実現した結果、『科学・技術倫理百科事典』(全5巻)といった高額商品が売れているらしい。当初、紀伊國屋書店側にも営業のモチベーションが上がらないといった反応もあったようだが、結果的にみればこのタイアップは成功し、両者とも喜んでいるとのことである。言ってみれば、丸善が紀伊國屋書店の軍門に下ったようなかたちだが、いまやそこまでしてでも販売成果を上げる必要がそれぞれにあるということかもしれない。
 出版販売の世界はこれまでの習慣やいきさつをいちど洗い直して建設的な方向にいろいろ試みていく時期に入ったのではなかろうか。(2012/2/10)
 この「出版文化再生」ブログをしばらく中断してしまった。ここに書くべき話題がなかったわけではなく、むしろ問題にすべき話題は多かったかもしれないのだが、いくつか依頼された原稿が集中したために書く余裕がなかったにすぎない。
 そのひとつは『出版文化再生――あらためて本の力を考える』について「読売新聞」の昨年十二月二十日号に文化部の待田晋哉記者による《「未來社」創立60年の充実》という記事が掲載され、そのなかで『宮本常一著作集』のショートラン重版などが触れられたことに関心をもたれた「中国新聞」の佐田尾信作さんから「出版業の再生 活字の未来」というテーマで原稿を頼まれ、「出版は活字の力を通じて未来をつくっていく」という原稿を書いたことである。これはまだ未発表だが、いずれ掲載が可能になったらこのブログにも転載したいと考えている。
 もうひとつは、昨年十二月二日に五九歳で亡くなった東京大学の北川東子教授の追悼エッセイを、UTCP(The University of Tokyo Center for Philosophy=東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」の拠点リーダー小林康夫さんに依頼されて書いた「北川東子さんと『女の哲学』」である。この二月二十八日には東大駒場でUTCP主催の北川東子さん追悼集会が開催される予定であり、そこでのスピーカーも依頼されており、北川東子さんとの出版をつうじてのおつきあいについて話をさせてもらうことになっている。このエッセイはそれとおそらく重複することもあるだろうが、どういう形かわからないが活字化を考えられているようである。北川東子さんとはわたしがかかわった東大駒場の若手教官の勉強会「扉の会」でのつきあい以来、二四年にわたるおつきあいをさせてもらい、これからいよいよ本格的な哲学を展開してもらうつもりであっただけに痛恨の極みと言わざるをえない。その思いの一端を書いたもので、これも掲載が可能になったらこのブログに転載したいと考えている。
 そんななかで出版界の話題としては暗いものが多く、出版文化の再生をめざすこのブログの主旨からはあまり生産的とは思われない内容はあえてとりあげる必要はないので、これからあらためて出版の活力につながる話題にしぼって再開しようと思っている。(2012/2/8)

11 出版事業の発明

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 出版の問題について教材用にその概略を書く必要があって、古代ギリシアの全盛期アテナイで出版事業と書籍市場が早くも発生していたというカール・ポパーの講演があったのを思い出した。これはポパーが一九九二年の京都賞受賞のさいに来日したときの記念講演で、長尾龍一・河上倫逸編『開かれた社会の哲学──カール・ポパーと現代』(一九九四年、未來社刊)という本に収録されている。
 ここでポパーはあくまでも大ざっぱなものだがと断ったうえで、「歴史上の新発見」として仮説を提示したのである。その後、この議論がどういう位置づけを獲得したのか不明だが、通常は十五世紀のグーテンベルクによる聖書印刷によって開始されたと見なされている近代印刷術とそれにともなう出版事業がなんと二千年も前にさかのぼるギリシア時代にその萌芽があったというのだから驚きだ。
 ポパーによれば、紀元前六世紀ごろのアテナイの僭主であると同時に文化事業の擁護者でもあったペイシストラトスがホメロスの叙事詩を書物とする事業を始めたところに端を発するそうである。「ペイシストラトスのこのホメロス文書化事業こそ、後世に比類なき影響を及ぼしたもので、それは西洋文明史上の焦点というべきものである」とポパーはこの講演での中心命題を要約している。
 どういうことかというと、当時のアテナイ市民のあいだに人気の高かったホメロスの作品を公開朗読会のさいに書物のかたちで配布したところ「大人気を博したことが、出版を商売にしようというような考えを生み出した」ようである。もちろんこの時代に印刷機などはないので、どうしたのか。
《書物の制作は、具体的には、大勢の文字を解する奴隷に、口頭で唱えたものを書き取らせる方法で行なわれた(......)書き取った紙片は巻物に編纂されて、「書物」(ビブロス)とよばれて、「オルケストラ」と呼ばれた場所で売り出されました。》(20ページ)
 こうしてまずホメロス人気に乗って開始された出版事業で、このあと他の詩人の詩集や悲劇・喜劇の作品などがどんどん書物化され、市場(アゴラ)における書籍市場(ビブリオニア)が制度として確立することになった。こうして出版を意図する著述までも現われるようになり、そうした最初の著書はアナクサゴラスの科学論『自然論』だとポパーは推測している。
 こうした地中海世界における最初の出版行為によって出版事業が発明されたとポパーは言う。書籍市場が確立されることによって出版事業も成立したわけであり、ポパーによれば、こうした制度の確立によって市民の字を書く能力の発展をうながし、権力者の「陶片追放」(オストラシズム)を可能にさせ、ギリシアの文化と民主主義の発展に大きく寄与することになったのだということ、それがヨーロッパ文化の起源にもなっていくという壮大なスケールの見取り図がつくられていく。
 この講演をしめくくるにあたってポパーはつぎのように結論づける。
《われわれの文明は、その発端から「書物の文明」(bookish civilization)であったのです。この文明は、伝統に依存しながらも革新的で、真摯であり、知的責任を重んじ、比類ない想像力と創造性を発揮し、自由を尊び、それへの侵害に敏感な文明ですが、これらすべての属性の根底にあるのが、「書物への愛」に他なりません。私は、短期的流行や、ラジオやテレビ、コンピューターなどによって、人々の書物への愛が毀損されないこと、いな多少でも減殺されないことを祈ってやまないのです。》(26ページ)
 いまならこれに携帯電話やインターネット、さらには電子書籍などが加えられるべきだろう。しかしポパーはこのあとさらにつぎのようにクギを刺している。
《しかし私は、書物讃美論によってこの講演の結末としたくはありません。(......)忘れてならないのは、文明を構成するのは人間であり、文明を身につけた、即ち有意義な、文明的な生活を送っている個々の女性ないし男性だということです。書物であれ、文明の他の諸要素であれ、それはわれわれの人間的目的を増進するところにその意義があるのです。》(26-27ページ)
 このポパーの言明をこそ、わたしたちはあらためて出版文化再生のための原点に据えなければならない。(2012/1/15)
 一般読者の「ニーズ」に対応して、これらに応えるべく書かれてきた一般書、実用書にたいして、情報の消費を目的としない別の意図をもって書かれたのが専門書と呼ばれる一群の出版物であるととりあえず定義することができる。それらは読者の「ニーズ」に応えるために書かれたものではなく、書き手にとってどうしても解明せずにはいられない主題が必然的にもたらした結果である。そういうものはあらかじめ誰にも知られていない知や価値の発見であって、書き手にとってさえ書き進めることによってはじめて見いだされた真実、場合によっては予測できていたかもしれないが細部にわたって解明できていなかった真相である。読者はもちろん、誰にも発見されていなかったこうした事態をすぐれた専門書は世界にはじめてもたらすのである。
 すぐれた専門書は刊行され解読されてはじめて世の中の財産目録に加えられることができる。すぐれた文学書がすべてそうであるように、書かれるまえにはどこにも存在しえなかった世界への窓、世界認識のしかた、こんな物事の見方があったのかという驚き、こうしたものがすぐれた文学のそれぞれがもたらすものだとすれば、さまざまな知への学問的営為とも言うべき専門書の成果とは、それぞれの学問的見地から学問や科学の最先端を探求した結果ようやくにして獲得できた知なのである。こうした発見の価値が刊行当初においては十分理解されないことがあっても、あるいは一般にはなかなか理解されないことがあっても、時間がたてばそれが人類の文化の向上に計り知れない価値をもたらすことは、これまでの世界史が十分に証明していることである。それらは世界の古典になっていくのである。
 こういう価値のある専門書が最初から一般に読まれるということはよほどのことがないかぎりありえない。つまりそこに既成の価値観でしかない「ニーズ」は存在しないからである。かつて経済主義一辺倒の規制緩和論者が「ニーズ」のないところに出版はありえないとか言った愚劣な意見を開陳していたが、そんな程度の「ニーズ」を充たすだけの出版物だったらとっくにインターネットの情報提供力に負けてしまっている。発見的知としての新たな「ニーズ」こそが文化を前進させる。このような知をもとめる出版物は、最初から成功を約束されているわけではないので、小部数出版にならざるをえない。いまのマスコミなどではほとんどそうした真価をとらえられないためにまず紹介されることはないから一般に知られるには時間がかかるが、いずれはすぐれた理解者を得て知られていくことになる。すぐ売れなくても価値の高い専門書を発掘し、刊行していくこと、それが専門書出版社の最大の役割なのである。(2012/1/8)

*放送大学教材用の下書き稿の一部を転用しました。

9 出版界と退職者

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『出版文化再生――あらためて本の力を考える』を昨年11月末に刊行して、同時に刊行した社史『ある軌跡──未來社60年の記録』とあわせて主要な著者をはじめ、出版関係各社および業界の知り合いに相当数の献本をおこなった。わたしの『出版文化再生』は未來社の最近15年の基本的な考え方を提示しているものとしていわば非公式の記録でありながら出版という営為を通じて実現しようとしてきたことの真意というか意志を明示するものであり、社史という公式の記録文書とともにあわせて読んでもらいたいという願望もあったからである。さいわいこの期待はある程度認めてもらったようである。多くのお礼状や感想などからそう推測しても間違いではないだろうと思えるからである。
 そうしたさまざまな感想や激励などのなかに、わたしはひとつ問題があることに気がついた。それは、今回お送りした知り合いのなかにかなりの割合で現役を引退しているひとがふくまれていることにも関連する。わたしのこれまでのつきあいやかかわりの深いひとたちがわたしより上か同年配ということもあって、必然的に定年後のひとが多くなっているのは事実である。そういうひとのなかにはいまでもなんらかのかたちで出版界にかかわりをもっているひともすくなからずいることはいるが、それでもどこか半分は現役を退いたかたちになっている。それはそれでやむをえないのだが、問題はそういう現役を退いたひとたちが、しかもそのほとんどは現役時代に出版界でもそれぞれの立場から貴重な仕事を残してきたひとたちであるにもかかわらず、もはや出版界のことについての関心を失なってしまっているように感じられるひとが何人もいることなのである。これはわたしにとってある種のショックである。
 わたしはこの業界から足を洗うことができないという自分の立場上、出版および出版界のことを自分の年齢の問題と重ねあわせて考えてみることはあまりない。あるとしたら、自分の著述のための時間をもっともちたいというぐらいのことで、経営の課題をクリアできないかぎり、現実的にはなかなか厳しい欲求でしかない。それにたいして、退職後、出版の世界に関心をもたなくなったことを表明するひとがわたしの知り合いのなかからも出てきていることに愕然とするのである。営業関係者の場合には、たしかに自分の活動する場が失なわれてしまった以上、どうすることもできないのであるからこの成り行きには納得せざるをえないものがあるのだが、編集者だったひとはどうなのだろう。もちろんこれも編集者として出版業にかかわりをもてなくなった以上、現実的には関心が失なわれていくのは同じことかもしれない。しかし、わたしにはどうしてもその断念の心的しくみが理解できないのである。
 こうしてあらためて考えてみると、出版という営為はやはり実業でしかないのか。出版界を去ろうとする人間の話をこのところ何人も見聞きしてきたが、ほとんどが余生の話、趣味の話に終始してうんざりさせられたところである。こうしたところにも勢いのなくなりつつある出版界の現状を見てとるべきなのかもしれないが、いやいや、それだからこそここは頑張りどころなのではないかと思うのである。それこそが『出版文化再生――あらためて本の力を考える』という本を出した理由なのだから。(2012/1/2)

未来の窓 1997-2011

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