38 書字における単純化の危険

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 精神医学者の中井久夫さんの書くものはいつもすばらしい専門知識と啓示にあふれている。その中井さんがこんなことを書いている。
《この二一世紀の言語的抑圧は言語の恐ろしい単純化である。もはやわれわれは書いていない。つついているのである。携帯電話によるメールをみよ。書字とワープロの相違は書き文字とタイプライターの相違である。書字との間にはまだ往復性がある。(中略)コンピュータ以後はこの往復はない。携帯電話に至っては、これは肉体をほとんど失ってほとんど骨まで単純化された形での、会話言語への一種の回帰である。》(「言語と文字の起源について」「図書」2009年1月号)
 中井さんがパソコンを使って原稿を書いているのかは知らないが、いまのように言語発信のしかたが携帯メールはもちろんツイッターやブログ、フェイスブックなどによるいささか安易な方法によるものが多くなってくると、たしかに手で字を書いていた時代にくらべて内容が軽くなっていく傾向にあるのは事実だ。情報量はその意味で圧倒的に増えていると言ってよい。もちろん吹けば飛ぶような情報がそのほとんどだが。
 わたしもいまや原稿はすべてパソコン(テキストエディタ)による入力だし、ツイッターもブログもフェイスブックもやっている。それでもこれだけはというときは原稿をプリントアウトして読み直し、修正を入れてから公表するようにしているが、それでもブログ(この原稿もそうだ)などでの発表はどこか手軽さを否定できない。読むほうもほとんどはモニタ上で読んで終わりだろう。尾鍋史彦さんではないが、必要と思われる文章はかならずプリントして紙で読み、保存するという認知科学上の読書環境を設定しているというようなひとは少ないだろう。
 書くことが「骨まで単純化された」ものになりかねないなかで、それでも本として残すべき知は視覚から指先でキーボードを「つつく」行動の流れに現われる脳の認知システムのなかをどうやって生き延びることになっていくのだろうか。いささか心配だが、いまのところこの心配をクリアできる処方箋は見つかっていない。(2012/5/21)

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未来の窓 1997-2011

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