2011年アーカイブ

「無条件に科学を信じている者はすぐれた科学者になることもできないであろう。科学的知識を絶対的なもののように考えるのはむしろ素人のことであって、真の科学者は却ってつねに批判的であり、懐疑的でさえあるといわれるであろう。少くとも科学を疑うとか、その限界を考えるとかいうところから哲学は出てくる。」(「哲学はどう学んでゆくか(二)」、初出は「図書」一九四一年四月号)
 こう書いているのは七〇年前の三木清である。あたかも今日の原子力科学者の思考のレヴェルの低さを予言しているかのようである。科学的知識を絶対化するエセ科学者の妄言をもとにこの国の原子力発電は今日の最悪の事態にまでいたり、それとともに日本という国の根幹が致命的な原子力汚染にまみれてしまった。どうやって回復させることができるのかは、三木が言うように「素人」の科学者にまかせておくことはできない。「真の科学者」の出番であるが、そこに哲学の必要も問われてくる。ことここにいたっては、単純な原子力批判だけでは事態の解決にはいたらないのである。
 三木は先の文章にすぐつづけてこう書いている。「しかしながら懐疑というのは、物の外にいて、それを疑ってみたり、その限界を考えてみたりすることではない。かくの如きは真の懐疑でなくて、感傷というものである。懐疑と感傷とを区別しなければならぬ。感傷が物の外にあって眺めているのに反し、真の懐疑はどこまでも深く物の中に入ってゆくのである。これは学問においても人生においてもそうである。容易に科学の限界を口にする者はまた無雑作に何等かの哲学を絶対化するものである。感傷は独断に陥り易い。哲学はむしろ懐疑から出立するのである。」
 ここで三木の言う「感傷」に陥らずに「どこまでも深く物の中に入ってゆく」懐疑は容易に事態を単純化しないだろう。いまや単純な原発批判でなく、どうしたら原子力の暴走を食い止められるのか、そうした科学の内部からあくまでも懐疑的に(哲学的にと言っても同じだろう)現状を打開しうる科学者の出現を待たなければならない。あるいはそういうひとを発見し、その声に耳を傾けなければならない。(2011/12/23)

 来年の1月26日(木)夜、「出版ビジネススクールセミナー:未來社60周年記念講演/出版文化再生 出版とは闘争である――あらためて本の力を考える」でわたしのセミナーが開かれます。会場は岩波セミナールーム。これは出版研究センターの林幸男さんが主催するセミナーでわたしもこれまで三回ほど出演させてもらったことがあります。今回はわたしがこのほど刊行した『出版文化再生――あらためて本の力を考える』(未來社)をきっかけにこの本に因んだタイトルの講演をさせてもらうことになりました。以下はその案内用チラシのためにわたしが作成した文章の素案です。ご関心をもっていただける方はどうぞいらしてください。ご連絡は出版研究センター(03-3234-7623)へ。
《ご参加のすすめ》
 未來社は2011年11月11日、創立60周年を迎えました。それにあわせて社史『ある軌跡――未來社60年の記録』を20年ぶりに作成するとともに、わたしがPR誌「未来」で1997年3月号以来176回にわたって書きつづけてきた出版コラム[未来の窓]を再編集して『出版文化再生――あらためて本の力を考える』という本にまとめました。後者は最近15年間の未來社の歴史であるとともに、最近の出版業界のかかえてきた諸問題へのわたしなりの批評的総括でもあります。
 東日本大震災と原発事故以来、出版界はこれまで以上に厳しい局面を迎えております。すこし前の電子書籍騒動も依然として不透明で、出版界の先行きはいっこうにはっきりした展望をもつことができていません。
 こうしたなかで昨今、出版業界で問題にされはじめた〈本の力〉とは何かについて、あらためて考えてみたいというのが今回のテーマです。紙の本がもつ魅力とは何か。電子書籍と比較して何がどう違うのか。ここが一番肝腎だと思いますが、このあたりをともに考えていきたいと思います。
《レジュメ》
*出版不況がつづいていますが、この原因はどこにあるのでしょうか。日本の出版界がもつ構造的な問題。経済不況。情報環境の変化による本離れ。電子書籍問題。その他。
*出版界の問題が議論されるときに、業界紙などをはじめとしていつも流通問題、売上げと利益の問題に一面化されて、出版が本来もっとも担うべき文化創造の問題が話題になることがあまりありません。出版人は概して出版文化について語ることを避ける傾向があります。これはどうしてでしょうか。
*出版とは闘争である、とわたしの本のオビにありますが、この闘争の対象はどんなものでしょうか。『出版文化再生』のなかでは具体的にいくつか挙げています。消費税率変更と再販制問題、学術書出版をめぐる出版社、編集者のありかた、社会的・政治的な争点をもつような出版物をめぐる「公共性」批判とマスメディアの対応、などです。
*総じて出版物は体制的な社会や政治に迎合する現状肯定のためではなく、よりよき未来を見据えた批評的・改革的な視点から書かれたものであるべきであり、出版社はそうした視点から書かれた出版物を提供していく立場をとるべきです。こういう出版物は広く受け入れられるものではないのが通常で、出版社は経営的にはけっして楽ではないことは確かですが、だからこそそうした出版物を断固として刊行し、それをすこしでも広めていくような努力をすることがわたしのいう〈闘争〉なのです。この講演会自体、話を聞いていただくこと自体がわたしの闘争の一環でもあるのです。(2011/12/18)
「新文化」2011年12月15日号で未來社60周年の記念社史『ある軌跡──未來社60年の記録』刊行の紹介とともに、わたしの『出版文化再生――あらためて本の力を考える』が紹介された。記者は新文化通信社の芦原真千子さん。昨年の沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉の企画を〈ウチのイチ押し〉欄で紹介してくれたひとだ。
 今回は『出版文化再生』に「新文化」に寄稿した2本の文章を収録させてもらう依頼のさいに取材とインタビューの約束がなされていた。この本の元になったPR誌「未来」の連載[未来の窓]が出版界のピークを過ぎた1997年から開始され、「下降線を辿り、多くの問題が噴出した時期と重なる」ことを指摘している。さらに「それらの問題について、多角度から見た率直な物言いの論評を加えてきた。その集積である本書は、直近15年の出版小史であり、出版界が直面した問題や出来事の本質を明らかにする評論集でもある」と書いてくれている。また「鈴木書店の倒産直前、著者(わたし)がトーハンに買収交渉に出向いたことなど、当時は書けなかった幾つかの事実を、出版史上のエピソードとして初めて明かした。刊行後、一読すべき書として業界から注目されている」とも書かれている。
 今回は60周年記念として著者、出版社、取次・書店などにセットで送らせてもらったが、とてもいい感触のお返事やお礼状などをもらって、おおいに勇気づけられている。やはり無理をしてでも刊行してよかった。
 また小社のホームページで『ある軌跡』60年版と『出版文化再生』のプレミアムセット販売の案内をしたところ好調な反応にくわえて、「未来」購読者へ向けて60周年記念フェアとして三十点ほどの書籍の割引販売と1万円を超える場合には『ある軌跡』を無料進呈する案内を送ってみたところ非常に多くの注文があり、驚いている。
 小社が業界人や読者にたいしてひさびさにアピールできたことは、今後の出版活動のうえでもひとつの転機になりうるのではないかと、力を矯めているところである。なにしろ出版はそれ自体が闘争なのであるから(本書のオビの文句より)。(2011/12/17)

 出版界を支えてきた大手・中堅出版社の主として営業系の中心人物たちが集まって、月に一度、勉強会を進めてきた会があり、かれこれ二十年近く継続している。出版界の新しい動きや情報にたいして各大手出版社のオーナー社長の懐刀とも言うべきやり手揃いで、日本書籍出版協会の真の実行部隊でもあったひとたちが出版界の横断的勉強会を開こうということになって発足した会で、わたしも設立当初から誘われて唯一の弱小出版社の人間でありながら参加してきた。この会の名は「21世紀の出版を創る会」という。じつはこの会についてはわたしが先日刊行した『出版文化再生――あらためて本の力を考える』においてもいちども触れたことがない。この会の趣旨は外部に情報をもらさないということを前提に、本音で語り合う勉強会という位置づけがあり、わたしもこの趣旨にそって対外的発言は差し控えてきたという事情があるからである。きのうの夜に忘年会が開催され、どうやらこの禁制も解除されてもいいような気になってきたので、あえて書いてみようかと思う。
「21世紀の出版を創る会」はかつて正味問題を考える出版社の会というイベントがあり(日付ははっきりしないのでおわかりの方があればぜひご教授をお願いしたいが、飯田橋のハローワークで開催されたことは間違いない)、この会は出版社だけの会で正味問題を論じあおうという趣旨だったにもかかわらず、取次や書店の人間が入り込んできており、あまつさえ東京書店組合の人間が出版社への批判的介入をするなどあって、議論が進まず解散になったという経緯をふまえて、あらためて出版社だけの会を結成しようということになってできたものである。そのときは当時の書協にあった情流推(情報流通推進協議会)のメンバー(各主要出版社の中核メンバーで構成されていた)と出版労連の幹部たちが合体し、出版評論家の小林一博さんを座長として発足した会である。正味問題を論じあうことから始まって、出版界のさまざまな問題について意見を交わしあうというフリーな場であって、わたしもずいぶん勉強させてもらった。その後、小林さんが亡くなられ、会の存続を相談した結果、有意義な会なので継続しようということになったのである。最初は「20世紀の出版を考える会」だったのが、21世紀を超えるにあたって、いまの名前に変更した記憶がある。
 ともあれ、よく意見の飛び交う勉強会でわたしなど口を挟む余地がないほど次元の高い会であった。最近はあまり出席していないので、こうした過去形を使ってしまうのだが、理由はそれだけでもない。というのは、きのうの忘年会でも退職の挨拶をするひとが四人もいただけでなく、すでに退職しているが会に出席しているひとがおそらく半分以上を占めるようになっており、かつて活躍したメンバーでも退会したひと、出席しなくなってしまったひとが目立ち、どうも今後の活躍が期待できないひとが多くなってしまったからである。すくなくとも現役が少なすぎる。わたしも近況挨拶でこの会は養老院みたいだと言ってしまったが、『出版文化再生』を刊行したことも、社史『ある軌跡』60年版を出したことも、とくに発表する気になれなかった。もっとも幹事の嶋田晋吾さんが見本をみんなに見せて宣伝してくれたが、すでに寄贈しているひとも多く、その他のひとたちからの関心はあまり期待できなかった。なかには元文藝春秋の名女川勝彦さんのようなまだまだやる気満々のひともいるのだが、全体にメンバーが拡散した感じで、これからの出版界をどう構築していくのかといったヴィジョンを語れるようなひとがあまりいなくなったように思われた。わたしが『出版文化再生』で考えている方向とのズレが大きくなっていることを感じた次第である。(2011/12/14)

 きのうの夜は、中目黒のエチオピア料理店「クイーン・シーバ」での鈴村和成訳『ランボー全集』出版記念パーティーに出席した。36人ほど出席。何人かの知り合いに挨拶した。鈴村和成さんはいま「未来」で「書簡で読むアフリカのランボー」を連載中。このたびみすず書房から刊行された『ランボー全集』個人全訳は、これまであまり重きをおかれてこなかったアフリカ書簡を大幅に訳出したもので、「未来」の連載はそれをベースにアフリカでのランボーの足跡を追うもので、ユニークなランボー論になっている。
 この出版記念パーティの仕掛け人は野村喜和夫さん。エチオピア料理店はアフリカ好きの鈴村さんにちなんで夫人の眞里子さんが選定したとのことだが、入るのは初めてだそうだ。
 パーティはこの全集の編集を担当したみすず書房の浜田優君の司会で進められた。浜田君は未來社から移籍した編集者で詩人。途中で自作朗読もしていた。冒頭でランボーの権威、粟津則雄さんが挨拶。鈴村訳ランボーのことば遣いに若干の違和を表明された。粟津さんには『ある軌跡』60年版で寄稿してもらったが、「君のことを褒めておいただろ」といわれた。そうだったかな。つづけて乾杯は安藤元雄さん。安藤さんもランボー訳は一篇だけだとしながらも鈴村訳ランボーの現代的すぎるボキャブラリーに言及していた。わたしも通常「酔いどれ船」と訳される長篇詩を「酔いどれボート」とするのはいささかニュアンスが違うような気がしていたが、あとで鈴村さんのこの作品の朗読を聴いて、そのドライブ感のある朗読力に意外性のパワーを感じたのだが。
 思いがけないことに北川透さんが出席していてスピーチされた。フランスのロワイヨーモンでの鈴村さんとの同行の話やその後のパリでの話など、鈴村さんとのつきあいについて語っていた。話自体はよく知っているので驚くほどではなかった。北川さんともひさびさに会ったことになるので、最近の詩集のお礼をかねて以前に比べてその詩が相当に多弁になってきていることを指摘させてもらったが、自分の詩集にかんしてはよくわからないと言われた。たしかにそうだろうと思う。
 藤井貞和さんは鈴村さんとは五〇年近くなるつきあいで、かつての「白鯨」の仲間としてはただひとり出席。いつものひょうひょうとした話だった。そのまえに話をした朝吹亮二さんが言及した鈴村さんの最初の本『ランボー序説』(だったかな)の発行人として藤森建二さんが紹介され、話を聞いた。藤森さんは元未來社、のち洋泉社を起こしたひとだが、未來社時代に鈴村さんの本を出版したとのことで、版元はたぶん永井出版企画じゃないかと思うが、確かめそこなった。会がおわってから中目黒駅のそばで藤森さんと二次会でしばらく話をした。藤森さんもいまや七十一歳。引退して相談役とのことだ。(2011/12/10)

 前回の「2 いまの哲学の惨状」にたいしてさっそく「神学者ヨハネ」さんからタイトルについて「『いまの哲学〈を取り巻く状況〉の惨状』と題する方がまだしも」ではないか、とのご提案をいただいた。読み直してみて、たしかに哲学を取り巻く状況の惨状はいうまでもないが、哲学それ自体、哲学者、哲学書を発行する出版社自体にも襟を正すべき実情はけっして免罪されるものではないと思うので、あえて変更する必要はないのではないかと思う。
 それにしてもブログというものは書いたままをアップするので、あまり推敲することがないから自戒する必要もありそうだ。自分では日記を書いたことはないので書き方がよくわからないが、ブログのように公開を前提としているものであれば、すこしは構えも必要になる。だからある程度はナマな思考のプロセスをさらけ出すことになるのだが、まあとりあえずはこの調子でいってみよう。(2011/12/8)

2 いまの哲学の惨状

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 茂木健一郎がある座談会のなかで哲学の現在をめぐって以下のような発言をしているのが目を引いた。
《ツァラトゥストラのメタファーでいうと、自ら山を降りていくか、それともみんなに登ってきてもらうかの差が大きいと思うんです。大思想家が生きていて、岩波の哲学講座がよく売れていた頃は、みんなが山に登ろうとしていたんです、人びとの方が。(中略)「町場の哲学」書の読者は、知性派であるにしても、いわば何も苦労しないでポカーッと口を開けて待っている。哲学者がそっちへ降りていって、わかりやすく辻説法をする。いま売れている哲学書は、広い意味のエンターテインメントです。厳しい修行の場とは、また違った倫理と様式になってしまっている。》(座談会「哲学はいま」、「図書」2008年4月号)
 まったくその通りのいまの哲学の惨状である。みずから考えるのではなく、わかりやすい辻説法を待っている。これはテレビと同じだ。受け身の哲学、受け身の読書。だから読書する喜びも哲学する意気込みも感じられないものが横行する。ややこしく小難しい議論をする本や哲学書は敬遠され、どちらかと言えばわかりやすくなじみやすい本が喜ばれるのだ。〈教養〉と呼ばれるものがバカにされ、基礎的な知識を得るための努力が軽んじられる。こうした知の現状はすべての学問の頽廃に及んでいる。東日本大震災での東京電力をはじめとする原発推進派のすべて、東京大学工学部を中心とする原発擁護派の御用学者たちの頽廃ぶりは犯罪的でさえある。科学することの哲学以前の話である。
 こういうカネ(利権)と権力で泥まみれになった学問をどうやって再建するか、哲学の役割はいまこそ重要になってきていると思うのだが。(2011/12/7)

 アマゾンの石川真生写真集『日の丸を視る目』のカスタマレビューで悪質なレビューが掲載された。奈良県のソガノイルカ"ソガ"という名の「見なければ良かったです。」というレビューである。もちろんおすすめ度は最低の「1」である。ひどい内容だが、黙視できないので、以下に全文を引用する。
《すごく気分悪くなりました。本屋で偶然見てしまいましたが、トラウマになりそうです。/こういうのを出版する意図が解らないですが、中国朝鮮とは絶対に仲良くなれない、彼らに隙を見せてはならない、ということが良く分かりました。日本人の平和ぼけを醒ますには、役に立つかも知れません。/見たことを忘れたいぐらい、嫌な気分になりました。》
「出版の意図がわからない」というより、わかりたくないだけである。むしろ出版の意図がわかっていて、日の丸に象徴される日本国家への批判を封殺しようとする意図がありありと見えてしまう。この手の意見にたいしてはわたしはすでに『出版文化再生』のなかで「沖縄問題をめぐる知的恫喝を警戒しよう」(452ページ以下)その他で批判している。ナイーヴさを装った政治的抑圧の幼稚な手法である。予想されたことだが。こういう真実を直視しようとしないひとには何を言っても始まらない。言うまでもないことだが、アマゾンの読者もこれに惑わされないようにお願いしたい。(2011/12/6)

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 PR誌「未来」で176回にわたって連載してきた出版コラム[未来の窓]をこのたび『出版文化再生――あらためて本の力を考える』として未來社から刊行しました。それにともない、新しいかたちでの出版コラムとしてこの「出版文化再生」ブログを始めることにしました。これまでの[未来の窓]とは異なり、時間や原稿枚数に制約のないかたちで思ったことをどんどん発信することになると思います。うまくいくかどうかわかりませんが、これまで以上の関心をもっていただければありがたいと思います。