2017年アーカイブ

II-22 ある編集者の一日

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 ひと(他人)の書いたものをメールで受け取り、テキスト編集しながら通読し、行数やページ数を数えたりしては印刷し、電話やFAXで校正を送ったり受け取ったり、これが日々繰り返される。そこに装幀者やデザイナーとの確認、打合せ、催促、また確認、データの受取り、そしてまた確認。こうして毎日が始まり終わる。これがある編集者の一日であり一生つづくかと思われる毎日である。
 編集者とは何だろうか。御用聞きなのか、お産婆役なのか、誰も読まない本をせっせと世に送り出している奇特なクリエーターなのか。こんなに本が売れなくなった時代にも著者と編集者、その予備軍はいっこうに減りそうもない。研究しても創造しても本を出すことがますますむずかしくなっているのに。
 今回は、たとえばきょうという特定の一日を編集という側面に限って反省的にドキュメントしてみるということを思いついた。いよいよアイツも言うべきことがなくなってここまできたか、という声がさっそく聞こえてきそうだが、それも事実だからいっこうにかまわない。そろそろ矛先を収めて自分のやりたいことに専念することにしようかと思っているところだからである。
 そんな気分のなかでこの文章を書いているわけだが、じつはきょうあたりをピークとしてここ何日か「季刊 未来」秋号の編集に追われているからで、その間隙をぬってこの[出版文化再生]コラムの文章も書かなければいけないのである。自分のノルマも果たしていないのにひと(他人)の原稿を追い追われるこの怒濤の時間――「僕って何」(三田誠広)というわけだ。
 ――S氏から論集収録用原稿の見直し分もどる。こちらの校正の指摘にたいしてご不満のお手紙付き。これまで他社では注文をつけられなかったらしい。読みやすさと正確な表記をお願いしたところ編集者の越権行為で不遜な振舞いとされてしまった。ときどき自分の原稿の「完全さ」にケチをつけられたと思うひとがいる。未來社では遠慮なく指摘させてもらう方針なので、こういうひとにあたった場合は運が悪いと思うことですましておく。算用数字の漢数字化などの不備にたいしてはこちらの一括処理を任される。プロとして完璧を期せ、と。こちらは秀丸マクロがあるので、お任せあれ。
 ――同じ論集に収録予定の中国人研究者S氏からは収録依頼状への返信メールも届く。快諾。連絡先不明でようやく連絡ができたので、この原稿も読まなければならない。
 ――もうひとりのSさんから「季刊 未来」連載のゲラの件で初校一〇ページの再修正を速達で送ったとの電話。こちらの勘違いで半ページほど削除を依頼していたところ逆に半ページほど不足だったことがわかり、削除部分の復元もふくめて初校校正のし直しを前日頼んでいたもの。メールアドレスを変更したらしくプロバイダが不親切でメール送信がまだできないらしい。
 ――同じく「季刊 未来」連載のFさんよりメールで原稿とどく。テキスト処理+通読+ファイル修正して印刷。六ページのところ一八行パンク。Fさんに電話してPDFをメール送信。Fさんから電話で、あす午前中に校正をすませると連絡あり。
 ――進行中の本の編著者Aさんよりメールで初版部数などを聞いてくる。電話を入れてその返事。略歴に表記する追加事項を説明。付きものをめぐっていろいろ意見と注文があり、かなり大変。その間にデザイナーと電話でカバー、オビ、表紙などの修正点、意見交換、スケジュール調整などをしたうえで、メールにて付きものの仕様とどく。仕様の確認、表紙の指定を依頼し、印刷所にも電話で束見本に使った用紙を確認する。この間なんども電話とメールの交換。その間にもAさんからメールであれこれ修正点や意見などあり、頭がぐちゃぐちゃになりながらも、なんとか本文と付きもののPDF入稿のメドがつく。あさって入稿してくれれば十二日に色校出校、十五日に印刷、二十五日に見本という予定は前日、印刷所と確認してある。
 ――「季刊 未来」秋号のGさんの連載の初校一〇ページ、出校。確認してとくに問題なし。控えゲラをGさんに送付。Gさんの原稿は精度が高く量も計算通り、ルビ指定などもわかるようにしてくれているので、もっとも安心していられる模範的な執筆者である。もちろん内容もいつも切れ味がいい。若いときからわたしの文章上の指南役である。
 ――Kさんからきのうメールで届いた「季刊 未来」秋号の連載原稿の追加分を取り出し、テキスト処理して追加。挿入された部分以降をKさん宅にFAX。メールで七ページ分の残りの使える行数を連絡。長い長いつきあいだが、原稿はけっこう手がかかる。理系なのにテキスト処理系はあまり得意でない。もっとも理論的理系は工学的理系とちがってコンピュータに強いとは限らないというのが当人の説であるが。今回はたまたま見つけた古い詩を関連する箇所に追加挿入するということになり顰蹙覚悟のうえとか。わたしの今回の文章もそれに倣ったもので顰蹙覚悟ものであるかもしれない。
 そんなわけでほんとうは毎日のように原稿を読みテキスト処理をして準備を進めておかなければならない加藤尚武著作集全一五巻の仮ゲラ作りの仕事もここ二日はまったくストップ状態である。この十一月からスタートしたいこの著作集は各巻四〇〇~四八〇ページぐらいになりそうで隔月刊。総ページ六五〇〇ページ以上となると、相当なストックを作っておかないと追いつかれてしまう。いまのところ一〇〇〇ページに届いたかどうか。プレッシャーがかかりっぱなしの日々なのだが、/7こんな一日一日を過ごしている「僕って何」をはたから見たら「このひと、何」となるんだろう。(2017/9/7)

 *この文章は「未来」2017年秋号に連載「出版文化再生30」としても掲載の予定です。


 この五月に「[新版]日本の民話」シリーズ全七九巻が完結した。一昨年四月から巻数順に毎月三冊ずつの刊行ペースを維持してきたわけで、わたしも実質二年半にわたって二万ページ超のゲラを読みつづけてきたことになる。民話という内容の性格上それほど専門的知識を必要とせず、読みやすさもあってなんとかクリアしたが、それでも日々一定のページ数をこなすというノルマは日常的にプレッシャーとなっていたことは事実である。それに見合う発見もいろいろあって楽しかったから、それなりに民話通になったこともたしかだろう。
 編集者とは因果なもので、なにかつねに仕事に追われていないと気がすまないものらしい。昨年、民話の刊行もメドがついてきたころ、別件で哲学者の加藤尚武さんの家へお邪魔したときに、以前からお願いできないものかと考えていた著作集刊行の話を持ち出したところ、加藤さんからも色よい返事がもらえた。わたしは加藤さんの歯切れのいい明快な文章が好きで、ヘーゲルなどもあまりよく読んでいないのにわかったような気にさせてもらえるところがあって、これを機会にあらためて勉強させてもらおうという編集者特権を活かした企画でもあった。
 小社ではすでに加藤さんの第一論文集『ヘーゲル哲学の形成と原理――理念的なものと経験的なものの交差』(一九八〇年、山崎賞受賞)、『哲学の使命――ヘーゲル哲学の精神と世界』(一九九二年、和辻哲郎文化賞受賞)、『哲学原理の転換――白紙論から自然的アプリオリ論へ』(二〇一二年)といったヘーゲル関係書のほか、生命倫理学関連の日本におけるパイオニア的告知書『バイオエシックスとは何か』(一九八六年)、『二十一世紀のエチカ』(一九九三年)などを刊行させてもらってきている。このうち『哲学の使命』『哲学原理の転換』はわたしが企画・編集したものである。
 偶然だが、加藤さんはしばらく文京区小石川の小社のすぐ裏のマンションに住んでいらしたこともあって、よくコピーを取りに来社されたり、道でばったりお会いすることもあった。山形大学、東北大学、千葉大学、京都大学から鳥取環境大学初代学長などの経歴のほか、日本ヘーゲル学会会長、元日本哲学会会長といった要職をかねて指導的立場をこなされてこられたうえにいまも現役バリバリの著作活動をつづけておられるにもかかわらず、まったく気さくで驕らない人となりは、わたしのようなヘーゲル門外漢でも近づきやすいところがあって、けっこう言いたい放題や無理を言わせてもらいつつ、あいまをぬってなんとか著作集のプランを練り、データや本を受け取りながらようやく著作集の全容が固まりつつある。
 加藤さんの膨大な著作、論文の整理がなかなか進まないのは、コンピュータの発展によって原稿が手書きからパソコン入力に変わっていったことが理由のひとつにあげられる。パソコン以前の本とそれ以後の本ではデータの有無と再現可能性が問題になる。出版の技術革新もめざましく、活版印刷からオフセット印刷に変わるなかで著者の元データが本のデータとしてかなりの程度まで再現可能になったことによって、著者がもっている初期データを利用することができるようになったというわけである。当然ながら、この初期データが本として完成する段階までで校正その他によって改変されているので、あくまでも慎重な処理が必要だが、いずれにせよ、著作集に収録ということになればあらためて原稿の再チェックが必要になるわけだから、この時点で内容を再構成するつもりで進めるしかない。単行本や雑誌の出版社の都合で最初の原稿が大幅に削減されたことなどもあるとのことなので、今回これを復元することもありうるし、出版当時の書誌情報が古くなっている場合は最新情報を取り込む作業も必要になる。全面的に書き換えることは不可能だが、最大限の編集努力をするのは読者にたいする義務であろう。
 そういうなかで、いまはとにかく収録の確定している原稿を著作集仕様予定のページで通読を進めながらストック作りをしているところである。今回も一日のノルマを一〇ページと想定してファイル処理や編集タグ付けもかねて通読をこつこつと続けている。こういうときにはわたしが作った編集用マクロ(一括検索・置換処理プログラム)が物を言うのであって、テキストのファイル一括処理ができないと効率も精度も圧倒的に悪くなる。というより、この専門度の高い内容で、想定しているA5版四〇〇ページ超、全一五巻を隔月刊、つまり二年半で六〇〇〇ページ超の著作集を完結できることなどひとりの編集者の仕事としてはありえない。久しぶりにこのマクロ処理をしながらまだまだバグのあるプログラムを修正して精度を上げる追加処理も加えるなど、半分はわが趣味であるテクスト処理プログラムの改訂も同時におこなっている。もちろん、加藤さんの文章のクセや内容上の特性にあわせた専用の「加藤尚武マクロ」も作ってこちらの精度も上げるようにしているところ。繰り返すが、加藤尚武さんの文章は読んでいてわかりやすいし、歯切れもよく、読んでいるとこちらのアタマが良くなっていくことを感じさせてくれる感度のいいものなので、なんとか早く実現したいし、読者と喜びを共有したいというのがいま心底思っていることである。
 さいわいこの七月にはわれわれの共同復刊事業をおこなっている書物復権の会が新企画説明会を開いて取次関係者、主要書店のひとたちに集まってもらい、それぞれの社から新しい企画を直接アピールする会が予定されている。昨年から準備をしてきてまだ全容を発表できるところまできていないこの加藤尚武著作集を、企画説明会でおおいに宣伝するための整理にラストスパートをかけているところである。そしてできればことしの秋ぐらいから刊行開始といきたいと望んでいる。

「高江のヘリパッド基地工事の強行に見られるように、二〇一六年七月の参院選後の安倍改造内閣の強権が沖縄においてとみに顕著になっている状況がある。その権力意思の源流がこの裁判の法廷の中にまで流出していたと考えられる」と仲宗根勇さんは「越境広場」3号で書いている(「辺野古=高江・我が闘争――裁判抗争にあらがい、闘いの現場に立つ」)。「この裁判」とは、昨年七月二十二日に国土交通大臣が、翁長知事の辺野古埋立て承認の取消しに対する国の是正指示に応じないのは違法だとして翁長知事を相手とする「違法確認訴訟」を福岡高裁那覇支部に提訴した裁判を指す。昨年三月四日に成立した国と沖縄県との形式的な和解条項をたてに、国家権力が自分の意のままにならない怒りと焦りから沖縄県知事を訴えた訴訟であって、そもそも和解条項とは無縁な訴訟であるにもかかわらず、和解条項の手続き上の問題を利用するかたちで権力的に沖縄県知事をねじ伏せようとした見え透いた策略である。しかしすでにこの訴訟のために政府にべったりの裁判官を一か月前に那覇支部に赴任させたうえで、超短期間であたかも既定の事実であるかのごとく、「県が国の是正指示に従わないのは違法であることを確認する」という判決主文でもって、沖縄県の辺野古・高江の闘いとそれを支持する翁長知事の埋立て承認取消しを違法とする、というまことに政治的な裁判であった。この権力によって送り込まれた多見谷寿郎という裁判長は、成田空港建設をめぐる裁判のさいにも証拠調べもろくにせず、国の権力意思をそのままに判決を下すという札付きの権力代弁人にすぎない裁判官で、上ばかり見ている「ヒラメ裁判官」(仲宗根勇)の典型である。
 沖縄の圧倒的な民意を無視するこうした安倍強権政治は、アメリカの最悪の大統領にも世界じゅうの顰蹙を買いながら誰よりも先に尻尾を振りにアメリカに出向き、内向きには沖縄に対してこれまでのどんな首相もしてこれなかった権力意識丸出しの暴力的圧力をかけ、その挙げ句に「家庭内野党」などと欺瞞と嘘っぱちで固まった昭恵【あきえ】夫人が悪乗りしたあげくシッポを出した森友学園問題で、みずからの私欲のためにいかに国民を欺いているかを暴露されているしまつである。野党議員から「アッキード事件」と揶揄され、血相を変えてもし事実なら首相を辞職するとタンカを切ってみせた。日本支配を裏で企む日本会議からも迷惑だと言われている森友学園とやらは、児童に長州藩の天下乗っ取りの芝居までさせているという。この長州藩覇権主義の亡霊、これほど無知で薄汚い男を冠に乗せている国がいったいどこにあるのか。いや、金正恩とトランプがいるから、いまや唯一とは言えないが、同類かそれ以下であろう。――こんな正当なことを書くと、第一次安倍政権のさいに、こんな男は一年ももたないだろうと予測した文章を発表したら、そんなことを書くおまえこそ日本から出て行け、という匿名の恫喝のハガキ(「未来」の挟み込みハガキで)を頂戴したことがあるから、今回も期待したい。実際、わたしの予想したとおり、「心身耗弱」とかいう深刻なビョーキでみずから退陣したが、現首相にはそのビョーキがますます昂進しているのじゃないか。精神科医の大井玄氏はトランプのことを「嘘つきで、人種差別を行ない、強者の論理を弱者に押しつけるガキ大将的精神年齢の持ち主である」と適切に指摘している(「みすず」3月号)が、そのまま安倍首相にも言えるのがこわいところだ。
 さて、そんな緊迫した沖縄の政治情勢のなかで、仲宗根勇・仲里効編『沖縄思想のラディックス』という論集が緊急出版される。これは本誌でリレー連載《オキナワをめぐる思想のラディックスを問う》というかたちで都合六人の筆者(編者のほかに八重洋一郎、桃原一彦、宮平真弥、川満信一の諸氏)に、現代沖縄の政治的・歴史的・文化的諸問題を思想的に深めるかたちで論じてもらうという意図のもとで二年ほどのあいだに書かれた論考を元に集めたものだが、これにくわえて最新の政治情勢や思想問題をふくめて両編者に「総括的まえがき」(仲宗根)と「展望的あとがき」(仲里)を書き下ろしてもらった。このアイデアとネーミングはわたしが発案したものだが、それに呼応して書かれたそれぞれの文章は、深く沖縄の思想の根底(ラディックス)に届いていると思う。
 とりわけ巻頭におかれた仲宗根さんの「総括的まえがき」は、昨年十二月二十六日に発覚した翁長県知事の、前知事による辺野古埋立て承認の取消し処分のさらなる取消しという、沖縄県民の期待を大きく裏切り、その後の辺野古の新基地建設工事再開に道を開いてしまう決定的な錯誤につながる行為を、専門の法律の知識を動員して徹底的に批判している。権力の茶番である「違法確認訴訟」前後の経過から知事による辺野古埋立て承認の取消しの取消しという歴史的な策動までの本質を的確に暴き出しているという意味で本書の白眉であると言っても過言ではない。とりかえしのつかない政治的錯誤のあとの、それでも闘いを継続していかなければならない沖縄のひとたち、それを支持するひとたちとその闘いの方法論たるラディカルな思考の歩みはとどまるところを知ることはないからである。
 本書はその意味でこれからの沖縄の思想が向かうべきところを多様なかたちで示唆しているはずである。わたしがこれまでその思想のアクチュアリティの面で力を入れてきたポイエーシス叢書に本書を加えることにしたのも、心ある思想系の読者たちに沖縄の問題のリアリティとアクチュアリティをもっと知ってほしいからでもあった。
 そして本書をめぐってこの四月十五日に那覇の県立博物館講座室で両編者による(おそらく)熾烈な講演と対談がおこなわれる予定であることをお知らせしておきたい。

 *この文章は「未来」2017年春号に連載「出版文化再生28」としても掲載の予定です。