2013年アーカイブ

77 追悼・木前利秋 

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 木前利秋さんが亡くなったのは十二月四日の朝だという知らせが入ったのはその翌朝のことである。その日の夜中二時すぎに、木前さんに指導を受けたという亀山俊朗氏からメールが送られてきていたのである。
 亡くなる前々日の十二月二日の夜八時すぎだと思うが、なんとなく虫の知らせか、長らく進行の止まっていたハーバーマス論の仕上げ状況を聞いておかなくては、ということもあって自宅へ電話をしたのだが、夫人が電話を取り次いでくれた木前さんの開口一番のことばが「末期ガンで、もうなにもできません」というなんとも弱々しいことばだった。背筋がぞおっとするような、まさに霊界からの声のようなその声はなにごとかを伝えようとするかのようにつぶやかれたのだが、わたしはショックのあまりその内容をよく聞き取れなかったけれども、セキズイがどうとかというふうに聞こえたような気がする。まもなくして「妻に代わります」と言って夫人と代わってもらって事情をいろいろうかがったのだが、その辛そうな声を聞いたのが最後になってしまった。
 六日の大津での通夜に駆けつけたのはもちろんだが、棺のなかの木前さんのまったく変わり果てたその面差しには当然ながら生気のかけらもなく闘病生活の痕跡がうかがわれ、ことばを失なった。喪主である夫人がことば少なに語ったところによれば、三年半前に前立腺ガンを告知され骨にも転移していたため手術ができなかったとのことである。わたしの記録によればことしの一月十六日に家に電話を入れたときに、夫人から持病が再発したという話を聞いていただけで、不覚にもそれがどんな病気なのか聞きそびれてしまい、その後も気になりながら電話をできないままでいたことに自分に深い失望をしているところである。懸案のハーバーマス論の元になる論考のほとんどは「未来」に連載として書いてもらっていたので、毎月かならず電話とメール、FAXのやりとりがあったのに、ここへきて自分の忙しさにかまけて連絡を怠ったことがこんな大事になるとは予想できなかった。
 木前利秋さんとのつきあいはかれの東京時代にさかのぼる。その後、富山大学時代があり、大阪大学に移ってからもすでに十数年になるのではないか。その間もときどき連絡しては単行著書の刊行を促しつづけていたのだが、それがようやく実ったのがかれの唯一の単著となった『メタ構想力――ヴィーコ・マルクス・アーレント』で二〇〇八年三月のことだった。そのあとから念願のハーバーマス論を書くことを決意して始めたのが、さきほど触れた「未来」での連載であった。これは同年十月号から連載が始まっている。わずかに五年前のことである。その間、木前さんは十五本ほどの論考を断続的に書いてくれたのが、近刊予定にしていたハーバーマス論の中核になるはずであった。毎回きっちりした原稿を書いてくれて、催促も校正もかなり大変だったが、仕事に慎重な木前さんに原稿を集積していってもらうにはこれしか方法がなかった。その仕上げを直前にしてもなおかつ、最後の書き下ろしの一章のためにハーバーマス研究書の原書を何冊も積み上げてこれらを読んでからでなければ書けないということで時間を使っていたようで、そのために刊行が遅れてしまい、こんな事態を迎えてしまったのがわたしにはなんとも残念でならない。夫人にもやりたいのは仕事だと言いつづけていたとのことで、その念頭にあったのがこのハーバーマス論の仕上げであることは間違いなく、刊行されれば群を抜いたハーバーマス理解の書として注目されただろうし、ライフワークともなったであろう。その木前さんの心情を思うとなんともやりきれないのである。二日の電話のさいに夫人にはなんとか回復することができそうだったら、この仕事を仕上げるように言ってほしいと伝え、もしかしたらそのことがきっかけで奇跡的な回復がみられるかもしれないと淡い期待を抱いたのだが、むなしかった。当人には不満もあろうが、なんとか残された原稿を一冊にできないものかと考えている。
 木前利秋、享年六二歳。その図抜けた知識と能力の高さからいっても、もっともっと大きな仕事をしていいひとだった。人格的にもひとに嫌われるようなところはいっさいなく、慎重さと謙虚さのかたまりのようなひとだっただけに周りがもっと配慮してあげなければならなかった。いつも電話すると、はにかむような声が受話器の向こうから聞こえてきて、やりたいことを頼まれたときは心から喜んでくれていたのだろう。わたしより年下だったからこちらにも油断があったのかもしれないが、思えばあまり頑健なほうではなかっただろうから、この早すぎる死を惜しんでもすでに遅いのである。こんな文章を書かなければならないのも辛いことである。謹んで哀悼の意を表したい。(2013/12/7)
 最近、「未来」における本連載コラムについて直接いろいろな批判や言及がなされることがつづいた。ひとつは、十一月号に書いた「[出版文化再生7]いまもつづく〈東大闘争〉――折原浩さんの最新総括から」で折原浩さんほか共著『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』(緑風出版)を紹介したさいに、わたしの表現に誤用があったことがいくつものメールや電話などで判明した。「救いがたい退嬰的な時代の流れに棹さすような本」と書いたその「流れに棹さす」がわたしのつもりでは、流れに棹を差すのだから「流れに逆らって、流れに抗して」という意味のはずだったのだが、逆の意味になっていた。流れに乗って、という意味になるということをわたしは初めて知った。不明を恥じるしかない。なかには底意地の悪いメールでの批判もあったが、甘受しよう。ほかのひとの例をあげて慰めてくれた友人もいる。それはともかく、さっそく「流れに抗するような本」と修正して未來社ホームページとココログページで掲載しているブログ版の修正をさせてもらった。さらに「たかが日本語、されど日本語」というブログページで「情に棹さすとロクなことはない」という反省文も書いておいたので、関心のある方は読んでいただきたい(いなくてもしょうがないけど)。
 それにしてもふだんあまり反響のない[出版文化再生]コラムだが、いまさらながら東大闘争と折原浩さんの本に触れたせいか、思いがけない反応があることがわかって驚いている。たまたまなのか、それとも思った以上にこのコラムを読んでくれているひとがいるのかわからないが、当初このコラムを再開するにあたって、以前の[未来の窓]のような出版業界をどことなく意識して(つまり出版社の発行人として)書くのではなく、もっと自由に書く場所として[出版文化再生]コラムを再設定したわたしの意図が、はからずも実現したということかもしれない。
 そんなところへ、今度は新手の批判(?)が現われた。「未来」十二月号に書いた「[出版文化再生8]〈白河以北一山百文〉はいまに通ず」にたいしてある読者から編集部あてにFAXでつぎのような批判文が届いたのである。
《安倍首相批判に長州人を持ち出すのに戸惑います。人の属性で人を語る文章に「未来」で出会うとは思いませんでした。これは大げさでなくヘイトスピーチと同根です。出自で何かを語っても空しいし、人間尊重とは逆方向の文化です。/よろしくご検討ください。》
 わたしは、先ほども書いたような理由で個人としては逃げも隠れもしないが、この批判には根本的な誤解ないし読み違えがある。まずわたしは長州_¨人¨_としての属性で安倍首相批判をしているわけではまったくない。ちゃんと読んでもらえばわかると思うが、戊辰戦争以来の、あるいは明治維新以来の長州_¨藩¨_の歴史的な政権奪取~権力支配の構造と、そこに連綿とつながる「長州藩がもっていた好戦性、自己中心主義、民衆蔑視、支配欲の前時代的な妄想」(前号のわたしの表現)から演繹した安倍政権の危険性を指摘したまでであって、そのときには触れられなかったが、ここへきて民主主義無視の「特定秘密保護法案」の国会強行突破の姿勢にも端的に現われている独善=密室政治への指向性を批判しているのである。「ヘイトスピーチ」というのはこういう根拠のあるわたしの言説のようなものに向けられるべきものではない。強者あるいは権力者が弱者あるいは被抑圧者にたいして権力的な言説あるいは振舞いとして、既成の権力構造あるいは抑圧構造を強引に固定させようとして発するものが「ヘイトスピーチ」の本質である。わたしの文章のどこにそんな構造があるのか。わたしへの批判は石破茂自民党幹事長の「デモでの絶叫はテロと同じだ」という発言に通ずるものではないか。
 以前、第一次安倍政権ができたときにわたしは[未来の窓]でその世間知らずぶりを批判し政権は長続きしないだろうと予想したが、当時、まわりからは期待をもって迎えられた安倍首相だっただけに、そういう批判をしたわたしに匿名の読者から「お前のような奴は日本から出て行け!」というハガキを頂戴したことがあった。また沖縄に触れた文章にたいしてある沖縄のアメリカ帰りの学者から《社主が個人的主張を出版社(publisher)という公共性の高い媒体を通じて表明してしまうことにも危惧を覚えます》という公正を装った批判があった。もちろんそれには「沖縄問題をめぐる知的恫喝を警戒しよう」という反批判(「未来」二〇一〇年七月号、のち『出版文化再生――あらためて本の力を考える』に収録)を書いているので、そちらも参照していただきたいが、一個人としての発言を出版人であるという理由だけで封殺しようとするこうした理解のなかにこそある種の逆立ちした「ヘイトスピーチ」がはらまれているのではないか。
 だからこうした批判がくるのは想定していたことではあるが、わたしの安倍批判が「ヘイトスピーチ」だというのは、ことの本質をあえて見ようとしないことである。末尾の「よろしくご検討ください。」が誰に何を言いたいのかよくわからないが、自分のような良識人の読者のためにこの種の文章を編集部は掲載しないようにしてほしいというつもりなのだろう。とんだお門違いだというのが、この文章を書いた理由である。そしてこうした「良心的」事なかれ主義がこれからも出てくるだろうことは、このコラムで言うべきことはきちんと言おうとすることにしたわたしの立場から先刻承知していることである。なんのことはない、こうしたリアル・ポリティクスにかんする文章を書くと、こうした巧妙な抑圧をかけてくる人間がでてくるのである。   

*ここで言及したブログはそれぞれhttp://www.miraisha.co.jp/shuppan_bunka_saisei/(本ページ)、http://poiesis1990.cocolog-nifty.com/shuppan_bunka_saisei/http://poiesis1990.cocolog-nifty.com/nishitani_talk/でご覧になれます。

 きのう(11月16日)は知念ウシさんの『シランフーナー(知らないふり)の暴力──知念ウシ政治発言集』の出版記念会東京ヴァージョンとも言うべき集会があり、わたしも主催者的立場から参加した。人数はそれほど多くはないが、沖縄の若手論客として注目を集めているウシさんの会らしく、通常の出版記念会のようなたんなるお祝いの会という以上に、相互の問題意識をぶつけあい、議論をたたかわせるまれにみる有意義な会であったと思う。わたしの司会進行が拙劣であったにもかかわらず、議論が高度なレヴェルで進行したのは、出席者たちのそれぞれの立ち位置や存在被規定性を軸にした発言がのっぴきならない現実を踏まえていたからだと思う。
 出席者の多くは、沖縄出身者やそれに近いひと、沖縄のかかえる問題に持続的な関心をもってきた研究者、メディア関係者などの割合が高かったし、在日韓国人研究者もいて、沖縄がかかえる植民地的現状をどうとらえるのか、具体的には知念ウシさんが提起している沖縄基地の本土引き取り論にどう応答するのか、各人の立場からの真率なぎりぎりの発言が次々と飛び出して、それぞれに耳を傾けざるをえない緊張感のもとで会は終始したのであった。若い沖縄出身の大学院生たちの感想を聞くこともできて、それぞれが抱えている悩みや問題意識の変遷などが率直に語られたのも新鮮だったし、これからの沖縄を考えていくうえでも彼ら彼女らに期待感を抱かせるものでもあった。
 しかし、ここでこの会の概括をこれ以上するつもりはない。そんなに簡単にまとめられるような内容ではないし、わたし自身がこれからさらに考えていくべき問題の本質をいろいろ見ることができたが、まだ十分に咀嚼できたとは言えないからである。ただ、そのなかでいちばん強く感じさせられたのは、日常われわれがほぼ無意識または常套的に使っていることばがここでは文脈が輻輳化するなかで安易に使えないということが顕在化したことである。沖縄ではことばの不用意な使い方は許されない局面もないではないが、それでも沖縄人特有のホスピタリティのせいか、かなり和らげられたものであった。しかし今回は論客がそろっていたこともあって、たとえば〈連帯〉というようなことばがしばしばもつ欺瞞性やイデオロギー性、権力的植民地主義的な無意識性が強く指弾された。
 その意味では、スピーチのなかでとりわけ在日韓国人の徐京植(ソ・キョンシク)さんの発言は、東アジアでの研究集会の例を挙げて、その複雑な立ち位置を明確に示してくれた点で印象に残った。沖縄人、韓国人、ヤマトンチューがいっしょに議論する場で進行係をつとめた徐さんはウチナーグチや自国語で語ろうとする沖縄人その他にたいしてここでは「標準語としての日本語」で議論をしようと呼びかけたところさまざまな異論が出たし、そもそも在日韓国人であって日本人でないのになぜ日本語なのか、といった反問を受けたそうである。これまでも沖縄や韓国でヤマト在住者であるためにヤマト批判を受けることもあって、たしかに沖縄や韓国からすればふつうのヤマトンチュといっしょくたに見られてしまうというかなり厄介でしんどい位置を引き受けさせられることに何度も直面したことのある人間として、知念ウシさんの基地引き取り論にたいしては在日韓国人である自分としては応えにくいが、ひとりのヤマト在住者としてはそれでもなんらかの応答をしなければならないという複雑な立場を表明され、そのためには他者にたいして自分の〈位置〉からの想像力による応答が必要なのだという回答を用意している旨の発言があった。この回答はきわめて哲学的な内容をもつので、容易には説明しづらいが、関係性の同位性に想像力をめぐらせて考えるなかから新たな関係性の構築を模索する方法とでも言えばいいだろうか。
 こうした徐さんのような立場から知念ウシさんの議論をどうとらえていくのか、ということはわたしなどの想像の埒外にあったことで不明にして気づかないできたが、〈自然的日本人〉という無媒介的な自己存在を超えた想像力の獲得がこれからは必要なのだと悟らされた会でもあったのである。その意味で日本語のなかにも深いところでの〈ことばをめぐる闘争〉が厳然として存在し、そのことにこれからは無知、無自覚ではいられないことになった。〈シランフーナー(知らんふり)の暴力〉とはその意味でも言い得て妙であることばだと再認識したしだいである。(2013/11/17-18)
 ことしのプロ野球日本シリーズはエース田中将大を中心とする東北楽天イーグルスの気迫の勝利に終わった。対する巨大戦力を誇る読売巨人軍は、一部の若手の頑張り以外には全体的に不調と不振が目立ち、監督の采配ミスもあって焦りのためか力を出し切れずに敗退した。長年の巨人ファンであるわたしとしては残念ではあったが、東北の野球ファンひいては東北人の喜ぶ姿にはただ頭を垂れるしかないし、なるべくしてなったという感も深い。世の趨勢は判官びいきもあって楽天の優勝を言祝ぐのが一般的であるようだ。巨人も戦いにくかった面もあるだろうが、楽天の優勝が早すぎることもいささか浪花節になりすぎてしまっているような気もして、なんとも複雑である。創設九年で優勝というのはすこしできすぎではないかと思えるし、早すぎた春ということばもあるぐらいだ。星野監督の優勝インタビューのことばもややセンチメンタルにすぎるとも聞こえたが、なによりもわかりやすいというのがスポーツの世界なのだから、これはこれでいいのだろう。
 東日本大震災後の行政による救済措置が思うにまかせないいま、こうした民間レベルでの東北支援はささやかであっても大きな力になるだろう。たかがスポーツ、されどスポーツなのである。そして楽天の全国的には無名の選手たちのひたむきさは、力にまさる巨人の選手たちの知名度と慢心を突破して、ほんとうに欲しいものはどうしたら手に入れることができるかを日本全国に知らしめたとも言える。
 そう考えるとこの楽天対巨人という戦いの構図は、どこか戊辰戦争の会津藩を中心とする東北列藩同盟対薩長を主体とする明治新政府軍とのいくさと似ていると言えなくもない。中央政府の大軍にたいして各個撃破されながら最後まで戦い抜いた東北勢は、敗北したとはいえ、その「義に死すとも不義に生きず」(会津藩主松平_^容保【かたもり】^_のことばとされる)ということばに現われているように、節操を曲げず時代の難局に相渉ろうとした自己に厳しい精神性ゆえに日本人のメンタリティの原点のひとつたりえている。野球のたとえはやや不謹慎のそしりを招くだろうが、この敢闘精神がよく剛を制したというのが今回の楽天の優勝でもある。
 それだけではない。問題はむしろ東日本大震災にたいする現安倍政権の基本的に無策とも言える東北支援の姿勢にある。先日、福島出身で会津にもゆかりのある高橋哲哉さんに指摘されたことだが、戊辰戦争のときに政府軍の一兵士が言ったとされる「白河以北一山百文」ということばに示されている東北蔑視の姿勢、これが近代日本をリードした薩長人のメンタリティを露骨に表現している。このことばが言わんとしているのは、白河の関より北の東北地方などは山一つが百文の値打ちしかない、という見下しなのであって、これは権謀術数をつくして明治新政府を樹立し、天下を制した薩長同盟の対東北敵対政策を反映している。幕末での京都守護職時代の会津藩によって長州藩は完膚なきまでに叩きつぶされた経緯があって、戊辰戦争のさいに会津藩にたいする必要以上の攻撃によってその恨みを晴らしたというのが歴史の教えるところである。NHKの大河ドラマ「八重の桜」をわたしは断続的にしか見ていないが、こうした側面をそれなりにとらえているようだ。安倍晋三首相が二〇〇七年に会津におもむき、「長州の先輩が会津の人々にご迷惑をかけた」と謝罪したことがあったらしいが、それが選挙のための遊説のついでに軽く触れてみるような説法でしかなかったのはその後の経緯を見ても明らかである。
 わたしは明治維新後の現代へとつながる国造りに薩長、とくに長州藩(山口県)の野望が貫かれてきていることに大いなる危惧をずっと抱いてきた。きちんと調べればわかることだが、明治政府はもとより日本軍国主義的拡張路線を押し進めてきたのは長州藩出身者だったし、戦後にかぎってみてもA級戦犯の岸信介、その弟の佐藤栄作、そして岸の孫である安倍晋三まで長州藩出自の系譜が現代日本をいまだに支配しているのである。岸などは戦後、アメリカCIAの庇護によって日本を反共の砦にすべくA級戦犯を免除されて首相にまで成り上がっているのだが、現在の安倍晋三はそのDNAを継承しているとされている。佐藤栄作は首相時代に沖縄密約の中心にいたし、いずれもアメリカの手先になって日本をアメリカの意のままにさせてきた張本人たちである。岸はヒットラーほどの大物ではないまでもさしづめゲーリング級の戦犯であって、そうすると安倍首相とはそうした戦犯の孫であり、もともと長州藩がもっていた好戦性、自己中心主義、民衆蔑視、支配欲の前時代的な妄想の持ち主である。だからそうした人物が原発再稼働(じつは核武装の準備)、憲法改悪による自前の軍隊の所有(自衛ならざる侵略軍設置)といった軍国主義復活の野望をもっているとしても、こうした長州藩出自の侵略的DNAからすれば、すべて納得がいく。「ゲーリングの孫」たる安倍首相が東アジア、とくに中国、韓国にたいして敵対的なのは、これらの国がそもそも友好の対象であるのではなく深層心理における侵略の対象予定国であるからにすぎない。
 こうした出自をもつ人間が東北地方にたいしてほんとうに共感をもつことはありえまい。安倍の会津詣でが会津若松市長によって一蹴されたのは当然であり、残虐な殺戮の爪痕がそんな便乗的な手口で解消されるはずもない。そこに民衆蔑視ゆえの軽薄さと不真面目さが露呈していることは明らかだ。
 ドイツならばゲーリングの孫が政権の座に就くなどということは考えられないだろう。もっともイタリアではムッソリーニの孫娘が議員になったりはしているが。ともあれ、この亡霊のような長州藩出身者の横暴と野望にわれわれはもうそろそろ敏感にならなければならないし、日本の政治が世界に通用する知力と行動力を発揮できるようになるためには、もうこうした亡霊から解放されるべきではなかろうか。
 東大闘争が収束した時期をいつと見るかはそのひとの解釈とか立場によってさまざまでありうる。常識的に言えば、一九六九年一月十八日、十九日の機動隊導入による安田講堂の封鎖解除とするのがそのひとつの見方であり、その後の裁判闘争などを考えれば、もっとあとということになる。
 一九六八年にその渦中に入学したひとりであるわたし個人などからすると、いろいろな傷みの記憶やら屈折抜きでは語れないところもあるが、それでもいちばんペエペエの世代だったこともあってわけがわからないままに通過してしまった事態も多く、上の世代にくらべると浅い体験でしかなかったにちがいない。その後もさまざまな体験記などが刊行されてそれぞれの〈東大闘争〉が証言されたり、あるいはそれとして論述されなくとも書き手各自に内面化されたそれがおのずから浮上してくる痕跡が散見されることはいまでもしばしばある。
 とはいえ、昨今の政治の右傾化、反動化にともなって自己利益の追求のみを是とする新自由主義と経済合理主義が日本社会を覆い尽くそうとする時代の潮流のなかで、こうした抵抗の痕跡も徐々に風化しつつあるという厳然たる事実も一方に存在し、東大闘争が社会に突きつけた問題提起はいまや歴史の彼方に没し去ろうとしているかのように見える。
 ところが、こうした救いがたい退嬰的な時代の流れに抗するような本が現われた。折原浩・熊本一規・三宅弘・清水靖久共著『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』(緑風出版)がそれである。一九六八年~一九六九年をピークとする東大闘争のなかで造反教官として勇名を馳せたウェーバー学者の折原浩さんを中心に、折原さんの批判精神に強い影響を受けた若い世代の三人(といってもすでにいずれも六〇歳前後になっている)が、それぞれの視点からみずからの東大闘争へのかかわりかたとその帰結としてのその後の社会活動(原子力の情報公開法制定運動、市民運動など)をつぶさに記述したものである。
 折原浩さんを除くこれらの著者たちは、わたしと同学年の熊本一規氏を別にすると、東大闘争以後に東大に入学し、したがって東大闘争をリアルタイムで体験したことはないが、授業再開によっていちおうの収束をみた東大駒場キャンパスで頑強に授業拒否をつづけていた折原さんの対案としての公開自主講座に参加するなかから、_¨事後的に¨_東大闘争の問題提起をみずからの生きる課題として引き受け直してきたひとたちである。全共闘運動を踏まえ、権力的な学生処分、時の権力への迎合的態度、知的権力者としてのみずからの立場への保身的対応に終始する大学当局や教官たちのなかに知の廃墟を認めた折原さんをはじめとする造反教官たちが捨て身で提起した「帝大解体」と「自己否定」の論理(権力者として要請される自己を否定し、非権力的存在として自己を再確立すること)はいったん消えたように見えるが、その精神はそれぞれの運動者のなかに別のかたちで生きつづけている。それが二〇一一年三月の東日本大震災とそれにつづく原発事故によって露呈した原発関係者における新たな廃墟を見出すにつけ、この間の四〇年に及ぶ時間の再定義を著者たちに突きつけたのだと言っていい。そこに東大闘争と今回の原発事故が結びつく問題の本質があるのだ。
 折原浩さんの大学批判は、根底的に批判すべきものを批判せず矛盾や欠陥を内部に温存させる日本的共同体の悪しき体質に内部告発的に向けられたものであり、それは今日の原発行政にも伏在する同型同質の問題として提示されている。「第1章 授業拒否とその前後――東大闘争へのかかわり」のなかで折原さんは書いている。
《(大学は、)批判的理性の適用を手控えられ、「聖域」として温存されていた。「研究の自由」の主唱者が、自分自身とその足元は「自由に研究」しなかった。社会学は、安全地帯に身を置く気楽な他者批判であった。ところがいま、そうした「殻」を突き破り、研究活動とその拠点を「社会学する」対象に据え、社会学の地平を飛躍的に拡大すると同時に、そうした自己批判にもとづく自己更新機能を、大学に「ビルト・イン」していく可能性が開けてきた。》(五五ページ)
 この、身のまわりすべてを「社会学する」姿勢が、ウェーバー学者としての「マージナル・マン(境界人)」折原さんを決定的に造反教官に仕立てていくライトモチーフになっていった。そして駒場の教養学部教授会や大学当局への厳しい批判がつづいていくのだが、そこでの細かい事実関係は折原さんの文章に譲る。いずれにしてもわたしのような中途半端な学生の情報把握ではとうてい及びのつかない葛藤や事態の進展がこの時代にあったことをいまさらながらに知ることができて、折原さんの活動の一貫性と粘着性には驚かざるをえない。ずっと後年になって親しくつきあわせていただくことになる折原さんの柔らかい物腰と語り口のなかにもおのずから透けて見える情念の激しさと一徹さは、すでにこの時代から抜き差しならないほど強く折原さんの思想と行動にビルトインされていたのである。ここから今日の原発関係者における知的頽廃への批判的論点は遠く見晴るかされていたのではないだろうか。折原さんはヴェーバーの合理化論に関連させてこう書いている。
《「合理化」は「専門化」の進展をともなわざるをえないが、そうなると、「非専門家」の大衆は、自然科学の専門技術的応用の所産は日用材として享受しながらも、応用の基礎をなす合理的原理からは、ますます疎隔され、自分では技術を制御できず、「専門家」に頼らざるをえなくなる。とすると、大学で養成される「専門家」ないし「テクノクラート」が、「『専門バカ』であると同時に『バカ専門』でもある」となったら、どうやって技術を制御するのか。》(七一ページ、折原さん特有の傍点多用はここでは省略させてもらった)
 言うまでもなく、ここでの「専門バカ」とは原発利権にむらがる「原子力村」の住人たちを指している。   

 知念ウシさんの『シランフーナー(知らんふり)の暴力――知念ウシ政治発言集』がようやく刊行される運びになった。そもそもこの本は昨年の沖縄「本土復帰」四〇周年にあわせて刊行されるはずであったが、当初の構想からいろいろ変更や軌道修正があり、ウシさんも「あとがき」で明らかにしているように、初めてのエッセイ集で執筆時期が二十年にわたるため、それぞれの執筆事情や状況への補注作業等が必要になるということもあって、なかなかゲラを確定できない事態に立ちいたっていた。その間に垂直離着陸輸送機オスプレイの沖縄への配備や墜落事故など、沖縄をめぐる状況も予断を許さない局面がつづいているし、ウシさんの活動も、「未来」でのリレー連載《沖縄からの報告》でも見られるように、休むことなく精力的につづけられてきた。一方で東アジアでの軍事的拡張をめざす安倍晋三政権には沖縄への基地押しつけ政策を変更しようとする姿勢はさらさらなく、むしろ沖縄との関係は悪化の一途をたどっていると言わざるをえない。こういうときだからこそ、沖縄の声を「本土」(ヤマトゥ)に届かせる必然がますますあるのだ。なかでも知念ウシという存在はいまの沖縄の若いひとたちを代弁する強力な声のひとつであり、その政治的発言を集成した本書の刊行が待たれていた理由はそこにあるのである。
 知念ウシさんにはすでに「未来」でのリレー連載をまとめた與儀秀武・後田多敦・桃原一彦さんとの共著『闘争する境界――復帰後世代の沖縄からの報告』二〇一二年、未來社刊)ほかに、『ウシがゆく――植民地主義を探検し、私をさがす旅』二〇一〇年、沖縄タイムス社刊)いう単行著書がある。「沖縄タイムス」紙に五年間連載した人気コラムをまとめたもので、刊行時にはわたしも那覇での出版記念会に参加したし、この本と出版記念会については「未来」での連載[未来の窓]でも書いたことがある。「知念ウシさんの仕事――無知という暴力への批判」「未来」二〇一〇年十二月号、のち『出版文化再生――あらためて本の力を考える』に収録)それだ。今回の『シランフーナー(知らんふり)の暴力』の原稿はそのとき以前から企画中であることがこの文面からもわかる。その文章の最後にわたしはこんなことを書いている。
「手元に預からせてもらっている企画用原稿は、学生時代からの若書きもふくまれているが、そこには沖縄のひとと風土を愛しつつ、基地のない沖縄をどうしたら実現できるのかを粘り強く探求し、これまでの沖縄人が達することができなかったラディカルな論点と大胆かつ戦闘的な主張に充ちている。ヤマトの人間のほんとうの沖縄にたいする無知、すなわち沖縄に全国の七五パーセントの米軍基地を集めさせていることによって享受している平和ボケからくる沖縄への無関心こそが、沖縄人にたいする暴力であり攻撃でさえある、ということを暴き出していく。この論点と立場をわたしは断固支持していくつもりである。」(『出版文化再生』四〇八頁) ここにもあるように、今回の『シランフーナー(知らんふり)の暴力』は最初、わたしの提案でウシさんの文章にあることばをとって『無知という暴力』になる予定だった。そのことはウシさんの「あとがき」にも書いてある。沖縄への基地の押しつけや歴史・文化にたいするヤマトンチュ(日本「本土」人)の根本的な無知が結果として沖縄への暴力につながっているという視点をふくませようとしたものだが、それよりむしろ、ヤマトンチュはじつは無知なのではなく、知っているのに知らないふりをしているのであって、もっとタチが悪いのだということをウシさんはこの書名にこめようというのである。わざわざウチナーグチ(沖縄語)で「シランフーナー=知らんふり」ということばを使っているのはそういう意図を明確にするためである。わたしも次第にこのウチナーグチのニュアンスがわかるようになってきた(と思っているだけかもしれないが)。
 ひととひとの出会いは不思議なところがある。以前にも書いたことがあるが、知念ウシさんと初めて会ったのは、二〇一〇年一月二十三日である。なぜその日を特定できるかと言うと、その日はわたしが編集した仲里効写真家論集『フォトネシア――眼の回帰線・沖縄』の出版記念会が那覇でおこなわれた日であり、わたしはその日の二次会に飛び入り参加した、当時は沖縄地方区選出の民主党参議院議員だった喜納昌吉さんと意気投合してその後の語り下ろし本『沖縄の自己決定権』を刊行するきっかけになった日であり、またわたしの前に座っていたウシさんとそうした雰囲気のなかで最初の話をした日でもある。もっともそのときはウシさんも二次会からの参加で、喜納さんが紹介してくれただけでウシさんがそこで話していた内容が興味深かったので、それをPR誌「未来」で書いてもらえないかということを依頼してその日は終わったのだった。そのときの印象はどこかそっけなくよくいる「ツッパリ姉さん」という感じだったし、東京に戻ってからかけた電話でも最初はギクシャクしたものだった。東京の出版社というのを警戒していたのであろうか。それがどういうわけか、(きっと誰かの口入れではないかと想像しているが)急に話が通じるようになって、前記リレー連載《沖縄からの報告》の第一回目が書かれたのだったし、『闘争する境界』の刊行にも、さらにその後のいまもつづくリレー連載にも結びついたのである。
 こうしたつきあいは沖縄に行くたびにいまもさまざまな場所(とくに出版記念会)でつづいているが、今回は、ウシさんが「あとがき」に(悪いジョークだと思うが)書いてくれたように、「閻魔大王」(なぜかわたしが「ときには閻魔大王のように怒り、うろうろする私を厳しく叱咤した」)として十月の沖縄での出版記念会に出席するつもりである。また十一月には東京でも出版記念会をすることになっているので、いろいろなひとに呼びかけて楽しくまた有意義な機会をもちたいと考えているところである。
 この四月八日に創立一〇〇周年を迎えた精興社(*)から記念出版である『活字の世紀 白井赫太郎と精興社の百年』(精興社ブックサービス)をいただいた。社員座談会や年譜までふくめると四〇〇ページちかい大著である。著者の田澤拓也はノンフィクション作家で書き下ろし。小学館の雑誌編集の経験もあるという著者による綿密な取材にもとづく精興社百年の歴史と印刷業界をふくむ出版界や社会事情があたかもノンフィクションドラマのように書き込まれていて、一印刷業者の記念出版物とは思えないほどの重量感のある本に仕上がっている。精興社の百年がちょうど〈活字の世紀〉でもあったことが、書名にもうかがえる。
 この本をわざわざ届けに来てくれた旧知の担当者にもそのときに言ったことだが、これだけの本を――しかも外部のライターに依頼してまでできた本を――非売品扱いにしているのはもったいないのではないか、と思ったが、通読してみてその感をますます強くした。これは精興社の記録だけではなく、日本の印刷業全体の歴史でもあるし、ひろくは出版史、文化史の一角を占めるものとしても貴重な記録となっている。いかにも精興社らしく謙虚な姿勢であることは理解できるが、関係者以外の読者や研究者にとっても垂涎の書であることは間違いない。ISBNコードもついていることだし、そうしたひとたちのためにも市販されるようにすべきではないだろうか。
 この本は創業者の白井赫太郎とその経営者一族を中心とする物語であると言ってよく、とくに赫太郎とその妻イチの仕事ぶり、性格、生きかたや考えかたについて多くのページが割かれている。年譜によれば、一九一三年(大正二年)に東京市神田区美土代町で「東京活版所」として創業されたとき、赫太郎はまだ三四歳になる直前だった。一九二三年(大正十二年)の関東大震災によって工場が焼失し、いちはやく再建されたその十月には「精興社」と社名を変更している。精興社としては九〇年になるわけだ。
 戦争中のさまざまな苦労を経て、戦後、岩波書店や筑摩書房など有力出版社との大型企画や継続企画を中心に精興社は順調に成長をつづけていく。いまとはちがって、金庫に三か月分の原稿が詰まっている状態で、関係の深い出版社や条件のいいところから順次まわされていったらしい。
 こうした精興社の成長ぶりは当時の出版界の好況も反映していたことは間違いないが、創業者以下の誠実さと堅実な仕事ぶりからくる評価、安心感によるものが大きかったのではないかと思う。その精神はいまでも受け継がれており、わたしが知っている範囲でも、どちらかと言えば堅すぎるところもあるぐらいに紳士的なひとたちばかりである。創業者の厳しい姿勢と豊かな人間性に培われた社風はいまどき貴重である。この創業者夫婦について田澤はこんなふうに書いている。
「赫太郎とイチの言行【げんこう】は、今日の人々の目からすれば、いささか思いこみの激しい異色で独特なものと映るかもしれない。けれども自分が身を粉にして働いた果実であるとしても、まずは他人の役に立つようにと思いめぐらして行動することが、結局、自分や社会の人々のためになるはずだという考え方は、この二人の終生揺るがぬ生活信条だったのではなかったろうか。」(二二一頁)
 ところで精興社といえば、なによりも独特な美しさをもつ「精興社書体」で知られている。赫太郎が種字彫刻師として知られていた君塚樹石に頼んでこの書体の製作を依頼した顛末も本書にくわしく書かれているが、赫太郎の「読みやすく、細めで、しかも力強い」(六六頁)書体をという依頼を受けて実現されたこの「精興社書体」が出版社はもとより読者や著者に強い支持を受けたことが今日までの精興社のステータスのアルファでありオメガである。司馬遼太郎ならずとも自著がこの書体で印刷されていることの誇りと悦びには神話的なものがあり、わたしにも経験がある。いまでも親しくさせてもらっている著者との最初の本を精興社で印刷したところ、他社からの出版物ではそうしてもらえなかったのに、わたしが精興社に原稿をまわしてくれたことを感謝してくれて、こちらのほうが驚いたことがある。精興社は価格が高いのにわざわざ自分の本を精興社でやってくれたのは、特別なことだと思われたらしい。たしかに精興社にまわす原稿は組版がむずかしいとか、大事な原稿であるとかという理由のものが一般的にも多かった時代はある。ただ実際のところ特別にむずかしいものでなければ精興社の組版代がとくに高いわけでもないし、わたしのほうでも取引先のひとつとしてわりあい平均的に入稿していたころでもあったので、意識的にそうした面はあったものの特別な配慮をしたというのはやや買いかぶりだが、ずっとそういうことにしている。
 わたしの出版人生もいつのまにか三十数年になり、精興社とのおつきあいも同じ年数を閲してきたことになるが、本書ではその時期の記述は相対的に少ないので、わたしなどが思いあたる部分はそう多くない。精興社といえば、山田家とか青木家の系譜がなんとなくうかがわれていたのだが、創業者の出身地の青梅の人脈が緊密にからまりあって今日にいたっていることが本書で初めてわかったぐらいである。本社がいまでも青梅だというのはそういう事情があったのである。わたしも仕事がらみでいちど青梅工場にうかがったことがある。あののんびりした雰囲気が精興社の原点なのかということが本書を読んでいて納得できた。精興社がこれからもいまの苦難を乗り切って発展をつづけることを切に望む次第である。
(*)この本で初めて気づかされたのだが、精興社の「興」の字は正式には上部の「同」のところが左の棒と中の一と口の左側がつながっている。画数の問題で易者に一画少ないほうがいいと言われたことからこういう字になったとのことである。ここではすべて「興」の字になっていることをお断りしておきたい。   
 まもなく参議院選挙の日がやってくる。
 こういう場所で政治的なことを書くと、いろいろ批判があることはこれまでも何度か経験がある。匿名の脅迫ハガキをもらったり、隠微なかたちで小誌攻撃をされたこともある。しかしながら、昨年来の民主党政権の内部崩壊、それに乗じた自民党の権力奪取、世界の動向に反する原発再稼働と大企業優先のアベノミクス、さらには軍国主義に道を開く憲法改正(=改悪)に突き進もうとする日本社会の前途を考えると、このまま自民党安倍政権による暴走を許していいのか、ここで冷静に踏みとどまって考えるべきではないかと切に思うのである。
 いまの日本の政治状況を考えると、対抗勢力がないままに自公政権によるほとんど独裁的とでも言うしかない方向に政治と経済が暴走を始めていることに気づかざるをえない。自民党の支持率が過半数に遠く及ばない現状にもかかわらず小選挙区制をテコにした小差当選の積み上げによる議会の多数派形成、さらには平和憲法を廃し、軍隊をつくるための憲法改正(改悪)のじゃまになる、議会での三分の二以上の賛成が必要という日本国憲法第九六条自体をまず修正し、半分の賛成で憲法改正ができるようにしようという策謀である。なんのことはない、安倍首相は、過半数に遠く及ばない支持率にもかかわらず、議会多数派形成~九六条撤廃~平和憲法の破壊(軍隊の創設)という三段飛びで(A級戦犯でもあった祖父岸信介元首相以来の)一族の宿願ともいうべき軍国主義の復興を狙っているのである。
 もうひとつ許しがたいのは、福島第一原発の大事故を起こし、その原因究明も被災者救助も不十分なままに原発再稼働を進めようとしているうえに、世界に原発を売り歩く死の商人を首相みずから引き受けている恥知らずぶりである。もともと原発推進をしてきた自民党政権が民主党時代の菅直人首相以下の不手際をいいことに、みずからの原発創設責任をほおかむりしたまま原発再稼働の実現を企んでいるのである。これが世界じゅうの不安をかきたてて、アメリカ政府でさえも最近の安倍政権の強硬姿勢には疑問と警戒心をもちはじめていると言われるのも当然であり、中国や韓国との外交関係も急速に悪化してきている。
 こうした安倍政権の増長ぶりは、はっきり言えば、自民党に投票する日本国民の一定の支持層を基盤にしているにすぎない。こうした支持者はもともと自民党の利権政治から利益を吸い上げている一部の者は別にして、その多くは民主党への幻滅、投票すべき対抗勢力の不在という状況への漠然たる転換ムードに乗った無批判層であると言わざるをえない。しかしこのままいけば、そうした無思慮の結果が、ワイマール時代のドイツがナチの台頭を許したように、国民全体の「不作為の責任」(物事を深く考えずなにも行動しないこと=丸山眞男)が日本社会をなし崩しに独善社会に貶めていくことは目に見えている。
 こうした事態を打開するには、まもなく小社から刊行される永井潤子さんの『放送記者、ドイツに生きる』でのさまざまなドイツ事情の報告がおおいに参考になる。そこには第二次世界大戦で日本と同様、世界戦争を挑発して敗戦し、厳しい自己批判をへて戦後復興をはたしてきたドイツ人の生き方、政治姿勢など、日本人の無批判的な曖昧な姿勢とはあまりにも異なるドイツ事情がさまざまに描き出されている。
 その端的な事情のひとつが、保守派メルケル首相が福島第一原発事故以来、それまでの原発推進政策をすぐさま撤回して脱原発路線に切り替えたその決断の早さである。国内の脱原発の強力な流れを察知したすばやい政治的修正という見方もあるようだが、自身が出身地の東ドイツ時代に物理学者でもあったという個人的経歴と基礎的な知識がそうした決断を促したと考えてもよい。ヨーロッパのなかで原発推進派のフランスや天然ガス供給源のロシアなどとの葛藤や厳しいエネルギー事情のなかでこうした高度な政治決断をできる政治指導者がいる国はやはりうらやましい。日本の歴代首相にそれだけの器と知識と判断力をもったひとがひとりでもいただろうか。
 ドイツは一九八六年のチェルノブイリ原発事故の発生にともない国内も重大な被害にあった経験を踏まえており、福島第一原発の大事故を受けてドイツのメディアは独自の調査によって世界のどこよりもはやく、しかも事態の重大さを報道した経緯がある。日本では、政府や東京電力その他のずさんな報道を真に受けて被害の重大さを認識せず、ドイツの報道を過剰報道とみるひとが多かったが、結果をみれば、ドイツ・メディアの報道は正確だった。日本の原発問題をひとごとではなく、先進国家が共通にかかえる世界への責任としてとらえるドイツ人の心性が、この永井さんの本をつうじてつぶさに、しかもリアルタイムでとらえられている。ドイツからだからこそ、外部からだからこそよく日本の実情が見えるのである。実際に再生可能エネルギーの開発にむけてユーモラスな「おむつ発電所」などもふくめていろいろ具体的な試みの事例が報告されている。
 ことは原発の問題だけにとどまらない。日本の政治の姿勢がドイツなどからみるとすべて疑問だらけなのだ。
 最後に永井さんが紹介しているドイツの新聞報道の例をあげておこう。昨年の衆議院選挙の自民党圧勝を受けた見出し――「フクシマを軽視」「日本は原子力を選んだ」。また「少なからぬ地震の危険にされされている国で、原発を再稼働させるだけでなく、新しい原発の建設も視野に入れていくという方針は本当に賢いやり方だろうか? 日本のようなグローバルな大国は、原発を徐々に減らしながら、ほかの再生可能エネルギーを増やしていく方が、未来志向で賢明ではないだろうか」と一見穏やかだが、あきらかに皮肉の論調で述べられた記事もある。こうした外部からの指摘を受けなければならないほど、日本人の自助能力は足らないのだろうか。この参院選にひとつの結論が出るだろう。

(この文章は「未来」2013年8月号に連載「出版文化再生4」として掲載されます)

69 古典を読む悦び

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 小社のシリーズもののひとつに「転換期を読む」というのがある。これはいわゆるコレクションもので、洋の東西を問わず長く読みつがれるべき著作を編集・発行し、あるいは手に入りにくくなっている古典的な作品を発掘・再刊し、これに適切な解説を加えてひろく読者に供しようとするものである。まあ、言ってみれば未來社版の古典文庫なのだが、四六判ソフトカバーで比較的ハンディな厚さのシリーズである。装幀は伊勢功治さんで、瀟洒な造本に仕上げられている。
 このシリーズは、一九九八年にモーリス・ブランショの小説『望みのときに』(谷口博史訳)を皮切りに批評・文学・哲学・歴史学などさまざまな分野にわたっての刊行をめざしてスタートした。二十一世紀を直前にしていたこともあって「転換期を読む」という名前が付された。当初わたしはもっとシンプルに「未来文庫」にしようかと思っていたが、当時の編集スタッフ(いまはもう誰も在籍していないが)の多数意見を容れてこのようなシリーズ名になったのである。当時、わたしは「ポイエーシス叢書」という現代思想を中心とするアクチュアリティのあるシリーズにとくに力を入れていたので、この古典シリーズはほかの編集者にまかせておいたところ、なんとなく中だるみになってしまった感があり、いろいろ考えていると、このシリーズを活性化させるにふさわしい著作はいくらでもあることに気づくことになった。本を編集するということは、なにもムキになって新しい著作を生み出すばかりではないのだ。著者を駆り立ててともに未知の世界を開こうとすることは編集者の特権であり悦びでもあるのだが、そればかりではない。むしろ過去をふりかえってこれまで人類が達成してきた膨大な、さまざまな知見をあらためて新しい眼で再編集していく、という地味な作業が出版を通じてなされていくことが必要なのではないか、と思うようになったのである。
 そんなふうに思うようになったのは、わたしが編集者としての峠を越えたことにも原因のひとつがあるのかもしれない。新しい知を追うにはややトシをとりすぎたこともあろうが、それよりもこれまでの人生のなかで先を急ぐあまりに取り残してきたものの多さに、あるとき愕然としたということがある。これまでの知的財産を十分に知らぬままに新しい知見をもとめても地に足がついていかないことになるのではあるまいか、ということにあらためて気づいたと言えようか。
 これは編集者であるまえにまずひとりの人間として基本的な勉強をし直すべきである、とわたしはあるとき決心した。わたしの場合、日常の仕事としてゲラや原稿を読む以外に、諸関係から送られてくる本や雑誌はひととおりではない。これまでかかわりをもった著者や友人や未知のひとまで会社や自宅に送ってくれる出版物はありがたいことに年間一〇〇〇冊は下らない。義理を欠きながらもこれらのうちのかなりのものは読んでいるのだが、どうしても本来読まなければならないものがどんどん先送りされてしまうことになる。こうして長いあいだやってきたのだが、自分の残りの時間が減ってきて、このままいくと死ぬまでに読むこともできないもの、とくに古典がそっくり来世に持ち越されてしまうことにいささか危機感を抱いたわけである。ひとがひととして知っておきたいこと、知らないともったいないこと、知るべきであることは、この世に膨大にあり、なかでも古典は人類史のなかで選りすぐられて生き残ってきた知見ばかりなので、これを知らぬままでは死んでも死にきれない。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、そうした心境になってしまったのだからしかたがない。教養主義的と冷やかされようがかまわないと思うことにしたのである。
 そういうわけで、この数年前から自分に課した読書の方針は、純粋な仕事以外にいくつかの種類の古典を毎日最低一〇ページ以上ノルマとして読むということである。こうするとたとえば三〇〇ページの本をひと月に数冊は読めることになる。ジャンルとしてはわたしの場合は哲学系、文学作品(詩、小説)がメインとなる。若いときとちがって乱読するのではなく、ある種の系統(著者とか影響関係とか)を立てて読んでいくのである。もちろん意外な脱線が生じて予定とちがう本を読むことになっても、今度はその流れに乗ってさらに読んでいくことにする。そうすると、ある著者のものでいくつか気になっていた本を読んでいくなかで、思いがけない著者のものを読むことになり、こうしたことをつづけていくと、どこかでそうした線がまわりまわって結びついてくることになる。たとえば、デカルト、スピノザ、ライプニッツと読んできてルソーにつながると、一方では友人の訳したモンテーニュを読んでいてルソーの見解がよくわかるようになる、といった具合である。
 こうした読書の結果は、じつに多くの有意義な、現代にも通ずる先人の目の覚めるような知恵の発見であり、深い感動である。古典を読む悦びがどのページを開いてもあふれている。ときには期待外れのものもあるが、無理してつきあうこともない。ほんとうに必然性があれば、どこかで再会することもある。
 とにかく、こうした読書の習慣からさまざまな発見や情報が得られて、場合によっては出版への可能性が開けてきたり、アイディアがわいてくることにもなる。こうしたなかから生まれたものに、たとえば上村忠男編訳によるクローチェ『ヴィーコの哲学』や水田洋編訳『ホッブズの弁明/異端』、さらにはストラヴィンスキーの二冊の翻訳、直近のものとしては萩原朔太郎の最後の自選アンソロジー『宿命』を粟津則雄さんの解説で刊行する予定であるし、その粟津さんがこの数十年のあいだに著名な詩人や批評家、学者と交わした歴史的な対談をまとめた初めての対談集『ことばへの凝視』もまもなく刊行される。こうして古典を読む悦びが編集する悦びへ、出版の可能性の拡大へつながるならば、出版人としてこれにまさる贅沢はないと思うようになったのである。

(この文章は「未来」2013年7月号に連載「出版文化再生3」として掲載)

 以前から気になっていたことだが、アマゾンでの本の売れ方を見ていると、「マーケットプレイス」経由のものがどんどん多くなってきている。これは「Amazonアソシエイト」という画面で自社の売上げレポートを見ているとわかることだが、要するに読者が自社のホームページからアマゾンに移って本などを購入するとその金額にたいしてアフィリエイトというかたちで紹介料が入る仕組みであって、そのさいに何をどこからいくらで買ったかもわかるという仕組みなのである。この場合、自社の本以外でも、他社の本、場合によっては本以外のグッズでも対象となるので、高額商品の場合などありがたいこともある。
 ともあれ、自社の本であれ他社の本であれ、購入先が「Amazon.co.jp」となっていれば定価販売なのであるが、「マーケットプレイス」となっているといわゆる中古販売で、アマゾンを舞台として出品者が通常は低価格で販売していることになる。この割合がどうやらいまは半分どころか7~8割になってきているのではないか。これはジャンルや価格によるのかもしれないが、その割合はどんどん上がってきているように思えてならない。これはていのよい割引販売でアマゾンは場所を提供しているだけだというだろうが、実際には中古販売に手を貸しているのと同じことで再販制にたいして問題があるのではないかとも思う。出版人はこのことになぜかあまり言及していないようだ。物言えば唇寒し秋の空、ということか。出品者は一種のショバ代を払うだけで済み、この方法で荒稼ぎをしているひともいるらしい。出版社としてはどうにも困ったことであるが、これもブックオフと同様、出版物のリサイクルの一種なのであろう。
 このことはすでに成毛眞が「ネット書評家のお勧め本をインターネットから時価で買うという時代になりつつある」(「変わる『本と私の時間』」「図書」2010年12月号)と書いているとおりである。成毛はこういうネット書評家を「本のキュレーター」と呼んでいるが、影響力のほどはともかく、こういうキュレーターもどきが本について書いているページがネット上にはいくらでもある。わたしの本もいろいろ言及されているのをときに読むことはあるが、はたしてこんなものがひとの購買意欲をそそるものだろうか、と思われるシロモノがほとんどだ。それはともかく、アマゾンの表面上の売上げのほかに、それの倍以上のマーケットプレイス市場があるとすると、これはいよいよ出版界の正常ルート(出版社→取次→書店→読者)の弱体化もむべなるかな、ということである。そういう矢先に、小取次の明文図書が7月末の自主廃業を決めたのももはや偶然でもなんでもないのである。
 小社も所属している「書物復権の会」も一九九七年に発足して以来、ことしで十七年目になる。いよいよこの六月から例年のように各書店でのフェアが開催されるが、ことしは春秋社が特別参加するかたちになって9社になり、従来の復刊活動においてもオプションフェアという新機軸をくわえてますます多彩になってきた。わたしとしても小誌での[未来の窓]連載を終わらせたこともあって、しばらくこの会の活動について触れる機会がなかったので、ここで会のかかえる近年の問題点と新しい展開についてすこし整理しておきたい。
 ことしの復刊書目は9社あわせて四〇点。これまでは各社五点を原則にしてきたが、ことしからは最低三点以上ということにした結果、特別参加の春秋社をふくめて三点の社が三社あった(みすず書房はセット本をふくめて六点、小社は従来通り五点)。復刊事業も適切なアイテムを揃えることが徐々にむずかしくなってきており、その一方でフェアを展開してくれる書店も諸事情ですこしずつ撤退を余儀なくされてきたせいか、初回出荷部数が漸減してきているのがここずっと続いてきている。そのためか復刊事業そのものがやや頭打ちになってきているのが現状なのである。
 とはいえ、復刊候補からもれたアイテムにかんしては、読者の注文さえあれば「オンデマンド」版による復刊が可能になった。この新しい復刊の試みはすでに書物復権運動と連動したかたちで三年ほどまえから始められ、すこしずつ成果を挙げるようになってきた。海外版権のあるものや特殊な著作権事情のあるものは実現していないが、こうした試みによって陽の目を見なくなりつつあった名著がなんとか復権できるようになったことはせめてもの幸いとしなければならないだろう。あわせて紀伊國屋NetLibraryへの出品をおこなうようにしたものもあり、ささやかながらも読者の要望に対応できるようになっている。
 さらに通常の復権フェアとあわせて既刊本を売るためのオプションフェアを準備したところ、予想を超える申込みがあった。特別なものではないが、ことしの復刊書の関連書、これまでの復刊書のベストアイテム、定番書、新刊・話題書、といった四つの切り口に各社それぞれ上位三点のアイテムをリストアップし、書店の希望にあわせて各社三点ずつ、上位二点ずつ、最上位の一点ずつ、という大中小三種類のフェアを選択して書物復権フェアと同時開催するというものである。当初、これまでより拡大ヴァージョンのフェアになるので、書店が受け容れられるか懸念されたが、意外なことに前向きに取り組んでくれようとする書店がかなりあることがわかった。心強いことである。
 それとは別にさまざまな切り口にもとづくテーマフェアのリストを一ダースほど用意して書店からの今後の要望に応えられるようにした。これはすでにこの三月から神保町の岩波ブックセンター信山社で始まっている書物復権の会連続フェア「大事に売っていきたい本」のために準備した六回分をふくむもので、各社三点三冊~五冊、合計二七点のミニフェアである。平台一台程度で展開できる小規模のものであり、信山社フェアを最初のステップとしてそれぞれの書店からのリクエストを期待している。ちなみに信山社でのフェアタイトルは三月「古典再読」、四月「現代史はここから始まる」、五月「思想と芸術の十字路」、六月「境界」、七月「書き手との新たな出会い」、八月「ベスト・オブ・人文書」となっている。なお、この連続フェアは柴田信会長からの依頼で、岩波書店一〇〇周年記念フェアと合同で開催されるもので、月に一度は関連イベントをすぐ上のフロアにある岩波セミナールームでおこなうという、地の利をいかしたなかなか贅沢なものである。関心をもたれた方はぜひ足を運んでみてほしい。
 もうひとつの大きな試みは、紀伊國屋書店福岡本店で五月におこなわれるブックハンティングをかねた「『本の力』~For Next Generation~次世代読者に向けて」ブックフェアである。各社五〇〇点プラス平積み一〇点という大がかりなブックフェアであるが、今回の特徴はそれにあわせて近隣の四大学が参加するブックハンティングである。各大学から派遣された担当者がスキャナーを手に欲しい本を現物を見ながら登録していくという方法で、あとで帯同した紀伊國屋書店外商部で各図書館の在庫照合をしたうえで発注されるという仕組みである。これはすでに昨年の東京国際ブックフェアで初めて導入した試みを福岡の地で実施しようとするもので、はたしてどういう結果を生むことになるのか、まったく予想がつかない。手間とコストに見合うのかどうか、はなはだ興味深いものがある。
 いずれにせよ、こうした新しい試みは書物復権の会のなかでも若い世代が企画し実現しようとしてきたものが多く、会のメンバーのなかで若手が成長してきている側面を反映している。古株としては事務局長として会運営を支えてきたみすず書房の持谷寿夫社長とわたしだけになってきており、こうした若い世代による会活動の新展開は今後の会を考えるうえで非常に頼もしいものである。展望の厳しい出版界ではあるが、とりわけ専門書の販売はますます困難が予想されるなかで、新刊・既刊を問わず、あらゆる手立てをこうじて売る方途を探っていかなければならないのであって、読者がそうした本と出会える場所を設定していく試みは貴重である。
 さて、そうした動きのなかで小社はことしの東京国際ブックフェアへの出展は辞退させてもらうことにした。くわしくは「出版文化再生ブログ」(http://poiesis1990.cocolog-nifty.com/shuppan_bunka_saisei/)の「52 なにごとにも始まりがあり、終りがある――東京国際ブックフェア2013出展をとりやめたワケ」(二〇一二年九月三十日)でくわしく書いたのでここでは再論しない。そこでの新企画説明会もブックハンティングにも参加することはない。残念ではあるが、トータルにみての判断なのでいたしかたないと思っている。(2013/5/11)

                ――「科学はあまりにのろすぎる」(アルチュール・ランボー「閃光」)

 大島堅一『原発のコスト――エネルギー転換への視点』(岩波新書)を読んで、あらためて原発の愚かしさと、それ以上に脱原発へ向けての具体的な取組みの必要性と緊急性、その可能な道筋を教えられた。この本は「大学入学したての一年生が読んでも理解できる」ように書かれたと「あとがき」にあるように、著者のこれまでの政治経済学的立場からの研究を一般書に仕立てたものらしく、たしかにわかりやすい。しかし急所はちゃんと押えてある。
 この本が「大佛次郎論壇賞」を受賞したことにもあるように、こうした原発批判の書がまっとうに評価されることで、この社会もまだ権力者の思うがままに世論操作されるところまではいっていないことを示している。まずこのことを確認するところから始めよう。
 東日本大震災以後、多くの原発批判書が刊行されたが、そのなかで、大島の筆致は怒りを冷静に抑えていたずらに反原発を叫び立ててはいないという点においてきわだっている。政治性や党派性に依拠することなく、政治経済学の論法で原発の内実をひとつひとつ洗い出していくのである。本書は震災の九か月後に刊行されている。したがって、その後の原発問題の推移や政治の動きについての論及はもちろんない。震災当時の民主党政権がその後、内部崩壊してしまい、さまざまな離合集散をみせたあと、もともと原発推進をしてきた自民党がふたたび政権を奪取するというおおいなる皮肉が実現している。自民党のなかでもタカ派の安倍晋三が首相に出戻り、さっそく原発再稼働をちらつかせているこの時代錯誤をどうやったら止められるのか。
 ともかく大島の本を読んでいこう。
 まず、本書は「はじめに」にあるように「原子力発電をどうするかをコストの問題として考えよう」とするものであり、原発が政府や東電などが主張するように、コストがかからない発電であるというウソを暴露し、むしろ脱原発のコストのほうがはるかに安くつき社会にとっても健全であることを解き明かしていく。原発推進側が提出する発電コストとは発電所建設費、燃料費、運転維持費などの直接経費をもとに算出されているが、東日本大震災によって明らかになったように、原発を推進するためには事故処理もふくめて計算外の膨大な費用がかかっている。そればかりかいちど原発を始めてしまったら、半減期が二〇〇万年超もあるような放射性物質もふくんでおり、後始末するのにも気が遠くなるような将来の時間が必要になってくる。こうした莫大な費用や危険負担を現在に生きるわれわれが後生の世代に押しつけていくことは倫理的にも経済的にも許されることではない。使用済燃料の再処理コストなどは「バックエンドコスト」と呼ばれ、将来へのツケとしてまわされることになる。
 本書での大島の原発批判は、書名にも現われているように、コスト論の観点からの批判が眼目であるので、以後はこの観点を中心に確認しておこう。
《発電という行為を社会的にみると、全体としてかかっているコストは電力会社にとってのコストだけではない。(中略)私企業が支払っている私的コストとは別に、社会が全体として支払っているコストを「社会コスト」という。発電コストを考える場合、この社会的コストについても計算する必要がある》(97ページ)というわけである。
 大島によれば、発電コストは基本的に三つの分けられる。
 第一は「発電事業に直接要するコスト」であり、減価償却費(資本費)、燃料費、保守費などから成る。
 第二は政策的誘導をおこなうための「政策コスト」であり、これは技術開発コストと立地対策コストから成る。前者は高速増殖炉開発など膨大な無駄をふくむコストがかかり、後者は「電源三法」にもとづく各種交付金、すなわち原発を強要するための札ビラたたき用資金である。
 第三は「環境コスト」で原発事故の後始末のためのさまざまな補償、移転費用、環境汚染復元費用、損害賠償などを指す。
 電力会社や政府、官僚、御用学者、電力労組らが喧伝する発電コストとはこのうちの第一のコストだけであり、それ以外はすべて税金で垂れ流し的にまかなわれている。将来のツケもふくめてこれらを正常にコスト計算に加えれば、とても原発は安いなどと言えたものではない。
《原発開発に関わって国民が負担するコストは非常に大きい。事故対応に関するコストも含めれば、国民にとって原子力発電に経済性がないことは間違いない》(128ページ)のである。
 もちろん、そればかりではない。「原子力村」(大島はこれを「原子力複合体」と呼ぶ)と呼ばれる強大な利益集団は原発の安全性確保を軽視し、「安全神話」をばらまき、反対派を徹底的に排除した無批判状況のなかで、いったん事故が起きれば徹底的に隠蔽するという許しがたき傲慢によってみずからの無能をも隠蔽し、利権をむさぼっているのである。
《原子力政策決定の場は、原子力発電推進に賛成する利益集団で構成され、一般国民からすれば理解しにくいほど原子力開発一辺倒の議論になっている。原子力の利用に疑問が差し挟まれるようなことは一切ない》(160ページ)のである。では、どうするか。
《原子力複合体(=原子力村)の共通点は、原子力発電利用を進めることに関して疑いを持たず、他の意見を排除しようとするところにある。原発ゼロを含めて原子力政策を再検討するためには、原子力複合体を解体し、根本をたたなければ行政の公正性と中立性が満たされない。原子力複合体における安全神話は非常に根深い。それを解体することなしに、原子力政策の根本的見直しはできない。/まず第一に、福島第一原発事故の原因究明を行い、原子力政策の決定に関与した者全ての責任を問うべきである。》(166~167ページ)
 ところが、これに反して日本原子力学会は「事故原因の究明に関して個人の責任追及を目的とすべきでない」とする声明を出しているとのことである。学会長は原子力部会部会長である東大教授の田中知。クロを隠蔽しようとするこんな学会はまったくヤクザの弁護士のようなものであるとしか言いようがない。利権にまみれた学会などになんの知的権威もない。さっそくこんな犯罪者集団的学会から解体すべきであろう。原子力安全委員会、資源エネルギー庁などもその一味である。たしか原子力保安院とかいうどうしようもないチンピラ(西山某とかいったな)が表に出ていた組織は解体されたかどこかに吸収されたはずだが。
 そういうわけで《福島の事態が目の前にある東日本にとって、「原子力発電は安全である」という神話は金輪際通用しない。東日本において原発を再開させたり、ましてや新規の原発をつくるなどということは極めて難しくなったと言えるだろう》(187ページ)どころか、日本全国で原発再稼働を許してはならないのである。《もはや脱原発は理念ではなく、現実の政策としてとらえなければならない。》(190ページ)
 再生可能エネルギーの十分な現実性についてもくわしく述べられ、立証されているので、反原発から脱原発にいたるためのこれらの議論の詳細については、本書の閲読を期待したほうがいいだろう。脱原発推進の理論構築のために広く読まれるべき本である。(2013/4/23)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)

「新文化」4月11日号の「本を手渡す人」というコラムで熊本の長崎書店長崎健一社長がいいことを書いている。
《私は毎日閉店後に、その日の売上げスリップを売れた時間順に並べていきます。そのなかで、「これは!」とスタッフが目をつけ、挑戦して仕入れた本のスリップを手にした時の喜びは、何物にも替えがたい。ひときわ光り輝いて見えるそれらのスリップは、勇気と自信、そして明日への意欲を与えてくれています》と。
 このひとについてはこのコラムの「最近の『人文会ニュース』がおもしろい」(2013/1/22)でも触れたことがあったが、売上げスリップが光り輝いて見えるという思いの強さは最近ではみられなくなった問題だと思う。
 かつてリブロ池袋店の今泉正光店長は、一日の仕事の総括として売上げスリップをかならず全部みるという作業をしていると話していたことがある。かれが注目するのは、大書店ならば一日でも相当数にのぼるベストセラーのスリップではなく、1枚か2枚程度にすぎなくても自分で注目して仕入れた本が売れていく姿だったと思う。そういう本にこそ書店人としての発見と喜びがあるというわけで、長崎社長は若いひとにもかかわらず、そういう書店人の〈原点〉としての書物への愛、発見と喜びをスリップ1枚のなかに見出しているのである。
 わたしなどもかつては取次の集品が毎朝届けてくれる注文伝票の束を一枚一枚確認していくのを日課のひとつにしていたことがある。いまは出版VANなどで細かい売上げ情報がまとめられてしまったために、どこの書店がどういう本を売ってくれているのか(常備カードというものがあり、売れた日付がスタンプされていたりしたものだ)、どんなひとがどんな書店でどんな本を注文してくれたのか(たまに名前を知っている著者などの記載があった)などという生きた情報を知る機会がなくなってしまい、本作りのリアリティの一部が失なわれてしまったことを残念に思っている。せめて毎日の売上げ伝票のチェックを怠らないようにしているのが精一杯で、それも出荷倉庫が離れてしまったために後日まとめて見るという状況になっている。そうしたすべてにわたって作った本が売れていく現場感覚が薄れていっているのであり、いまの若い編集者などは最初からそうした手応えを知ることもなく日々を過ごしていることになる。この現場感覚の喪失というよりもともとの不在は恐ろしいことだと思う。
 そういうわけだから、いまのように、すべて数値化されてしまう売上げ情報のなかで、現物を見ないで売り方を考えているだけのデジタル主義者にはわからなくなってしまった書物の物質的存在感、売上げ情報の手触り感を大事にしてくれる書店人がここにいることを心強く思うのである。(2013/4/18)
 一昨年(二〇一一年)十一月に小社は創立六〇周年を迎えた。そのさいに社史『ある軌跡』60年版を作成するとともに、それまで十五年(一七六回)にわたってわたしが小誌「未来」に書きつづけてきたコラム[未来の窓]を『出版文化再生――あらためて本の力を考える』として再構成し、刊行した。社史とともにひろく寄贈させていただき、さいわい非常に多くの方から貴重なご意見、ご賛同のことばをいただくことができ、おおいに励まされた。それとともにかなりのひとから[未来の窓]の休載を惜しみ連載をつづけるよう慫慂していただくことになり、うれしくもあり、やや困惑するところもあった。自分としてはいちおうひと区切りつけたつもりであったし、そんなに手応えを感じなくなりはじめていたからでもあったからだが、どうもそういうわけでもなかったらしい。とはいえ、出版人として語ることにそんなに興味をもてなくなりつつある自分がいたことも事実である。いちどこのかたちで書くのをやめようとしたからには、どうしたら再開することが可能か形式を模索していくことになった。
 そうしたなかで、やはりこの国で出版事業にかかわりつづけていると、誰がどう思おうと自分が言うべきことはやはり言っておくべきだと思うことが多くなり、そのためにはあまり枠にとらわれずに書きたいことがあればすぐに書けるブログ形式が自分にとって都合がいいことがわかった。あまり肩肘はらずに、所定の枚数や締切もなく、必要だと思ったことをそのつど書けるこの形式は意外と自分にあっているのではないかと思えることもあり、強制もないことがいくらか自由度を獲得できることになって、この一年ほどのあいだに六〇本ほどのブログを書いた。これをニフティのココログページ「出版文化再生」ブログ(http://poiesis1990.cocolog-nifty.com/shuppan_bunka_saisei/)と未來社ホームページで立ち上げた「出版文化再生」ブログ(http://www.miraisha.co.jp/shuppan_bunka_saisei/)のページに掲載してみたところ、徐々にフォローしてくれるひとが出てきて、これまでにない手応えを実感できるようになった。そうしているあいだに、このなかのアクセスの多かったいくつかのブログを二度にわたって小誌で抄録することもあって、なんとなく機が熟してきたのである。
 そんなわけで小誌であらためて出版にかんするコラムの連載を再開するにあたって考えたのは、『出版文化再生』刊行を準備している渦中で気づかされたことだが、現在のような政治状況、文化状況、出版環境のなかでは、わたしが考えてきたような専門書、人文書をあえて刊行していくことは、ひとつの文化闘争のありかたなのだという発見であり、そのことに自覚的になることであった。ひとりよがりと言われることを覚悟のうえで、この反動の時代に逆らっていくことが、出版文化の再生のためにどうしても避けては通れないことだと観念したということである。『出版文化再生』のオビに大書したように、「出版とは闘争である」のだ。考えてみれば、これまでの[未来の窓]執筆においても、誰に頼まれもしないのに、しばしばひとり義憤を感じていろいろ書いてきたことをいまさらのように思い出す。しかしそれはあくまでもなりゆき上そうなったのであって、今後はこのコラムを書くにあたって、この闘争精神のもとに出版文化の再生のためにささやかながらもういちど出版の問題にかんして発言していくことにしたのである。大げさに言えば、これだけの決心をしなければ一出版人としてのわたしがこの場にかかわる意味はないのである。それがこのコラムを「出版文化再生」と名づけた理由である。
 さきほど先行する「出版文化再生」ブログでのさまざまな反響について触れたが、それでもこれまで[未来の窓]を読んでいてくれた(かもしれない)読者の多くは、活字派の読者が多いだろうから、このブログをネットでわざわざ探して読んでくれることはないだろう。たとえブログをチェックするようなひとでも、印刷してからでないときちんと読むことはできないと公言するひともいるぐらいで、そういうひとのためにも活字化しておくべきだと考えたのである。
 とはいうものの、このページで書こうとするものは、すでに先行して書いてきた「出版文化再生」ブログの一部として書くことになるだろうから、できればここで活字化するもの以外の、先行しあるいは今後も継続されるブログとあわせてお読みいただければさいわいである。もちろん本欄の原稿も、以前の[未来の窓]がそうだったように、完成した時点でブログページに掲載するつもりである。したがって活字になる以前に中身を読んでもらうこともできる。
 その意味では、このコラムもこれまでのブログの延長で書きすすめることができそうな気になってきた。ちがうのは、決まった文字数で書かなければならないことと、活字メディアに掲載されることだけである。とくに後者がどのような意味をもつようになるかは今後の問題として関心がある。というのは、ブログで書くものは、いかに専門的な内容であったとしても、それが私家版としてプリントされて読まれ保存されるような場合を除けば、基本的に〈情報〉として処理されてしまうのを覚悟しなければならないのに比べて、本や雑誌に活字化されるということはたんなる情報以上の価値をもちうるチャンスがあるからである。そのかぎりにおいて、いかに人気のあるブログであろうと、それは活字化以前の情報にすぎないのである。
 本(や雑誌)というパッケージ形態がネット上の情報を凌駕することができるのは、それが情報以上のものとして初めて読まれうるからだというその優位性はいまでも変わらないはずである。すくなくともわたしはそう信じている。わたしは「思考のポイエーシス」「ファイル編集手順マニュアル」など数本のブログを並行的に書いているが、これらも活字本としての最終形態をめざしていることは言うまでもない。(2013/4/3)

(この文章は「未来」2013年5月号に連載「出版文化再生1」として掲載)
 3月26日、東京大学駒場キャンパスにて「人文学と制度」というワークショップが開かれた。未來社から刊行されたばかりの西山雄二編『人文学と制度』をめぐっておこなわれたもので、執筆者(西山雄二、宮崎裕助、大河内泰樹、藤田尚志、星野太の各氏)の報告とあわせて活発なフロア・ディスカッションがたたかわされ、予定の二時間を軽くオーバーして終了した。
 大学において人文学を研究対象とすること、そのうちに孕まれる危機が現在の学問の危機であると同時に大学という制度の危機でもあるということをふまえ、どのようにこれを打開していこうとするのか、打開できるのか、何のための学問なのか、学問はどこへむけて開かれようとしているのか、といったさまざまな課題をかかえていることがあらためて浮彫りにされた。大学という制度の歴史と現在を「哲学」という視点からそのかかわりを俎上に乗せた西山さんの前編著『哲学と大学』の諸議論の延長線上に今回のテーマは設定されたわけである。
 現在の大学制度自体が厳しい管理主義的な功利的システムのなかに組み込まれ、そこでの学問のありかたも従来のような純学問的な方向性は無用化され、社会の現実的な利益や目的に速効性のある知見ばかりがもてはやされ、そうした知見を生み出す学問それ自体への問いが不問に付されたままにされている。ワークショップでも飛び出した〈アカデミック・キャピタリズム〉ということばに象徴されるように、いまや大学は社会の批判的実践のための基盤ではなく、現状を維持するための護教的な制度に成り下がろうとしている。そこでは豊かな可能性をもった人間を育て上げるのではなく、現状社会に無批判的に奉仕する高機能な歯車人間を輩出するだけの組織になろうとしているのだ。
 ここで議論の対象とされている人文学の危機とは、こうした大学をとりかこむ現実のむき出しの経済論理にこれまでにないほど直接的に向き合わざるをえなくなった事態を反映している。そもそも人文学という名称そのものが示しているように、かつての人文科学と総称された学問形態――哲学・思想、宗教、社会、歴史、心理、教育――と重なり合い、それらを包摂し、相互媒介されるところに立ち現われてきた新しい学問の方法である。それらはいまだ固有の領域をもたず、それにかかわる論者それぞれに固有の問題領域やテーマ設定がある、いわば生成途上の学知なのである。ただ共通する一点は、これまでの学問体系の狭い枠組みに妥協的に取り込まれることをよしとせず、社会のリアルな動きにたえず目を配りながらこれを批判的に検討することをみずからの使命とすることである。ここにおいて人文学をみずから選択するものは、その対象化の先にかならず対象への批判的視点を担保し、そのことによって対象からの反動を覚悟しなければならない。その意味で、人文学とはあらかじめ危機的であることをその属性とすることを余儀なくされた学知である、と言ってよい。
 いま、人文学の危機が取り沙汰されるのは、この危機的な属性がいよいよ制度的な外圧として学問や研究を潰しにかかってきたことへの危機感の現われなのではないか。そのことにわれわれは敏感でなければならないのは言うまでもないが、そうした危機のなかでこそ人文学の体幹が鍛えられ、そこから新たな飛躍が出現するということももう一方の真相である。優れた人文書とはそうした危機の産物であり、危機的状況を逆手にとって混沌とした状況に危機の本質をみごとに露出させてきたではないか。人文学を志すものはいまこそこの逆境を乗り越えなければならない。そう言うのはたやすいが、ぜひともこの壁を克服してもらいたい。それしか先に道はないからだ。
 ワークショップの最後にあらぬことか総括的な発言をするべく指名されたが、わたしが言いたかったのは、こうした制度の危機とは、大学のなかにあるだけでなく、いわゆる外部としての経済社会のなかに世界的趨勢として現出しているものであって、わたしの属する出版の世界もその渦中にあり、そのなかで優れた人文書の掘り起こしをめざして悪戦苦闘する日常のなかで、この危機をともになんとか乗り越えていきたい、その闘争をつうじて人文学の未来が見えてくることを願っているということである。その意味でこの論集がこういう問題の所在に手を付けたのであるからには、これを起点にさらなる問題の掘削が必要となるだろうし、おおいに期待しなければならない。(2013/3/28)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)

(なお、この論集をめぐるトークショーが来たる29日夜にブックファースト新宿店地下にて、西山雄二さんと小林康夫さんの対談形式でおこなわれる予定である。さらなる問題の深化をみたいと思う。ぜひ参加されたい。)

 昨年暮れに申請が締め切られた経済産業省推進の「コンテンツ緊急電子化事業」も最終的にはどうやら予定していた予算を消化したらしい。出版界の電子化事業を国がバックアップするという触れ込みで始められた事業だが、出版界の当初の反応の悪さもあってかなり難航し、途中で何度も条件緩和などがなされて、なんとか目標を達成することができたようである。
 とにかく世は挙げて「電子書籍」化へむけて動こうとしている。これには一九九六年をピークとして下降をつづけてきている出版界の売上げ減少を食い止めようとする業界努力と言えなくもないが、はたして電子書籍というものがほんとうに出版界にとって、あるいは出版文化にとって起死回生策になるのだろうか。
 ひとくちに「電子書籍」といってもさまざまな形態があることをひとはあまり知らないのではないか。テレビなどが喧伝するように、アマゾンのキンドルのような電子書籍用リーダーを使って読書をすることがこれからの読書モデルと思わされている。しかし「電子書籍」と呼ばれるもののなかには、紀伊國屋書店やジャパンナレッジのように、既刊本のページを利用者に閲覧できるようにしたものもある。
 今後、電子書籍がさまざまなかたちで開発され商品化されていくことは間違いないが、アメリカのように、電子書籍が紙媒体の書籍(従来の書籍)を売上げにおいて上回ってしまうというような事態は、日本やヨーロッパのように歴史が古く書籍文化の伝統の厚みがある国では、そう簡単に起こらないのではないか。これには国土の広さ、書店の身近さ、言語表記の問題(なんといっても英語は文字数が少ない)といった点にも原因がある。
 日本の現状で言えば、これまで積極的に電子書籍化がすすめられてきたのは、マンガ、コミック、ベストセラー小説といったたぐいの一般書である。これらは何度も読み返したり立ち戻ったりして読むものではなく、一方向的に進められていく「読書」であり、総じて一過的なものである。それにたいして専門書出版社があまり電子書籍に乗り気でなかったのは、もともとビジネスモデルとして想定しにくかったからでもあるが、それ以上にこうしたリーダー上で読むにはむずかしい種類のコンテンツが専門書だからである。
 書物とはたんなる情報のパッケージではなく、それ自体がある種の固有価値としてのモノであり、読者がそれらを熟読することによって無限の可能性にみずからがひらかれていくものである。本のかたち、活字やレイアウトの美しさ、装幀などによって一冊の書物としての存在感をもち、それが読書体験をつうじて人間の脳にしっかり定着される。モニタ上の電子情報にくらべて書物を通じての読書の記憶は脳のより深いところで定着すると言われている。こうした深い経験としての読書こそがこれまでの文化を創ってきたのであり、出版文化とはまさにそこにしか存在しない。本の内容をたんに情報としてしかとらえられなくなっている読者が増えているとしたら日本の将来は由々しきものとなろう。
 電子書籍とはオリジナルの書物の二次的派生物として存在理由があるだろうが、オリジナルの書物不在のところからは新しい文化は生まれない。出版界が書物のオリジナル開発に力を入れなくなり、電子書籍化に血道をあげようとするなら、それは本末転倒の自滅行為となるだろう。

(この文章は「サンデー毎日」2月10日号に掲載された「『コピー』からは新しい文化は生まれない」の元原稿を転載したものです。内容的に本欄の「56 電子書籍はオリジナルをどこまで補完できるのか」と重なるところがあります。)

 思い立って小林康夫さんを誘い、横浜市民ギャラリーあざみ野での「写真家 石川真生―沖縄を語る」展を見に行ってきた。この展覧会は2月2日から24日まで開催されている。ほんとうは2日のオープニングか翌日のトークに行きたかったが、あいにくインフルエンザにかかってしまったため遠慮したのであった。
 会場入口で友人らしいひとたちと話している真生さんを見つけ、挨拶してから入場(無料)。予想を超えてなかなか立派な会場で、展示も「熱き日々inオキナワ」「沖縄芝居」「森花―夢の世界」の三部構成で見応えがあった。なかでも最近の仕事という「森花―夢の世界」は、吉山森花さんという若い女性がみた悪夢の世界を当人のイメージのままに演じたシーンを撮ったもので、強烈そのもの。写真集『日の丸を視る目』にも登場していた子だが、真生さんの新しい世界を覗かせるものだった。一見の価値のある展覧会だと思う。
 生前のおそらく最後の動画であろうと言われる東松照明さんのインタビュー(2012年4月)のビデオが会場で流され、石川真生について静かにとつとつと語る東松さんのことばとしゃべり方が印象的であった。亡くなった東松さんへの真生さんのコメントもパネルで読むことができ、泰子夫人ともどもお世話になったことが書かれていて、東松さんの一生が最後まで立派でしあわせであったと結ばれていた。東松照明の偉大さが伝わってくるとともに、東松さんに評価された石川真生という写真家をあらためて見直さざるをえなかった。(2013/2/11)

(この文章は「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を転載したものです。)

「人文会ニュース」がなかなか充実している。
 昨年9月刊の113号では新宿紀伊國屋書店本店の吉田敏恵さん(MD=マーチャンダイザーとか)のインタビュー「人文書担当としての試み2001-2012」を平凡社の根井さんがうまくまとめている。〈じんぶんや〉の試みなど、とくに目新しいわけではないが、最近の紀伊國屋書店の取組みをわかりやすく引き出している。
 吉田さんは人文書にたいしてもうすこし「ビジネス」を意識したほうがいいんじゃないかと、著者、編集者、出版営業にたいして注文をつけている。わたしなどにとっても耳の痛いところだ。書名の付け方などにもうすこし工夫したほうがいいんじゃないかと思うことはしょっちゅうある。なにもすべてわかりやすく売れやすくというばかりが能じゃないが、読者に内容が伝わりにくいもの、せっかくそのものズバリで端的な書名が付けられるのにわざわざトーンダウンさせてしまうものもある。本は一冊一冊が勝負なので、あとで修正がきかない。このあたり書店現場のひとに意見を聞くのもいいのだろう。
 吉田さんは書店現場と編集者のコミュニケーションがもっとあればいいのにとも主張している。これはわたしの持論でもあって、そう言えば、いつぞやの東京国際ブックフェアの新刊説明会のあとの懇親会で吉田さんにもそのことを力説した記憶がある。そうなんだよね、もっと交流してすこしでも売れる本を作ること、そうした本をどうやって売ってもらったらいいか考えることを進めていかなくちゃいけないんだ。
 さて、次のできたばかりの114号では熊本の長崎書店(長崎の熊本書店じゃないよ)の長崎健一社長が「『老舗書店』の矜持とチャレンジ」といういい文章を書いている。「日頃の商品情報の収集と分析、販売情報であるスリップの読み込み......そこから仮説を組み立て、検証していくという地道な仕事の繰り返しを、多忙を言い訳にせず可能な限り丁寧に行なっていきたい」と。すばらしい。こういう書店人(しかも若い)が出てきたことに目を覚まさなければいけない。ここもむかしはたしか未來社の常備店でもあったな、と思い出す。ついでに昨年のいつごろだったか、この若社長と人文担当の児玉さんが来社されて、しばらく話をする機会があった。わたしも持論の「棚はナマモノ」説を話していささか辟易とされたかもしれないが、もうひとつ偉そうに、人文書の棚の作り方のヒントとして、人文書が本のネットワークであること、その指標としてコアになる本の参考文献や引用文献などから本同士の連繋が探り出せること、その関連性をつないでいくような棚を作っていくのも簡便な方法ではないか、などとしゃべってみたが、その後、なにか実践してみて役に立つようなことがあっただろうか。そんなことを思い出して書いておきたくなった。(2013/1/23)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を転載したものです。)

59 文字文化への可能性?

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 細見和之の「書籍文化と文字文化――若い世代の言語体験への期待」というエッセイを興味深く読んだ。これは「PO」という大阪の同人誌に書いたもので、けっこう本音にちかいところで書かれていて(かれの文章はいつもそうだが)いろいろかれの仕事ぶり、パソコン音痴ぶり(失礼!)がうかがえてほほえましい。そこでの細見の論点は、いまの若者は携帯メールなどをつうじて文字の入力に以前の人間よりはるかに慣れていて、すくなくとも一日の文字入力の分量では一流の物書き以上だということから、これが言語体験として深まる契機があれば、それはひとつの可能性だというに尽きる。
 メールのように「瞬時に応答するのでなく、じっくり推敲して書いた文章の味わいというものを伝えること、自分でもずっと残しておきたいと思える文章を書いてみる楽しさを伝えること、そういうことがすこしでもできれば、彼ら、彼女らの言語能力は新たな文学への道を開くのではないかと思う」と細見は書いている。
 たしかにこういう観点も、いたずらに書籍文化の衰退を嘆くよりはいま必要な希望かもしれない。しかしそこに携帯メール入力から本気で書くことへのジャンプという決定的な契機もまた必要で、惰性の延長が真のエクリチュール(書くこと)につながるわけではないことも明らかである。その深淵を飛び越せるかどうかが、物書きへの転生が実現できるかどうかの分かれ目なのである。(2013/1/21)


58 東松照明氏の思い出

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 昨年十二月十四日に世界的な写真家・東松照明氏が那覇で亡くなられた。死去の報は、年が明けて仕事始めの一月七日になってオープンにされたが、それまでは箝口令が布かれていたようである。地元の新聞でも報じられたのはその日の夕刊だったようだ。毎日新聞からの問合せでそれを知ったのだが、仲里効さんからもその後くわしいお知らせの電話をもらった。以前から体調が思わしくなく、心臓が弱っていらしたが、これまでも何度も死地を逃れてこられて「不死鳥」のあだ名さえ付けられていた東松氏であったが、ついに永眠されてしまった。八二歳。謹んでお悔やみを申し上げたい。
 わたしなどは東松氏のほんの晩年に沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉の一冊として写真集『camp OKINAWA』を刊行させてもらうことでおつきあいさせていただいただけだが、それでも何度かお宅におじゃまして、生前のまだお元気だった氏とことばを交わすことができたのは幸運だった。
 最初におうかがいしたのは二〇一〇年六月六日、仲里効さんに案内してもらって、〈琉球烈像〉への参加承諾へのお礼と挨拶をかねたものだったが、さっそくにもその秋からの展覧会にあわせて写真集のプランをあらかじめ考えていただいていたのにはびっくりだった。もとはと言えば、その年の一月に前年に刊行されこの写真集シリーズの引き金となった仲里効写真家論集『フォトネシア――眼の回帰線・沖縄』の出版記念会でお会いして挨拶をさせてもらったのが最初だが、その会で東松氏が二度にわたって挨拶されたことが印象的で、そのことに触れたわたしの[未来の窓]という連載のなかの文章が東松氏の気に入られて、まさかのシリーズ参加になったといういきさつがある。最後におじゃましたのは二〇一一年八月二十八日、石川真生さんの写真集『日の丸を視る目』のプリントを東松夫人から受け取るために真生さんといっしょにうかがったときで、このときは一時間ほどわたしと真生さんの掛け合いをおもしろがって聞かれていたこともいまとなっては楽しい思い出である。
 そう言えば、『camp OKINAWA』が刊行されてまもなくの二〇一〇年十月二十一日、この写真集刊行のお祝いの会がやはり那覇で開かれた。二五人ほどの小さな会だったが、東松氏がこの歳で自分の初めての出版記念会だと喜んでおられたのは意外な気がした。沖縄では頻繁に出版記念会が開かれることをわたしはこの間の「沖縄詣で」で知ることになったのだが、考えてみれば東松氏は那覇に住民票を移されてまだそれほど経っていない時期だったのである。小さなことだが、氏の唯一の出版記念会のきっかけになった写真集を刊行できたことはその意味でもよかったと思っている。
 写真界における東松照明氏の存在の大きさはわたしなどにはまだ十分つかめていないところがあるが、それはしかるべき識者におまかせして、わたしの知るかぎりの東松照明という人間について記した次第である。(2013/1/18)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を転載したものです。)