58 東松照明氏の思い出

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 昨年十二月十四日に世界的な写真家・東松照明氏が那覇で亡くなられた。死去の報は、年が明けて仕事始めの一月七日になってオープンにされたが、それまでは箝口令が布かれていたようである。地元の新聞でも報じられたのはその日の夕刊だったようだ。毎日新聞からの問合せでそれを知ったのだが、仲里効さんからもその後くわしいお知らせの電話をもらった。以前から体調が思わしくなく、心臓が弱っていらしたが、これまでも何度も死地を逃れてこられて「不死鳥」のあだ名さえ付けられていた東松氏であったが、ついに永眠されてしまった。八二歳。謹んでお悔やみを申し上げたい。
 わたしなどは東松氏のほんの晩年に沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉の一冊として写真集『camp OKINAWA』を刊行させてもらうことでおつきあいさせていただいただけだが、それでも何度かお宅におじゃまして、生前のまだお元気だった氏とことばを交わすことができたのは幸運だった。
 最初におうかがいしたのは二〇一〇年六月六日、仲里効さんに案内してもらって、〈琉球烈像〉への参加承諾へのお礼と挨拶をかねたものだったが、さっそくにもその秋からの展覧会にあわせて写真集のプランをあらかじめ考えていただいていたのにはびっくりだった。もとはと言えば、その年の一月に前年に刊行されこの写真集シリーズの引き金となった仲里効写真家論集『フォトネシア――眼の回帰線・沖縄』の出版記念会でお会いして挨拶をさせてもらったのが最初だが、その会で東松氏が二度にわたって挨拶されたことが印象的で、そのことに触れたわたしの[未来の窓]という連載のなかの文章が東松氏の気に入られて、まさかのシリーズ参加になったといういきさつがある。最後におじゃましたのは二〇一一年八月二十八日、石川真生さんの写真集『日の丸を視る目』のプリントを東松夫人から受け取るために真生さんといっしょにうかがったときで、このときは一時間ほどわたしと真生さんの掛け合いをおもしろがって聞かれていたこともいまとなっては楽しい思い出である。
 そう言えば、『camp OKINAWA』が刊行されてまもなくの二〇一〇年十月二十一日、この写真集刊行のお祝いの会がやはり那覇で開かれた。二五人ほどの小さな会だったが、東松氏がこの歳で自分の初めての出版記念会だと喜んでおられたのは意外な気がした。沖縄では頻繁に出版記念会が開かれることをわたしはこの間の「沖縄詣で」で知ることになったのだが、考えてみれば東松氏は那覇に住民票を移されてまだそれほど経っていない時期だったのである。小さなことだが、氏の唯一の出版記念会のきっかけになった写真集を刊行できたことはその意味でもよかったと思っている。
 写真界における東松照明氏の存在の大きさはわたしなどにはまだ十分つかめていないところがあるが、それはしかるべき識者におまかせして、わたしの知るかぎりの東松照明という人間について記した次第である。(2013/1/18)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を転載したものです。)

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未来の窓 1997-2011

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