69 古典を読む悦び

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 小社のシリーズもののひとつに「転換期を読む」というのがある。これはいわゆるコレクションもので、洋の東西を問わず長く読みつがれるべき著作を編集・発行し、あるいは手に入りにくくなっている古典的な作品を発掘・再刊し、これに適切な解説を加えてひろく読者に供しようとするものである。まあ、言ってみれば未來社版の古典文庫なのだが、四六判ソフトカバーで比較的ハンディな厚さのシリーズである。装幀は伊勢功治さんで、瀟洒な造本に仕上げられている。
 このシリーズは、一九九八年にモーリス・ブランショの小説『望みのときに』(谷口博史訳)を皮切りに批評・文学・哲学・歴史学などさまざまな分野にわたっての刊行をめざしてスタートした。二十一世紀を直前にしていたこともあって「転換期を読む」という名前が付された。当初わたしはもっとシンプルに「未来文庫」にしようかと思っていたが、当時の編集スタッフ(いまはもう誰も在籍していないが)の多数意見を容れてこのようなシリーズ名になったのである。当時、わたしは「ポイエーシス叢書」という現代思想を中心とするアクチュアリティのあるシリーズにとくに力を入れていたので、この古典シリーズはほかの編集者にまかせておいたところ、なんとなく中だるみになってしまった感があり、いろいろ考えていると、このシリーズを活性化させるにふさわしい著作はいくらでもあることに気づくことになった。本を編集するということは、なにもムキになって新しい著作を生み出すばかりではないのだ。著者を駆り立ててともに未知の世界を開こうとすることは編集者の特権であり悦びでもあるのだが、そればかりではない。むしろ過去をふりかえってこれまで人類が達成してきた膨大な、さまざまな知見をあらためて新しい眼で再編集していく、という地味な作業が出版を通じてなされていくことが必要なのではないか、と思うようになったのである。
 そんなふうに思うようになったのは、わたしが編集者としての峠を越えたことにも原因のひとつがあるのかもしれない。新しい知を追うにはややトシをとりすぎたこともあろうが、それよりもこれまでの人生のなかで先を急ぐあまりに取り残してきたものの多さに、あるとき愕然としたということがある。これまでの知的財産を十分に知らぬままに新しい知見をもとめても地に足がついていかないことになるのではあるまいか、ということにあらためて気づいたと言えようか。
 これは編集者であるまえにまずひとりの人間として基本的な勉強をし直すべきである、とわたしはあるとき決心した。わたしの場合、日常の仕事としてゲラや原稿を読む以外に、諸関係から送られてくる本や雑誌はひととおりではない。これまでかかわりをもった著者や友人や未知のひとまで会社や自宅に送ってくれる出版物はありがたいことに年間一〇〇〇冊は下らない。義理を欠きながらもこれらのうちのかなりのものは読んでいるのだが、どうしても本来読まなければならないものがどんどん先送りされてしまうことになる。こうして長いあいだやってきたのだが、自分の残りの時間が減ってきて、このままいくと死ぬまでに読むこともできないもの、とくに古典がそっくり来世に持ち越されてしまうことにいささか危機感を抱いたわけである。ひとがひととして知っておきたいこと、知らないともったいないこと、知るべきであることは、この世に膨大にあり、なかでも古典は人類史のなかで選りすぐられて生き残ってきた知見ばかりなので、これを知らぬままでは死んでも死にきれない。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、そうした心境になってしまったのだからしかたがない。教養主義的と冷やかされようがかまわないと思うことにしたのである。
 そういうわけで、この数年前から自分に課した読書の方針は、純粋な仕事以外にいくつかの種類の古典を毎日最低一〇ページ以上ノルマとして読むということである。こうするとたとえば三〇〇ページの本をひと月に数冊は読めることになる。ジャンルとしてはわたしの場合は哲学系、文学作品(詩、小説)がメインとなる。若いときとちがって乱読するのではなく、ある種の系統(著者とか影響関係とか)を立てて読んでいくのである。もちろん意外な脱線が生じて予定とちがう本を読むことになっても、今度はその流れに乗ってさらに読んでいくことにする。そうすると、ある著者のものでいくつか気になっていた本を読んでいくなかで、思いがけない著者のものを読むことになり、こうしたことをつづけていくと、どこかでそうした線がまわりまわって結びついてくることになる。たとえば、デカルト、スピノザ、ライプニッツと読んできてルソーにつながると、一方では友人の訳したモンテーニュを読んでいてルソーの見解がよくわかるようになる、といった具合である。
 こうした読書の結果は、じつに多くの有意義な、現代にも通ずる先人の目の覚めるような知恵の発見であり、深い感動である。古典を読む悦びがどのページを開いてもあふれている。ときには期待外れのものもあるが、無理してつきあうこともない。ほんとうに必然性があれば、どこかで再会することもある。
 とにかく、こうした読書の習慣からさまざまな発見や情報が得られて、場合によっては出版への可能性が開けてきたり、アイディアがわいてくることにもなる。こうしたなかから生まれたものに、たとえば上村忠男編訳によるクローチェ『ヴィーコの哲学』や水田洋編訳『ホッブズの弁明/異端』、さらにはストラヴィンスキーの二冊の翻訳、直近のものとしては萩原朔太郎の最後の自選アンソロジー『宿命』を粟津則雄さんの解説で刊行する予定であるし、その粟津さんがこの数十年のあいだに著名な詩人や批評家、学者と交わした歴史的な対談をまとめた初めての対談集『ことばへの凝視』もまもなく刊行される。こうして古典を読む悦びが編集する悦びへ、出版の可能性の拡大へつながるならば、出版人としてこれにまさる贅沢はないと思うようになったのである。

(この文章は「未来」2013年7月号に連載「出版文化再生3」として掲載)

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