71 精興社の偉業を読む――『活字の世紀 白井赫太郎と精興社の百年』

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 この四月八日に創立一〇〇周年を迎えた精興社(*)から記念出版である『活字の世紀 白井赫太郎と精興社の百年』(精興社ブックサービス)をいただいた。社員座談会や年譜までふくめると四〇〇ページちかい大著である。著者の田澤拓也はノンフィクション作家で書き下ろし。小学館の雑誌編集の経験もあるという著者による綿密な取材にもとづく精興社百年の歴史と印刷業界をふくむ出版界や社会事情があたかもノンフィクションドラマのように書き込まれていて、一印刷業者の記念出版物とは思えないほどの重量感のある本に仕上がっている。精興社の百年がちょうど〈活字の世紀〉でもあったことが、書名にもうかがえる。
 この本をわざわざ届けに来てくれた旧知の担当者にもそのときに言ったことだが、これだけの本を――しかも外部のライターに依頼してまでできた本を――非売品扱いにしているのはもったいないのではないか、と思ったが、通読してみてその感をますます強くした。これは精興社の記録だけではなく、日本の印刷業全体の歴史でもあるし、ひろくは出版史、文化史の一角を占めるものとしても貴重な記録となっている。いかにも精興社らしく謙虚な姿勢であることは理解できるが、関係者以外の読者や研究者にとっても垂涎の書であることは間違いない。ISBNコードもついていることだし、そうしたひとたちのためにも市販されるようにすべきではないだろうか。
 この本は創業者の白井赫太郎とその経営者一族を中心とする物語であると言ってよく、とくに赫太郎とその妻イチの仕事ぶり、性格、生きかたや考えかたについて多くのページが割かれている。年譜によれば、一九一三年(大正二年)に東京市神田区美土代町で「東京活版所」として創業されたとき、赫太郎はまだ三四歳になる直前だった。一九二三年(大正十二年)の関東大震災によって工場が焼失し、いちはやく再建されたその十月には「精興社」と社名を変更している。精興社としては九〇年になるわけだ。
 戦争中のさまざまな苦労を経て、戦後、岩波書店や筑摩書房など有力出版社との大型企画や継続企画を中心に精興社は順調に成長をつづけていく。いまとはちがって、金庫に三か月分の原稿が詰まっている状態で、関係の深い出版社や条件のいいところから順次まわされていったらしい。
 こうした精興社の成長ぶりは当時の出版界の好況も反映していたことは間違いないが、創業者以下の誠実さと堅実な仕事ぶりからくる評価、安心感によるものが大きかったのではないかと思う。その精神はいまでも受け継がれており、わたしが知っている範囲でも、どちらかと言えば堅すぎるところもあるぐらいに紳士的なひとたちばかりである。創業者の厳しい姿勢と豊かな人間性に培われた社風はいまどき貴重である。この創業者夫婦について田澤はこんなふうに書いている。
「赫太郎とイチの言行【げんこう】は、今日の人々の目からすれば、いささか思いこみの激しい異色で独特なものと映るかもしれない。けれども自分が身を粉にして働いた果実であるとしても、まずは他人の役に立つようにと思いめぐらして行動することが、結局、自分や社会の人々のためになるはずだという考え方は、この二人の終生揺るがぬ生活信条だったのではなかったろうか。」(二二一頁)
 ところで精興社といえば、なによりも独特な美しさをもつ「精興社書体」で知られている。赫太郎が種字彫刻師として知られていた君塚樹石に頼んでこの書体の製作を依頼した顛末も本書にくわしく書かれているが、赫太郎の「読みやすく、細めで、しかも力強い」(六六頁)書体をという依頼を受けて実現されたこの「精興社書体」が出版社はもとより読者や著者に強い支持を受けたことが今日までの精興社のステータスのアルファでありオメガである。司馬遼太郎ならずとも自著がこの書体で印刷されていることの誇りと悦びには神話的なものがあり、わたしにも経験がある。いまでも親しくさせてもらっている著者との最初の本を精興社で印刷したところ、他社からの出版物ではそうしてもらえなかったのに、わたしが精興社に原稿をまわしてくれたことを感謝してくれて、こちらのほうが驚いたことがある。精興社は価格が高いのにわざわざ自分の本を精興社でやってくれたのは、特別なことだと思われたらしい。たしかに精興社にまわす原稿は組版がむずかしいとか、大事な原稿であるとかという理由のものが一般的にも多かった時代はある。ただ実際のところ特別にむずかしいものでなければ精興社の組版代がとくに高いわけでもないし、わたしのほうでも取引先のひとつとしてわりあい平均的に入稿していたころでもあったので、意識的にそうした面はあったものの特別な配慮をしたというのはやや買いかぶりだが、ずっとそういうことにしている。
 わたしの出版人生もいつのまにか三十数年になり、精興社とのおつきあいも同じ年数を閲してきたことになるが、本書ではその時期の記述は相対的に少ないので、わたしなどが思いあたる部分はそう多くない。精興社といえば、山田家とか青木家の系譜がなんとなくうかがわれていたのだが、創業者の出身地の青梅の人脈が緊密にからまりあって今日にいたっていることが本書で初めてわかったぐらいである。本社がいまでも青梅だというのはそういう事情があったのである。わたしも仕事がらみでいちど青梅工場にうかがったことがある。あののんびりした雰囲気が精興社の原点なのかということが本書を読んでいて納得できた。精興社がこれからもいまの苦難を乗り切って発展をつづけることを切に望む次第である。
(*)この本で初めて気づかされたのだが、精興社の「興」の字は正式には上部の「同」のところが左の棒と中の一と口の左側がつながっている。画数の問題で易者に一画少ないほうがいいと言われたことからこういう字になったとのことである。ここではすべて「興」の字になっていることをお断りしておきたい。   

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