66 脱原発への理論構築――大島堅一『原発のコスト』を読む

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                ――「科学はあまりにのろすぎる」(アルチュール・ランボー「閃光」)

 大島堅一『原発のコスト――エネルギー転換への視点』(岩波新書)を読んで、あらためて原発の愚かしさと、それ以上に脱原発へ向けての具体的な取組みの必要性と緊急性、その可能な道筋を教えられた。この本は「大学入学したての一年生が読んでも理解できる」ように書かれたと「あとがき」にあるように、著者のこれまでの政治経済学的立場からの研究を一般書に仕立てたものらしく、たしかにわかりやすい。しかし急所はちゃんと押えてある。
 この本が「大佛次郎論壇賞」を受賞したことにもあるように、こうした原発批判の書がまっとうに評価されることで、この社会もまだ権力者の思うがままに世論操作されるところまではいっていないことを示している。まずこのことを確認するところから始めよう。
 東日本大震災以後、多くの原発批判書が刊行されたが、そのなかで、大島の筆致は怒りを冷静に抑えていたずらに反原発を叫び立ててはいないという点においてきわだっている。政治性や党派性に依拠することなく、政治経済学の論法で原発の内実をひとつひとつ洗い出していくのである。本書は震災の九か月後に刊行されている。したがって、その後の原発問題の推移や政治の動きについての論及はもちろんない。震災当時の民主党政権がその後、内部崩壊してしまい、さまざまな離合集散をみせたあと、もともと原発推進をしてきた自民党がふたたび政権を奪取するというおおいなる皮肉が実現している。自民党のなかでもタカ派の安倍晋三が首相に出戻り、さっそく原発再稼働をちらつかせているこの時代錯誤をどうやったら止められるのか。
 ともかく大島の本を読んでいこう。
 まず、本書は「はじめに」にあるように「原子力発電をどうするかをコストの問題として考えよう」とするものであり、原発が政府や東電などが主張するように、コストがかからない発電であるというウソを暴露し、むしろ脱原発のコストのほうがはるかに安くつき社会にとっても健全であることを解き明かしていく。原発推進側が提出する発電コストとは発電所建設費、燃料費、運転維持費などの直接経費をもとに算出されているが、東日本大震災によって明らかになったように、原発を推進するためには事故処理もふくめて計算外の膨大な費用がかかっている。そればかりかいちど原発を始めてしまったら、半減期が二〇〇万年超もあるような放射性物質もふくんでおり、後始末するのにも気が遠くなるような将来の時間が必要になってくる。こうした莫大な費用や危険負担を現在に生きるわれわれが後生の世代に押しつけていくことは倫理的にも経済的にも許されることではない。使用済燃料の再処理コストなどは「バックエンドコスト」と呼ばれ、将来へのツケとしてまわされることになる。
 本書での大島の原発批判は、書名にも現われているように、コスト論の観点からの批判が眼目であるので、以後はこの観点を中心に確認しておこう。
《発電という行為を社会的にみると、全体としてかかっているコストは電力会社にとってのコストだけではない。(中略)私企業が支払っている私的コストとは別に、社会が全体として支払っているコストを「社会コスト」という。発電コストを考える場合、この社会的コストについても計算する必要がある》(97ページ)というわけである。
 大島によれば、発電コストは基本的に三つの分けられる。
 第一は「発電事業に直接要するコスト」であり、減価償却費(資本費)、燃料費、保守費などから成る。
 第二は政策的誘導をおこなうための「政策コスト」であり、これは技術開発コストと立地対策コストから成る。前者は高速増殖炉開発など膨大な無駄をふくむコストがかかり、後者は「電源三法」にもとづく各種交付金、すなわち原発を強要するための札ビラたたき用資金である。
 第三は「環境コスト」で原発事故の後始末のためのさまざまな補償、移転費用、環境汚染復元費用、損害賠償などを指す。
 電力会社や政府、官僚、御用学者、電力労組らが喧伝する発電コストとはこのうちの第一のコストだけであり、それ以外はすべて税金で垂れ流し的にまかなわれている。将来のツケもふくめてこれらを正常にコスト計算に加えれば、とても原発は安いなどと言えたものではない。
《原発開発に関わって国民が負担するコストは非常に大きい。事故対応に関するコストも含めれば、国民にとって原子力発電に経済性がないことは間違いない》(128ページ)のである。
 もちろん、そればかりではない。「原子力村」(大島はこれを「原子力複合体」と呼ぶ)と呼ばれる強大な利益集団は原発の安全性確保を軽視し、「安全神話」をばらまき、反対派を徹底的に排除した無批判状況のなかで、いったん事故が起きれば徹底的に隠蔽するという許しがたき傲慢によってみずからの無能をも隠蔽し、利権をむさぼっているのである。
《原子力政策決定の場は、原子力発電推進に賛成する利益集団で構成され、一般国民からすれば理解しにくいほど原子力開発一辺倒の議論になっている。原子力の利用に疑問が差し挟まれるようなことは一切ない》(160ページ)のである。では、どうするか。
《原子力複合体(=原子力村)の共通点は、原子力発電利用を進めることに関して疑いを持たず、他の意見を排除しようとするところにある。原発ゼロを含めて原子力政策を再検討するためには、原子力複合体を解体し、根本をたたなければ行政の公正性と中立性が満たされない。原子力複合体における安全神話は非常に根深い。それを解体することなしに、原子力政策の根本的見直しはできない。/まず第一に、福島第一原発事故の原因究明を行い、原子力政策の決定に関与した者全ての責任を問うべきである。》(166~167ページ)
 ところが、これに反して日本原子力学会は「事故原因の究明に関して個人の責任追及を目的とすべきでない」とする声明を出しているとのことである。学会長は原子力部会部会長である東大教授の田中知。クロを隠蔽しようとするこんな学会はまったくヤクザの弁護士のようなものであるとしか言いようがない。利権にまみれた学会などになんの知的権威もない。さっそくこんな犯罪者集団的学会から解体すべきであろう。原子力安全委員会、資源エネルギー庁などもその一味である。たしか原子力保安院とかいうどうしようもないチンピラ(西山某とかいったな)が表に出ていた組織は解体されたかどこかに吸収されたはずだが。
 そういうわけで《福島の事態が目の前にある東日本にとって、「原子力発電は安全である」という神話は金輪際通用しない。東日本において原発を再開させたり、ましてや新規の原発をつくるなどということは極めて難しくなったと言えるだろう》(187ページ)どころか、日本全国で原発再稼働を許してはならないのである。《もはや脱原発は理念ではなく、現実の政策としてとらえなければならない。》(190ページ)
 再生可能エネルギーの十分な現実性についてもくわしく述べられ、立証されているので、反原発から脱原発にいたるためのこれらの議論の詳細については、本書の閲読を期待したほうがいいだろう。脱原発推進の理論構築のために広く読まれるべき本である。(2013/4/23)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)

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