2 いまの哲学の惨状

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 茂木健一郎がある座談会のなかで哲学の現在をめぐって以下のような発言をしているのが目を引いた。
《ツァラトゥストラのメタファーでいうと、自ら山を降りていくか、それともみんなに登ってきてもらうかの差が大きいと思うんです。大思想家が生きていて、岩波の哲学講座がよく売れていた頃は、みんなが山に登ろうとしていたんです、人びとの方が。(中略)「町場の哲学」書の読者は、知性派であるにしても、いわば何も苦労しないでポカーッと口を開けて待っている。哲学者がそっちへ降りていって、わかりやすく辻説法をする。いま売れている哲学書は、広い意味のエンターテインメントです。厳しい修行の場とは、また違った倫理と様式になってしまっている。》(座談会「哲学はいま」、「図書」2008年4月号)
 まったくその通りのいまの哲学の惨状である。みずから考えるのではなく、わかりやすい辻説法を待っている。これはテレビと同じだ。受け身の哲学、受け身の読書。だから読書する喜びも哲学する意気込みも感じられないものが横行する。ややこしく小難しい議論をする本や哲学書は敬遠され、どちらかと言えばわかりやすくなじみやすい本が喜ばれるのだ。〈教養〉と呼ばれるものがバカにされ、基礎的な知識を得るための努力が軽んじられる。こうした知の現状はすべての学問の頽廃に及んでいる。東日本大震災での東京電力をはじめとする原発推進派のすべて、東京大学工学部を中心とする原発擁護派の御用学者たちの頽廃ぶりは犯罪的でさえある。科学することの哲学以前の話である。
 こういうカネ(利権)と権力で泥まみれになった学問をどうやって再建するか、哲学の役割はいまこそ重要になってきていると思うのだが。(2011/12/7)

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未来の窓 1997-2011

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