57 ルソーの勉強法

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 ルソーは二〇代半ばで死にそうになって、「毎日をこれが最後の一日」と考えるような状態になったとき、これまでなおざりにしてきた読書をつうじての研究によってこの危機を乗り越えることができた。医者の処方をあてにせず、体力の許すかぎりで普通の生活に戻ってみることによって、なんとか回復したのだが、そのときのことを回想してこんなふうに書いている。
《要するに、息を引きとるまで勉強するということがわたしにすばらしく思えたためか、あるいは生きられるというかすかな希望が心の底にひそんでいたためか、死のおとずれを待ちつつも、わたしの研究心はおとろえなかった。それどころか、かえってさかんになり、わたしは来世のためにわずかばかりの知識をせっせとかきあつめるのだった。》(『告白』第六巻)
 こうしてルソーは二十五歳ぐらいまでは「何も知らずいて、それからいっさいを学ぼうとするには、時間をうまく使う覚悟が必要だ」という認識に達し、「万難を排して、あらゆる事柄についての知識を獲得しよう」とする。二十五歳からの勉強というだけでも、これだけの熱意をもってすれば、すでにそれだけでなにものかであろう。ルソーはこの実践のなかで、ひとつの方法を発見する。
《精神の集中を要する本を数ページもつづけて読むと、気が散ってぼんやりしてしまう。それ以上がんばっても骨折り損で、目まいがしてきて、なにも見えなくなる。だが、異なった主題ならたてつづけにやってきても、目先がかわるから、中休みをしなくても楽につづけることができるのだ。》
 これはわたしにはとてもよくわかる。以前にも書いたが、ルソーの考え方はわたしには見習いやすいところがある。どこか気質が似ているのかもしれない。もっともルソーほどにすべての知識をいまさらめざそうというわたしではないのだが。
 先日、若い友人にわたしの古典読書法について感想を言われたのだが、わたしのルソー的分裂気質は一冊ずつの読書には集中できないところがあり、どうしても目先の読書の必要に迫られてそれに追われてしまうばかりで、本来の自分が読むべき本の山がどんどん堆積していってしまう。このままいくとどんどんバカになる(バカのままになる)という恐怖からいわゆる〈古典〉と呼ばれるものを最低一〇ページずつ寝るまえに読むという習慣をつけるようにした。三〇〇ページの本ならひと月以内に読了するというわけだ。さらにジャンルのちがう〈古典〉を複数読むようにしたから、おもしろいことに、そういうノルマを課すことによって、いろいろなレベルで読まなければならない本を同時並行的に読み進めることができるようになって、以前より読書量が格段に上がった。気分転換ができるからとっかえひっかえ読んでいても飽きるヒマがないからである。こういう読み方をすると、一冊ごとの読書のペースはさして上がらないが、同時に何冊も読んでいるので、どれかがしょっちゅう読み終わることになり、そのジャンルごとに後続本を決める楽しさも出てくるというわけである。いかにも教養主義的と思われるかもしれないが、まさにそうなのかもしれない。ルソーじゃないが、来世のための読書にすぎなくても、べつにかまわない。読書というものは読めば読むほど、読まなければ気がすまない本が増えていくものだが、こうしたネットワークのなかに既読本が出てくることが相対的に多くなると、読書の厚みが増してくるような気がしてくる。
 こうしてルソーの『告白』などという、もしかしたら積ん読に終わったかもしれないおもしろい本と出会うことができたのである。これを読まなければ、こんな文章を書くこともなかっただろうと思うと、読書の効用というのはなかなかのものであるとあらためて思う次第である。(2012/12/3)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を転載したものです。)

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