11 出版事業の発明

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 出版の問題について教材用にその概略を書く必要があって、古代ギリシアの全盛期アテナイで出版事業と書籍市場が早くも発生していたというカール・ポパーの講演があったのを思い出した。これはポパーが一九九二年の京都賞受賞のさいに来日したときの記念講演で、長尾龍一・河上倫逸編『開かれた社会の哲学──カール・ポパーと現代』(一九九四年、未來社刊)という本に収録されている。
 ここでポパーはあくまでも大ざっぱなものだがと断ったうえで、「歴史上の新発見」として仮説を提示したのである。その後、この議論がどういう位置づけを獲得したのか不明だが、通常は十五世紀のグーテンベルクによる聖書印刷によって開始されたと見なされている近代印刷術とそれにともなう出版事業がなんと二千年も前にさかのぼるギリシア時代にその萌芽があったというのだから驚きだ。
 ポパーによれば、紀元前六世紀ごろのアテナイの僭主であると同時に文化事業の擁護者でもあったペイシストラトスがホメロスの叙事詩を書物とする事業を始めたところに端を発するそうである。「ペイシストラトスのこのホメロス文書化事業こそ、後世に比類なき影響を及ぼしたもので、それは西洋文明史上の焦点というべきものである」とポパーはこの講演での中心命題を要約している。
 どういうことかというと、当時のアテナイ市民のあいだに人気の高かったホメロスの作品を公開朗読会のさいに書物のかたちで配布したところ「大人気を博したことが、出版を商売にしようというような考えを生み出した」ようである。もちろんこの時代に印刷機などはないので、どうしたのか。
《書物の制作は、具体的には、大勢の文字を解する奴隷に、口頭で唱えたものを書き取らせる方法で行なわれた(......)書き取った紙片は巻物に編纂されて、「書物」(ビブロス)とよばれて、「オルケストラ」と呼ばれた場所で売り出されました。》(20ページ)
 こうしてまずホメロス人気に乗って開始された出版事業で、このあと他の詩人の詩集や悲劇・喜劇の作品などがどんどん書物化され、市場(アゴラ)における書籍市場(ビブリオニア)が制度として確立することになった。こうして出版を意図する著述までも現われるようになり、そうした最初の著書はアナクサゴラスの科学論『自然論』だとポパーは推測している。
 こうした地中海世界における最初の出版行為によって出版事業が発明されたとポパーは言う。書籍市場が確立されることによって出版事業も成立したわけであり、ポパーによれば、こうした制度の確立によって市民の字を書く能力の発展をうながし、権力者の「陶片追放」(オストラシズム)を可能にさせ、ギリシアの文化と民主主義の発展に大きく寄与することになったのだということ、それがヨーロッパ文化の起源にもなっていくという壮大なスケールの見取り図がつくられていく。
 この講演をしめくくるにあたってポパーはつぎのように結論づける。
《われわれの文明は、その発端から「書物の文明」(bookish civilization)であったのです。この文明は、伝統に依存しながらも革新的で、真摯であり、知的責任を重んじ、比類ない想像力と創造性を発揮し、自由を尊び、それへの侵害に敏感な文明ですが、これらすべての属性の根底にあるのが、「書物への愛」に他なりません。私は、短期的流行や、ラジオやテレビ、コンピューターなどによって、人々の書物への愛が毀損されないこと、いな多少でも減殺されないことを祈ってやまないのです。》(26ページ)
 いまならこれに携帯電話やインターネット、さらには電子書籍などが加えられるべきだろう。しかしポパーはこのあとさらにつぎのようにクギを刺している。
《しかし私は、書物讃美論によってこの講演の結末としたくはありません。(......)忘れてならないのは、文明を構成するのは人間であり、文明を身につけた、即ち有意義な、文明的な生活を送っている個々の女性ないし男性だということです。書物であれ、文明の他の諸要素であれ、それはわれわれの人間的目的を増進するところにその意義があるのです。》(26-27ページ)
 このポパーの言明をこそ、わたしたちはあらためて出版文化再生のための原点に据えなければならない。(2012/1/15)

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