46 自分でものを考える能力

| トラックバック(0)
 ニーチェは書物とたんなる文献学者との関係をこんなふうに書いている。
《ただ書物を「ひっかきまわして検索する」ことだけしかしない学者は――並みの文献学者で日に約二百冊は扱わねばなるまい――しまいには、自分の頭でものを考える能力をまったくなくしてしまう。本をひっかきまわさなければ、考えられないのだ。彼が考えるとは、刺戟(――本から読んだ思想)に_¨返答する¨_ということ――要するにただ反応するだけなのだ。こういう学者は、すでに他人が考えたことに然りや否を言うこと、つまり批評することに、その全力を使いはたしてしまって――彼自身はもはや考えない......》(ニーチェ『この人を見よ』岩波文庫66ページ)
 ニーチェは最初はたしかギリシア古典の文献学者として生涯のスタートを切ったから、こうした学者たちの自己喪失のプロセスをよく見ていたのだろう。その世界からパージされるにつけルサンチマンも募ったことだろう。しかしこのニーチェの批判は当時ばかりでなく現代にもずばり当たっている。多くの学者が自分の考えをまとめられず、他人の意見の受け売りに終始しているのを見ることができる。もっとも現代の学者は以前より書物を読まないひとが増えているし、インターネットやデータベースの利用によって本をひっかきまわさなくても検索によって省エネできるからますます書物から離れているかもしれない。
 ニーチェは辛辣にもこうつづけている。
《学者――それは一種のデカダンだ。――わたしは自分の目で見て知っているが、天分あり、豊かで自由な素質をもつ人々が、三十代でもう「読書ですり切れ」、火花――つまり「思想」を発するためにはひとに擦ってもらわねばならないマッチになりさがっている。――一日のはじまる早朝、清新の気がみなぎって、自分の力も曙光と共にかがやいているのに、_¨本¨_を読むこと――それをわたしは悪徳と呼ぶ!――》(同前)
 なんと、最後には読書行為まで非難されてしまうのである。ここまで言わなくても、オリジナリティにあふれる学者というものはそんなに多いわけがないから、どのみち本を読むだけの学者も出版の世界にとってはお得意さんとして必要でもある。
 本を読むだけでなく、自分の考えをつねに清新にもちつづけること、これはなかなか至難のわざである。出版にかかわる人間としてはそうした著者をたえず発見していかなければならないし、ものを書き考える人間としての自分自身もまたそうであるようにつとめなければならないのだ。(2012/7/21)

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.miraisha.co.jp/mt/mt-tb.cgi/335

未来の窓 1997-2011

最近のブログ記事 購読する このブログを購読