48 思考言語の貧弱化――アドルノの慨嘆

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 重厚で濃密な文章が書かれなくなってきているという実感はずいぶん以前からある。最近はツイッターやブログなどで簡単に意見を書いて発信できることもあり、それらの特徴は「早い、短い、軽い」といった点にあるので、思いついたらすぐ書いてすぐ発信してしまうところがあり、ますます情報が断片化し、軽量化してきている。なにしろ東日本大震災の渦中でもツイッターで被害の実況詩を書けば、リアルさがお手軽な感動を呼んで話題になる時代である。それもことばの力だと言えばそれまでだが、ことばがじっくり練られ熟成されて詩なり文章なりとして現われてくるということがめっきり少なくなった。著者も編集者もそうしたことばの熟成を待っていられないのである。かく言うわたしもこんなブログを書いているぐらいだから、同じ穴のムジナと言われてもしかたないのだが。
 こんな状況は、しかしもっと前からあったとも言えないわけではないらしい。1969年に亡くなったテオドール・W・アドルノは「句読点」というおもしろいエッセイで文章記号にかんするさまざまな問題について触れているなかで、セミコロンの死滅という現象について、それが数頁にわたる段落を恐れるという問題に結びつけてつぎのように書いている。
《この恐れは市場の産物であり、骨が折れることを嫌う顧客によって生み出され、それにまず編集者が、そして著者が、生活のために順応したのだが、彼らはみずから順応した挙げ句に、明晰さだとか、客観的な仮借のなさだとか、圧縮した正確さだとかいうイデオロギーを発明した。こうした傾向のもとにおかれるのは、言語だけではない。事柄も同様である。言語と事柄は分解できないのだから、複合文が犠牲にされることによって、思考の息が短くなる。》(「みすず」2009年6月号)
 ここでセミコロンの死滅というのは欧米語特有の文章記号にかかわる現象だが、そこで問題とされていることはセミコロンで切り分けられるひとまとまりの文が、それを一部にふくむより大きな文(ピリオドで完結する)という単位に統合されて、より大きな思考を形成することがない、という思考言語の貧弱化、浅薄さなのである。日本語のように句点と読点が主要な分節記号となっている言語においては直接的な問題ではないように見えるが、そうではなく、思考がひとつの文(フレーズ)の流れをおのずから形成し、それらが縒りあわされてひとつの段落(パラグラフ)を形成するという文章のおのずからなる営みが短絡的になりつつあるという、洋の東西を問わずに生じている思考の簡略化が日本語においても生じてきていることが問題なのである。一般的に文が短くなり、段落も短くなって、アドルノの言う〈圧縮した正確さ〉というイデオロギーによって、読者の知的怠慢に迎合し、編集者と著者の手抜きが正当化されることになる。
 著者の思考の息が短くなって適当にアガリにしてしまい、ちょっとした美辞麗句と簡便なチャートを付ければ読者に喜ばれる(=売れる)というどうしようもない知的頽廃の風潮を助長しているのが出版社と編集者なのだと言えば、すこしは反発するひともいるだろうか。すでにアドルノの慨嘆からも時代はだいぶ経てきて、この嘆きはますます大きくなるばかりか、息の長い思考を展開する著者も、それを読み抜く読者もいまや不在になりつつある昨今は、ついに印刷物という原初の形態さえも放棄して電子情報化への道へなぜか突き進もうとしているのだ。(2012/8/9)
(この文章は「西谷の本気でトーク」で掲載した同文の転載です。)

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