2013年3月アーカイブ

 3月26日、東京大学駒場キャンパスにて「人文学と制度」というワークショップが開かれた。未來社から刊行されたばかりの西山雄二編『人文学と制度』をめぐっておこなわれたもので、執筆者(西山雄二、宮崎裕助、大河内泰樹、藤田尚志、星野太の各氏)の報告とあわせて活発なフロア・ディスカッションがたたかわされ、予定の二時間を軽くオーバーして終了した。
 大学において人文学を研究対象とすること、そのうちに孕まれる危機が現在の学問の危機であると同時に大学という制度の危機でもあるということをふまえ、どのようにこれを打開していこうとするのか、打開できるのか、何のための学問なのか、学問はどこへむけて開かれようとしているのか、といったさまざまな課題をかかえていることがあらためて浮彫りにされた。大学という制度の歴史と現在を「哲学」という視点からそのかかわりを俎上に乗せた西山さんの前編著『哲学と大学』の諸議論の延長線上に今回のテーマは設定されたわけである。
 現在の大学制度自体が厳しい管理主義的な功利的システムのなかに組み込まれ、そこでの学問のありかたも従来のような純学問的な方向性は無用化され、社会の現実的な利益や目的に速効性のある知見ばかりがもてはやされ、そうした知見を生み出す学問それ自体への問いが不問に付されたままにされている。ワークショップでも飛び出した〈アカデミック・キャピタリズム〉ということばに象徴されるように、いまや大学は社会の批判的実践のための基盤ではなく、現状を維持するための護教的な制度に成り下がろうとしている。そこでは豊かな可能性をもった人間を育て上げるのではなく、現状社会に無批判的に奉仕する高機能な歯車人間を輩出するだけの組織になろうとしているのだ。
 ここで議論の対象とされている人文学の危機とは、こうした大学をとりかこむ現実のむき出しの経済論理にこれまでにないほど直接的に向き合わざるをえなくなった事態を反映している。そもそも人文学という名称そのものが示しているように、かつての人文科学と総称された学問形態――哲学・思想、宗教、社会、歴史、心理、教育――と重なり合い、それらを包摂し、相互媒介されるところに立ち現われてきた新しい学問の方法である。それらはいまだ固有の領域をもたず、それにかかわる論者それぞれに固有の問題領域やテーマ設定がある、いわば生成途上の学知なのである。ただ共通する一点は、これまでの学問体系の狭い枠組みに妥協的に取り込まれることをよしとせず、社会のリアルな動きにたえず目を配りながらこれを批判的に検討することをみずからの使命とすることである。ここにおいて人文学をみずから選択するものは、その対象化の先にかならず対象への批判的視点を担保し、そのことによって対象からの反動を覚悟しなければならない。その意味で、人文学とはあらかじめ危機的であることをその属性とすることを余儀なくされた学知である、と言ってよい。
 いま、人文学の危機が取り沙汰されるのは、この危機的な属性がいよいよ制度的な外圧として学問や研究を潰しにかかってきたことへの危機感の現われなのではないか。そのことにわれわれは敏感でなければならないのは言うまでもないが、そうした危機のなかでこそ人文学の体幹が鍛えられ、そこから新たな飛躍が出現するということももう一方の真相である。優れた人文書とはそうした危機の産物であり、危機的状況を逆手にとって混沌とした状況に危機の本質をみごとに露出させてきたではないか。人文学を志すものはいまこそこの逆境を乗り越えなければならない。そう言うのはたやすいが、ぜひともこの壁を克服してもらいたい。それしか先に道はないからだ。
 ワークショップの最後にあらぬことか総括的な発言をするべく指名されたが、わたしが言いたかったのは、こうした制度の危機とは、大学のなかにあるだけでなく、いわゆる外部としての経済社会のなかに世界的趨勢として現出しているものであって、わたしの属する出版の世界もその渦中にあり、そのなかで優れた人文書の掘り起こしをめざして悪戦苦闘する日常のなかで、この危機をともになんとか乗り越えていきたい、その闘争をつうじて人文学の未来が見えてくることを願っているということである。その意味でこの論集がこういう問題の所在に手を付けたのであるからには、これを起点にさらなる問題の掘削が必要となるだろうし、おおいに期待しなければならない。(2013/3/28)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)

(なお、この論集をめぐるトークショーが来たる29日夜にブックファースト新宿店地下にて、西山雄二さんと小林康夫さんの対談形式でおこなわれる予定である。さらなる問題の深化をみたいと思う。ぜひ参加されたい。)

 昨年暮れに申請が締め切られた経済産業省推進の「コンテンツ緊急電子化事業」も最終的にはどうやら予定していた予算を消化したらしい。出版界の電子化事業を国がバックアップするという触れ込みで始められた事業だが、出版界の当初の反応の悪さもあってかなり難航し、途中で何度も条件緩和などがなされて、なんとか目標を達成することができたようである。
 とにかく世は挙げて「電子書籍」化へむけて動こうとしている。これには一九九六年をピークとして下降をつづけてきている出版界の売上げ減少を食い止めようとする業界努力と言えなくもないが、はたして電子書籍というものがほんとうに出版界にとって、あるいは出版文化にとって起死回生策になるのだろうか。
 ひとくちに「電子書籍」といってもさまざまな形態があることをひとはあまり知らないのではないか。テレビなどが喧伝するように、アマゾンのキンドルのような電子書籍用リーダーを使って読書をすることがこれからの読書モデルと思わされている。しかし「電子書籍」と呼ばれるもののなかには、紀伊國屋書店やジャパンナレッジのように、既刊本のページを利用者に閲覧できるようにしたものもある。
 今後、電子書籍がさまざまなかたちで開発され商品化されていくことは間違いないが、アメリカのように、電子書籍が紙媒体の書籍(従来の書籍)を売上げにおいて上回ってしまうというような事態は、日本やヨーロッパのように歴史が古く書籍文化の伝統の厚みがある国では、そう簡単に起こらないのではないか。これには国土の広さ、書店の身近さ、言語表記の問題(なんといっても英語は文字数が少ない)といった点にも原因がある。
 日本の現状で言えば、これまで積極的に電子書籍化がすすめられてきたのは、マンガ、コミック、ベストセラー小説といったたぐいの一般書である。これらは何度も読み返したり立ち戻ったりして読むものではなく、一方向的に進められていく「読書」であり、総じて一過的なものである。それにたいして専門書出版社があまり電子書籍に乗り気でなかったのは、もともとビジネスモデルとして想定しにくかったからでもあるが、それ以上にこうしたリーダー上で読むにはむずかしい種類のコンテンツが専門書だからである。
 書物とはたんなる情報のパッケージではなく、それ自体がある種の固有価値としてのモノであり、読者がそれらを熟読することによって無限の可能性にみずからがひらかれていくものである。本のかたち、活字やレイアウトの美しさ、装幀などによって一冊の書物としての存在感をもち、それが読書体験をつうじて人間の脳にしっかり定着される。モニタ上の電子情報にくらべて書物を通じての読書の記憶は脳のより深いところで定着すると言われている。こうした深い経験としての読書こそがこれまでの文化を創ってきたのであり、出版文化とはまさにそこにしか存在しない。本の内容をたんに情報としてしかとらえられなくなっている読者が増えているとしたら日本の将来は由々しきものとなろう。
 電子書籍とはオリジナルの書物の二次的派生物として存在理由があるだろうが、オリジナルの書物不在のところからは新しい文化は生まれない。出版界が書物のオリジナル開発に力を入れなくなり、電子書籍化に血道をあげようとするなら、それは本末転倒の自滅行為となるだろう。

(この文章は「サンデー毎日」2月10日号に掲載された「『コピー』からは新しい文化は生まれない」の元原稿を転載したものです。内容的に本欄の「56 電子書籍はオリジナルをどこまで補完できるのか」と重なるところがあります。)