2014年10月アーカイブ

 未來社のPR誌「未来」は1968年以来46年にわたって月刊を維持してきたが、この10月号をもって月刊をいったん終結し、来年1月刊行予定の号から季刊に移行することになった。長いあいだ購読していただいてきた読者および関心をもってきていただいた方々にはこの場を借りて長年のご愛顧へのお礼とお詫びを申し上げたい。
 小社は委託制をやめて注文制を採用するにあたって最終的な顧客である書店および読者への理解と協力をもとめて、それまで不定期刊であり新刊案内的パンフレットにすぎなかった「未来」を、出版社と読者のあいだをつなぐリトル・マガジンとして戦略的PR誌という位置づけから月刊に移行したのである。注文制というどちらかと言えば出版社本位とも受け取られかねない販売方法における書店店頭での露出度の低下を補い、その本を必要とする読者にできるだけ適切な出版情報を届けるために、自社出版物をふくむ出版環境・読書環境のよりよき整備へむけておこがましくもたんなるPR誌を超えた出版情報誌としてスタートを切ったのだった。
 しかしながら当時に比べると未來社の出版点数が大幅に減少していることもあり、新刊点数に比して「未来」にかかる比重が過度に高くなってしまい、肝心の新刊製作が遅れをとるという矛盾したかたちになってしまっているアンバランスを解消するため、現在の力では季刊ぐらいがちょうど現実的だということにいまさらながら気づいたからである。おせっかいにも「未来」を廃刊したらどうかという「忠告」をしてくれるひとも出てくる始末だったが、未來社にとっては「未来」は生命線である。ほかにもいろいろ理由はあるが、とにかくこの季刊化という選択は一見、一歩後退のように思われるかもしれないが、わたしからすればより積極的な意味でのスリム化だと思っている。一号ごとの質と量をより充実させるかたちでの季刊化なら読者にも納得してもらえるだろうと判断したわけである。
 この決定通知を「未来」の9月号と10月号で二度にわたって掲載したため、思ったほどの混乱はなく、残念がってくれるありがたい読者はいるし、季刊化にあたって1号あたり100円から思い切って200円にさせてもらったことにたいしてもクレームはいまのところひとりも出てきていない。購読者減はおこることも想定ずみだが、いまのところ継続してくれるひとも多く、しっかり「季刊未来」と書いてきてくれるひともかなりいて、周知のうえでの購読継続ということがうかがわれる。たいへんありがたいことだと思いつつ、季刊後の内容にたいする期待と責任にたいして気をひきしめているところである。
 この季刊化にあたっては、公開するまえに連載中の著者や有料広告を出してくれている仲間の主要出版社、製作にかかわってくれている取引先にはみずから直接出向き、しかるべき立場のひとへの事情説明と了解をとったことは言うまでもない。この業界にありがちな無用な誤解や無責任なうわさ流しに事前に最小限の対応をしておくためでもあったが、そうしたこともすべて杞憂だったのかもしれず、むしろそうした変化にたいしてあまりにも無反応なのに拍子抜けしているぐらいである。
 そういうおりもおり、東京大学出版会が出しているPR誌「UP」6月号の「学術出版」コラムで責任者のK氏が「UP」500号刊行にちなんで書いていることが心に沁みた。「出版不況が深まっていく状況下で、いくつかのPR誌が休刊したり季刊へ変更になったりするなか、装いもかわらず、よくここまで継続してきたと思う」とK氏はまるで「未来」のことを予測していたかのように書いていたのだが、もちろん前後関係としてそういうことはない。ただこうした言説に表われるような状況が現実的に存在することは疑いない。とはいえ、「未来」の季刊化がもっぱら社内事情によるものであることから、こうした事態が他に及ぶことはいまのところ考えられないし、すでに書いたように、この季刊化は積極的な戦術的一歩後退なのであるから、新しい第一歩だと考えている。(2014/10/22)

「エディターシップ」3号に掲載された井出彰さん(現在、図書新聞社社長)の「『日本読書新聞』と混沌の六〇年代」という講演録がおもしろい。井出さんが「日本読書新聞」の編集長だった話は不覚にも知らなかった。新左翼系の運動家で官憲につけまわされていた話もなかなかリアルだ。わたしも「日本読書新聞」が廃刊になった1984年前半に半年間「詩時評」をいまは東京新聞にいる大日方公男に頼まれて書いていたので、この年の後半に廃刊になったことを記憶している。廃刊の理由がはっきりしないというのもおもしろいが、そのころは井出さんはもういなかったらしい。
 それにしても井出さんも話しているが、メモをとっていないのでいろいろ歴史的に重要な事実がはっきり日付を特定できないために、記憶だけにたよっているという問題がある。合同出版の経営に関与した「木曜会」というのがあったそうで、7社の硬派出版社の社長が毎年交代で社長をつとめた話が出てくるが、そのうちのひとりが西谷能雄だったとの話はわたしは聞いたことがない。井出さんも「たぶん西谷能雄さんの息子の能英さんだって、そういうことは知らないと思うのです」と語っているが、たしかにわたしも知らない話である。この7人とは竹森久次(五月書房)、小宮山量平(理論社)、竹村一(三一書房)と西谷能雄などで、井出さんに言わせると「彼らは共産党員であって」ということになっているが、わたしの知るかぎり父は共産党シンパではあっても党員になったことはなかったはずである。別にどうでもいいけど、井出さんに確認したところ、どうもそのへんは曖昧だったらしく、ひとから聞いた話だそうである。
 同じ号で、みずのわ出版の柳原一徳さんの「世代を繋ぐ仕事」という講演録もなかなかいい。「出版に携わる人間は、直截的な運動によって社会を変えていくのではない。一点一点、丁寧に、まともな本を世に出していくこと」がなによりも大切だというしっかりした視点をもっている。未來社にもかかわりのある宮本常一にかんしても、著作権を悪用する事件があったことにも触れていて、実態がはっきりわかった。宮本の生地と同じ周防大島出身だが、いまは畑仕事をしながらひとり出版社をつづけているそうで、地方出版はほんとうに大変そうだ。
 この号は、井出さんが父のことを話しているからとトランスビューの中嶋廣さんから送ってもらったものだが、なかなかの充実ぶりだ。中嶋さんの「鷲尾賢也と小高賢」は鷲尾さんの追悼文として読ませるものがあり、わたしは接する機会がほとんどなかったが、会って話しておきたかったひとだと思った。この鷲尾さんには二、三年まえにいちど声をかけられたことがある。たしか高麗隆彦さんが古巣の精興社の画廊で装幀本の個展を開いたときだったと思うが、鷲尾さんが編集(インタビュー)した本への[未来の窓]での批判を褒められたことを思い出した。あなたの言うことはほとんどあってますよ、と鷲尾さんは率直に言ってくれたのである。中嶋さんの文章によると、ひとを褒めることはほとんどなかったという鷲尾さんがどういうつもりでそう言ったのか、いまとなってはわからない。本のことが無類に好きで、「生まれ変わってもやりたい仕事だ」という編集者であった鷲尾さんからすると、わたしのような計画性のない、行き当たりばったりの仕事はさぞや編集者の風上にも置けないものなのだろうと痛感する。(2014/10/4)

(この文章は「西谷の本音でトーク」から転載したものです。)