2012年10月アーカイブ

 28日の夕方に那覇に着き、さっそく6時から首里のレストラン「FORATO」で仲里効『悲しき亜言語帯――沖縄・交差する植民地主義』(未來社)・崎山多美『月や、あらん』(なんよう文庫)の共同出版会に参加し、つづいて29日は6時から久米の沖縄青年会館で写真家・山田實さんの94歳の誕生祝いをかねた、写真集『故郷は戦場だった』(未來社)と『山田實が見た戦後沖縄』(琉球新報社)の出版を祝う会に出席した。後者はわたしが力を入れてきた沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉全9巻の完結祝いをかねての祝賀会でもあり盛大な集まりだった。めずらしく日曜と月曜という変則的日程だったが、いずれも仲里効さんがキーマンとしてからんだ企画の集大成であることもあり、いずれも版元挨拶が設定されていて、これは無理をしてでも参加しないわけにいかなかった。それに9月から沖縄県立博物館・美術館で開催されている「山田實展 人と時の往来」もきょうの朝早く出かけて行って急ぎ足ながら見て東京へ帰ってきたという次第である。
 仲里効さんの新著『悲しき亜言語帯』は、1972年という沖縄の「本土復帰」の年の映画と映像を対象とした『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』(2007年)と、沖縄に関係の深い写真家を論じた『フォトネシア――眼の回帰線』(2009年)とともに、わたしが命名したということになっている〈仲里効沖縄批評三部作〉の集大成として。小説、詩、戯曲を中心に論じた文学批評集である。いずれも沖縄のイメージや言説に深く食い込んだそれぞれの表現者の表現をめぐって、さらに批評的な鋭い分析をくわえた端倪すべからざる言説を縦横に展開した力作ぞろいである。この三部作のうち、実際にわたしが企画と編集にかかわったのは最後の2冊だが、これを〈沖縄〉と〈批評〉をコアにして仲里効という稀代の評論家に最新の論陣を張ってもらうという構想はなかなかのものだとわたしは確信している。そうしたなかで『悲しき亜言語帯』で熱く論じられた作家・崎山多美との合同出版会(出版記念会ではなく、自由に論じあうという意味での出版会だと主催者は主張していた)は、仲里さんの批評がたえず軸線を動かしながら他者との関係を構築し(直し)ていく力学を孕んでいることをおのずから示唆している。この流れのなかで崎山多美さんの小説にも今後かかわりがもてそうな予感がしている。(その後、きょうの帰りの飛行機の中で読んだ『月や、あらん』のタイトル作は、沖縄に移ってきたらしい「カリスマ女性編集者」の偏執的なこだわりが次第に内的な人格崩壊に導かれるという衝撃作で、ウチナーグチを随所に織り込んだ手法にはあらためて瞠目させられた。)
 こうした仲里効の批評が孕むおのずからなる運動の力学は、『フォトネシア』の元になった原稿を雑誌連載中に、わたしが無謀にも関心をもった(もたされた?)沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉という大企画を触発させることによって、このたび3年の年月をかけて完結した写真集全9冊にも反映している。きのうの山田實さんの祝賀会は、沖縄の写真界の草分け的存在であるばかりでなく、いまもその豊かで包容力のある人柄で沖縄の文化界の重鎮でありつづけている山田實という人間をあらためて浮彫りにした感銘深い会であった。そしてその山田さんをトリにしてシリーズ完結を意図した仲里効の文化戦略は、その意味できのうの沖縄文化人総結集の場を必然的に演出するものであったと言っても過言ではない。わたしはみごとにそのお先棒を担がせてもらったわけだが、こうした無謀ではあるが、手前味噌を覚悟で言えばおそらく日本の出版史上においても稀にみる写真集シリーズの企画の現実化は、たしかに仲里効という強力な個性と才能との遭遇なしには起こりえなかった。そのかぎりにおいて、出版人としてのわたしの仕事もここにひとつの達成をみたと自負してもいいと思う。
〈仲里効沖縄批評三部作〉と沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉全9巻のほぼ同時的完結によって、連日の出版祝賀会が開かれたのは、したがって、なんの偶然でもない。しかし、これが沖縄をめぐるわたしの一連の出版活動のひとつの大きな区切りになったことは事実であり、ある意味では寂しくなくもない。ここまでに築いてきた拠点をさらなるステップによって新しい展開を見出していかなければならないと気を引き締めなおそうと思っているところである。(2012/10/30)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)
 元東京堂店長の佐野衛さんのエッセイ集『書店の棚 本の気配』(亜紀書房)が刊行された。この11月には出版記念会も開かれる予定である。そう言えば、ちょっと前にも定年前に退職することになった佐野さんを激励する会があったのを思い出す。そのときには佐野さんについては言いたいことがあると幹事役の白石タイ塙書房社長に伝えておいたら、なんと出版社を代表してひとりだけ佐野さんへの挨拶をさせてもらったことがあった。言いたいことのほんのすこししか言い切れなかったような気がするが、持谷寿夫みすず書房社長からは挨拶がうまくなったとか、いちおうのお褒めももらった。もっとも以前がよっぽど下手だと思われていたからだろうが。事実、そうなんだけどね。そもそもこういうスピーチ嫌いだし。
 そんなこともあって、このエッセイ集についての感想のひとつも書いておきたい。先日のツイッターでも触れたが、哲学書も書いている佐野さんらしく、哲学者の引用が最後のほうは多くなっている。ハイデガーやショーペンハウアー、ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン、マルクス、それに廣松渉......といった具合。意外なのが小林秀雄についての言及がけっこう多いこと。そっちの方にも目配りしていたわけね。それからバッハしか聴かないという趣味も、へェー、という感じ。そんな佐野さんが東京堂書店という場を通じて本と人との出会いをどれほど演出していたのかがこの本を読んでいるとよくわかる。一見とっつきの悪そうに見える佐野さんが作家や物書きなどにも気に入られていることがわかって、なぜだかホッとする。わたしなんかよりよっぽどつきあい上手なんだ。出版界の知り合いもたくさん登場するが、わたしはいちども出てこない。残念な気もするが、もともとそんなにしょっちゅう出かけていたわけでもないから無理もないし、そもそもわたしなどお呼びでなかっただけかもしれない。(*)
『書店の棚 本の気配』にはそういう交友録から書店論、本とは何か、といったさまざまな話題が提供されていて、本好き人間の多面的なエッセイになっている。いくつか気にいった文言を以下に引いておく。
《本を探すということは、自分の内部のコンテクストを外部から触発されるということであり、そのコンテクストをさらに構成していくことである。この過程でさまざまな本が立ち現れてきて、それらをつぎつぎに手にとってみては内容を探るのである。》(14ページ)――本に触発されるということは自分の内部にそれを受け入れる準備がなされていることである。佐野さんはそういう準備のできているひとりである。
《もともと本というのは結果であり、それは必要なことを記述したものなのではないかと思う。アインシュタインの『相対性理論』や、ケインズの『一般理論』は、とてもベストセラー狙いで出版されたとは思えない。その内容が人間社会にとって必要だから本にしたのである。それが本として文化を支えてきたのだと思う。売って儲けようとして本を書いたのではない。》(95ページ)――まったくその通り。わたしの『出版文化再生――あらためて本の力を考える』ではそのことを主張している。これにつづけて佐野さんはこう書いているではないか。《転倒した出版文化というのは、いま述べたように必要な内容を記述するのが本であったものを、本という製品の産業形式が必要性を要請するようになってきてしまった、ということである。必要な本を出版するのが出版社なのではなく、出版産業を維持する必要が本を出版しているというのが現状ではないかという事態にたちいたっている》と。佐野さんの静かな怒りがこめられている。
《必要な本を読む読者は必ず存在する。こうした読者の数は多くないが、自分に向いた本が出れば必ず興味をもつのであり、その数は昔からそれほど変わっていない。この部分の活字離れはないと思う。こうした本を出版しようとしている編集者もまた必ずいる。》(96ページ)――そうであってほしいとわたしも念願しているし、そうした編集者のひとりであるつもりだ。
《書店はできる限り多様な読者のために役立てるような品揃えをしておければいいと思う。昔、わたしが教えられたのは、やむなく商品を絞っても、客層は絞るなという教えであった。》(97ページ)――こういう書店人ならではの発想はなるほどと思わせられた。専門書出版社はどちらかと言えば、その逆で、読者層を絞り込んでいく傾向にあるからだ。しかし、こうした本を作る側と受け入れる側の双方向へのそれぞれのベクトルがうまく作用してこそほんとうの出版文化の未来が開かれるのである。佐野さんは現場から離れたが、それにつづく書店界の人材が出てきてほしいと切に思う。

 *本稿の初出である「西谷の本音でトーク」ブログをアップしたら、それをすぐ読んでくれた佐野さんから電話があり、未來社のことも元原稿では書いたのに、ページ数の都合で割愛されることになったとのお詫び。こんど原稿を見せますと言われた。いかにも佐野さんらしい気の使い方で、逆に、半分冗談で書いたことでこちらが悪いことしちゃったかなと思ったぐらいであるが、この稿でもとくに削除していない。(2012/10/18)

(この文章は「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章[サブタイトルを一部修正]の後半を推敲のうえ転載したものです。)