2013年11月アーカイブ

 きのう(11月16日)は知念ウシさんの『シランフーナー(知らないふり)の暴力──知念ウシ政治発言集』の出版記念会東京ヴァージョンとも言うべき集会があり、わたしも主催者的立場から参加した。人数はそれほど多くはないが、沖縄の若手論客として注目を集めているウシさんの会らしく、通常の出版記念会のようなたんなるお祝いの会という以上に、相互の問題意識をぶつけあい、議論をたたかわせるまれにみる有意義な会であったと思う。わたしの司会進行が拙劣であったにもかかわらず、議論が高度なレヴェルで進行したのは、出席者たちのそれぞれの立ち位置や存在被規定性を軸にした発言がのっぴきならない現実を踏まえていたからだと思う。
 出席者の多くは、沖縄出身者やそれに近いひと、沖縄のかかえる問題に持続的な関心をもってきた研究者、メディア関係者などの割合が高かったし、在日韓国人研究者もいて、沖縄がかかえる植民地的現状をどうとらえるのか、具体的には知念ウシさんが提起している沖縄基地の本土引き取り論にどう応答するのか、各人の立場からの真率なぎりぎりの発言が次々と飛び出して、それぞれに耳を傾けざるをえない緊張感のもとで会は終始したのであった。若い沖縄出身の大学院生たちの感想を聞くこともできて、それぞれが抱えている悩みや問題意識の変遷などが率直に語られたのも新鮮だったし、これからの沖縄を考えていくうえでも彼ら彼女らに期待感を抱かせるものでもあった。
 しかし、ここでこの会の概括をこれ以上するつもりはない。そんなに簡単にまとめられるような内容ではないし、わたし自身がこれからさらに考えていくべき問題の本質をいろいろ見ることができたが、まだ十分に咀嚼できたとは言えないからである。ただ、そのなかでいちばん強く感じさせられたのは、日常われわれがほぼ無意識または常套的に使っていることばがここでは文脈が輻輳化するなかで安易に使えないということが顕在化したことである。沖縄ではことばの不用意な使い方は許されない局面もないではないが、それでも沖縄人特有のホスピタリティのせいか、かなり和らげられたものであった。しかし今回は論客がそろっていたこともあって、たとえば〈連帯〉というようなことばがしばしばもつ欺瞞性やイデオロギー性、権力的植民地主義的な無意識性が強く指弾された。
 その意味では、スピーチのなかでとりわけ在日韓国人の徐京植(ソ・キョンシク)さんの発言は、東アジアでの研究集会の例を挙げて、その複雑な立ち位置を明確に示してくれた点で印象に残った。沖縄人、韓国人、ヤマトンチューがいっしょに議論する場で進行係をつとめた徐さんはウチナーグチや自国語で語ろうとする沖縄人その他にたいしてここでは「標準語としての日本語」で議論をしようと呼びかけたところさまざまな異論が出たし、そもそも在日韓国人であって日本人でないのになぜ日本語なのか、といった反問を受けたそうである。これまでも沖縄や韓国でヤマト在住者であるためにヤマト批判を受けることもあって、たしかに沖縄や韓国からすればふつうのヤマトンチュといっしょくたに見られてしまうというかなり厄介でしんどい位置を引き受けさせられることに何度も直面したことのある人間として、知念ウシさんの基地引き取り論にたいしては在日韓国人である自分としては応えにくいが、ひとりのヤマト在住者としてはそれでもなんらかの応答をしなければならないという複雑な立場を表明され、そのためには他者にたいして自分の〈位置〉からの想像力による応答が必要なのだという回答を用意している旨の発言があった。この回答はきわめて哲学的な内容をもつので、容易には説明しづらいが、関係性の同位性に想像力をめぐらせて考えるなかから新たな関係性の構築を模索する方法とでも言えばいいだろうか。
 こうした徐さんのような立場から知念ウシさんの議論をどうとらえていくのか、ということはわたしなどの想像の埒外にあったことで不明にして気づかないできたが、〈自然的日本人〉という無媒介的な自己存在を超えた想像力の獲得がこれからは必要なのだと悟らされた会でもあったのである。その意味で日本語のなかにも深いところでの〈ことばをめぐる闘争〉が厳然として存在し、そのことにこれからは無知、無自覚ではいられないことになった。〈シランフーナー(知らんふり)の暴力〉とはその意味でも言い得て妙であることばだと再認識したしだいである。(2013/11/17-18)
 ことしのプロ野球日本シリーズはエース田中将大を中心とする東北楽天イーグルスの気迫の勝利に終わった。対する巨大戦力を誇る読売巨人軍は、一部の若手の頑張り以外には全体的に不調と不振が目立ち、監督の采配ミスもあって焦りのためか力を出し切れずに敗退した。長年の巨人ファンであるわたしとしては残念ではあったが、東北の野球ファンひいては東北人の喜ぶ姿にはただ頭を垂れるしかないし、なるべくしてなったという感も深い。世の趨勢は判官びいきもあって楽天の優勝を言祝ぐのが一般的であるようだ。巨人も戦いにくかった面もあるだろうが、楽天の優勝が早すぎることもいささか浪花節になりすぎてしまっているような気もして、なんとも複雑である。創設九年で優勝というのはすこしできすぎではないかと思えるし、早すぎた春ということばもあるぐらいだ。星野監督の優勝インタビューのことばもややセンチメンタルにすぎるとも聞こえたが、なによりもわかりやすいというのがスポーツの世界なのだから、これはこれでいいのだろう。
 東日本大震災後の行政による救済措置が思うにまかせないいま、こうした民間レベルでの東北支援はささやかであっても大きな力になるだろう。たかがスポーツ、されどスポーツなのである。そして楽天の全国的には無名の選手たちのひたむきさは、力にまさる巨人の選手たちの知名度と慢心を突破して、ほんとうに欲しいものはどうしたら手に入れることができるかを日本全国に知らしめたとも言える。
 そう考えるとこの楽天対巨人という戦いの構図は、どこか戊辰戦争の会津藩を中心とする東北列藩同盟対薩長を主体とする明治新政府軍とのいくさと似ていると言えなくもない。中央政府の大軍にたいして各個撃破されながら最後まで戦い抜いた東北勢は、敗北したとはいえ、その「義に死すとも不義に生きず」(会津藩主松平_^容保【かたもり】^_のことばとされる)ということばに現われているように、節操を曲げず時代の難局に相渉ろうとした自己に厳しい精神性ゆえに日本人のメンタリティの原点のひとつたりえている。野球のたとえはやや不謹慎のそしりを招くだろうが、この敢闘精神がよく剛を制したというのが今回の楽天の優勝でもある。
 それだけではない。問題はむしろ東日本大震災にたいする現安倍政権の基本的に無策とも言える東北支援の姿勢にある。先日、福島出身で会津にもゆかりのある高橋哲哉さんに指摘されたことだが、戊辰戦争のときに政府軍の一兵士が言ったとされる「白河以北一山百文」ということばに示されている東北蔑視の姿勢、これが近代日本をリードした薩長人のメンタリティを露骨に表現している。このことばが言わんとしているのは、白河の関より北の東北地方などは山一つが百文の値打ちしかない、という見下しなのであって、これは権謀術数をつくして明治新政府を樹立し、天下を制した薩長同盟の対東北敵対政策を反映している。幕末での京都守護職時代の会津藩によって長州藩は完膚なきまでに叩きつぶされた経緯があって、戊辰戦争のさいに会津藩にたいする必要以上の攻撃によってその恨みを晴らしたというのが歴史の教えるところである。NHKの大河ドラマ「八重の桜」をわたしは断続的にしか見ていないが、こうした側面をそれなりにとらえているようだ。安倍晋三首相が二〇〇七年に会津におもむき、「長州の先輩が会津の人々にご迷惑をかけた」と謝罪したことがあったらしいが、それが選挙のための遊説のついでに軽く触れてみるような説法でしかなかったのはその後の経緯を見ても明らかである。
 わたしは明治維新後の現代へとつながる国造りに薩長、とくに長州藩(山口県)の野望が貫かれてきていることに大いなる危惧をずっと抱いてきた。きちんと調べればわかることだが、明治政府はもとより日本軍国主義的拡張路線を押し進めてきたのは長州藩出身者だったし、戦後にかぎってみてもA級戦犯の岸信介、その弟の佐藤栄作、そして岸の孫である安倍晋三まで長州藩出自の系譜が現代日本をいまだに支配しているのである。岸などは戦後、アメリカCIAの庇護によって日本を反共の砦にすべくA級戦犯を免除されて首相にまで成り上がっているのだが、現在の安倍晋三はそのDNAを継承しているとされている。佐藤栄作は首相時代に沖縄密約の中心にいたし、いずれもアメリカの手先になって日本をアメリカの意のままにさせてきた張本人たちである。岸はヒットラーほどの大物ではないまでもさしづめゲーリング級の戦犯であって、そうすると安倍首相とはそうした戦犯の孫であり、もともと長州藩がもっていた好戦性、自己中心主義、民衆蔑視、支配欲の前時代的な妄想の持ち主である。だからそうした人物が原発再稼働(じつは核武装の準備)、憲法改悪による自前の軍隊の所有(自衛ならざる侵略軍設置)といった軍国主義復活の野望をもっているとしても、こうした長州藩出自の侵略的DNAからすれば、すべて納得がいく。「ゲーリングの孫」たる安倍首相が東アジア、とくに中国、韓国にたいして敵対的なのは、これらの国がそもそも友好の対象であるのではなく深層心理における侵略の対象予定国であるからにすぎない。
 こうした出自をもつ人間が東北地方にたいしてほんとうに共感をもつことはありえまい。安倍の会津詣でが会津若松市長によって一蹴されたのは当然であり、残虐な殺戮の爪痕がそんな便乗的な手口で解消されるはずもない。そこに民衆蔑視ゆえの軽薄さと不真面目さが露呈していることは明らかだ。
 ドイツならばゲーリングの孫が政権の座に就くなどということは考えられないだろう。もっともイタリアではムッソリーニの孫娘が議員になったりはしているが。ともあれ、この亡霊のような長州藩出身者の横暴と野望にわれわれはもうそろそろ敏感にならなければならないし、日本の政治が世界に通用する知力と行動力を発揮できるようになるためには、もうこうした亡霊から解放されるべきではなかろうか。