78 自発的隷従を打ち破ろう

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 暮れも押し詰まった昨年12月21日(土)、東京外国語大学での「ラウンドテーブル 自発的隷従を撃つ」に参加してきた。主催者の西谷修さんから連絡を受けていたことと、沖縄から批評家の仲里効さん、詩人の川満信一さんがパネラーとして参加するというので、おおいに期待して出かけたのだった。
 このシンポジウムは現代を深く考えさせ行動を促す刺戟に充ちたもので、終了後の二次会も稔りあるものだったが、議題となったエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530-1563)の『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫)が短い論説とはいえ非常におもしろく、かつ今日的にタイムリーな古典でもあった。モンテーニュの年若き無二の友人としてつとに知られていたラ・ボエシのこの若書きの書物はなんと16歳か18歳で書かれたもので、当時から危険な書物として警戒されており周囲の者たちからは死後刊行にあたってもいろいろと配慮がなされたという曰くつきのものである。それだけ16世紀当時の王政や絶対主義権力者にとっては恐るべき起爆力を秘めたものであって、その後この書物が著者の意向を離れて教会や革命派によって政治的に利用されたりしたのも無理もない。
 ラ・ボエシ自身はボルドーの司法官として短い一生を過ごし、かならずしも当時のフランス絶対王政にたいして批判的ではなく(むしろ協調的だった)、『自発的隷従論』はそうした身近な現実への具体的批判として書かれたというよりも、ひとりの権力者が存在するところにはかならず多数の隷従者が存在し、絶対者の圧政はこれら隷従する多数者によって力を与えられ、結果として支えられているという支配の構造を、当時としてもきわめて斬新な視点から解明したのである。ラ・ボエシの主張はたとえば次の一節に要約されるのではないか。
《このただひとりの圧政者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。なにかを奪う必要などない、ただなにも与えなければよい。国民が自分たちのためになにかをなすという手間も不要だ。ただ自分のためにならないことをしないだけでよいのだ。(中略)彼らは隷従をやめるだけで解放されるはずだ。みずから隷従し喉を抉らせているのも、隷従か自由かを選択する権利をもちながら、自由を放棄してあえて軛につながれているのも、みずからの悲惨な境遇を受けいれるどころか、進んでそれを求めているのも、みな民衆自身なのである。》(本書18ページ)
 ここにラ・ボエシの自発的隷従論の骨子があると言っていい。そしてこの視点は王政ならざる現代のグローバル化された世界支配の構造とはたしかにそのままあてはまるわけではないにせよ、構造的にはそっくりの心理的機制が働いている。この隷従論が自発性というものと結びついているところにラ・ボエシの現代性がある。この論をはやくからみずからのブログでとりあげていた西谷修は本書の解説で、歴代の日本政府=自民党が戦後のアメリカへの一方的な隷従をどこの国よりも自発的におこなってきた問題と重ねあわせてみているが、たしかにそう言ってみたくなるほど、とりわけいまの安倍晋三政権の政治的頽廃とアメリカへの隷属ぶりは度を越している。わたしに言わせれば、安倍政権を支持する日本人すべても同じである。西谷修が『自発的隷従論』を軸に据えて、ファシズム前夜の危機状況を読み取るべくシンポジウムを開催しようとしたゆえんである。
 この文庫本に併録されたシモーヌ・ヴェイユの「服従と自由についての考察」にはラ・ボエシの隷従論を踏まえてこんなふうに書かれている。
《多数者が――苦痛や死を強制されてさえも――服従し、少数者が支配するのである以上、「数は力だ」というのは真実ではない。ちょっと想像すればわかるように、数は弱さなのである。弱さは、飢える側、疲弊する側、懇願する側、震える側にあるのであって、幸福に生きる側、恩を授ける側、恐れさせる側にはない。民衆は、多数であるにもかかわらず従うのではなく、多数であるがゆえに従うのである。》(本書182ページ)
 つまりは隷従を習性としてしまう者たちに決定的に欠けているものは人間の本性としての〈自由〉への希求であり、いわば〈自由を命ぜられてある者〉としての人間的自覚の欠如である。民衆とは圧倒的にそうしたメンタリティに習性づけられている者のことである。「社会秩序というものは、どんなものでも、いかに必要であっても、本質的に悪である」(本書188ページ)とまで言ってのけるヴェイユにとっては「社会の力は、欺瞞なしには機能しえない。だから、人間の生におけるもっとも高貴なものすべて、すなわち、あらゆる思考の働きや、あらゆる愛の働きは、秩序にとって有害なものとなる。......思考がたえず『この世のものではない』価値の序列を構築するかぎりにおいて、それは社会を統治している力の敵となる」(本書187ページ)という結論は必然的である。
 第二次世界大戦末期の1944年に書かれたアンドレ・ブルトンの『Arcane 17 (秘法十七)』という詩的散文がある。その末尾に近い部分でブルトンはこう書く。
《人間の自由への渇望は、みずからをたえず再創造する力として維持されなければならない。自由が状態としてではなく、たえざる前進を引き起こす_¨生きた力¨_として想い描かれねばならないのは、そのためである。さらに、それは自由が、継続的にそしてもっとも巧妙なやりかたでみずからを再創造してくる強制や隷従に対立しつづけることができるただひとつの方法なのである。》(10/18叢書版p. 115)
 ここでブルトンは名こそ挙げていないが、自由に自覚的であるとは、しつこく頭をもたげてくる強制や隷従への圧力を唯一しりぞける力であることをラ・ボエシに代わって述べているように見える。ヴェイユとも共鳴しつつその反秩序性とはちがう意味で、「愛と詩と芸術」の力を鼓吹するブルトンの詩人的感性は隷従へと陥れようとする惰性的ヴェクトルを根底から突き崩す対抗的な力学を提示している。

*本論とは別に「西谷の本音でトーク」ブログで「〈自発的隷従〉の網にどういう風穴を空けるのか」というレポートと「思考のポイエーシス」ブログで「自発的隷従から自由になること」という一文をわたしは書いている。ご覧いただければさいわいである。(http://poiesis1990.cocolog-nifty.com/nishitani_talk/およびhttp://poiesis1990.cocolog-nifty.com/blog/)(2014/1/7)

(この文章は改稿のうえ「未来」2014年2月号に連載「出版文化再生10」として掲載します)

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