82 歴史のファルスを演ずるのは誰か

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 一九九二年にわたしが編集したカール・シュミットの『独裁』の訳者解説として書かれた田中浩さんの文章がある。
《独裁の問題は、こんにちでは、とかく社会主義国家にのみ特有の問題として考察の対象とされている。事実、この問題は今後二一世紀にかけて現存社会主義国家自体が解決していくべき重要問題であると思われるが、同時に、独裁の問題は自由社会を標榜する資本主義国家にとってももはや解決ずみの問題となっているわけではない。》
《そればかりか、「政治の世界」においては、国内政治・国際政治を問わず、たえず「例外状態」が発生し、政府はしばしば独断的行動と決断を迫られることがありうるであろう。このさい重要なことは、そうした行動や決断がどの程度、国民的合意や支持を得ているか、ということである。したがって、独裁の問題は、その国における民主主義の成熟度をはかる試金石とも言える。(中略)「独裁」という問題が、政治的危機状態を口実にたえず登場してくるものであるとすれば、そうした独裁が専制に転化する状況を食い止め、あるいはそれに歯止めをかけ、さらには、独裁的措置を早急に正常な政治状態に復帰させるためには、国民の側としては、「言論・思想の自由」や「政治参加の自由」などの諸権限を強化することに努め、そうした「独裁」の危険性に対抗していかなければなるまい。》
《現代のようなめまぐるしく変化する国際的政治・経済情勢においては、「例外状態」=独裁にかんする問題は、「一国民主主義」や「一国の法律」の枠内だけではとうていおさまりきれない問題を含んでくる。これをいま「独裁の国際化」と名づけるならば、この問題をめぐる国際的独裁の問題は、「緊急事態」と「決断の必要」という名目の下に国際社会における「平和の破壊」と「戦争の危険」にまで結びついている》。
 最初から長々と引用したが、いま、これをふくんだ『田中浩集第三巻 カール・シュミット』の編集にかかわっていて、これらの文章と再会し、二十年以上前に書かれた文章が現今の日本および日本を取り巻く東アジアそして世界の政治情勢にたいしてあまりにもぴったりくることにあらためて驚かざるをえない。ソ連邦の解体にはじまり、イラク、アフガン、パレスチナとつづく紛争の日常化、そして竹島、尖閣諸島をめぐる日中韓のあいだの領土争い、さらにはこのたびのウクライナ危機......。
 第二次安倍政権が企図していることはすべて現在の状況を「例外状態」とみなすように危機意識をあおり立て、「言論・思想の自由」を封殺し(特定秘密保護法案による脅し)、みずから演出した東アジア領土問題の対外的葛藤をもとに平和憲法を解体させて軍事化への道を一気に走り出そうとしているだけに、この田中さんの文章にはリアリティがある。ことあるごとに自分を「最高責任者」として押し出していこうとする安倍の強引な政治姿勢は独裁者の強権的権力志向がむきだしと言わざるをえない。
 ヒトラーの政権奪取にひと役買ったカール・シュミットは、公法学者としてヴァイマール憲法の弱点をことさらに衝いてナチの進出のための露払いをしたが、その法理論的整備が終わったところからヒトラーは一気に独裁体制を築き上げて世界戦争まで突っ走った。ある意味でシュミットは危機の思想家として大きな構想力と影響力を示したが、一方で民主主義を根底から破壊する者として反面教師的な存在でもある。
 今日の日本の衆愚政治的状況に乗った安倍の極右的軍事化路線は、シュミットのような思想的バックボーンさえもたないままに、独善的な政策を次々と打ち出してきており、いまやヒトラー時代のドイツときわめて似た環境をつくりだしてきている。まさかと思うひとがいたら、当時のドイツでも知識人や政治家が手をこまねいているうちにどんどん外堀を埋められていってしまって、気がついたときにはもうどうにもならなくなっていたという歴史の教えを知らない者である。安倍と肝胆相照らす仲の麻生副首相がいみじくも露呈させたように、国民の知らぬまにナチまがいの独裁体制を築きあげたいというのが安倍政権の野望であることはいまや明らかである。従軍慰安婦問題もできればなかったことにしようとするいまの政権は、アウシュヴィッツさえなかったことにしようとした歴史修正主義者となんら変わるところがない史実の偽造の確信犯であり、この問題をめぐって世界じゅうから指弾されてもなんら反省する気もなく、東アジアとの亀裂を深めることでこの危機を乗り越えられるとでも思っているらしい。教科書問題にかんしても、例の〈自虐〉史観という勝手な論理で改竄を企み教育現場の荒廃を生み出そうとしている。まったく狂気の沙汰である。
 わたしたちがこの政治危機に感度を失なっているようだと、丸山眞男がかつて警告したように、どんな抵抗もすることなくただ時流に流されるたけの〈不作為の責任〉(「現代における態度決定」『現代政治の思想と行動』)という罪を現代でも演じてしまうことになりかねない。危機はすぐ鼻先にきているのだ。
《ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番【ファルス】として、と、かれはつけくわえるのをわすれたのだ》とマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』の冒頭に書いている一節はよく知られている。ここでわれわれはあらためて問わなければならない。いまこの時代にヒトラーの猿真似をして民主主義を踏みにじり独裁者気取りで世界平和にやみくもに挑戦しようとする安倍は二度目のファルスの大根役者なのか、それともこの狂気に亀のように首をすくめてやりすごそうとする日本の国民がまたしても演じかねない〈不作為の責任〉こそがこのファルスの主役なのか、と。(2014/3/5)

(この文章は「未来」2014年4月号に連載「出版文化再生12」としても掲載の予定です)

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