きのう(3月23日)は小林康夫さんの東大での最終講義を拝聴した。18号館ホールに立ち見と座り込みも出るほどの観衆を前に、小林さんらしく意表を突く演出効果満点のパフォーマンスのなかにも随所に知を語り、知を演ずる歓びを感じさせる名演であったと言えよう。
開幕を告げるジョン・コルトレーンのバラッド演奏は一年生のための授業の始めにテーマ音楽として鳴らしたものだったそうだが、それにつづくヴェラスケス「ラス・メニナス」とピカソ「アヴィニョンの娘たち」の画像を背景にフーコー、デリダ、リオタールという3人の師を語り、そこから得たみずからの知的操作を本文なしの膨大な注の作成に終始したものと位置づけてみせたところに小林さんの矜持を見た。「ラス・メニナス」をフーコーが『言葉と物』の冒頭で表象分析した手つきを逆転させてあえてフーコーに異を立てるところもおもしろかったが、なによりも若いときにこうした書物と友人たちとの読書会をつうじて取り組んでいたというところに研鑽の厚みを感じさせるものがあり、みずからの知的貧困を思わされた。
ちょうど読み終わった大澤真幸との対談『「知の技法」入門』のなかで、中学、高校、大学にかけて河出書房のグリーン版世界文学全集、中央公論社版「日本の文学」全巻を読破し、「世界の名著」でさすがに息切れしたといった、いわゆる濫読というか暴力的な読書体験が小林康夫という感性と知性の構造体をつくっていることをあらためて知るのだが、この厚みこそがゆるぎのない自信をもちきたらせている当のものなのだ。つまりは引き出しが多いということにつきるのだが、小林さんがインプロヴィゼーションの名手であるのはそこに理由があるわけだ。そうしたパフォーマティヴな知のありかたを見せることが小林さんの真骨頂なのであり、当人も十分に自覚するところである。
知はなによりも行為であるとする小林さんがこの最終講義の後半をなんとみずからもふくむダンス・セッションで締めくくったのは、お見事というしかない。さきの対談本のなかですでにこう語っているではないか。《行為の究極はダンスですよね。ダンスというのは目的のない行為であり喜びのためだけの行為だから......「知」という行為もどこかでダンスみたいなことに繋がっていく。知は踊るんだと思いますね。》(218ページ)
まったく自己解説もよくできていて、この本の段階で伏線は張られていたのである。しかも最後は「ラス・メニナス」での画家の退場する場面を復元するかのように、みずからダンスの場から室外へ立ち去っていくというオチまでつけて、フーコーの分析を体現してみせたのだから、念には念を入れた演出だったことに恐れ入る。まあ、よくやるよ、といった感慨もわかないではないが、とにかく前代未聞の「最終講義」だった。
これにはさらにオチがつく。終了後、渋谷のカフェでおこなわれた二次会ではマイクを握って、これまた前代未聞の祝われる者みずからによる記念会の自作自演まで精力的に演じきってみせたのである。じつはこのあとの三次会にまで途中から参加してそこでも疲労をみせることなくしゃべりつづけていたこのヒトはなんというジイサンなのだろう。(2015/3/24)