2015年4月アーカイブ

 書籍のISBNコード(International Standard Book Number)は一冊の書物ごとに振られている世界共通ルールにもとづく番号である。いまは13桁のコードが使われるようになっており、最初の3桁は「978-」で始まることになっている。その次にくるのが国別記号、出版社記号、書名記号、最後にチェックデジット(チェック数字)という構成になっており、この10桁分が可変的である。ついでに言えば、最後のチェックデジットはそれまでの12桁の数字から自動的に計算される、誤記防止用の数字であるから、使えるのは9桁である。さらに言えば、国別記号と出版社記号は国や出版社の規模(出版された書籍数)によってどこかの時点で権力的に決められているので、実際に使える桁数にはかなり幅がある。
 ISBNコードが権力的であるというのは、たとえば国別記号で日本は「4」が与えられているが、英語圏が0と1、フランスが2、ドイツが3、ロシアが5、中国が7、などと決められており、弱小国になると5桁ぐらいになるものもある。ちなみにお隣の韓国は「89」、イタリアなどでも「88」となっている。出版社記号も2桁から数桁ぐらいになる。これも同じ理由で、たとえば岩波書店は「00」、講談社は「06」となっている。中堅出版社は3桁ないし4桁が多く、新興出版社やマイナープレスになると5桁、6桁になっている。これはどういうことかと言うと、国別記号、出版社記号、書名記号で使える9桁のうち、書名に使える桁にずいぶん差があるということである。未來社は「4-624-」となるため、書名用に5桁使えるので、最大99999冊のコード付けが可能であるが、これが出版社記号6桁の出版社になると書名用には2桁、つまり99冊しか本が作れないということになる。この差をどう考えるかは別にして、これが権力的でないと言えばうそになるだろう。だから外国の出版社の規模を判断するに出版社記号に何桁の数字があてがわれているかで、知らない出版社の規模がおよそ想像できてしまうことにもなる。
 日本ではこのISBNコードを管理しているのが日本図書コード管理センターというところで、日本書籍出版協会の別セクションと言ってもいいような組織である。
 というわけで先日、確認の必要があってこのセンターに電話をしたのだが、そこのセンター長に確認した問題への公式回答がおよそ納得のいくものでないために、わたしはこうした文書を書いて業界内外にひろく問いを立ててみたくなったのである。
 ことのおこりは、たまたま未來社が参加している書物復権の会の本年度復刊書目のなかに内田義彦著『経済学史講義』というかつてのロングセラーがあり、これを復刊するにあたり、より購入してもらいやすくするためにそれ以前の箱入りをやめてカバー装にすることにしたのであるが、そのさいに読者や図書館のためにすでに購入ずみのものとは内容的に(すくなくとも版面的に)いっさい変更がないことを明示するために[新装版]という表示をくわえたところ、ある取次窓口から書名に変更があるからISBNコードを変えてくれ、という要請が出されたのである。[新装版]というのが書名変更にあたるというのである。一般に内容に変更がある場合、改訂版とか増補版、第二版、新版などという名前を元の書名に追加して表示することを「角書き」と呼び、それをふくめたものを書名とみなすというのは常識であるが、新装版はそれにあたらないというのがわたしの見解である。わたしはだいぶ以前に日本図書館協会の専務理事から、出版社が内容に変化がないのに安易にコードを変えることがあるのは、図書館として在庫がある書籍を間違って再購入してしまうことがあるから、こういうことは絶対にやめてくれと言われたことがある。これはたまたまわたしが聞いただけの話だが、その理屈はもっともなことだと思い、たまに新装復刊するような本があってもISBNコードを変えない原則でこれまでやってきた。それこそ外見が違うだけの同一の中身にたいして2種類のコードがあるのはおかしなことだからである。それにたいして文句を言われたこともなかった。
 ところが最近はかならずしもそうではないという話で、商売的にもコードを変えたほうが販路が拡がるために変更するのがあたりまえになっているらしい。図書館が間違って購入したとしても、それは購入者の責任だという笑えない話も聞いた。ちょっとそれは出版社の頽廃じゃないの、とわたしなどは思わざるをえない。こういうことを言うと、むかしこの種の主張をしたときに言われたことがあるように、〈書生さん〉らしい小理屈だということになるかもしれないが、一物二価ならぬ一物二コードということになるんじゃないのか。
 そんなわけでこの取次窓口でもこの問題は日本図書コード管理センターの見解を聞いてくれ、ということを言われたので、さっそくセンターに確認したわけである。その結果は、驚いたことにカバーなどの外装または奥付に[新装版]と表示したらそれは書名の変更であるからISBNコードの変更が必要だという理解であり、外装を変えても表示がどこにもなければ逆にコードを変更してはならない、という見解を聞かされた。それは無原則だし、内容は同じなのに、別コードを振るというのは理念的にもおかしいのではないかと主張したところ、そういう問題にたいして議論するつもりはないときっぱり断わられてしまった。なんであれそういうルールで運用されているので、某取次窓口の判断は「正しい」のだそうだ。ただし罰則規定はないので、このルールをあてはめるかどうかは最終的に出版社の判断だとも言われる始末である。以前にも消費税増税にあたって本の総額表示問題にもそんないきさつがあったことを思い出す。わたしは前述した理念的根拠からこの「ルール」を今回にかんしては採用するつもりはない。
 最近はすべてにおいて流通効率の論理が優先してしまっており、こうした原則的な問題にたいしてもなんら考慮が払われていないような気がする。出版文化のあるべきすがたや読者の立場からものを考えないこうした自己中心的な運用のしかたを業界全体が疑問視しないかぎり、読者離れと出版文化の崩壊はいっそう進むだろう。(2015/4/25)

「みすず」の今福龍太ヘンリー・ソロー論連載をおもしろく読んでいるが、4月号の「書かれない書物」も身につまされるところがあり、興味深い指摘があった。
 ソローの生前刊行された2冊のうちの1冊『コンコード川とメリマック川の1週間』という本は予定の販売期間終了後に製作費用の全額弁済を条件として1000部刊行されたが、ほとんど売れず4年後に706部の在庫をソローは引き取ることになった。そのことを通じて本を出すだけでは見えてこなかった「幸福の断片」をソローは見出す。この奇妙な幸福感とは、今福によれば、「彼自身の私的な自由にたいして物質世界が干渉しないことの幸福感である。商品世界から疎外されることで、彼は彼自身の精神が世俗的な何ものにも束縛されていない、より自由なものであると真に感じられるのだった」というものである。わたしなども売れない本を出しているからよくわかるが、どうもこの解釈はやけっぱちにも聞こえる。これはソローだからこそしゃれになる話であって、世の中にゴマンとある売れない本の書き手がそんな幸福感を味わっているとはとうてい思えない。
 ソローの時代もいまも売れない本はやっぱり1000部程度しか作らない(作れない)というのは残念だが、ほんとうである。この1000部が1500部だろうと2000部だろうと、本なんか読まない金勘定屋なんかになると、どっちにしたところ「誰が買うんですか?」といった程度の差異でしかない。1億3000万だか4000万だかの日本人のうち1000人とか2000人程度の購買者などかぎりなくゼロに見えてしまうのだろう。まあ理想も使命感ももったことのない人間には1000部や2000部の意味を講釈しても馬の耳に念仏だろう。これじゃ馬もかわいそうか。
 ともかく強がりでもいい、こういうひとたちに理解されない「買われないことの自由」を満喫し、そこからもうすこし「買われる自由」に転換したいものである。わたしの『出版とは闘争である』はそういう本のつもりである。(2015/4/22)

 *この文章は「西谷の本音でトーク」ブログに書いたものを転載したものです。

 きのうは沖縄から知念ウシさんを迎えて普天間基地の県外移設にかんする小さな研究会があり、ウシさんに誘われてオブザーバー参加してきた。直前に会のメンバーでもある高橋哲哉さんからも連絡があり、三人で会場である岩波書店へ出向いた。
 研究会の正式の名前は「思想・良心・信教の自由研究会」というもので教師やキリスト者を中心に10年つづいている会だとあとで知った。話の骨子は、知念ウシさんの『シランフーナー(知らんふり)の暴力──知念ウシ政治発言集』(未來社、2013年)にあるように、沖縄の過剰負担となっている米軍基地をこれ以上、沖縄に置いておくわけにはいかない、日米安保を多くのヤマトンチュが支持している現状では、ヤマトが責任をもって基地を引き取るべきではないか、その痛みを知るなかで安保の存続を考えるべきではないか、という持論を展開するものであった。わたしには馴染みの説だが、この会のメンバーの多くにとっては初めて聞く話だったらしい。ウシさんの基本的見解は基地はなくすべきものであって移すだけのものではない、というものであって、基地の県外移設が最終目的ではない。ここは誤解のないようにすべき点である。沖縄人としては自分にイヤなものを他人に押しつけることはいけない、という基本的な精神的傾向がある。だからと言って、もともと自分たちが引き受けたものではない米軍基地を、普天間基地が世界一危険な基地だからという理由で同じ沖縄県にたらい回しされる謂われはない、ということである。ヤマトが必要にしているのなら応分に負担すべきじゃないか、というのがウシさんのまっとうな主張である。また、沖縄人は反基地運動のために生まれてきたわけじゃないともウシさんは言う。沖縄に行くとよくわかるが、日常生活のなかで反対運動などのために必要以上に時間とエネルギーを奪われているのが沖縄人なのだ。ヤマトでは考えられないことである。なにしろ事あるたびに県民人口140万のうち10万人の集会が開かれるのだから。東京で言えば、100万人の大集会を想像してみればよい。こうした運動のために日常生活を犠牲にしないですむようにしたい、というのがほんとうの沖縄人の心なのだと思わざるをえない。
 同じ日に翁長沖縄県知事がようやく安倍晋三首相と面談することになったが、翁長知事はウシさん同様に、もともと自分たちが招いたものでない米軍基地の代替地をどうしてまた提供しなければならないのか、という毅然とした批判を用意して安倍に迫ったが、そのあたりのことに安倍はいっさい答えようとせず、普天間基地の危険性を軽減するために、とか人道的な装いのもとにあくまでも「唯一の解決策」としての辺野古移設を押しつけようとするだけ。まったく傍若無人な振舞いだ。昨年11月の県知事選のあと、安倍は自分の思い通りにならない知事とは面会さえ拒否しつづけたのに、訪米をまえに突然の面会をすることにしたのは、言うまでもなく、マスコミ向けの(そしてヤマトンチュ向けの)「対話姿勢」といういまさらながらの擬制的なパフォーマンスにすぎない。
 ウシさんの話を聞いていて、こうした安倍のやり口を(ひそかに)自分のなかに内面化している多くのヤマトンチュの存在こそをどうにかしなければならないとあらためて強く思った。こうした傲慢で強暴な人間を行政のトップに据えているみずからの恥知らずぶりに気がつかないふり(シランフーナー)をしているヤマトンチュをどうするのかが問われているのである。(2015/4/18)

 *この文章は「西谷の本音でトーク」ブログに書いたものを若干の改稿したものです。

II-5 時ならぬベンサイド

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 ダニエル・ベンサイドの『時ならぬマルクス――批判的冒険の偉大と悲惨(19-20世紀)』(Daniel Bensai``d: MARX L'INTEMPESTIF Grandeurs et mise`res d'une aventure critique (XIXe- XXe sie`cles) を佐々木力監訳で読みはじめているところだが、これはおもしろそうだ。さすがにデリダが当代最高のマルクス主義思想家とみなしただけのことはある。1995年刊行の大部の本だが、いまをときめくトマ・ピケティなどのデータ分析一辺倒の無思想家とはモノがちがう。いわゆるトロツキストだが、フランスでは共産党もトロツキズムとは必ずしも相容れなくはない関係を保っているらしい。この本も刊行当時かなり広く読まれたそうで、フランス共産党とも理論的共存関係にあると聞いた。
 ともあれ、まだ最初のところだが、「第一部 聖から俗へ 歴史的理性の批判家マルクス」の「第1章 歴史の新しい記述法【エクリチュール】」のなかで、ベンサイドは歴史的理性を批判的に検討している。ベンサイドによれば、マルクスは「歴史のカオスに秩序を導き入れるような一般史を廃棄」し、ヘーゲル的な「本来的歴史、反省された歴史、哲学的歴史」を再吟味する。ここはベンヤミンの「歴史の概念について」とも同調する視点をベンサイドは採用している。歴史が普遍的になるのは、現実の普遍化〔世界化〕の過程を経てはじめて生成する普遍化として歴史を考えはじめることができるとベンサイドは言うのである。
 ベンサイドによれば、マルクスは『ヘーゲル法哲学批判』への序説のなかでドイツ史の「逆説的な特異性」をつかみ、「革命はフランスでは政治的であるが、ドイツでは哲学的となる」という認識をもつにいたる。これは「経済的、政治的、哲学的な領域のヨーロッパ的規模での不均等発展を表わしている」のであり、この不均等性のもとで、先進は後進になり、後進は先進になるということである。《ドイツの政治的かつ経済的な「後進性」は、ドイツの哲学的「先進性」を規定するのにたいして、英国の経済的「先進性」はその内部に政治的かつ哲学的な「後進性」をはらんでいるのである。》(ベンサイド)だからマルクスは『ヘーゲル法哲学批判』への序説のなかでこう書いたのだ。《われわれは現代の歴史的な同時代人ではないが、その哲学的な同時代人なのである。》
 このヨーロッパ的な「不均等発展」の歴史的現実のなかで、政治経済的先進性と哲学的後進性(イギリス、フランス)とそれを逆転した政治経済的後進性と哲学的先進性(ドイツ)の対比はわかりやすい。ドイツ観念論からヘーゲル、マルクスへのドイツ哲学の先取性が18-19世紀ヨーロッパをリードしながら、どうして政治的経済的にドイツが立ち遅れていたのかを(ややドイツ的な解釈ながら)理解させてくれる。ヘーゲルが同時代のフランス革命をうらやんだ話はよく知られているが、この不均等発展のギャップの転倒性はおもしろい。
 ベンサイドのマルクス論を読むことによって、新しいマルクス解釈が期待できそうな気がする。大澤真幸が言うように、いまこそ読まれるべきなのは『資本論』なのかもしれない。(2015/4/12)

 *この文章は「西谷の本音でトーク」ブログに書いたものを転載したものです。

 きのうは村山淳彦さんの昨年11月に未來社より刊行された『エドガー・アラン・ポーの復讐』の出版記念会をかねた東洋大学退官のお祝いの会が市ヶ谷アルカディアで開かれた。70歳になった村山さんはこれからは悠々自適とのこと。思えば一橋大学時代から四半世紀以上にわたるおつきあいだったことになる。
 わたしもスピーチを頼まれていたので、村山さんの5冊の翻訳と最後の著書を刊行させてもらったお礼を述べるとともに、村山さんの特徴づけとして3点あげさせてもらった。これは言わずもがなだろうが誰もが知る村山さんの実力は別として、ひとつめは「謙虚」。『エドガー・アラン・ポーの復讐』の「まえがき」の冒頭部分が典型的なので、それを読み上げさせてもらった。つづいて「仕事の早さ」。わたしは催促したことがない。というか、いつもすでに原稿はできていたのだった。ただし、こんどの著書はわたしが「背を押した」ことにされていて、それは最後の村山さんの挨拶で触れられたことだが、わたしが村山さんに翻訳ばかりでなくて著書を出さなければいけない、と言っていたことを指していることがわかった。そう言えば、そんなことを言った気がする。失礼な話だよね。最後は「コンピュータに強いこと」。なにしろ1990年に刊行した最初の訳書レイモンド・タリス『アンチ・ソシュール』の原稿を一太郎のデータ原稿で受け取ったのは、わたしとしても初めてのデータ入稿だったので、印象に強く残っている。その後もわたしの[出版のためのテキスト実践技法]を学習してくれた編集タグ付き原稿データをもらうこともあった。
 いろいろなひとの話を聞いていて、村山さんの面倒見のいいこととともに、けっこう天の邪鬼だったということもわかって、ほほえましかった。当人は思いっきりシャイだと言うが、親しいひとにはけっこう辛辣なところもあったらしい。ともあれ、そういう村山淳彦さんがこれからはやりたいことをやるという身分になられたことは慶賀すべきことなのだろう。また仕事をいっしょにさせてもらう機会があればうれしいのだが。(2015/3/29)

 *この文章は「西谷の本音でトーク」ブログに書いたものを若干の加筆・改稿したものです。