II-6 知念ウシさんの県外移設論からあらためて思うこと

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 きのうは沖縄から知念ウシさんを迎えて普天間基地の県外移設にかんする小さな研究会があり、ウシさんに誘われてオブザーバー参加してきた。直前に会のメンバーでもある高橋哲哉さんからも連絡があり、三人で会場である岩波書店へ出向いた。
 研究会の正式の名前は「思想・良心・信教の自由研究会」というもので教師やキリスト者を中心に10年つづいている会だとあとで知った。話の骨子は、知念ウシさんの『シランフーナー(知らんふり)の暴力──知念ウシ政治発言集』(未來社、2013年)にあるように、沖縄の過剰負担となっている米軍基地をこれ以上、沖縄に置いておくわけにはいかない、日米安保を多くのヤマトンチュが支持している現状では、ヤマトが責任をもって基地を引き取るべきではないか、その痛みを知るなかで安保の存続を考えるべきではないか、という持論を展開するものであった。わたしには馴染みの説だが、この会のメンバーの多くにとっては初めて聞く話だったらしい。ウシさんの基本的見解は基地はなくすべきものであって移すだけのものではない、というものであって、基地の県外移設が最終目的ではない。ここは誤解のないようにすべき点である。沖縄人としては自分にイヤなものを他人に押しつけることはいけない、という基本的な精神的傾向がある。だからと言って、もともと自分たちが引き受けたものではない米軍基地を、普天間基地が世界一危険な基地だからという理由で同じ沖縄県にたらい回しされる謂われはない、ということである。ヤマトが必要にしているのなら応分に負担すべきじゃないか、というのがウシさんのまっとうな主張である。また、沖縄人は反基地運動のために生まれてきたわけじゃないともウシさんは言う。沖縄に行くとよくわかるが、日常生活のなかで反対運動などのために必要以上に時間とエネルギーを奪われているのが沖縄人なのだ。ヤマトでは考えられないことである。なにしろ事あるたびに県民人口140万のうち10万人の集会が開かれるのだから。東京で言えば、100万人の大集会を想像してみればよい。こうした運動のために日常生活を犠牲にしないですむようにしたい、というのがほんとうの沖縄人の心なのだと思わざるをえない。
 同じ日に翁長沖縄県知事がようやく安倍晋三首相と面談することになったが、翁長知事はウシさん同様に、もともと自分たちが招いたものでない米軍基地の代替地をどうしてまた提供しなければならないのか、という毅然とした批判を用意して安倍に迫ったが、そのあたりのことに安倍はいっさい答えようとせず、普天間基地の危険性を軽減するために、とか人道的な装いのもとにあくまでも「唯一の解決策」としての辺野古移設を押しつけようとするだけ。まったく傍若無人な振舞いだ。昨年11月の県知事選のあと、安倍は自分の思い通りにならない知事とは面会さえ拒否しつづけたのに、訪米をまえに突然の面会をすることにしたのは、言うまでもなく、マスコミ向けの(そしてヤマトンチュ向けの)「対話姿勢」といういまさらながらの擬制的なパフォーマンスにすぎない。
 ウシさんの話を聞いていて、こうした安倍のやり口を(ひそかに)自分のなかに内面化している多くのヤマトンチュの存在こそをどうにかしなければならないとあらためて強く思った。こうした傲慢で強暴な人間を行政のトップに据えているみずからの恥知らずぶりに気がつかないふり(シランフーナー)をしているヤマトンチュをどうするのかが問われているのである。(2015/4/18)

 *この文章は「西谷の本音でトーク」ブログに書いたものを若干の改稿したものです。

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未来の窓 1997-2011

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