2015年6月アーカイブ

 リュシアン・フェーヴルとともにフランス・アナール派歴史学の創設者のひとりであるマルク・ブロックという大歴史家のことは知らないわけではなかったが、きちんと読んだことはなかった。『封建社会』という主著のひとつは書棚に眠ったままであった。
 そんなブロックの『奇妙な敗北――1940年の証言』という本を読むにいたったのは、ちょうど編集にたずさわっているホルヘ・センプルンの講演集『人間という仕事――フッサール、ブロック、オーウェルと抵抗のモラル』のなかのブロックにかんする部分を読んで、感銘を受けたからである。当初、原書目次にあるBlochはエルンスト・ブロッホのことだと思っていたというオチもつくのだが(ブロッホはドイツ語読みだが、同じ綴りでもフランス語ではブロックになる。いずれもユダヤ系の名である)、なにはともあれ、センプルンの連続講演集は1930年代後半から第二次世界大戦中の三人の哲学者、歴史家、作家のナチズム、ファシズムに抵抗する人間としての生き方を論じたもので、いまのきな臭い世界ひいては日本の政治状況のなかで人間としていかに生きるべきかを示唆するものとして非常に重要な本に思われるのである。
 というわけで『奇妙な敗北――1940年の証言』についてコメントしておきたい。この本はもともと第二次世界大戦に志願兵として対独戦に参加し、1940年のフランス軍のみじめな敗北を味わうなかで書かれた手記である。ブロックは若いときにすでに第一次世界大戦にも従軍した経験があり、その戦功によりいくつもの勲章を得ているほどの実績ある軍人でもあった。1886年生まれのブロックは参戦当時すでに54歳。年齢的にも社会的にも兵役免除されている身分でありながらの参戦であった。
 ブロックは冒頭でこう書いている。
《ここに書き綴っているものは、出版されることがあるだろうか。私にはわからない。いずれにせよ、長い間これは知られぬままになったり、私の直接の仲間たち以外のところに埋もれてしまう可能性は高い。それでも私は書こうと決心した。(......)証言というものは、それがまだ新鮮なうちに書きとめられてこそ価値があるはずであり、私にはそうした証言にまったく意味がないとはどうしても思えない。》(平野千果子訳、岩波書店、39ページ)
 はたして生きて戻れるか、書いたものが後生に読まれうるのかどうかも不明なままで、それでも歴史家としてリアルタイムで戦争の記録を残さねばならないという気概にみちたものである。ここでブロックは英仏連合軍の参謀将校としての立場からフランス軍が負けるべくして負けたことを、その内部の戦略的甘さ、読みの悪さ、軍機構のつまらぬ官僚的体質、上層部から政権全体に及ぶ判断力と決断力の欠如、といった側面を余すところなく暴いている。たとえばブロックはこんなふうに書いている。
《私たちの軍が敗北したのは、多くの誤りがおかされ、その結果が積み重なったためである。それらの誤りは種々雑多だったが、共通しているのはいずれにも怠慢がはびこっていることだった。司令官や司令官の名のもとに行動していた者たちは、この戦争についてじっくり考えることができなかったのだ。言い換えるなら、ドイツ軍の勝利は、基本的には頭脳による勝利であり、そこにこそもっと重大な問題があるはずである。》(82ページ)
 それは端的に言えば、距離と速度の問題である。第一次大戦の経験にふんぞりかえるフランス軍上層部の古い頭では第二次大戦時における軍事技術の進歩、それに対応する戦略においてヒットラー・ドイツにまったく遅れをとっていたのである。「ドイツ軍のテンポは、新しい時代の速度を増した振動に合わせたものだった」のにたいして「私たちは、長い投げ槍で銃に対抗するという、植民地拡張の歴史にはなじみのある戦闘を再現したにすぎない。そして今回、未開人の役を演じたのは私たちだった。」(83ページ)――そしてこれは戦時中の日本軍が国内戦にそなえて国民に槍と刀で米軍に立ち向かわせようとした愚かさを思わせないわけにいかない。
 要するに、ドイツの電撃作戦に古い頭のフランス軍はその速度と距離感をまったく想定できなかったのである。「ドイツ軍は行動と不測の事態というものを信条とし、フランス軍は動かずにいることと既成事実とを信条としたのだ。」(96ページ)ベルギーとフランスの国境あたりでドイツ軍の予想外の追撃の早さにあわてふためく英仏連合軍のみっともなさが活写されている。
《速度の戦争においては、ドイツの心理学に基づく計算は当然のことながら的を射たものだった。しかしフランスでは、戦略について意見を聞くために、奇妙にも感情を測ることに専念する学者を何人か、その研究室から引っ張り出して来たらどうかと提案をしただけで、参謀部ではどのような嘲笑が起きたことだろう!》(106ページ)
 ブロックの憤懣が爆発しているが、そのあたりのことはいまは措いておこう。
 しかしこれらはけっして批判のための批判ではなかった。ユダヤ人であるブロックは遺書にもあるように「ユダヤ人として生まれたことを否認しようなどと考えたことは一度もなかった」(242ページ)にもかかわらず、それ以上にフランス人として生きてきた。だからこそブロックはこう書いたのである。
《だが何が起きようと、フランスは私の祖国でありつづけるだろうし、私の心がフランスから離れることはないだろう。私はフランスに生まれ、フランス文化の泉から多くを享受した。フランスの過去を自分の過去とし、フランスの空の下でなければ安らげない。だから今度は私がフランスを守る番だと、最善を尽くしたのだ。》(42ページ)
 なんとも感動的なことばである。こんなふうに書くことのできるブロックをうらやましくさえ思える。そしてブロックはフランス敗北のあとも、当然のように、対独協力のヴィシー政権に抗して対独レジスタンスを継続する。著名な学者でありながらひとりのレジスタントとしてあくまでも故国フランスのために命を捧げる覚悟であった。この覚書の最後にブロックはこう書いている。
《私たちはまだ血を流すべきだと思う。たとえそれが大切な人たちのものだとしてもである(......)。なぜなら犠牲のないところに救済はないのであり、全面的な国民の自由も、自らそれを勝ち取ろうと努力しなければならないからだ。》(238ページ)――そしてブロック自身、ゲシュタポに逮捕され、フランス解放をまぢかに控えた1944年6月16日、ナチズムの兇弾に斃れたのである。
 真の愛国者とはこういう人間のことを言うのである。そしてこうした人間が存在したことをいまこそわれわれは再確認し、そのことばを遺書として今日の世界でよりよく生きるために学び直さなければならない。(2015/6/26)

 先日(6月4日)、岩波ホールでのジャン・ユンカーマン監督映画『沖縄 うりずんの雨』を見に行った。6月20日からの上映にあたっての最終回の試写会ということもあって、満席だった。事前の評判もいいことを聞いていたので、なんとしても見ておかなければならない作品だったが、なかなか時間がとれずようやく最終回になって見ることができたのである。監督のユンカーマンさんとはおととしの知念ウシ出版記念会で初めてお会いしたが、今回は上映後の挨拶に登場されたあとに簡単な挨拶ができた。
 このドキュメンタリー映画は四部仕立てで(第1部=沖縄戦、第2部=占領、第3部=凌辱、第4部=明日へ)、沖縄戦などの古い記録写真を生かしながら、新しい映像と語りを入れた重層的なフィルム構成になっている。沖縄戦後70年という節目の年をまえに3年の歳月をかけて製作されたという。いぜんとして沖縄の植民地状況をよく知らない、あるいは知ろうとしない多くの日本人、さらには辺野古への強引な基地移設を推し進めようとして現地の反対を無視しつづける安倍強権政権へむけての、沖縄の歴史と現状を視覚的にも強く訴える作品となった。また、大田昌秀元沖縄県知事、元海兵隊員で政治学者のダグラス・ラミスさん、写真家石川真生さん(とその写真集『FENCES, OKINAWA』)などよく知っているひとや、知花昌一さんのような不屈の運動家のインタビューも断続的にはさみこまれていて、その肉声によっても沖縄の歴史と現状がよりわかりやすく伝わってくる。ちなみにタイトルに出てくる「うりずん」とはパンフレットによれば「潤い始め(うるおいぞめ)が語源とされ、冬が終わって大地が潤い、草木が芽吹く3月頃から、沖縄が梅雨に入る5月くらいまでの時期を指す言葉」とされ、「この時期になると戦争の記憶が蘇り、体調を崩す人たちがいる」ということで「沖縄を語る視点のひとつ」として映画のタイトルに使われたそうである。
 第二次世界大戦中、日本で唯一戦場となった沖縄には守備隊10万にたいして米軍は55万の大戦力で攻撃してきた。地形も変わったと言われたほどの海からの艦砲射撃、空からの爆撃につづいて1945年4月1日に読谷村に海兵隊が上陸し、12週間にわたる激しい地上戦のすえ占領された。戦闘に巻き込まれた住民も4人にひとりという死者を出し、日本軍の強い抵抗もあって米軍も多大な死者を出している。
「第1部 沖縄戦」は主として米国立公文書館所蔵の米軍記録映像(写真家ユージン・スミスのものをふくんでいる)をもとにしているが、2004年8月の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件や現在の普天間飛行場の金網に基地反対の抗議文や布切れを貼り付ける住民の抗議行動も(あわせてそれを撤去する雇われ日本人の恥ずべき振舞いと発言も)記録されている。当時の元米兵の証言も以後、随処におりまぜて収録されており、悲惨な沖縄地上戦の米軍に与えた恐怖とトラウマも明らかにされている。またガマ(洞窟)に避難させられた住民たちの生き残りの証言も全篇にわたってちりばめられており、当時の日本および日本軍に刷り込まれた米軍への恐怖によっていつでも天皇のために死ぬことを最優先で考えさせられてきた実情が語られている。住民がむしろ日本軍によってスパイ視され残虐に殺されたりした話には事欠かないが、こうした体験が沖縄人の心底に戦争への忌避、平和への強い願いをいまも生んでいる背景がおのずと浮き上がってくる。
「第2部 占領」では、沖縄戦のすべての死者名(米兵のそれもふくむ)の刻みこまれた「平和の礎(いしじ)」の写真、「コザ暴動」と呼ばれた沖縄人の怒りの爆発とその記録の数々が映像化されている。「第3部 凌辱」では、チビチリガマでの集団自決が生き残りの女性の証言や知花昌一の解説によってその悲惨さが明らかにされ、また12歳の少女強姦事件を起こした3人の米兵のひとりがそのときの状況といまの心境をインタビューで答えているのも、その悲痛な表情とともに印象に残る。
 こうした反戦平和へのあくなきメッセージを発するこの映画のインパクトはたいへん強いものがある。ユンカーマン監督はパンフレットの「監督の言葉」の最後でこう書いている。
《米軍基地を撤廃するための闘いは今後も長く続くでしょう。沖縄の人々はけっしてあきらめないでしょう。しかし、沖縄を「戦利品」としての運命から解放する責任を負っているのは、沖縄の人々ではありません。アメリカの市民、そして日本の市民です。その責任をどう負っていくのか、問われているのは私たちなのです。》
 この誠心誠意にあふれたアメリカ映画人のことばをわれわれは深くみずからに問い直さなければならない。沖縄県民の総意で圧倒的な勝利で実現したいまの翁長雄志県知事の度重なる要請にもかかわらず辺野古基地建設の野望を実現しようとする日米政府の植民地主義者的野望を打ち砕くのはわれわれ日本人でなければならない。安倍晋三首相をはじめ、そのたんなるおうむにすぎない官房長官や防衛大臣らの無能な発言と厚顔無恥な表情を見ていると、こうした本来ならば現実政治を担う見識も能力もない「お友達内閣」などをいまだにのさばらせているわれわれ有権者の卑屈と無責任ぶりをあらためて認識せざるをえない。そればかりかこのまま放置すれば、平気で「わが軍」(安倍の本音発言、自衛隊を指す)の海外進出、さらには米軍のお先棒をかついだ海外侵略、はては安倍と同類の領土拡張論者=習近平体制のいまの中国との最終戦争さえ予断を許さないいまの状況にたいして、あまりに鈍感な日本人をいつまで演じるつもりなのか、日本と日本人の危機を感じざるをえない。
 この『沖縄 うりずんの雨』をひとりでも多くの日本人が見て、なにかを考える機会にしてもらいたいと切に思うしだいである。(2015/6/6)