II-10 真の愛国者マルク・ブロックの遺言

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 リュシアン・フェーヴルとともにフランス・アナール派歴史学の創設者のひとりであるマルク・ブロックという大歴史家のことは知らないわけではなかったが、きちんと読んだことはなかった。『封建社会』という主著のひとつは書棚に眠ったままであった。
 そんなブロックの『奇妙な敗北――1940年の証言』という本を読むにいたったのは、ちょうど編集にたずさわっているホルヘ・センプルンの講演集『人間という仕事――フッサール、ブロック、オーウェルと抵抗のモラル』のなかのブロックにかんする部分を読んで、感銘を受けたからである。当初、原書目次にあるBlochはエルンスト・ブロッホのことだと思っていたというオチもつくのだが(ブロッホはドイツ語読みだが、同じ綴りでもフランス語ではブロックになる。いずれもユダヤ系の名である)、なにはともあれ、センプルンの連続講演集は1930年代後半から第二次世界大戦中の三人の哲学者、歴史家、作家のナチズム、ファシズムに抵抗する人間としての生き方を論じたもので、いまのきな臭い世界ひいては日本の政治状況のなかで人間としていかに生きるべきかを示唆するものとして非常に重要な本に思われるのである。
 というわけで『奇妙な敗北――1940年の証言』についてコメントしておきたい。この本はもともと第二次世界大戦に志願兵として対独戦に参加し、1940年のフランス軍のみじめな敗北を味わうなかで書かれた手記である。ブロックは若いときにすでに第一次世界大戦にも従軍した経験があり、その戦功によりいくつもの勲章を得ているほどの実績ある軍人でもあった。1886年生まれのブロックは参戦当時すでに54歳。年齢的にも社会的にも兵役免除されている身分でありながらの参戦であった。
 ブロックは冒頭でこう書いている。
《ここに書き綴っているものは、出版されることがあるだろうか。私にはわからない。いずれにせよ、長い間これは知られぬままになったり、私の直接の仲間たち以外のところに埋もれてしまう可能性は高い。それでも私は書こうと決心した。(......)証言というものは、それがまだ新鮮なうちに書きとめられてこそ価値があるはずであり、私にはそうした証言にまったく意味がないとはどうしても思えない。》(平野千果子訳、岩波書店、39ページ)
 はたして生きて戻れるか、書いたものが後生に読まれうるのかどうかも不明なままで、それでも歴史家としてリアルタイムで戦争の記録を残さねばならないという気概にみちたものである。ここでブロックは英仏連合軍の参謀将校としての立場からフランス軍が負けるべくして負けたことを、その内部の戦略的甘さ、読みの悪さ、軍機構のつまらぬ官僚的体質、上層部から政権全体に及ぶ判断力と決断力の欠如、といった側面を余すところなく暴いている。たとえばブロックはこんなふうに書いている。
《私たちの軍が敗北したのは、多くの誤りがおかされ、その結果が積み重なったためである。それらの誤りは種々雑多だったが、共通しているのはいずれにも怠慢がはびこっていることだった。司令官や司令官の名のもとに行動していた者たちは、この戦争についてじっくり考えることができなかったのだ。言い換えるなら、ドイツ軍の勝利は、基本的には頭脳による勝利であり、そこにこそもっと重大な問題があるはずである。》(82ページ)
 それは端的に言えば、距離と速度の問題である。第一次大戦の経験にふんぞりかえるフランス軍上層部の古い頭では第二次大戦時における軍事技術の進歩、それに対応する戦略においてヒットラー・ドイツにまったく遅れをとっていたのである。「ドイツ軍のテンポは、新しい時代の速度を増した振動に合わせたものだった」のにたいして「私たちは、長い投げ槍で銃に対抗するという、植民地拡張の歴史にはなじみのある戦闘を再現したにすぎない。そして今回、未開人の役を演じたのは私たちだった。」(83ページ)――そしてこれは戦時中の日本軍が国内戦にそなえて国民に槍と刀で米軍に立ち向かわせようとした愚かさを思わせないわけにいかない。
 要するに、ドイツの電撃作戦に古い頭のフランス軍はその速度と距離感をまったく想定できなかったのである。「ドイツ軍は行動と不測の事態というものを信条とし、フランス軍は動かずにいることと既成事実とを信条としたのだ。」(96ページ)ベルギーとフランスの国境あたりでドイツ軍の予想外の追撃の早さにあわてふためく英仏連合軍のみっともなさが活写されている。
《速度の戦争においては、ドイツの心理学に基づく計算は当然のことながら的を射たものだった。しかしフランスでは、戦略について意見を聞くために、奇妙にも感情を測ることに専念する学者を何人か、その研究室から引っ張り出して来たらどうかと提案をしただけで、参謀部ではどのような嘲笑が起きたことだろう!》(106ページ)
 ブロックの憤懣が爆発しているが、そのあたりのことはいまは措いておこう。
 しかしこれらはけっして批判のための批判ではなかった。ユダヤ人であるブロックは遺書にもあるように「ユダヤ人として生まれたことを否認しようなどと考えたことは一度もなかった」(242ページ)にもかかわらず、それ以上にフランス人として生きてきた。だからこそブロックはこう書いたのである。
《だが何が起きようと、フランスは私の祖国でありつづけるだろうし、私の心がフランスから離れることはないだろう。私はフランスに生まれ、フランス文化の泉から多くを享受した。フランスの過去を自分の過去とし、フランスの空の下でなければ安らげない。だから今度は私がフランスを守る番だと、最善を尽くしたのだ。》(42ページ)
 なんとも感動的なことばである。こんなふうに書くことのできるブロックをうらやましくさえ思える。そしてブロックはフランス敗北のあとも、当然のように、対独協力のヴィシー政権に抗して対独レジスタンスを継続する。著名な学者でありながらひとりのレジスタントとしてあくまでも故国フランスのために命を捧げる覚悟であった。この覚書の最後にブロックはこう書いている。
《私たちはまだ血を流すべきだと思う。たとえそれが大切な人たちのものだとしてもである(......)。なぜなら犠牲のないところに救済はないのであり、全面的な国民の自由も、自らそれを勝ち取ろうと努力しなければならないからだ。》(238ページ)――そしてブロック自身、ゲシュタポに逮捕され、フランス解放をまぢかに控えた1944年6月16日、ナチズムの兇弾に斃れたのである。
 真の愛国者とはこういう人間のことを言うのである。そしてこうした人間が存在したことをいまこそわれわれは再確認し、そのことばを遺書として今日の世界でよりよく生きるために学び直さなければならない。(2015/6/26)

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