II-18 翻訳出版の危機

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 明るい話題に事欠く昨今の出版界にまたひとつあまり感心しない問題を提示しなければならないことになった。今後の出版文化において――すくなくとも日本の翻訳出版文化のありかたにおいて――大きな変化というか停滞が余儀なくされる可能性が出てきたということである。
 というのは、ここ最近のことだが、人文系専門書の翻訳出版において、原書にはない訳者解説、訳者あとがきなどの収録にたいして原出版社側ないし原著作権者側から(あらかじめ版権契約の段階で)厳しい制約が課されるようになってきたことであり、そうした文書を付加する場合には事前にその内容、分量、そうした文書を付加する理由書を原出版社に提示し、著作権者の許諾を得なければならず、しかも通常はよほどのことがなければ、承諾を得られないだろうというのである。かれらからすれば、日本語で書かれたその種の文書はそもそも判読が困難であり、場合によっては原書の内容を損なうものになりかねない、というのがその理由のようである。
 この問題を一般に理解してもらうためには、出版におけるさまざまな歴史的・技術的な問題点をきちんと指摘しておかなければならない。そして読者の側においても、こうした問題の所在を知っておいてもらいたいのである。
 どうしてこういう問題が生じたかというと、まずなによりも単純な理由は、翻訳作業が横文字(アルファベット)を縦文字(日本語)に転換することの困難さにあることである。翻訳という作業はある言語(ラング)を別の言語に置き換えることであるが、欧米語間の翻訳は広い意味でインド【=】ヨーロッパ語族と呼ばれる言語同士の翻訳であるから、さまざまなニュアンスのちがいもあるとはいえ、同じ語源をもつ単語も多いし、翻訳の問題は同族言語間の差異を克服することが中心となる。平たくいえば、言語間の移動であると言っていいが、日本語化という作業はそもそも共通するところがほとんどない言語間の変換であり、日本語特有の膠着語法とも呼ばれる文法的な形態的差異がなんとも大きく、そこにさらに歴史的文化的差異もくわわって、翻訳作業をいちじるしく困難なものにしている。欧米語間の翻訳では翻訳者の名前さえ掲出されないことがあるのは、翻訳という作業がそれほど重視されていないという理由でもあるのかもしれないが、日本語ではそう簡単なものではない。とりわけ専門書の翻訳では、言語的能力のみならず、原書の置かれている歴史的文化的社会的背景を十分に理解する知識と能力を必要とする。それがないと日本語として読めるものにならないばかりか、とんでもない誤訳だらけの本になりかねない。ヴァルター・ベンヤミンが「翻訳者の使命」で言うような、諸言語を貫いて抽出されうる〈純粋言語〉といった理想の言語の概念はここでは別の話であり、現実的には翻訳上のさまざまな工夫によってこの差異を埋めるべく日本語の翻訳者たちは悪戦苦闘しているのである。それでもどうしても訳文のうえでは実現できない、文脈上の背景の違いや問題点の所在などを読者に「解説」しなければ翻訳者としてのつとめを果たすことができないと考える訳者の姿勢は、翻訳者として誠実だと思う。読者もそうした「解説」を通じてその翻訳が信頼できるものであるかどうかを判断することができるし、そうならばその「解説」をおおいに参考にして理解につとめようとするのである。
 こうした言語間の差異、文化間の差異を埋める翻訳者たちの努力こそが、明治以来の日本の翻訳文化を形成してきたし、そのことを通じて欧米とのさまざまな格差やギャップを縮めてきた歴史がある。もちろん、それらを踏まえた多くの論者たちの研究や論説を通じて世界との知的交通が拓けてきたことも忘れるわけにいかない。長い自国文化をもつとはいえ、これまた長い鎖国状態を脱して明治以来せいぜい一五〇年間に日本がここまで世界水準の文化を(再)形成してくることができたのは、こうした独自の翻訳文化を実現してきたことにも一因がある。これは世界的には相当に稀有のことであるかもしれない。訳者たちの努力の蓄積、またそれを出版物として実現してきた各出版社の努力がなければ、こうした水準の実現は不可能であっただろうし、この努力はいまだ未完のプロジェクトとして今後も推し進めていかないわけにはいかないのである。
 こうした近代日本文化形成の特殊性にたいして欧米の原出版社はもうすこし関心をもってほしい。欧米語間の翻訳とちがって知的土壌の違う風土における文化的移植の営みが日本語への翻訳なのだということへの理解が十分とは言えない。日本語への根気の必要な翻訳とそれと一体化した理解への努力とはひとつの〈創造行為〉でもあるのだ。そうした認識のうえで対処してもらわないと、今後、訳者はそうした創造的努力をする気力を喪失してしまうだろう。
 また出版の条件として、刊行間際にならないと提出しづらい本文訳文や装幀プランの提出、付加文書の内容説明ないしその訳文提出も課され、それらの点検をするために二週間から一か月ぐらいの待機時間を必要とするとなると、出版社も刊行予定が立てにくくなってしまい、そこまでするのなら面倒な翻訳書出版を断念してしまう方向に傾いてしまいかねない。こうなると、これまでせっかく相互の文化的歴史的差異を縮めるべく努力してきた出版文化の歴史とは逆の方向に向かうことになってしまう。たとえば小社で刊行を準備しているジャック・デリダの宗教論が意図しているような、いまこそ相互理解を深めあうことを必要とする世界的状況のなかで、原著作権の防御的な法的権利ばかりが主張され、相互の無理解のほうに拍車をかけてしまうならば、歴史的にも社会的にも大きな禍根を残すことになるだろう。

 *この文章は「未来」2016年秋号に連載「出版文化再生26」としても掲載の予定です。

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