偏執的編集論8:表記の間違いと不統一を正す1

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(間奏曲)

偏執的編集者(以下、略して偏集者) すでにおなじみらしいF君に代わってこれからはKさんがうちの担当になってくれるんですね。哲学科出身だからテツジョですね。もっともこれじゃ「鉄女」と誤解されそうだから「哲女」としましょうか。デリダとかアーレントに関心があって、うちの担当を希望するとはなかなかすごいね。
Kさん その話はちょっと困るので......。
偏集者 じゃあ、Kさんと呼ぶけど。ご存じのように、ちょうどこちらも隣のお寺の借地権がもうすこしで切れるので、これを機会に六二年間も社業を営んできたこの小石川の土地を去って、世田谷に引っ込もうとしているわけで、とんでもないときに担当になってしまったかな。
Kさん 別にそんなことはないと思いますけど。いろいろ知りたいことがありますので。
偏集者 それは感心感心。いまの若いひとは本も読まずに自分で考えることもしないからね。ちょうど見終わったばかりのテレビドラマで「3年A組――今から皆さんは、人質です」っていうのが評判だったけど、最後に主役の菅田将暉先生がSNSの暴力性無責任性について大演説をして終わったように、いまは本を読まずにSNSだけにかまけて自分の無知をさらけだして恥じない若者が増えている。
Kさん わたしも見てました。深く考えさせる内容でしたが、最後はちょっと肩すかしを食いました。
偏集者 まあ、そうだけど、われわれのように本を作ったり本を書いたりしているのも、今回の引越しで痛感させられたけど、本もものによっては相当なゴミになってしまう場合があって、出版社の人間が言うべきことではないけど、われわれはゴミ本を作らないようにしなければいけないということにいまさら気がついたわけだ。SNSだけが悪いわけじゃない。というわけで、前回のつづきを書きましょう。


8 表記の間違いと不統一を正す1

 著者の原稿を金科玉条のごとく拝跪する編集者はけっこう多い。一九九九年だったか、「本の国体」と呼ばれた出版界あげての大会が鳥取県の大山であって、そこの編集部会の第一分科会に呼ばれて公開の討論会を朝から夕方まで四人でやったことがある(司会は津野海太郎氏)。その大部な記録も残っているけど、そこで驚いたことがある。いまはなくなった地方の出版社の社長がわたしの発言にたいして「編集者ごときが著者の原稿に意見を言うのはおこがましいんじゃないか」と発言したので、もちろんその場で反論はしたが、こういう前代の編集者がいるんだと思ってほんとうにびっくりさせられた。いまではこんなことを言うひとはいないかもしれないけれど、実際には著者の原稿の間違いや表記の不統一、その他にたいしてノーチェックの本が専門書の場合でもかなりある。こういうことは他社の本を取り込んだ著作集などを編集していると、こんな誤植や勘違いが本で許されるのか、とほんとうに驚くことが多いのが現実である。それも有力出版社だからなおさらである。本に誤植はつきもの、とは言うものの、最初からそうした言い訳を前提に編集しているらしき編集者がいるのは困ったものである。
 今回はそうした事例のいくつかを紹介しておかなければならない。
 まずは単純な誤植、勘違い、うっかりミスの類いを指摘しておこう。
 たとえば「コミュニケーションcommunication」を「コミニュケーション」とするような場合である。一見すると見落としがちだが、原語が頭に入っていれば、こうしたミスには気がつくはずである。しかし、似てはいるが、次のようなケースはたんなるうっかりミスではすまされない、著者の知的水準を疑いたくなるケースである。つまり「シミュレーション、シミュラシオンsimulation(模擬)」「シミュラークルsimulacre(模造品)」を「シュミレーション」「シュミラークル」とするようなケースがとても多いことである。趣味じゃないっつーの、と言いたくなる。これをコンスタントに間違うひとは原語を知らずに人真似をするからこういう赤っ恥をかくことになる。巻き添えにされた編集者も同罪である。わたしはこういうひとを信用しない。こういうことに気づかないひと(編集者)のために秀丸マクロのコマンドを紹介しておこう。
 //コミニュケーション→コミュニケーション
        replaceallfast "コミニュケーション","コミュニケーション",inselect,regular;
 //シュミレーション(シュミラークル)→シミュレーション(シミュラークル)
        replaceallfast "シュミレーション","シミュレーション",inselect,regular;
        replaceallfast "シュミラークル","シミュラークル",inselect,regular;
 もっと頻度の高いものがあって、これなどはきわめて多いし、変換ミスなどが原因で注意が必要になる。以下にたわむれにサンプルを作ってみよう。
「こうした間違いは以外(→意外)に多く、終止(→終始)気を遣って、問題がどれに符号(→符合)するかを見究めよう。」
「分化(→文化)に内臓(→内蔵)された問題の構築の対照(→対象)が何であれ、ひとはそこから開放(→解放)され自律(→自立)しなければならない。」
「首相は森友問題で厳しく追求(→追及)される必要があり、始めて(→初めて)訴追を受けるであろう。」
といった具合である。
 ひとつエピソードを思い出した。丸山眞男『現代政治の思想と行動』の活字が古くなって増刷がこれ以上できなくなり、電子データで新組をしたときのこと。このさいあらためて通読していくつか誤植を見つけて修正したが、「初めて」という意味のところですべて「始めて」になっていることを発見し、そのことを校正を担当したM先生に確認したところ、判断に困った先生は間違いかもしれないけれど、このままにしてくれ、ということになってそのままにしたことがある。しかし、その後すこし古い本を注意して読むと、戦後しばらくまではすべてファーストタイムの意味の「初めて」は使われておらず、「始めて」が使われていることに気がついた。どうやら「初めて」という表記は比較的最近のものらしいのである。厳密なM先生もそのことを知らなかったらしい。そういう意味で表記も時代とともに移り変わりがあるので、編集者はそういうことにも気を配る必要がある。
 もうひとつ、最近のパソコンの日本語変換装置(以前はこれをフェップFEPと呼んだが、いまもそう呼ぶのか)の作り方が日本語のちゃんとわかっていないひとが参加しているせいか、おかしな変換が多くなって困ることが多い。その一例だが「出入口」の「入口」を「入り口」としている例が多くなった。これは「いりぐち」と読ませるべきところを「はいりぐち」と読ませるのと同じであり、たいへん気持ち悪い。
 また、最近の安っぽい口語表現のひとつで「ある意味で」というべきところを「ある意味、」とする表記がまかり通っている。アホなタレントが言うのならまだしも、ちゃんとして学者や研究者がそう言うのを聞くと、ゾッとする。例の「ら抜き」ことば(食べれる、見れる、など)と同じぐらいに大嫌いな言い回しである。
 ついでにもうひとつあげれば、「~としてみなす」という表記がよく見られるが、これは「みなす」ということばのなかに「~としてみる」という意味がふくまれており、英語で言えば「regard as」と同じであるからには重複表現ということになる。「として」は不要である。同様のものに「~にしかすぎない」というのも「すぎない」は「~でしかない」という意味をふくむので、重複表現である。
 こうした表記に著者も編集者ももうすこし敏感であってほしい。それでも見逃してしまうひとのために秀丸マクロを以下に紹介しておく。
//として見なす(見る)→と見なす(見る)
        replaceallfast "として\\f[見み]\\f[たてならるれよ]\\f","と\\1\\2★",inselect,regular;
//漢字変換ミスを確認する
        replaceallfast "\\f[以意]\\f外","\\1★外",inselect,regular;
        replaceallfast "終\\f[止始]\\f","終\\1★",inselect,regular;
        replaceallfast "対\\f[象照称]\\f","対\\1★",inselect,regular;
        replaceallfast "内\\f[臓蔵]\\f","内\\1★",inselect,regular;
        replaceallfast "符\\f[合号]\\f","符\\1★",inselect,regular;
        replaceallfast "\\f[文分]\\f化","\\1★化",inselect,regular;
        replaceallfast "\\f[開解]\\f放","\\1★放",inselect,regular;
        replaceallfast "自\\f[立律]\\f","自\\1★",inselect,regular;
        replaceallfast "\\f[探追]\\f[求究及]\\f","\\1\\2★",inselect,regular;
        replaceallfast "\\f[初始]\\fめて","\\1★めて",inselect,regular;
        replaceallfast "入り口","入★口",inselect,regular;
//好ましくない表記
        replaceallfast "\\f[或あ]\\fる意味","\\1る意味で★",inselect,regular;
ここで★が入っているのは、一括変換のあとの再確認のためである。最初にこうしたフィルターをかけてしまうことを前提にしているからである。(なお、ここで注記しておくと、WEB上では半角円マークがバックスラッシュ(\)になってしまうので、実際のコマンドとしてはこのバックスラッシュを半角円マークに変換してほしい。)
 さきほど「コミニュケーション」のうっかりミスと、「シュミレーション」「シュミラークル」の許されないミスを取り上げたが、その例で言ってもっとひどいのはわたしの見聞したかぎりでほんとうにこのひとたちに著述をする資格があるのかを疑わせる種類のものがあった。
 ひとつはクロード・レヴィ=ストロースを「ストロース」「ストロース」と連呼する著者がいて、ストローじゃあるまいし、最初は誰のことを言っているのか首をかしげることがあった。フランス人の場合はしばしばこういうことがある。ジャン=ポール・サルトルの場合は「サルトル」で間違いないが、これはちゃんとレヴィ=ストロースと言わなければならないのである。もっとひどいのは「リラダン全集」で通ってしまっているオーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵は、「ヴィリエ・ド・リラダン」が姓であって、リラダンではない。ちなみに正式の名前はジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダンというのだから始末に負えないが。
 さてもうひとりの雄はモーリス・メルロ=ポンティのことを「ポンティ」「ポンティ」と連呼する著者である。このひとの場合は現象学についての本まで出している「専門家」だからよけいたちが悪い。一般にはメルポンと略称されることもあるが、「ポンティ」はいくらなんでもないだろう。おそらくフランス語をまったく知らないのだろうが、こういうひとがデリダ批判を手前勝手にやって新書を書いているのかと思うと、日本の出版業界も情けない。「ストロース」さんも「ポンティ」さんもいちおう名の知れた著者だが、わたしにはまったく読めない。読んだことがあるが、あまりの無内容にのけぞったことがあるぐらいで、このひとたちの名誉(というものがあれば、の話だが)のために名前は言わないでおこう。

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