2012年1月アーカイブ

11 出版事業の発明

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 出版の問題について教材用にその概略を書く必要があって、古代ギリシアの全盛期アテナイで出版事業と書籍市場が早くも発生していたというカール・ポパーの講演があったのを思い出した。これはポパーが一九九二年の京都賞受賞のさいに来日したときの記念講演で、長尾龍一・河上倫逸編『開かれた社会の哲学──カール・ポパーと現代』(一九九四年、未來社刊)という本に収録されている。
 ここでポパーはあくまでも大ざっぱなものだがと断ったうえで、「歴史上の新発見」として仮説を提示したのである。その後、この議論がどういう位置づけを獲得したのか不明だが、通常は十五世紀のグーテンベルクによる聖書印刷によって開始されたと見なされている近代印刷術とそれにともなう出版事業がなんと二千年も前にさかのぼるギリシア時代にその萌芽があったというのだから驚きだ。
 ポパーによれば、紀元前六世紀ごろのアテナイの僭主であると同時に文化事業の擁護者でもあったペイシストラトスがホメロスの叙事詩を書物とする事業を始めたところに端を発するそうである。「ペイシストラトスのこのホメロス文書化事業こそ、後世に比類なき影響を及ぼしたもので、それは西洋文明史上の焦点というべきものである」とポパーはこの講演での中心命題を要約している。
 どういうことかというと、当時のアテナイ市民のあいだに人気の高かったホメロスの作品を公開朗読会のさいに書物のかたちで配布したところ「大人気を博したことが、出版を商売にしようというような考えを生み出した」ようである。もちろんこの時代に印刷機などはないので、どうしたのか。
《書物の制作は、具体的には、大勢の文字を解する奴隷に、口頭で唱えたものを書き取らせる方法で行なわれた(......)書き取った紙片は巻物に編纂されて、「書物」(ビブロス)とよばれて、「オルケストラ」と呼ばれた場所で売り出されました。》(20ページ)
 こうしてまずホメロス人気に乗って開始された出版事業で、このあと他の詩人の詩集や悲劇・喜劇の作品などがどんどん書物化され、市場(アゴラ)における書籍市場(ビブリオニア)が制度として確立することになった。こうして出版を意図する著述までも現われるようになり、そうした最初の著書はアナクサゴラスの科学論『自然論』だとポパーは推測している。
 こうした地中海世界における最初の出版行為によって出版事業が発明されたとポパーは言う。書籍市場が確立されることによって出版事業も成立したわけであり、ポパーによれば、こうした制度の確立によって市民の字を書く能力の発展をうながし、権力者の「陶片追放」(オストラシズム)を可能にさせ、ギリシアの文化と民主主義の発展に大きく寄与することになったのだということ、それがヨーロッパ文化の起源にもなっていくという壮大なスケールの見取り図がつくられていく。
 この講演をしめくくるにあたってポパーはつぎのように結論づける。
《われわれの文明は、その発端から「書物の文明」(bookish civilization)であったのです。この文明は、伝統に依存しながらも革新的で、真摯であり、知的責任を重んじ、比類ない想像力と創造性を発揮し、自由を尊び、それへの侵害に敏感な文明ですが、これらすべての属性の根底にあるのが、「書物への愛」に他なりません。私は、短期的流行や、ラジオやテレビ、コンピューターなどによって、人々の書物への愛が毀損されないこと、いな多少でも減殺されないことを祈ってやまないのです。》(26ページ)
 いまならこれに携帯電話やインターネット、さらには電子書籍などが加えられるべきだろう。しかしポパーはこのあとさらにつぎのようにクギを刺している。
《しかし私は、書物讃美論によってこの講演の結末としたくはありません。(......)忘れてならないのは、文明を構成するのは人間であり、文明を身につけた、即ち有意義な、文明的な生活を送っている個々の女性ないし男性だということです。書物であれ、文明の他の諸要素であれ、それはわれわれの人間的目的を増進するところにその意義があるのです。》(26-27ページ)
 このポパーの言明をこそ、わたしたちはあらためて出版文化再生のための原点に据えなければならない。(2012/1/15)
 一般読者の「ニーズ」に対応して、これらに応えるべく書かれてきた一般書、実用書にたいして、情報の消費を目的としない別の意図をもって書かれたのが専門書と呼ばれる一群の出版物であるととりあえず定義することができる。それらは読者の「ニーズ」に応えるために書かれたものではなく、書き手にとってどうしても解明せずにはいられない主題が必然的にもたらした結果である。そういうものはあらかじめ誰にも知られていない知や価値の発見であって、書き手にとってさえ書き進めることによってはじめて見いだされた真実、場合によっては予測できていたかもしれないが細部にわたって解明できていなかった真相である。読者はもちろん、誰にも発見されていなかったこうした事態をすぐれた専門書は世界にはじめてもたらすのである。
 すぐれた専門書は刊行され解読されてはじめて世の中の財産目録に加えられることができる。すぐれた文学書がすべてそうであるように、書かれるまえにはどこにも存在しえなかった世界への窓、世界認識のしかた、こんな物事の見方があったのかという驚き、こうしたものがすぐれた文学のそれぞれがもたらすものだとすれば、さまざまな知への学問的営為とも言うべき専門書の成果とは、それぞれの学問的見地から学問や科学の最先端を探求した結果ようやくにして獲得できた知なのである。こうした発見の価値が刊行当初においては十分理解されないことがあっても、あるいは一般にはなかなか理解されないことがあっても、時間がたてばそれが人類の文化の向上に計り知れない価値をもたらすことは、これまでの世界史が十分に証明していることである。それらは世界の古典になっていくのである。
 こういう価値のある専門書が最初から一般に読まれるということはよほどのことがないかぎりありえない。つまりそこに既成の価値観でしかない「ニーズ」は存在しないからである。かつて経済主義一辺倒の規制緩和論者が「ニーズ」のないところに出版はありえないとか言った愚劣な意見を開陳していたが、そんな程度の「ニーズ」を充たすだけの出版物だったらとっくにインターネットの情報提供力に負けてしまっている。発見的知としての新たな「ニーズ」こそが文化を前進させる。このような知をもとめる出版物は、最初から成功を約束されているわけではないので、小部数出版にならざるをえない。いまのマスコミなどではほとんどそうした真価をとらえられないためにまず紹介されることはないから一般に知られるには時間がかかるが、いずれはすぐれた理解者を得て知られていくことになる。すぐ売れなくても価値の高い専門書を発掘し、刊行していくこと、それが専門書出版社の最大の役割なのである。(2012/1/8)

*放送大学教材用の下書き稿の一部を転用しました。

9 出版界と退職者

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『出版文化再生――あらためて本の力を考える』を昨年11月末に刊行して、同時に刊行した社史『ある軌跡──未來社60年の記録』とあわせて主要な著者をはじめ、出版関係各社および業界の知り合いに相当数の献本をおこなった。わたしの『出版文化再生』は未來社の最近15年の基本的な考え方を提示しているものとしていわば非公式の記録でありながら出版という営為を通じて実現しようとしてきたことの真意というか意志を明示するものであり、社史という公式の記録文書とともにあわせて読んでもらいたいという願望もあったからである。さいわいこの期待はある程度認めてもらったようである。多くのお礼状や感想などからそう推測しても間違いではないだろうと思えるからである。
 そうしたさまざまな感想や激励などのなかに、わたしはひとつ問題があることに気がついた。それは、今回お送りした知り合いのなかにかなりの割合で現役を引退しているひとがふくまれていることにも関連する。わたしのこれまでのつきあいやかかわりの深いひとたちがわたしより上か同年配ということもあって、必然的に定年後のひとが多くなっているのは事実である。そういうひとのなかにはいまでもなんらかのかたちで出版界にかかわりをもっているひともすくなからずいることはいるが、それでもどこか半分は現役を退いたかたちになっている。それはそれでやむをえないのだが、問題はそういう現役を退いたひとたちが、しかもそのほとんどは現役時代に出版界でもそれぞれの立場から貴重な仕事を残してきたひとたちであるにもかかわらず、もはや出版界のことについての関心を失なってしまっているように感じられるひとが何人もいることなのである。これはわたしにとってある種のショックである。
 わたしはこの業界から足を洗うことができないという自分の立場上、出版および出版界のことを自分の年齢の問題と重ねあわせて考えてみることはあまりない。あるとしたら、自分の著述のための時間をもっともちたいというぐらいのことで、経営の課題をクリアできないかぎり、現実的にはなかなか厳しい欲求でしかない。それにたいして、退職後、出版の世界に関心をもたなくなったことを表明するひとがわたしの知り合いのなかからも出てきていることに愕然とするのである。営業関係者の場合には、たしかに自分の活動する場が失なわれてしまった以上、どうすることもできないのであるからこの成り行きには納得せざるをえないものがあるのだが、編集者だったひとはどうなのだろう。もちろんこれも編集者として出版業にかかわりをもてなくなった以上、現実的には関心が失なわれていくのは同じことかもしれない。しかし、わたしにはどうしてもその断念の心的しくみが理解できないのである。
 こうしてあらためて考えてみると、出版という営為はやはり実業でしかないのか。出版界を去ろうとする人間の話をこのところ何人も見聞きしてきたが、ほとんどが余生の話、趣味の話に終始してうんざりさせられたところである。こうしたところにも勢いのなくなりつつある出版界の現状を見てとるべきなのかもしれないが、いやいや、それだからこそここは頑張りどころなのではないかと思うのである。それこそが『出版文化再生――あらためて本の力を考える』という本を出した理由なのだから。(2012/1/2)