2012年9月アーカイブ

 きのう書いた「51 沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉がついに完結」で書いたように、沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉が完結し、同じ日に『田中浩集』全10巻の第1回配本『田中浩集第一巻 ホッブズI』が刊行された。終わるものもあれば、始まるものもあるということだ。
 先日27日に書物復権8社の会例会があり、未來社が来年の東京国際ブックフェア2013への出展をとりやめる件が最終的に確定した。2004年に書物復権8社の会として初めて共同出展をして以来、来年は10年目になるが、この出展とりやめの件はすでにことしの出展終了後から社内的には方向性を定めてきたもので、8月2日の書物復権8社の会臨時例会のさいに公表した。それにたいして他の7社は来年も出展する意向を明確にしたので、未來社だけが来年からは脱落することになった。他の7社には足並みを乱すことになっていろいろ迷惑をかけるが、こればかりは未來社としては継続できないということを認めてもらうことになった。
 出展しない理由を単純に言えば、他の7社に比べて人員的に4日間の動員はむずかしくなってきたことがひとつと、年間新刊点数が不足していることがあげられる。最近の東京国際ブックフェアでは既刊書よりも新刊書が売上げの大半を占めてしまうという現実があり、これは世の趨勢でもあるからいたしかたない面があり、その点で未來社の売上げはブース代ほかのコストにも全然見合わないからである。こうした傾向は以前からもあり、経営の立場から見たら、いまのブース代その他の直接費用をクリアするには本来は何倍かの売上げがなければ成り立たない。本のマージンは売上げ分の何分の一かでしかないからである。このことは各社も原理的に同じはずだが、そうした観点は見かけの賑やかさに見えなくなりがちだ。とはいえ、以前のように目録を受け取らない読者もますます多くなってきているし、コミュニケーションをもとうとする読者もどんどん減ってきて、将来につながっていくというより、本を割引で買うことが主目的の読者になってきているように思えてしまう。このことがわたしには不満で、すでに4年前に「このひとたちが『読者』なのか」という総括の文章を書いたこともある(『出版文化再生――あらためて本の力を考える』161ページ)。このあたりから、わたしの出展への意欲は徐々に損なわれてきていたと思う。
 しかし、ことしに関しては、これまではあえて触れないできたもっとも大きな決定的な理由が別にある。というのは、わたしがここ最近、力を入れてきた沖縄関連書、とりわけ沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉がこういう場所では、手に取るひとの多いわりには購入するひとがきわめて少ないという現象がその理由である。ことしの4月に刊行された中平卓馬写真集『沖縄・奄美・吐カ喇1974-1978』は今回の超目玉のつもりで出品したのであったが、これもふくめてこの写真家シリーズはさすがにことしはかなり売れるだろうと期待せざるをえなかったのだが、まあ見事に惨敗したことになる。東京国際ブックフェアに集まる読者というのは、とりわけ書物復権8社の会のコーナーに集まる読者というのは、首都圏のかなり優良な読者層であるはずだけに、この期待はずれにはいまいちど落胆させられることになった。やはり首都圏のひとたちの〈沖縄問題〉への関心はこの程度のものだったのだという、あらためて考えてみれば、いまの日本(ヤマト)のひとたちが考えている〈沖縄問題〉へのレベルをもろに反映しているのであった。たしかに値段も(相対的に)高いし、大型判の写真集だということもあるかもしれないが、パラパラとめくっていくことは相当あっても、まずほとんどのひとがそのままパスするという光景は、わたしにはこの関心度を如実に表わしていると思われた。
 写真展の個展やなんらかのイベント会場など、〈沖縄問題〉に関心の高い読者が集まるような場所だとこういうことはないから、その落差を痛感せざるをえなかったのである。わたしは今後も〈沖縄問題〉に注力していくつもりなので、こうした光景が毎年くりかえされるのをもはや見るにはしのびない、それがわたしの気持ちを決定的にトーンダウンさせた理由なのである。わたしは、こう言ったからといって、東京国際ブックフェア自体も出版社が出展する判断自体も否定するつもりは毛頭ないので、いまは未來社の力量と方向性がこのフェアにはマッチしなくなったということを言いたいだけなのである。ほんとうは言わずもがなのことだろうし、こういうことを書くこと自体に反対するひともいるだろうが、いずれこういうことははっきりするべきだと思うので、あえて書いた次第である。(2012/9/30)

(この文章は「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)

 きのうの朝、沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉全9巻最終回配本の第1巻山田實写真集『故郷は戦場だった』の見本がとどき、このシリーズも三年ごしでついに完結させることができた。監修の仲里効さん、倉石信乃さんの全面協力とそれぞれの巻の解説者の方々の応援、そして装幀と本文レイアウトに携わってくれたデザイナーの戸田ツトムさん、さらには厄介な注文に財政的配慮もふくめて協力してくれた萩原印刷と東新紙業の方々には感謝のことばもない。こういうひとたちの力によってわたしの無謀とも思えるこの写真家シリーズの刊行もなんとか完結までほぼ順調に進めることができたのだった。
 これにくわえて売りにくい大型変型判の写真集を揃えてくれた各書店、とりわけ沖縄県での販売に力を発揮してくれたトーハン沖縄営業所、また書評や記事でこのシリーズの存在を知らしめてくれた「沖縄タイムス」「琉球新報」の地元2紙のほかに、さまざまな記事を掲載してくれたマスコミ各紙にあらためてお礼を述べたい。
 この仕事の企画から進行にかんしては、わたしの『出版文化再生――あらためて本の力を考える』(2011年、未來社刊)に収録されたPR誌「未来」の連載コラム[未来の窓]で何度も触れてきた。古くからの出版界の知人などは「西谷が書くのは沖縄ばかり」と冷やかされもしたほどだが、実際はそれほどでなくともたしかにこの写真家シリーズについてはそのつどの思いをメッセージとして(誰への?)送りつづけてきた。それがいよいよ完結したのだから、刊行までの前半戦は終了し、これからはこれをいかに広めるかという後半戦に入ることになる。
 この写真家シリーズを刊行すること自体が、現今の日本社会のなかでの〈沖縄問題〉をもっとも根底から支える内実をイメージとして提出することによって、沖縄の現実と歴史を理解していくことにつながるとわたしは信じている。米軍基地の問題にしてもたんに政治問題としての決着を急ぐだけでなく、沖縄社会の深い理解なくして安易な政治力学のなかで処理されてはならないからである。だからこの写真家シリーズのなかにあるのは、沖縄のさまざまな現実や生活であり、なかには当然のことながら基地問題や米軍にふれるイメージもふくまれるが、それらはたんなる政治的メッセージとして定着されているわけではない。そうしたリアルな現実をふくんだ生活の全体像を見てほしいと思う。このシリーズが沖縄ばかりでなく、広く知られ読まれて(見られて)いくことこそが、〈沖縄問題〉の真の解決にもつながっていくとわたしは心底から期待しているのである。だからこそこのシリーズの刊行とその販売こそ、出版が闘争であるというわたしの思いにダイレクトにつながるのである。後半戦の戦いはいよいよこれから始まるのである。(2012/9/29)

 出版業界紙「新文化」2951号(2012年9月20日)の「出版概況」を見ていて、あらためて出版不況の進行の度合いを確認することになったが、売上げの減少は言うまでもなく、ほかにもいくつか気になるところがあった。わたしに関心のあるところを3点だけにしぼって見ておこう。なお、統計は2011年から遡ること最近10年分である。
 まずは書籍の新刊発行点数とその平均定価の問題である。昨年(2011年)は新刊点数が取次のデータでは75, 810点で平均価格が1109円。問題は、平均価格(平均定価)が10年連続で低下しつづけていることである。これは新書と文庫の発行点数が頭打ちになっていることから言って、全体に値下げ傾向、すなわち軽薄短小化していることがよくわかる。
 つぎに書籍発行部数をみると、13億1165万冊と昨年より3%ダウンで毎年かなりの減少傾向にある。ピークの1997年には15億7354万冊だったから、それにくらべると16. 6%減である。この年の新刊発行点数は62, 336点だったから、初版部数もふくめて一般に1点あたりの部数がさらに大きく減少していることになる。これは売上げの減少と平行関係にあるとみてよいだろう。
 わたしの計算では、年間売上げが2兆6980億円でピークを記録した1996年の新刊発行点数は60, 462点だったのにたいして、2009年には新刊が80, 776点にもなっているにもかかわらず、売上げは2兆409億円。1996年にくらべてざっと点数で133%、売上げは75. 6%。1点あたりの売上げは56%になっている。この傾向はさらに進んでいると思われるので、数年のうちに1点あたりの売上げはピーク時の半分以下になるだろう。つまり出版界は半減期を迎えているのである。
 もうひとつわたしが気になるのは、書店の分類別売上げのなかで「専門書」のマイナス成長が一番高いことである。全体で4.3%減のところ「専門書」は11.0%減になっている。もっともなにをもって「専門書」とするかによってかなり差があるのでいちがいに否定的になるべきではないかもしれないが、やはりこういうかたちでほんとうの専門書が書店から閉め出されているのではないかと危惧せざるをえない。(2012/9/26)

(この文章は「西谷の本音でトーク」で掲載した同題の文章を事実確認と推敲のうえ、転載したものです。)

 このところいろいろなひとと電子書籍について話をするたびにわたしが言うことはほとんどいつも同じである。今週には放送大学でのオンエアでこの話題についてもしゃべることになるだろうから、いちど整理しておく必要がある。
 つまり、日本における電子書籍は今後どうなるのか、というお定まりの話題についてのわたしの考えであるが、端的に言って、日本で電子書籍はこれまでよりかはいくらか広がりと深まりを見せるだろうが、巷間いわれているようなアメリカにおけるような急速な展開は起こりえない、というものである。それは出版文化の歴史の厚みがちがうとか、英語のような文字数の少ない言語と日本語のような多文字言語のちがいがあるのは言うまでもない。もちろん、経済産業省が推進している「コンテンツ緊急電子化事業」のような公的バックアップがあって、大出版資本がそれにあわせてコミックや漫画、小説のような一過的な商品価値の高いものを便乗的に電子化しようとする動きがあるにはあるが、それらは冊子本というかたちで恒久的に保存すべき種類のものとは言えないものが多く、いずれにせよこの時代潮流のなかではおのずからほかの形式(ここでは主として電子書籍)に移行していくのは必然だからである。それに諸外国で人気のある日本のアニメやコミックが版権上の問題もあって、大手出版社がこれまでの利権を守ろうとする立場から早めに電子書籍化して版権を囲い込もうとする強い動機づけがあるからである。
 しかし現在の出版界を見てみると、これまでの通常ルートである出版社~取次~書店~読者という流れは、オンライン書店の出現以来、読者のオンライン注文というかたちで流通の中抜き現象が生じることによって書店現場を中心に弱体化を招いているし、それ以上に、携帯電話等の異常な発達によって些末な断片情報への関心の一面化と短絡化が起こり、人間の知への欲求が急速に矮小化されてきている結果を生じており、そのための書物離れが一段と加速化している現状はもはや誰も否定できなくなっている。このぶんでは、1996年のピーク時の2兆6900億円という業界売上げの数字がすでにいま現在で3割ダウンしているものが、早晩、ピーク時の半分以下になるだろうことは十分に予測できる。つまり何年かのちには業界は半減期を迎えるということである。これは悲観的な観測ではなく、峻厳な現実の観測結果である。
 そこで何が問題なのか。出版界は娯楽的にも情報的にも消費されたところで役目を終える出版物のための物量的産業であることをやめ、数は少ないけれど必要な読者にとって固有な価値をもつ出版物(という文化)をいかに生き残らせることができるようにするかを考えていくべきだろうということである。そうした出版物の大部分は電子書籍化には本質的に馴染まない種類の出版物である。つまりその種の出版物の電子化はあくまでもオリジナルあってのコピー、二次的派生物にすぎないということであって、出版物をおしのけてひとり歩きできるものではないということだ。言い換えれば、出版物は出版物としての固有性を維持しうるものだけが存在しつづけるようになるのではないか。
 そのとき、これまでの物量的流通を支えてきた取次を中心とする出版業界の流通構造はそのまま残ることは考えにくい。大幅な業務縮小を強いられる流通構造は、これまでの量指向から多様性という質指向に転換することは簡単でないからである。したがって取次はもちろん書店においても量から質(多様性)への大きな方針転換や決断が避けられないということになる。そしてこのことは出版社においても同様であり、たんなる合従連衡といった小手先の調整で片づく話ではない。業界再編という大問題がこれからの避けようもない課題なのである。
 もうひとつ問題なのは、現在の電子書籍化への流れが徐々にではあるが実現するとしても、携帯電話で些末な断片化した情報の処理に明け暮れている若者が(若者だけじゃないところおそろしいことでもあるが)質量ともにより大きな文字の文化に近づいていくことができるだろうか、という心配である。この場合、そうした若者たちは書物という形態はもちろん、電子書籍にさえも近づくようなことはないのではないか。読書とは習慣づけが必要な行為であり、そのための修練の場として携帯ではまったく不十分だからである。さきほども述べたように、情報や娯楽中心の出版物は電子書籍化されることでその目的はほぼ再現可能になるので、携帯からもアクセスしやすいかもしれない。とはいえ、そこには必要な最小限の情報をピンポイントで獲得するだけでよしとする習性から、より総体的な情報を取得しようとする動機づけまでにはおおきな距離があるわけで、したがって電子書籍がその手の読者を(出版物に代わって)獲得できることで出版物の売上げ減少分を補填することができると考えることは大いなる幻想と言わなければならない。出版物を手に取る習慣のないところに、電子書籍の可能性も低いはずである。専門書系出版社が電子書籍に積極的でない理由のひとつはそこにある。書物の価値をどうしたら広く理解してもらえるようにするのかが、電子書籍に走ることよりもはるかに切実な課題となるべきである。
 もしかしたらアナクロに見えるかもしれないこうしたことを考えながら上村忠男さんの『ヘテロトピア通信』を読んでいたら、上村さんが姜尚中との対談のなかで自分がめざすべき知識人のイメージをつぎのように提示しているのを見つけた。《権力という巨象にうるさくまとわりついて離れない虻のような存在としての知識人》《社会なり時代なりに大きな動きが生じたとき、その動きにアイロニカルな批判的懐疑の眼差しを向けることを忘れない知識人》(同書220ページ)と。上村さんはこの知識人像をサイード的知識人と呼んでいる。知識人であるかどうかはともかく、出版界の流れに棹さして電子書籍化への流れを批判しているわたしなどまさしく《権力という巨象にうるさくまとわりついて離れない虻のような存在》であり、《社会なり時代なりに大きな動きが生じたとき、その動きにアイロニカルな批判的懐疑の眼差しを向ける》のはわたしがおおいに心がけていることである。この懐疑精神と闘争心を失なわないようにしたい。(2012/9/16)

(この文章は「西谷の本音でトーク」で掲載した「電子書籍という幻想」と「虻のような存在としての懐疑精神」を大幅に推敲して転載したものです。)