2013年1月アーカイブ

「人文会ニュース」がなかなか充実している。
 昨年9月刊の113号では新宿紀伊國屋書店本店の吉田敏恵さん(MD=マーチャンダイザーとか)のインタビュー「人文書担当としての試み2001-2012」を平凡社の根井さんがうまくまとめている。〈じんぶんや〉の試みなど、とくに目新しいわけではないが、最近の紀伊國屋書店の取組みをわかりやすく引き出している。
 吉田さんは人文書にたいしてもうすこし「ビジネス」を意識したほうがいいんじゃないかと、著者、編集者、出版営業にたいして注文をつけている。わたしなどにとっても耳の痛いところだ。書名の付け方などにもうすこし工夫したほうがいいんじゃないかと思うことはしょっちゅうある。なにもすべてわかりやすく売れやすくというばかりが能じゃないが、読者に内容が伝わりにくいもの、せっかくそのものズバリで端的な書名が付けられるのにわざわざトーンダウンさせてしまうものもある。本は一冊一冊が勝負なので、あとで修正がきかない。このあたり書店現場のひとに意見を聞くのもいいのだろう。
 吉田さんは書店現場と編集者のコミュニケーションがもっとあればいいのにとも主張している。これはわたしの持論でもあって、そう言えば、いつぞやの東京国際ブックフェアの新刊説明会のあとの懇親会で吉田さんにもそのことを力説した記憶がある。そうなんだよね、もっと交流してすこしでも売れる本を作ること、そうした本をどうやって売ってもらったらいいか考えることを進めていかなくちゃいけないんだ。
 さて、次のできたばかりの114号では熊本の長崎書店(長崎の熊本書店じゃないよ)の長崎健一社長が「『老舗書店』の矜持とチャレンジ」といういい文章を書いている。「日頃の商品情報の収集と分析、販売情報であるスリップの読み込み......そこから仮説を組み立て、検証していくという地道な仕事の繰り返しを、多忙を言い訳にせず可能な限り丁寧に行なっていきたい」と。すばらしい。こういう書店人(しかも若い)が出てきたことに目を覚まさなければいけない。ここもむかしはたしか未來社の常備店でもあったな、と思い出す。ついでに昨年のいつごろだったか、この若社長と人文担当の児玉さんが来社されて、しばらく話をする機会があった。わたしも持論の「棚はナマモノ」説を話していささか辟易とされたかもしれないが、もうひとつ偉そうに、人文書の棚の作り方のヒントとして、人文書が本のネットワークであること、その指標としてコアになる本の参考文献や引用文献などから本同士の連繋が探り出せること、その関連性をつないでいくような棚を作っていくのも簡便な方法ではないか、などとしゃべってみたが、その後、なにか実践してみて役に立つようなことがあっただろうか。そんなことを思い出して書いておきたくなった。(2013/1/23)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を転載したものです。)

59 文字文化への可能性?

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 細見和之の「書籍文化と文字文化――若い世代の言語体験への期待」というエッセイを興味深く読んだ。これは「PO」という大阪の同人誌に書いたもので、けっこう本音にちかいところで書かれていて(かれの文章はいつもそうだが)いろいろかれの仕事ぶり、パソコン音痴ぶり(失礼!)がうかがえてほほえましい。そこでの細見の論点は、いまの若者は携帯メールなどをつうじて文字の入力に以前の人間よりはるかに慣れていて、すくなくとも一日の文字入力の分量では一流の物書き以上だということから、これが言語体験として深まる契機があれば、それはひとつの可能性だというに尽きる。
 メールのように「瞬時に応答するのでなく、じっくり推敲して書いた文章の味わいというものを伝えること、自分でもずっと残しておきたいと思える文章を書いてみる楽しさを伝えること、そういうことがすこしでもできれば、彼ら、彼女らの言語能力は新たな文学への道を開くのではないかと思う」と細見は書いている。
 たしかにこういう観点も、いたずらに書籍文化の衰退を嘆くよりはいま必要な希望かもしれない。しかしそこに携帯メール入力から本気で書くことへのジャンプという決定的な契機もまた必要で、惰性の延長が真のエクリチュール(書くこと)につながるわけではないことも明らかである。その深淵を飛び越せるかどうかが、物書きへの転生が実現できるかどうかの分かれ目なのである。(2013/1/21)


58 東松照明氏の思い出

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 昨年十二月十四日に世界的な写真家・東松照明氏が那覇で亡くなられた。死去の報は、年が明けて仕事始めの一月七日になってオープンにされたが、それまでは箝口令が布かれていたようである。地元の新聞でも報じられたのはその日の夕刊だったようだ。毎日新聞からの問合せでそれを知ったのだが、仲里効さんからもその後くわしいお知らせの電話をもらった。以前から体調が思わしくなく、心臓が弱っていらしたが、これまでも何度も死地を逃れてこられて「不死鳥」のあだ名さえ付けられていた東松氏であったが、ついに永眠されてしまった。八二歳。謹んでお悔やみを申し上げたい。
 わたしなどは東松氏のほんの晩年に沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉の一冊として写真集『camp OKINAWA』を刊行させてもらうことでおつきあいさせていただいただけだが、それでも何度かお宅におじゃまして、生前のまだお元気だった氏とことばを交わすことができたのは幸運だった。
 最初におうかがいしたのは二〇一〇年六月六日、仲里効さんに案内してもらって、〈琉球烈像〉への参加承諾へのお礼と挨拶をかねたものだったが、さっそくにもその秋からの展覧会にあわせて写真集のプランをあらかじめ考えていただいていたのにはびっくりだった。もとはと言えば、その年の一月に前年に刊行されこの写真集シリーズの引き金となった仲里効写真家論集『フォトネシア――眼の回帰線・沖縄』の出版記念会でお会いして挨拶をさせてもらったのが最初だが、その会で東松氏が二度にわたって挨拶されたことが印象的で、そのことに触れたわたしの[未来の窓]という連載のなかの文章が東松氏の気に入られて、まさかのシリーズ参加になったといういきさつがある。最後におじゃましたのは二〇一一年八月二十八日、石川真生さんの写真集『日の丸を視る目』のプリントを東松夫人から受け取るために真生さんといっしょにうかがったときで、このときは一時間ほどわたしと真生さんの掛け合いをおもしろがって聞かれていたこともいまとなっては楽しい思い出である。
 そう言えば、『camp OKINAWA』が刊行されてまもなくの二〇一〇年十月二十一日、この写真集刊行のお祝いの会がやはり那覇で開かれた。二五人ほどの小さな会だったが、東松氏がこの歳で自分の初めての出版記念会だと喜んでおられたのは意外な気がした。沖縄では頻繁に出版記念会が開かれることをわたしはこの間の「沖縄詣で」で知ることになったのだが、考えてみれば東松氏は那覇に住民票を移されてまだそれほど経っていない時期だったのである。小さなことだが、氏の唯一の出版記念会のきっかけになった写真集を刊行できたことはその意味でもよかったと思っている。
 写真界における東松照明氏の存在の大きさはわたしなどにはまだ十分つかめていないところがあるが、それはしかるべき識者におまかせして、わたしの知るかぎりの東松照明という人間について記した次第である。(2013/1/18)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を転載したものです。)