2013年4月アーカイブ

                ――「科学はあまりにのろすぎる」(アルチュール・ランボー「閃光」)

 大島堅一『原発のコスト――エネルギー転換への視点』(岩波新書)を読んで、あらためて原発の愚かしさと、それ以上に脱原発へ向けての具体的な取組みの必要性と緊急性、その可能な道筋を教えられた。この本は「大学入学したての一年生が読んでも理解できる」ように書かれたと「あとがき」にあるように、著者のこれまでの政治経済学的立場からの研究を一般書に仕立てたものらしく、たしかにわかりやすい。しかし急所はちゃんと押えてある。
 この本が「大佛次郎論壇賞」を受賞したことにもあるように、こうした原発批判の書がまっとうに評価されることで、この社会もまだ権力者の思うがままに世論操作されるところまではいっていないことを示している。まずこのことを確認するところから始めよう。
 東日本大震災以後、多くの原発批判書が刊行されたが、そのなかで、大島の筆致は怒りを冷静に抑えていたずらに反原発を叫び立ててはいないという点においてきわだっている。政治性や党派性に依拠することなく、政治経済学の論法で原発の内実をひとつひとつ洗い出していくのである。本書は震災の九か月後に刊行されている。したがって、その後の原発問題の推移や政治の動きについての論及はもちろんない。震災当時の民主党政権がその後、内部崩壊してしまい、さまざまな離合集散をみせたあと、もともと原発推進をしてきた自民党がふたたび政権を奪取するというおおいなる皮肉が実現している。自民党のなかでもタカ派の安倍晋三が首相に出戻り、さっそく原発再稼働をちらつかせているこの時代錯誤をどうやったら止められるのか。
 ともかく大島の本を読んでいこう。
 まず、本書は「はじめに」にあるように「原子力発電をどうするかをコストの問題として考えよう」とするものであり、原発が政府や東電などが主張するように、コストがかからない発電であるというウソを暴露し、むしろ脱原発のコストのほうがはるかに安くつき社会にとっても健全であることを解き明かしていく。原発推進側が提出する発電コストとは発電所建設費、燃料費、運転維持費などの直接経費をもとに算出されているが、東日本大震災によって明らかになったように、原発を推進するためには事故処理もふくめて計算外の膨大な費用がかかっている。そればかりかいちど原発を始めてしまったら、半減期が二〇〇万年超もあるような放射性物質もふくんでおり、後始末するのにも気が遠くなるような将来の時間が必要になってくる。こうした莫大な費用や危険負担を現在に生きるわれわれが後生の世代に押しつけていくことは倫理的にも経済的にも許されることではない。使用済燃料の再処理コストなどは「バックエンドコスト」と呼ばれ、将来へのツケとしてまわされることになる。
 本書での大島の原発批判は、書名にも現われているように、コスト論の観点からの批判が眼目であるので、以後はこの観点を中心に確認しておこう。
《発電という行為を社会的にみると、全体としてかかっているコストは電力会社にとってのコストだけではない。(中略)私企業が支払っている私的コストとは別に、社会が全体として支払っているコストを「社会コスト」という。発電コストを考える場合、この社会的コストについても計算する必要がある》(97ページ)というわけである。
 大島によれば、発電コストは基本的に三つの分けられる。
 第一は「発電事業に直接要するコスト」であり、減価償却費(資本費)、燃料費、保守費などから成る。
 第二は政策的誘導をおこなうための「政策コスト」であり、これは技術開発コストと立地対策コストから成る。前者は高速増殖炉開発など膨大な無駄をふくむコストがかかり、後者は「電源三法」にもとづく各種交付金、すなわち原発を強要するための札ビラたたき用資金である。
 第三は「環境コスト」で原発事故の後始末のためのさまざまな補償、移転費用、環境汚染復元費用、損害賠償などを指す。
 電力会社や政府、官僚、御用学者、電力労組らが喧伝する発電コストとはこのうちの第一のコストだけであり、それ以外はすべて税金で垂れ流し的にまかなわれている。将来のツケもふくめてこれらを正常にコスト計算に加えれば、とても原発は安いなどと言えたものではない。
《原発開発に関わって国民が負担するコストは非常に大きい。事故対応に関するコストも含めれば、国民にとって原子力発電に経済性がないことは間違いない》(128ページ)のである。
 もちろん、そればかりではない。「原子力村」(大島はこれを「原子力複合体」と呼ぶ)と呼ばれる強大な利益集団は原発の安全性確保を軽視し、「安全神話」をばらまき、反対派を徹底的に排除した無批判状況のなかで、いったん事故が起きれば徹底的に隠蔽するという許しがたき傲慢によってみずからの無能をも隠蔽し、利権をむさぼっているのである。
《原子力政策決定の場は、原子力発電推進に賛成する利益集団で構成され、一般国民からすれば理解しにくいほど原子力開発一辺倒の議論になっている。原子力の利用に疑問が差し挟まれるようなことは一切ない》(160ページ)のである。では、どうするか。
《原子力複合体(=原子力村)の共通点は、原子力発電利用を進めることに関して疑いを持たず、他の意見を排除しようとするところにある。原発ゼロを含めて原子力政策を再検討するためには、原子力複合体を解体し、根本をたたなければ行政の公正性と中立性が満たされない。原子力複合体における安全神話は非常に根深い。それを解体することなしに、原子力政策の根本的見直しはできない。/まず第一に、福島第一原発事故の原因究明を行い、原子力政策の決定に関与した者全ての責任を問うべきである。》(166~167ページ)
 ところが、これに反して日本原子力学会は「事故原因の究明に関して個人の責任追及を目的とすべきでない」とする声明を出しているとのことである。学会長は原子力部会部会長である東大教授の田中知。クロを隠蔽しようとするこんな学会はまったくヤクザの弁護士のようなものであるとしか言いようがない。利権にまみれた学会などになんの知的権威もない。さっそくこんな犯罪者集団的学会から解体すべきであろう。原子力安全委員会、資源エネルギー庁などもその一味である。たしか原子力保安院とかいうどうしようもないチンピラ(西山某とかいったな)が表に出ていた組織は解体されたかどこかに吸収されたはずだが。
 そういうわけで《福島の事態が目の前にある東日本にとって、「原子力発電は安全である」という神話は金輪際通用しない。東日本において原発を再開させたり、ましてや新規の原発をつくるなどということは極めて難しくなったと言えるだろう》(187ページ)どころか、日本全国で原発再稼働を許してはならないのである。《もはや脱原発は理念ではなく、現実の政策としてとらえなければならない。》(190ページ)
 再生可能エネルギーの十分な現実性についてもくわしく述べられ、立証されているので、反原発から脱原発にいたるためのこれらの議論の詳細については、本書の閲読を期待したほうがいいだろう。脱原発推進の理論構築のために広く読まれるべき本である。(2013/4/23)

(この文章は前日に「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を推敲のうえ転載したものです。)

「新文化」4月11日号の「本を手渡す人」というコラムで熊本の長崎書店長崎健一社長がいいことを書いている。
《私は毎日閉店後に、その日の売上げスリップを売れた時間順に並べていきます。そのなかで、「これは!」とスタッフが目をつけ、挑戦して仕入れた本のスリップを手にした時の喜びは、何物にも替えがたい。ひときわ光り輝いて見えるそれらのスリップは、勇気と自信、そして明日への意欲を与えてくれています》と。
 このひとについてはこのコラムの「最近の『人文会ニュース』がおもしろい」(2013/1/22)でも触れたことがあったが、売上げスリップが光り輝いて見えるという思いの強さは最近ではみられなくなった問題だと思う。
 かつてリブロ池袋店の今泉正光店長は、一日の仕事の総括として売上げスリップをかならず全部みるという作業をしていると話していたことがある。かれが注目するのは、大書店ならば一日でも相当数にのぼるベストセラーのスリップではなく、1枚か2枚程度にすぎなくても自分で注目して仕入れた本が売れていく姿だったと思う。そういう本にこそ書店人としての発見と喜びがあるというわけで、長崎社長は若いひとにもかかわらず、そういう書店人の〈原点〉としての書物への愛、発見と喜びをスリップ1枚のなかに見出しているのである。
 わたしなどもかつては取次の集品が毎朝届けてくれる注文伝票の束を一枚一枚確認していくのを日課のひとつにしていたことがある。いまは出版VANなどで細かい売上げ情報がまとめられてしまったために、どこの書店がどういう本を売ってくれているのか(常備カードというものがあり、売れた日付がスタンプされていたりしたものだ)、どんなひとがどんな書店でどんな本を注文してくれたのか(たまに名前を知っている著者などの記載があった)などという生きた情報を知る機会がなくなってしまい、本作りのリアリティの一部が失なわれてしまったことを残念に思っている。せめて毎日の売上げ伝票のチェックを怠らないようにしているのが精一杯で、それも出荷倉庫が離れてしまったために後日まとめて見るという状況になっている。そうしたすべてにわたって作った本が売れていく現場感覚が薄れていっているのであり、いまの若い編集者などは最初からそうした手応えを知ることもなく日々を過ごしていることになる。この現場感覚の喪失というよりもともとの不在は恐ろしいことだと思う。
 そういうわけだから、いまのように、すべて数値化されてしまう売上げ情報のなかで、現物を見ないで売り方を考えているだけのデジタル主義者にはわからなくなってしまった書物の物質的存在感、売上げ情報の手触り感を大事にしてくれる書店人がここにいることを心強く思うのである。(2013/4/18)
 一昨年(二〇一一年)十一月に小社は創立六〇周年を迎えた。そのさいに社史『ある軌跡』60年版を作成するとともに、それまで十五年(一七六回)にわたってわたしが小誌「未来」に書きつづけてきたコラム[未来の窓]を『出版文化再生――あらためて本の力を考える』として再構成し、刊行した。社史とともにひろく寄贈させていただき、さいわい非常に多くの方から貴重なご意見、ご賛同のことばをいただくことができ、おおいに励まされた。それとともにかなりのひとから[未来の窓]の休載を惜しみ連載をつづけるよう慫慂していただくことになり、うれしくもあり、やや困惑するところもあった。自分としてはいちおうひと区切りつけたつもりであったし、そんなに手応えを感じなくなりはじめていたからでもあったからだが、どうもそういうわけでもなかったらしい。とはいえ、出版人として語ることにそんなに興味をもてなくなりつつある自分がいたことも事実である。いちどこのかたちで書くのをやめようとしたからには、どうしたら再開することが可能か形式を模索していくことになった。
 そうしたなかで、やはりこの国で出版事業にかかわりつづけていると、誰がどう思おうと自分が言うべきことはやはり言っておくべきだと思うことが多くなり、そのためにはあまり枠にとらわれずに書きたいことがあればすぐに書けるブログ形式が自分にとって都合がいいことがわかった。あまり肩肘はらずに、所定の枚数や締切もなく、必要だと思ったことをそのつど書けるこの形式は意外と自分にあっているのではないかと思えることもあり、強制もないことがいくらか自由度を獲得できることになって、この一年ほどのあいだに六〇本ほどのブログを書いた。これをニフティのココログページ「出版文化再生」ブログ(http://poiesis1990.cocolog-nifty.com/shuppan_bunka_saisei/)と未來社ホームページで立ち上げた「出版文化再生」ブログ(http://www.miraisha.co.jp/shuppan_bunka_saisei/)のページに掲載してみたところ、徐々にフォローしてくれるひとが出てきて、これまでにない手応えを実感できるようになった。そうしているあいだに、このなかのアクセスの多かったいくつかのブログを二度にわたって小誌で抄録することもあって、なんとなく機が熟してきたのである。
 そんなわけで小誌であらためて出版にかんするコラムの連載を再開するにあたって考えたのは、『出版文化再生』刊行を準備している渦中で気づかされたことだが、現在のような政治状況、文化状況、出版環境のなかでは、わたしが考えてきたような専門書、人文書をあえて刊行していくことは、ひとつの文化闘争のありかたなのだという発見であり、そのことに自覚的になることであった。ひとりよがりと言われることを覚悟のうえで、この反動の時代に逆らっていくことが、出版文化の再生のためにどうしても避けては通れないことだと観念したということである。『出版文化再生』のオビに大書したように、「出版とは闘争である」のだ。考えてみれば、これまでの[未来の窓]執筆においても、誰に頼まれもしないのに、しばしばひとり義憤を感じていろいろ書いてきたことをいまさらのように思い出す。しかしそれはあくまでもなりゆき上そうなったのであって、今後はこのコラムを書くにあたって、この闘争精神のもとに出版文化の再生のためにささやかながらもういちど出版の問題にかんして発言していくことにしたのである。大げさに言えば、これだけの決心をしなければ一出版人としてのわたしがこの場にかかわる意味はないのである。それがこのコラムを「出版文化再生」と名づけた理由である。
 さきほど先行する「出版文化再生」ブログでのさまざまな反響について触れたが、それでもこれまで[未来の窓]を読んでいてくれた(かもしれない)読者の多くは、活字派の読者が多いだろうから、このブログをネットでわざわざ探して読んでくれることはないだろう。たとえブログをチェックするようなひとでも、印刷してからでないときちんと読むことはできないと公言するひともいるぐらいで、そういうひとのためにも活字化しておくべきだと考えたのである。
 とはいうものの、このページで書こうとするものは、すでに先行して書いてきた「出版文化再生」ブログの一部として書くことになるだろうから、できればここで活字化するもの以外の、先行しあるいは今後も継続されるブログとあわせてお読みいただければさいわいである。もちろん本欄の原稿も、以前の[未来の窓]がそうだったように、完成した時点でブログページに掲載するつもりである。したがって活字になる以前に中身を読んでもらうこともできる。
 その意味では、このコラムもこれまでのブログの延長で書きすすめることができそうな気になってきた。ちがうのは、決まった文字数で書かなければならないことと、活字メディアに掲載されることだけである。とくに後者がどのような意味をもつようになるかは今後の問題として関心がある。というのは、ブログで書くものは、いかに専門的な内容であったとしても、それが私家版としてプリントされて読まれ保存されるような場合を除けば、基本的に〈情報〉として処理されてしまうのを覚悟しなければならないのに比べて、本や雑誌に活字化されるということはたんなる情報以上の価値をもちうるチャンスがあるからである。そのかぎりにおいて、いかに人気のあるブログであろうと、それは活字化以前の情報にすぎないのである。
 本(や雑誌)というパッケージ形態がネット上の情報を凌駕することができるのは、それが情報以上のものとして初めて読まれうるからだというその優位性はいまでも変わらないはずである。すくなくともわたしはそう信じている。わたしは「思考のポイエーシス」「ファイル編集手順マニュアル」など数本のブログを並行的に書いているが、これらも活字本としての最終形態をめざしていることは言うまでもない。(2013/4/3)

(この文章は「未来」2013年5月号に連載「出版文化再生1」として掲載)