2018年6月アーカイブ

 さて、著者から受け取った出版用原稿データをどう処理していくのか、基本的な方法と手順を記していこう。前提として原稿がワードでできたファイルを想定する。なぜなら昨今の出版用原稿入稿データは不幸なことに99パーセントと言っていいほどワードでできているからである。そしてワードでできたファイルをテキストファイルに変換することがまず最初におこなうべき仕事である。印刷所でゲラに出力するのはすべてテキストファイルが基本だからだ。
 このローカルで不出来なワープロソフト、ワードにもすこしだけ取り柄がある。原稿のタイプにもよるが、専門書などではドイツ語やフランス語の原語が使われたり、傍点やルビ機能が使われることがかなり多い。そうしたときに、いきなりテキスト化してしまうと、こうしたワード特有なローカル機能はすべて消失してしまう。とくにルビなどは親文字ごと消えてしまうのでタチが悪い。ドイツ語のウムラウト、エスツェット、フランス語のアクサンなどはすべて「?」に変換されてしまう。マイクロソフトのLINUX系無償対応ソフトであるOpen Officeもこれには対応できないし、それ以外でも閉じカッコ(」)が消えて改行されてしまうなど欠点も多い。結局、出版社側ではこのテキスト変換のためだけにでもMicrosoft Officeを買わされるハメになる。
 とにかくそれではどうするか。これは後述する手法とかかわるので、いまは簡単に記しておかざるをえないが、ウムラウト、アクサンなどはテキスト変換するまえにワード上で所定の文字データに検索・置換してしまうしかない。ワードでも単純な検索・置換はできるので、たとえばウムラウト付き文字(大文字小文字のAEIOU, aeiou)はそれぞれのうしろに「``」を付けて「a``」のように置換してしまう。(これはのちに印刷所のDTPで本来の形に戻すように指定すればいい。)傍点とルビはお手上げなので、ワード原稿を印刷しておいて確認しながらテキストデータにそれぞれの指定を入力していくしかない。
 さて、こうした最小限の処理をすませてしまったらワード上で[ファイル]メニューから[名前を付けて保存]を選択し、保存先を確定(通常は元原稿と同じフォルダでいい)したうえで、呼び出される保存画面で[ファイル名」欄にしかるべき名前を入力し、[ファイルの種類]で「書式なし」を選択して「保存」を押せばいい。すぐ警告画面でごちゃごちゃ言ってくるが、無視して「OK」を押せばテキストファイルに変換される。これだけで仕事のための準備は完了である。ほかのワープロソフト(たとえば「一太郎」)などでも基本的に同じ。もともとテキストファイルで入稿してきたものは、言うまでもなくそんな必要はない。
 これでとりあえず専門編集者として出発点に立ったわけである。

 そこでまず最初にすべきことは何か。編集者の仕事は、まずこの本がどういう構成でできているかを把握することである。どういうことかと言うと、この本が何部構成なのか、何章でできているのか、中見出し、小見出し、節といったようなランク付けされた構成をとっているのか、注はあるのか(原注と訳注がありうる)、図版や写真があるのか、といった全体をまず掌握することである。こうしたことは編集者なら誰でもあたりまえに考えることだから、ことさらに言うほどのこともない。しかし、問題はそこから始まるのである。それは「目次」作りをきちんとすることである。目次とは英語でcontentsと言うが、これはもともとは「内容」を意味する。つまり本の内容をメニューとして差し出したものが「目次」なのである。そしてこの目次には以下の内容をどのレヴェルまで表示するかという編集者にとって最初に意識しなければならない問題がある。そしてもちろんのことだが、章節などの本体と目次に違いがあってはならない。しょっちゅうあることだが、著者が最初に目次の原稿を作成したあと、当該の箇所で考えが変わって章節タイトルの変更がなされたさいに、目次の部分が修正されないままのことがある。編集者はそういうことまで配慮しなければならない。著者が最後にタイトルを付けたり、目次立てを考えるのとは逆に、編集者はできたものから逆算して目次をきちんと把握する必要があるのは、書いてみないとどうなるかわからない著者とは立場が逆だからである。それがプロとしての編集者意識である。本の目次は編集者にとって最初に全体の見取り図を与えるための設計図なのである。
 それでは具体的にどうするか。まずテキストデータを本文データとして一本化しておく必要がある。章ごとにファイルが分かれている場合などが多いが、それぞれのデータをテキスト化したあとで結合させておく。(たとえば秀丸エディタでは「カーソル位置への読み込み」コマンドでファイル連結させる。)注は別ファイルにしたほうがいいだろう。
 つぎに本の最初にあるべき目次扉(省略する場合もある)、目次、本扉、中扉などを指定する。ほかに凡例や装幀者名のページなどもある。これを順番に設定していく。ページの切れ目には【改ページ】などと入力しておく(印刷ユーティリティによっては「/*改頁*/」という文字列の入力で印刷時に改ページが実現できる。)
 ところで、ここでは目次を問題にしているわけだから、本文との対応は厳密になされなければならない。わたしのやりかたを言えば、章などの大見出しは<H1>......</H1>、中見出しは<H2>......</H2>、小見出しや節などさらに下位の項目があれば<H3>......</H3>、<G>......</G>などを設定する。これはHTMLタグ(注 Hyper Text Markup Language インターネットのブラウザなどの指定タグ)を応用したもので、そういう方面の知識のあるひとにはなんら異和感はないはずである。もちろん、最初のほうは開始タグ、スラッシュ「/」付きのほうは終止タグであり、該当する文字列をこの開始と終止のタグではさむのである。これは目次を確認しながら最初におこなうべきである。そして同時にその前後のアキ行も改行を入れることで設定する。たとえば大見出し(<H1>......</H1>)をページの右寄せ、文頭とのあいだを5行アキとする場合、大見出しのタグ付けのあとに改行を5回入力する。中見出しの場合(<H2>......</H2>)なら、たとえばその前に2行アキ、うしろに1行アキを入れるとすれば、その数だけの改行を入力する。さらに小見出し、節の場合(<H3>......</H3>、<G>......</G>)にはその前に1行分の改行を入れておく。こうしておけば、データをスクロールするさいにこうしたアキが目立つので、そうした見出しの位置などが見つけやすい。ちなみに秀丸エディタでは「マーク」というコマンドがあるのでそういう場所へのジャンプが容易である。また高機能テキストエディタでは改行コードやタブコードなどのコントロールコードとか全角半角スペースの画面表示が可能であるし、印刷ユーティリティによってはこれらの表示分を印字することも可能である。こうした表示機能がないと、文中に誤ってスペースが入力されていたり、よくあることだが、行頭に半角スペースが二つ入っていたりすることにも気づかない。編集者はこうした細部のチェックができなければならないので、そのためのツールを持ち合わせる必要がある。間違ってもワードではこうした編集は不可能なのである。
 なお、今後のテキスト編集についての議論は秀丸エディタをベースに説明するつもりである。興味のあるかたはわたしの『[編集者・執筆者のための]秀丸エディタ超活用術』(翔泳社、二〇〇五年)を参照してほしい。基本的なテクニックとテキスト編集にかんする高度な技法について詳述している。刊行は古いがまったく古びていない。テキスト編集の基本はそんなに変わらないからである。

偏集者 それでね、まず編集者は何をするのかということなんだけど、まずは著者からの原稿がとどいたとして、最初にするべきことは何だと思う?
F君 そうですね、まずは原稿の中身を確認することでしょうか。
偏集者 もちろん、そうだよね。内容もさることながら、原稿データがちゃんと使えるものになっているかどうかも確認する必要がある。データが壊れていたり、文字化けがあったりすることはいまでもよくある。おいおいそういう話題にもふれていかなければならないんだけど、編集者が最終的にするべきことは原稿データの中身を入校用のデータに変更することで、印刷所はそれをDTP(注 Desk Top Publishing、つまり机上編集機のこと)で出版用のデータをつくる。いまほどDTPが出版編集の中心でなかったころはいろんな編集ソフトが印刷所ごとにあって、電算写植なんて言われた時代があったことは知らないだろうね。
F君 そういう話は聞いたことがありますが。
偏集者 そのころのデータは復元できないなんてことが実際に起こっている。書物復権(注 一九九六年に専門書出版社が集まって共同復刊事業をつづけていまも継続中)の本なんかをひさしぶりに復刊しようと思うと既存データが使えず、君もすでに知っているように、本をスキャンして制作することになるなんてとんでもないことになっている。ところで何の話だったっけ。
F君 出版物の原稿データの話だったんですけど。
偏集者 そうだったね。印刷所に入校するデータの中身の話だったね。西谷流の編集技法は著者からとどいた原稿データをそのまま渡すんじゃなくて、それ以前にDTPオペレーターがする仕事のほとんどを自分のパソコンで先取り的にやってしまうところに真骨頂がある。あとでくわしく説明するけど、テキストエディタの検索・置換で正規表現(注 regular expression パソコンの演算処理能力を活用する検索・置換用ツール)を使って用字用語の高速変換処理をしたり、データを変換させるためのさまざまな編集タグと呼ばれる指定データを埋め込むことによって、印刷所での一括処理を実現できるようにする。これには多少のツールが必要ではあるけれど、基本的には高機能テキストエディタと周辺のユーティリティがすこしあれば、ほとんど実現可能なんだよ。印刷所がほしいデータ形式はどういうものかね、F君?
F君 いつもそうですが、理想的にはテキストファイルです。いまは著者がワード(注 Word マイクロソフト社のワープロソフト)で作成したままの原稿データが多いですね。
偏集者 それをワード帝国主義と呼ぶんだよ。ワープロ形式が一般的だと思っている著者も編集者も圧倒的に多いんじゃないかな。昔からそうだけど、ワープロというのはプレゼンテーション用ソフトで中間形式の発表媒体(たとえばパンフレット、紀要などそんなに専門的な編集の手がかからないもの)にはそれなりに見てくれのいいものを作ることはできるんだけど、専門的な出版編集のレヴェルに対応できるほど高度な機能を具えていない。たとえば、いずれくわしく論ずることになるが、さっき言ったタグ付き正規表現を使った検索・置換などの機能はまったく装着していないに等しい。まったくオモチャのようなソフトなんだよ、ワードっていうのは。すくなくとも編集者が使うべきソフトではない。それはともかく、ワープロのデータをテキストデータにしなきゃならないんだけど、その変換のさいにさまざまな機能が失なわれてしまうことがある。とくに日本語ネイティヴでないワードはね。
F君 それはどんな機能ですか。
偏集者 たとえば、ルビとか傍点、フランス語やドイツ語のアクサン、ウムラウトといった特殊記号のほかにもたくさんある。ワードは優れたソフトのように見えても、しょせんはローカルな機能、つまりはワードならワードの世界だけでしか流通しないもので、およそ標準的とは言えない。だけどそういうことを知らない編集者がワードをスタンダードだと思って著者にもワードでの入稿を推薦するなんて本末転倒の事態が現実のものになっているらしい。
F君 印刷所ではワードからテキストへの変換をひとつの業務としていますが......
偏集者 それをひとむかしまえはイヴァン・イリイチ(注 Ivan Illich オーストリア生まれの思想家)のタームを使って「シャドウワーク」と呼んでいたわけで、要するにお金にならない日陰の仕事というわけさ。いまは女性が強くなったけど、むかしは主婦の家庭での仕事は典型的なシャドウワークだった。夫は外で働いて稼ぎ、主婦は家で食事、洗濯、掃除からなにからなにまでおこない、それらはすべて無償労働。それとどこか同じで、パソコンのことを知らない編集者は著者からのワード入稿原稿がそのまま印刷所のゲラになると思っているから、出力原稿に昔ながらの赤字で割付指定をして入校すればいいだけだと思っている。データ入稿なんだから組み代が安くなって当然だとさえ言ってくる編集者もいるそうだ。しかし、F君も知っているように、ワード原稿はそのままでは印刷原稿には使えない。さっきも言ったような現象が起こるからだが、著者によってはどんな使い方をしているかわからないケースもある。印字されたものを鵜呑みにしているから、そんな無知がまかり通ると思っているわけだよ。印刷所にシャドウワークを強いていることの認識さえもっていない。データの変換などは本来は編集者の仕事だし、西谷流[出版のためのテキスト実践技法]はテキストデータへの変換から本格的なテキスト編集の仕事がはじまっていく。これから君に話そうとするのはそういう話だし、著者や編集者にも知っておいてもらいたいことばかりだよ。しばらくは黙ってていいよ。

F君 お聞きするところによると、なにか新しいアイデアがあるそうですが、何を書き始めるつもりなんですか。
偏執的編集者(以下、略して「偏集者」) いやあね、さきに「季刊 未来」二〇一七年秋号に「[出版文化再生【30】]ある編集者の一日」というのを書いて、さりげなく業界発言から足を洗って、自分が書きたいものを書くことに専念したいと思っていたんだが、どうもなにか書いていないと、どこかからだの具合でも悪いのかと心配してくださる読者がいてくれたりするので、この雑誌をやっていくかぎりはなにか役に立つことのひとつもしておかなくちゃいけないのかな、と思い直したんだけど、さて、いまさらなにか出版業界に物申すのもむなしい気がするし、それよりもなによりもこの業界にたいして発言したいこともなくなってしまったわけで、いろいろ考えていたら、やっぱりわたしの編集にたいする技法とか考え方をマニュアル化して後生のために残しておくぐらいしかやることが残っていないな、と思ったわけだ。F君はウチの担当になってまだ一年も経っていないけど、わたしが昨年十一月から隔月刊行で始めた加藤尚武著作集(全十五巻、既刊四冊)のほかにすでに何冊もわたしの編集本を手がけてくれているからもうわかっているだろうけど、わたしの編集技法がどれほど効率のいいものか、よく知っているだろう。
F君 ええ、そりゃもう。おかげで忙しくさせてもらっていますが、びっくりもしています。ほかにこんなに早く刊行するところなんてありませんから。
偏集者 もちろん、それにはわたしのパソコンを使う[出版のためのテキスト実践技法]がフルに活かされているからできるんだけど、そうは言っても、編集の基本は本を作るにあたってどういうコンセプトでどういう方向づけで進行するかということと、いかにそれを最初の読者として読み解くかというところにあるので、誰かさんがかつてわたしを批判したつもりでいたように、パソコンを使って本などできるものか、というようないまさら時代遅れが証明されたようなトンチンカンはさすがに消滅したようだけれど、いまだに校正を三校もとっているような前時代的編集が世の中ではつづけられていると聞いては、わたしのような経営者としては黙っていられないことになってしまうんだよ。知り合いの社長さんたちにももっと認識してもらっていいんじゃないかと思っているのも、編集者たちにこうした方法論があることを理解してもらうことで実際に経営的にもおおいに利用してもらいたいからなんだけど。これを「労働強化」だと言ったひともかつていたんだけど、言語道断だよね。まるで理解していない。F君ならわかるでしょ。
F君 わかります、わかりますとも。未來社の本は加藤尚武著作集のような厄介な内容のもので四五〇ページ以上になるような本がすべて初校責了なんですからね。初校の赤字も一〇ページに一、二箇所ぐらいですから、文句なしに初校責了になります。印刷営業としてこれほど回転のいい商品はありがたいですね。
偏集者 出版社としてもだらだら仕事をされるより資金回収が早くて都合はいいわけよ。まあ、作った本がもっと売れてくれればなおさらいいんだけど。それに、他社の編集者がどういうふうに仕事をしていようと、わたしがしゃしゃり出る必要はないけど、そのうちわたしもこういう仕事ができなくなるまえに、出版業界に遺しておけるわたしの独善的(笑)編集技法をマニュアル化しておこうという気持ちになったわけだ。社内的にもまだ十分に消化されていないところもあって、社員教育にもなるわけだ。まあ、出版界への遺書みたいなものだと思ってもらっていいよ。
F君 ちょっと、それはどうですか。(苦笑)
偏集者 ともかくこの原稿は「季刊 未来」に掲載しようと思っているが、原稿はどんどん書いてしまうかもしれないし、区切りごとに[出版文化再生]ブログにアップしていくことにしようかなとも思っているんだ。。どうせ「季刊 未来」の読者はあんまりブログなんか読まないだろうし、そもそも「季刊 未来」もほとんどわたしがひとりで編集していて、書き手もぎりぎりまでページが確定できないひともいるんで、台割(注 8ページ単位を基本とするページ配列のこと)の問題で余ったページにこの原稿を掲載することにしようと思っているんで、いつも余分に書いておくつもりなんだ。
F君 そうすると最大8ページ以内、書くということですか。
偏集者 しょうがないよね。不安定だけど台割で苦労することがなくなるからね。
F君 でもこんな調子でダラダラやるんですか。
偏集者 よくもわるくもそういうことになるね。