2012年3月アーカイブ

 未來社での先輩でありわが営業の師匠とも言える藤森建二さんが独立して洋泉社を創業したのが1984年12月、44歳のときであった。昨年暮れのある会で会い、ひさしぶりに二人で二次会をしたさいに、近く回想記を出すので読んでみてくれ、と言われていたのが、そのしばらくあとに送られてきた『洋泉社私記──27年の軌跡』である。わたしが未來社に入って8年ぐらいで独立してからすでに27年になるのかと思うと、いまさらながら時間の経過の早さに感慨深いものがある。しかもすでに2年まえに古希を迎える年に引退しているのだからなおさらである。
 もっともこの間いろいろなところで遭遇したりいっしょに呑む会に参加したりしているので顔を合わせることがなかったわけではない。しかしこの回想記を読むと、なんといろいろなひとと会ったり交渉したりしているのかがわかる。もともと営業畑で広告関係もかかわりがあったから、創業者ということもあって、未來社時代の人脈もいろいろ活用しながら馬車馬(失礼!)のごとく業界内を動きまわっていたことがわかる。その結果が年間百数十点に及ぶ新刊を出すような出版社に成長をとげさせたのだから、親の仕事を引き継いだだけのわたしなどに比べるまでもなく、この厳しい時代の出版界にあってたいした成功者だと言っても過言ではないだろう。所轄税務署から優良企業としてお褒めのことばをいただくぐらいなのだから。
 この回想記について言えば、記述があまりにもメモ風なので、どういうひとと会い、なにをしていたかはわかるが、概略だけしかわからない。社員の出入りもいろいろあったからもっと思うところはあったはずだが、そういうところは淡々としているのがいかにも藤森さんらしい。
 出版傾向はわたしの意図するところとは相当ちがうので、べつにコメントをつけるつもりはないが、「あとがき」で「出版社の『目録』は、その社の暖簾と言われてきましたが、今日ではさほど重視されなくなってきています。......いつからか、書籍も一般の商品と変わらなくなりはてて......」という箇所があるが、やはり「それはちがうでしょう、藤森さん」というのがわたしの見方であることだけは言っておかなければならない。古くさいと言われようが、わたしはそういう一方の陣営に属している人間であって、いまだからこそ書籍の力を呼び戻さなければならないと思っているのである。それが『出版文化再生――あらためて本の力を考える』を刊行した理由であり、〈出版とは闘争である〉と考えるからである。(2012/3/28)
 このところ新刊の書名に苦労することがつづいている。
 2月に刊行した湯浅博雄さんの『翻訳のポイエーシス――他者の詩学』もさんざん迷ったあげくにわたしが思い切って提案して湯浅さんの了解を得たものだったが、これは内容的に言って副題もふくめてぴったりだったと自負している。湯浅さんの性格からやや説明的になりすぎるのをかなり強引に断定的なタイトルになった。わたしが創ってきたポイエーシス叢書にもちなんだ書名でもあり、わたしはとても気に入っている。これなどはあとづけで付けた書名にしては珍しくうまくいったほうである。
 3月に刊行した守中高明さんの『終わりなきパッション──デリダ、ブランショ、ドゥルーズ』は、当初、守中さんが希望した書名が『パッション』だったのだが、未來社にはジャック・デリダの同名の翻訳があり(これは原題のまま)、同じ出版社から同題の本が出るのはまずいということから再考してもらって、今回のものに落ち着いた。これは当人が決めてくれたのであり、いいタイトルだと思う。
 さて、いま難航中の書名問題がある。PR誌「未来」にリレー連載してもらってきた「沖縄からの報告」(前項参照。執筆者は知念ウシ、與儀秀武、後田多敦、桃原一彦の四氏)をこの4月に単行本にまとめるにあたって、連載タイトルをあまりに安直に付けてしまっていたため、まさかこれをそのまま書名にするわけにもいかず、とはいえ連載が本になったことをわかってもらうようにするにはその痕跡を残さねばならず、ハタと困ってしまったのである。知念ウシさんや與儀秀武さん、はてはこの連載の企画協力者でもある仲里効さんにまで知恵を借りる始末。
 わたしのイメージとしては「沖縄からの報告」をサブタイトルに残して、できればウチナーグチ(沖縄語)でわりとヤマトゥ(日本人)にもわかりやすそうなコトバがあればいいな、ということで検討してみたが、内容にそぐわないものばかりで、あとはあまりにもヤマトゥに理解が(いまの段階では)むずかしいコトバになってしまい、初志貫徹できず。いまにいたるも(すでに原稿はきょう印刷所に入稿してしまった)決着していない。なにを隠そう、窮余の一策として、ほぼ連続して刊行される予定の仲里効沖縄文学評論集に予定していた『闘争する境界』をトレードしてもらうことにしようかと思っている。執筆者にメールでこの旨を伝えて反応を待っているところであるが、いまのところ直接確認をとった知念ウシさん以外からの返答はない。どうやらこれでいけるかもしれない、という現状である。まったく前代未聞の書名トレード話だが、書名と内容をマッチさせ、今回のように執筆者が4人いて、それぞれの個性がちがうのをまとめつつ共通性を探るということになると、なかなかうまくいくわけではない。さいわいなことに、このリレー連載は沖縄の若手論客を中心にしてきただけに沖縄人のヤマト政府および日本人への不信感、批判精神はほぼ共通のものがあるので、こうした括りかたが可能になった。サブタイトルには「復帰後世代の沖縄からの報告」としたのはウシさんの提案だが、これは内容を明快に伝えていると思う。
 ところで、書名トレード元の仲里本には仲里さんのもともとの希望でもあった『悲しき亜言語帯――沖縄・交差する植民地主義』を付けることになった。すでに書店には元の名前で新刊案内を送ったばかりで恐縮のかぎりだが、こうして書名問題がなんとか解決しつつあることの報告である。(2012/3/26)

 わたしが沖縄に深くかかわるようになったのは、沖縄の批評家・仲里効さんと写真家論集『フォトネシア──眼の回帰線・沖縄』のための連載原稿をPR誌「未来」で発表してもらっていた二〇〇九年ごろからであるが、とりわけ足繁く沖縄を訪れるようになるのは、この本の出版祝賀会出席のためにひさしぶりに訪沖した二〇一〇年一月二十三日からである。その出版祝賀会で、『フォトネシア』で取り扱われている写真家を中心に沖縄在住の写真家および沖縄を主要なテーマとして写真を撮っているヤマトの写真家とをあわせた沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉という途方もない企画をスタートさせることになった経緯をおおいに宣伝してくれという仲里さんの促しに乗って、多くの写真家をふくむ沖縄の代表的文化人を前にアピールしてみたのだった。
 さらにその日の二次会で飛び入り参加された喜納昌吉さんと意気投合し、自身の音楽家人生と重ねあわせながら沖縄の歴史と現状を総括するような語り下ろし本を刊行しようということになり、その後、『沖縄の自己決定権』という本となって結実した。
 そういう稔りの多い訪沖の機会であったが、じつはそれだけではなかったのである。喜納昌吉さんと話している二次会のその場にいて刺戟的な発言をされたのが初対面の知念ウシさんだった。そのときの話をぜひ「未来」に書いてほしいという依頼を受けて書かれたのが、本書の第一回原稿「基地は本土へ返そう」である。この回をスタートにして、リレー連載というかたちでヤマトでは聞こえてこない沖縄からの生まの声をレポートしてもらうことになった。ここでも仲里効さんに協力してもらって適切な人選を推薦してもらった結果、與儀秀武さんと後田多敦さんが知念ウシさんともども三か月に一回という約束でそれぞれの観点や立場から最新の沖縄情報を書いてもらうことになった。二年目にはいるところで、事情があって後田多さんに代わって桃原一彦さんがあとを受けてくれることになって、とりあえず二年間二四回分の原稿が集積されたので、とりあえず単行本としてまとめさせてもらうことにした。
 この二年のあいだに民主党政権の混迷や沖縄問題対応の拙劣さから首相が二度も交替するという激動がつづいており、その渦中にはいつもオキナワがある。東日本大震災が起こったあとでも在沖米軍が「トモダチ作戦」と称して災害地救助の名目のもとにさまざまな軍事シミュレーションをおこなったりしているのも、沖縄人からみればじつにうさんくさい事情がある。本書ではそうした指摘もなされている。いずれにせよ、沖縄からの厳しい批判の声をヤマトの政府はもちろん、日本人それぞれが襟を正して聞くべきなのである。日本への「復帰」四〇年をまえにして本書が刊行される意義はそこにある。

 二〇一二年三月
 未來社代表取締役 西谷能英

 *これはこの四月に刊行予定の知念ウシ・與儀秀武・後田多敦・桃原一彦著『沖縄からの報告(仮)』の「まえがき」として書かれたものの下書きである。正式書名は現在のところまだ決まっていない。(2012/3/21)

24 守中高明さんと本の力

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 午前中、守中高明さんから電話があり、きのうできたばかりの新刊『終わりなきパッション――デリダ、ブランショ、ドゥルーズ』の仕上がりにとても満足しているという喜びの声を聞いた。高麗隆彦さんの装幀がオビもふくめて自分のイメージを120パーセント表現してくれているとのことで、原稿とはちがって本というまとまった形になることでやはり格別な手応えをもたらしてくれるものだと言って、なにより喜んでいるようであった。守中さんとはもう二十数年のつきあいになるが、自分でも言うように「喜びを表現するのが下手」かもしれないかれの喜びには尽くせぬ思いがあることをわたしは知っている。
 守中さんはこの間、公私にわたって相当しんどい時期があったこともあって、昨年、小社の60周年にあたっての社史『ある軌跡──未來社60年の記録』刊行にあたって執筆ができないくらいだったのである。それが昨年10月末に『ある軌跡』60年版への不参加のお詫びとともに今回の本の原稿が送られてきたのだった。わたしにとってもまったく青天の霹靂でわが目を疑ったものだが、とにかくあまり元気がなさそうであった守中さんと刊行の準備をすこしずつ整えながら、しだいに元気を回復していく守中さんを励ましつつ刊行にこぎつけたわけである。この本をともに担当した明るい長谷部和美さんの協力も守中さんには好影響を及ぼしたのではないかと思う。
 さきほどの電話で「こんなんだったら、もっと早くお願いすればよかった」と守中さんは言っていた。かれとしてもひさびさの単行本刊行ということもあって、あらためて〈本の力〉をふたりで確かめあうことになった。ここでも出版が著者を勇気づけ元気にすることによって〈本の力〉を生み出すための闘争であることが確認できた次第である。
 その余波かどうか知らないが、この3月31日(土)夕方には守中高明夫妻の主催で「詩歌の饗宴――朗読と語りのゆうべ」(出演:岡井隆、平出隆、倉田比羽子、進行:守中高明)が専念寺・本堂(新宿区原町2-59、Tel: 03-3203-5895)がおこなわれる。以下は守中さんが書いたチラシの文章である──「日本の詩歌の構造は不思議です。一方に、音数律・韻律・行分けの規則などいっさいの制約のない口語自由詩があります。他方に、1300年の長きにわたって定型を守り続けてきた現代短歌があります。両者の関係はどうなっているのでしょうか。ふたつのジャンルを越境しつつさまざまな詩形式を試みる3人の実作者を招き、作品の朗読と鼎談を行ないます。チェロの演奏と肉声の響き合い、そしてしずかで熱い語り合い──ひとときの饗宴の中に、さあ何が見えてくるでしょうか。」詩人・守中高明の元気な姿を見にいきましょう。(2012/3/15)
 3月6日の夕方、東大教養学部キャンパスの18号館ホールにて東大大学院言語情報科の湯浅博雄教授の最終講義がおこなわれた。それにあわせて最新刊『翻訳のポイエーシス──他者の言語』(ポイエーシス叢書)を刊行させてもらった。最終講義はこのなかのバタイユ論「エロティシズムと〈存在の連続性〉をめぐって」を湯浅さんが読み上げるというかたちで進められた。約1時間半にわたって粘りのある文体で書かれた高度な内容のテクストがホールにしみ透るように響き、誠実な湯浅さんの人柄そのままに淡々と読み終えられた。終了後、開かれた祝賀会パーティでこの本が参加者に寄贈された。
 このパーティでは長らく言語情報科の同僚であった宮下志朗さんがスピーチをおこなったあとを受けて、わたしも湯浅さんと手がけさせてもらったいくつかの本の話を中心に大学院時代からのエピソードを披露させてもらった。知り合った最初から着実な研究スタイルを築いてこられた湯浅博雄さんがこうして定年退官を迎えられるということはわたしなりに感慨深いものがあり、とくに1980年代末期に〈扉の会〉という勉強会をいっしょにやらせてもらって以降は著書に、翻訳にコンスタントに本作りを共同させてもらったことは大変ありがたいことであった。
 東大を定年になったからと言って、湯浅さんのことだからまだまだ新しい仕事をされていくことだろう。いつも謙虚な湯浅さんのこれからのますます充実した仕事に協力させていただきたい。さいわい優れたお弟子さんたちも育ってきているので、そういうひとたちとも連繋して日本の出版文化を支えていってもらうよう応援したいと思っている。(2012/3/7)
 ひさしぶりに熱い芝居を見た。きのう(3月4日、日曜日)の午後、誘われて武蔵関の"ブレヒトの芝居小屋"という劇場(といっても工場跡みたいな場所)へ出かけて行き、韓国のベテラン劇作家・鄭福根(チョン・ボックン)作(坂手洋二演出)「荷(チム)」の東京演劇アンサンブル公演の楽を見た。200席ほどのスペースが両側に分かれて舞台を見下ろすかたちの劇場で構造上の制約があるからだろうが、こういう舞台もなかなか新鮮だった。
 演目は第二次大戦直後の青森県大湊市を舞台に、大戦中に強制的に日本に連れてこられた朝鮮人をそこから船に乗せて朝鮮に送還するという設定で、そこには軍事工場などで強制的に働かされた者や従軍慰安婦として性奴隷とされた女性たちがひしめいていて、それぞれのドラマを抱えて乗船するが、その船は戦時中の悪事の露見を恐れた旧日本海軍の陰謀で大量に積み込まれた爆弾とともに途中で沈没させられることになっていた。七〇〇〇人余りを乗せて一九四五年八月二十四日、舞鶴沖で爆沈させられた浮島丸事件をテーマとする重い芝居である。そこに朝鮮の由緒ある旧家から連行され従軍慰安婦にさせられた女性と、その女性の存在を一族の恥とする朝鮮の家族の古風な考え方とが交錯し、そこに一種のセカンド・レイプ状況が生まれる。女性は爆沈した船からたまたま救われるのだが、大湊に戻って自死にも似た死を選んでしまう。その女性が死ぬまでかかえていた荷物が二〇年後の世界で日韓のあいだを何度も往復するという設定のドラマなのである。
 ドラマの筋は省略するが、ここで暴かれたのは、日本帝国主義の軍隊のあまりの凶暴さ、残忍さであり、その被害にあった朝鮮民族の苦しみであり、それが戦後においても容易に解決できないさまざまな軋轢をもつことの現実である。親兄弟や恋人、息子や娘を強制的に奪われ殺され辱めをうけた朝鮮民族の「恨(ハン)」の深さがこれ以上ない痛切さでことばと叫び、演技を通じて訴える。
 こういう重い主題であるが、満杯の観客には若い女性も目につき、彼女らがこういう現実から目をそらすことなく、今後の生き方のなかで歴史認識をきちんともちつづけてくれることを期待したい。出版社はこういう作品こそをもっともっと世に送り出すべきではないかと考えさせられた。(2012/3/5)
 未來社の漢字表記について東京大学出版会の竹中英俊さんから鋭い突っ込みがなされている。ツイッター上での発言なので見落としがちだが、どっこい何度も言及されているようなので、フォローし直さないわけにいかず、この自称「白川静の押しかけ弟子」の追及は放っておけない問題であるし、ほかにも竹中さんとツイッターでこの問題についてやりとりしている方がいることがわかったので、いちどこのあたりの事情を説明しておく必要があるだろう。あまり「出版文化再生」につながらないと思う(笑)が、この場を借りてひとこと釈明しておきたい。
 まず竹中さんはこんなことを書いている。
《西谷能英社長に話したことだが、「未来社」は、ロゴの文字のうち「来社」は旧字、PR誌「未来」のタイトルは新字である。社が編集しているPR誌面の「未来社」の文字は「来」だけを旧字にしている。こんないい加減な表記はやめて「未来社」と「未来」にしてほしいな。そして「来」の魅力を語りたい。》《白川静の弟子である私ですので、ならば「社」もシメスヘンの旧字にしていただきたいですし、PR誌の『未来』も旧字にしてほしいのです。一貫性がない姿勢を問題にしているのです。》《手もとにある最新刊の加藤節『同時代史考』をみると、「未来社」の表記において、「社」が新字旧字が混在していて、自社出版物でも混用してしまうものを、どうしたらいいのでしょうか。西谷さん、よろしくお願いします。》(いずれも2012年2月29日)
 まったくお節介なことだが、せっかくそう言ってくれるのも貴重なご意見なので弁明しなければならない。じつはこの「いい加減な」混在状態はいまに始まったことではなく、正確な日付は覚えていないが、あるときまで「未来社」も「未來社」も、そしてここでは表示できないが「示偏(しめすへん)」の「社」も編集者ごとにいろいろ使っていたらしいのを、わたしが今後はすべて「未來社」に統一しようと言い出して、以後は原則としてこの表記が使われている。本文の引用文献などでも著者の原稿を修正してまで直しているのである。記憶では20年以上前になるかな。1989年に交通事故で亡くなった小箕俊介がまだ生きていたころだったような気がするからそれ以上になるかもしれない。もっとも当時はどこまで徹底できたかはわからないが。PR誌「未来」にかんしては商標登録に関係あったかどうかは怪しいが、最初からこれで通してきているので、社名との不一致は最初から一貫(笑)しているのである。
 ところがおそらく2000年ごろを境として、書物の世界にもデジタル編集の時代がやってくることになり、これは竹中さんには叱られそうだが、パソコンで出力できる「來」はともかく、外字扱いになってしまう旧字の「社」は、さまざまな点を考慮して旧字はやめ「未來社」に統一することに決めたのである。ただし、装幀などでは「來」はもとより、旧字の「社」を使うこともないわけではない。しかしその場合でも、あくまでもデザインとしての画像扱いで、流通上は「未來社」としている。そうしないと、インターネットなどで流通するものもしなくなってしまうからである。現に書協のホームページでは「未來社」で検索しても該当する書名は出てこないで、「未来社」なら1621件ヒットする。最初のころ、書協に申し入れてどちらでもヒットするように「あいまい検索」できるように仕組みを変えてくれと要求したことがあったが、技術上の困難があったらしい当時はともかく、いまだに実現していない。まったく不親切な組織だ! 会費払うのやめようかな。平凡社だって同じだ。というかあちらのほうがもっと確信犯なのか、あんな泣きべそのような「平」の旧字だかなんだか知らないが最初からパソコンでは出てこないのだからしかたない。すみません、変なとばっちりを食わせてしまって、平凡社さん!
 というわけでネット流通上の不利にもかかわらず、せめて「來」の字にだけはこだわっているのが現状です。竹中さん、これでお答えになりましたでしょうか。
 そうそう、ついでにわたしのお得意の正規表現を使って、文中の「未来社」を一括変換する置換処理の方法を書いておきましょう。
 検索文字列:未来社\([^会]\)
 置換文字列:未來社\1
これは「未来社会」のような熟語以外の「未来社~」にのみヒットさせ、「~」の部分をそのまま代入させることで「未来社の」「未来社は」「未来社が」などをそれぞれ「未來社の」「未來社は」「未來社が」と一括変換させるのである。ちなみにこれを秀丸エディタのマクロで表記すると
 replaceallfast "未来社\\f[^会]\\f","未來社\\1",inselect,regular;
となる。
 どうです、竹中さん、この一貫ぶりだけは貴兄のこだわりにひけをとらないように思いますが。(2012/3/1)