2012年5月アーカイブ

41 新藤兼人さんの思い出

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 ドキュメンタリー映画の巨匠、がお亡くなりになりました。100歳という長寿を全うされましたが、まだまだお元気だったようで残念です。最近はお会いすることもないままになってしまいました。
 わたしが新藤さんの本を作らせてもらったのはなんと1978年のことで「竹山ひとり旅」という津軽三味線の名手、高橋竹山の映画のもとになるシナリオを含む撮影記録を収録した『映像ひとり旅――映画「竹山ひとり旅」創造の記録』でした。赤坂にあった近代映画協会に何度も足を運んでゲラの校正やら打合せやらで新藤さんほかスタッフの方々とお会いしたことが思い出されます。そのころ新藤さんは六十代半ば、わたしは駆け出しの編集者でまだ二十代。その撮影の厳しさは「シンドイカネト」とあだ名をもらっていたように、独立プロという所帯を切り盛りしながら映画を撮りつづけた新藤さんならではのもので、あるとき撮影現場を見せてもらえることになり、ベテラン俳優が新藤さんに何度もダメ出しされてしょげているのを見て、これは大変だなとひとごとながら思ったものでした。
 その後、新藤さんに気に入られたらしく、映像論集を出そうということになり、翌1979年にこれまで書かれたエッセイをまとめて『フィルムの裏側で』を刊行しました。映画にまつわるさまざまな仕事師たちとの交流や映画製作の機微に触れた文章が集められています。さらにこれまでのシナリオを全部集めて新藤兼人全シナリオといった企画も出されたように記憶していますが、それは実現しませんでした。
 あらためてご冥福を祈ります。(2012/5/31)
 きょうの「琉球新報」文化面に仲里効さんの「比嘉豊光氏に問う――写真家シリーズ批判に反論する」という記事が大きく掲載されている。これはやはり「琉球新報」5月8日号に掲載された二人の歌手との座談会で、比嘉豊光が仲里効さんも監修に参加している未來社版の沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉に対して「沖縄文化の侵略」というとんでもないレッテルを貼ってきたことにたいする反論(批判)である。
 これについてはわたしもいろいろ言いたいことはあるが、この時期にことさらに版元として口出しすることは、沖縄のひとたちにあらぬ誤解を招くことになるだろうから、いまは未來社のような出版社にたいしてさえ、「文化侵略」というあくどいデマを放言するひとがいるということを情けなく思うだけであることを言っておきたい。
 仲里さんも書いてくれているが、〈出版とは闘争である〉をモットーとして昨年11月に刊行したわたしの『出版文化再生――あらためて本の力を考える』には何度もこの写真家シリーズについて、あるいは沖縄にかんして書いた文章を収録している。わたしの沖縄および沖縄文化へのかかわりかたにはそんな文化侵略のかけらもないはずだと思っている。そもそも未來社ごとき小出版社が沖縄文化を「侵略」できるはずもないのは誰の目にも明らかではないか。そんなふうに見える比嘉のドン・キホーテぶりは滑稽と言うしかない。
 さいわい仲里さんの反論が的確に比嘉の被害妄想と独善を批判しているので、比嘉が責任をもってこれに応答してみせることができるか、見届けたいと思う。(2012/5/30)

 詩の同人誌「アリゼ」147号で藤田修二という元毎日新聞記者が、NHK経営委員会が議決した2012年から向こう3年間の経営計画について書いている。
 それによると、2001年のETV番組「戦争をどう裁くか」で従軍慰安婦問題をめぐって、当時の政権与党、自民党極右の安倍晋三、中川昭一が政治的に介入し、番組の改竄、ねつ造をおこなった事件で、それに関与した内部の人間が内部告発してNHKに激震が走った事件がある。これについては未來社から刊行されている高橋哲哉『証言のポリティクス』が、当時の番組出演者として放送前の台本と放送内容が著しく改竄されているのを証拠にもとづいて具体的に検証している。こうした事件をふまえて「放送倫理検証委員会」の批判的意見が出されていた。
 マスメディアの世界では、〈内部的自由〉という問題があるとのことで、企業の経営者や上司が記者や現場の表現・言論・取材の自由にたいして抑圧的に振る舞うことへの抵抗を実現しうることを言うらしく、欧米のマスメディアではそうした抵抗の根拠としての拒否権をもっている。ところがNHKの今回の経営計画には活力ある職場づくり、すなわちそうした〈内部的自由〉をどのように担保していくのかという問題への言及はまったく見られなかったという。《考えてみれば、経営委員の中にメディアや「表現の自由」についての専門家は一人も含まれていない。結果もむべなるかな。》と藤田は最後に書いている。
 こうしたマスメディアの「公共性」をタテにとった経営的・政治的抑圧はなにもNHKだけでなく、ほとんどすべてのマスメディアに現在はびこっている現象ではないだろうか。大新聞も同罪だ。へたをすると、その抑圧構造が末端にまで行き渡っている場合がある。ほとんどアメリカのジャパン・ハンドラーの言いなり、指図通りに動いているいまの日本の政治、メディア、官僚、大企業、御用学者の一体化した反動ぶり、無能ぶりを見るにつけ、このNHKの経営計画なるもののひどさは容易に想像できるのである。(2012/5/24)
   *
 ここまで書いたあとできょうの新聞によれば、NHKの経営委員会委員長をやっていた数土文夫なる男が辞任して東京電力社外取締役に専念するという。これまでNHK経営委員会委員長と東京電力の社外取締役の兼職は問題ないとしてきた当人も、これを任命した政府も兼職は規定違反ではないからまかり通ると思ってきたらしいが、経営委員会内部からも視聴者からも相当な批判があり、当人の「信念の問題」として辞職するという。ふざけた話だ。NHKと東電の二股をかけていたような奴がNHKの経営改善などできるはずがなかったのである。聞くところによれば、福島原発当時の最高責任者であった勝股元会長の後釜に座る可能性もあったという人間だ。こんな人間がNHKの経営改善に役立つわけがない。それどころか東電のしたいことを全国放送するNHKという構図ができていたことになる。マスコミが東電とつるんでいたことはこれでも明らかになったわけである。(2012/5/25追記)



 精神医学者の中井久夫さんの書くものはいつもすばらしい専門知識と啓示にあふれている。その中井さんがこんなことを書いている。
《この二一世紀の言語的抑圧は言語の恐ろしい単純化である。もはやわれわれは書いていない。つついているのである。携帯電話によるメールをみよ。書字とワープロの相違は書き文字とタイプライターの相違である。書字との間にはまだ往復性がある。(中略)コンピュータ以後はこの往復はない。携帯電話に至っては、これは肉体をほとんど失ってほとんど骨まで単純化された形での、会話言語への一種の回帰である。》(「言語と文字の起源について」「図書」2009年1月号)
 中井さんがパソコンを使って原稿を書いているのかは知らないが、いまのように言語発信のしかたが携帯メールはもちろんツイッターやブログ、フェイスブックなどによるいささか安易な方法によるものが多くなってくると、たしかに手で字を書いていた時代にくらべて内容が軽くなっていく傾向にあるのは事実だ。情報量はその意味で圧倒的に増えていると言ってよい。もちろん吹けば飛ぶような情報がそのほとんどだが。
 わたしもいまや原稿はすべてパソコン(テキストエディタ)による入力だし、ツイッターもブログもフェイスブックもやっている。それでもこれだけはというときは原稿をプリントアウトして読み直し、修正を入れてから公表するようにしているが、それでもブログ(この原稿もそうだ)などでの発表はどこか手軽さを否定できない。読むほうもほとんどはモニタ上で読んで終わりだろう。尾鍋史彦さんではないが、必要と思われる文章はかならずプリントして紙で読み、保存するという認知科学上の読書環境を設定しているというようなひとは少ないだろう。
 書くことが「骨まで単純化された」ものになりかねないなかで、それでも本として残すべき知は視覚から指先でキーボードを「つつく」行動の流れに現われる脳の認知システムのなかをどうやって生き延びることになっていくのだろうか。いささか心配だが、いまのところこの心配をクリアできる処方箋は見つかっていない。(2012/5/21)

 新宿紀伊國屋サザンシアターで青年劇場公演「臨界幻想2011」(ふじたあさや作・演出)を見た。坂手洋二戯曲『普天間』の刊行を機に関係が深まりつつある劇団の招待もあって、この30年前にいちど上演された戯曲の再演(というか再構成)を見せてもらうことになった。初演は1981年で、わたしもかかわりの深かった千田是也さんの演出。
 この戯曲は2011年3月11日の福島原発事故を受けて、かつてチェルノブイリ原発事故を契機として公演された戯曲にその後の情報をくわえて提出されたもので、原発の被曝労働の実態を暴き、利権に踊らされ地域ぐるみで原発誘致に狂奔する自治体やそれを操る政府(当時は自民党)の定見のなさ、悪どさを今回の福島の事故と重ねあわせることで批判する大変な力作だと思う。今回の事故を起こるべくして起こった事故として、ずさんな管理、下請け・孫請け労働者の被曝を前提とした虚構の安全神話などが舞台上でつぎつぎと暴露されていく。なかでも印象に残ったのは敦賀原発を導入した当時の敦賀市長が他の導入予定地の自治体幹部を前に演説したという、原発がいかにもうかるかをあからさまにぶち上げた利権まみれの自治体政治の醜さは、それを聞いていたひとたちの爆笑と大拍手によって増殖され、あたかもナチス・ドイツの悪魔的なプロパガンダを連想させた。そこで市長は50年後、100年後の子どもたちが全部「片輪」になろうと、いまを大もうけしていければいいじゃないか、とまで言い放っていたのだ。この荒廃の極致が当時の原発導入の自治体がかかえていた真相だったのであり、いまも基本的に変わらない「原発村」の実態なのだ。
 いま、原発事故をめぐる原発企業から政府、自治体とその推進派(警察や学校までふくむ)によるあきれるほどのこうした犯罪的実態がどんどん明らかにされているなかで、この戯曲はある被曝死事件の真相をひとつの家族を中心とする物語のなかでいきいきと視覚化してみせた。主演の農婦をつとめた藤木久美子は、息子を理不尽な被曝労働で失った母の苦しみと、あくまでも放射能による死を隠蔽しようとする東電(戯曲のうえでは「日電」)と裏金でカルテを偽造する町立医院の医師などへのじりじりこみ上げてくる怒りを最後に一気に爆発させる力演で、圧倒的な存在感と演劇的カタルシスをステージにもたらしていた。
 ひさしぶりに演劇の迫力を感じさせてくれたこの公演は初日18日朝のNHKテレビでも紹介されたが、27日までつづくので原発問題に関心のあるひとにはぜひ見てほしい問題作だと思う。(2012/5/19)

 きょうは沖縄の祖国「復帰」40周年の記念日。沖縄ではこの「復帰」にたいして祝うひともいれば、批判的に受け止めるひともいて、さぞやさまざまなかたちでイベントがおこなわれているだろう。そんななかで本土のマスコミは40周年にぶつけて特集記事や特集番組を組んでいる。こういう盛り上がりが一過的なお祭り騒ぎで終わらないことを切に望みたい。
 きょうの「朝日新聞」では1ページを使って知念ウシさんと高橋哲哉さんの対談「復帰と言わないで」を掲載している。ウシさんはつい最近も未來社から共著『闘争する境界――復帰後世代の沖縄からの報告』を刊行したばかりであり、高橋さんは第一論集の『逆光のロゴス』をはじめ未來社からは著訳書4冊がある。いずれもわたしとはとても親しいひとたちだ。興味深く読ませてもらった。
 知念ウシさんの論点は基本的に沖縄に米軍基地を置かせている日本全体で基地の問題を考えるべきであり、日米安保にもとづいて日本の安全保障が維持されていると考えるなら、基地を本土(とはウシさんは言わないが)でまず引き取り、そこから返還の問題を考えていくべきであるということである。さしもの高橋哲哉さんもタジタジといった図だ。
 おもしろいのは(おもしろくないか)、朝日新聞の司会者と思われる編集委員が対談にしばしば介入するところである。たとえば「安全保障の専門家の中には、沖縄に基地があるのは沖縄の安全にとってもいいことだという議論があるようですが」などといった具合である。「朝日」からすれば、沖縄に無理解な読者や沖縄に差別的な読者への気遣いからか、ウシさんの意見を一方的に受け容れていないことを示すことが必要なのだろう。
 もうひとつ、きょうの「読売新聞」の文化欄で未來社の沖縄写真家シリーズ〈琉球烈像〉が前田恭二記者によって大きく取り上げられた。わたしのことも出てくるので、以下に原文を引用しながらコメントをつけさせてもらいたい。
《このところ沖縄関連の書籍を次々に送り出している出版社に未來社(本社・東京)がある。特に目をひくのは、全9巻の写真集シリーズ「琉球烈像」だ。
 批評家の仲里効、倉石信乃両氏の監修で、2010年秋に刊行が始まった。社長の西谷能英氏は『フォトネシア 眼の回帰線・沖縄』など仲里氏の写真・映像論集を手がけ、自分自身、論じられた写真をもっと見たいと出版を思い立った。
 既刊7巻。島に生きる群像や戦没者の遺影を抱いた妻たちを撮った比嘉康雄『情民』、米軍基地のある現実を内側からとらえた石川真生『FENCES, OKINAWA』、本土復帰前に地元でジャーナリストになり、米軍統治期を記録した森口豁『さよならアメリカ』、さらに東松照明氏ら沖縄に深く関わった写真家の巻もある。残る2巻もほどなく刊行予定だ。(注:7月ごろをメドに刊行予定、完結をめざしている。)
(中略)
 シリーズは、「眼差され撮られる対象から、眼差し撮る主体へ」とのメッセージを掲げる。それにとどまらず、自ら米兵向けのバーで働いた石川氏のように、一方的に撮る側に回らず、被写体と深く関わっていく方法論も生まれ、先鋭かつ豊かなイメージが蓄積されてきた。
(中略)
「琉球烈像」の版元として、西谷氏は「風土や人々の生活が写真の細部に現れているし、そこには政治的なものが入り込んでいる。トータルに沖縄が見えてくる」とした上で、「知らないままでいることが抑圧になることがある」と語る。確かに問われているのは、むしろ写真を見る側の意識に違いない。》
 こうした紹介(批評)自体、マスメディアの仕事として得がたいことであるし、対象をとらえるアングルも悪くない。なによりも存在そのものが知られにくい写真集であり、そこに沖縄というプロブレマティックがからむことによって世間の目を気にするマスメディアとしては果敢な試みであると言えよう。感謝する次第である。(2012/5/15)

35 「紙型」という廃棄物

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 さきほど精興社の小山さんが古い紙型リストを持ってやってきた。10年ぐらい前に、精興社が活版印刷をやめることになったときに、活版印刷機のあるうちに前倒し重版をできないか、という提案があっていくつか印刷してみた記憶があるが、それに漏れたものはその時点で処分されたものだと思っていた。実際にリストを見せてもらうと、たぶんそのときと状況は同じ。かつては版を重ねたものもあるが、いまとなっては重版は期待できそうもないものがほとんどである。残るはオンデマンド復刊ぐらいしか可能性はない。ということで、紙型は処分してもらい、原本はオンデマンド用に使えるかもしれないので、持って来てもらうことになった。
 小山さんはわたしと同い年。定年退職後もまだ精興社にかかわっている。「紙型」といってもいまの若い人にはわからないよな、というのがふたりの共通見解で、かつては出版社にとっても印刷所にとっても貴重な宝物、「金の成る木」であったものが、いまは何ソレ、と言われるだろう廃品になってしまった。まあ、そんなものをよく取っておいてくれたよな、さすがは精興社、どこかの勝手に処分して恥じない印刷所とは大違いだけど、結果は同じか。ただ志というか心映えがちがう。そこが決定的におおきいんだけど、経済効果は変わらない。いまの経済一辺倒の政治と同じだ。出版の世界でこうした人間の気持ちが反映する場所がどこかにまだ残っているだろうか。

 *「西谷の本音でトーク」ブログから移動しました。(2012/5/11)

 尾鍋史彦『紙と印刷の文化録――記憶と書物を担うもの』(2012年、印刷学会出版部刊)には昨今の電子書籍や専門書にたいする見解、出版の関連業界である製紙業、印刷業についての豊富な情報が盛り込まれていて、たいへん参考になった。尾鍋さんは東京大学大学院農学生命科学研究科、生物材料科学専攻、製紙科学研究室名誉教授、日本印刷学会・紙メディア研究会委員長を経て元日本印刷学会会長などを歴任し、紙の問題を包括的に扱う文理融合型学問としての〈紙の文化学〉を提唱している、いわば紙と印刷の専門家である。この本は「印刷雑誌」1999年1月号から2011年12月号まで13年間にわたって毎月連載された「わたしの印刷手帳」156篇のなかから70篇をセレクトして編集されている。わたしが昨年11月に刊行した『出版文化再生――あらためて本の力を考える』の長い書評を専門誌「紙パルプ技術タイムス」2012年3月号に書いてくれて、そのコピーとともに本書を恵贈されたものである。尾鍋さんとは、本書にも掲載されているように、書物復権8社の会が2006年5月16日に紀伊國屋ホールで「書物復権セミナー2006」の一環として「批評・教養の"場"再考/再興」セミナーを岩波書店と未來社で担当したさいに挨拶させてもらった記憶がある。
 それはともかく、本書は長期連載コラムの集約であり、テーマごとに再編集してあるという点でもわたしの『出版文化再生』と似た性格をもつ。そのため時評的性格もあり、若干の繰り返しまたはその再展開といった趣きをもつ論点がいろいろ出てくるが、逆に問題点がその時点その時点でどのように捉えられ、どのように深められていったかを知るうえで非常にわかりやすくなっている。製紙業界や印刷業界に関連するさまざまな歴史的動向や問題点は本書によってほとんど初めて統一的に理解できるようになったし、電子書籍にたいする解釈も認知科学の確固とした理論にもとづいているので十分に信憑しうるものとなっている。
 ここでは尾鍋さんの専門分野である製紙関連についてよりも、さしあたりわたしの関心に近いところを読み込んでみたい。
 尾鍋さんは読書行為についてつぎのように書いている。
《ホモサピエンスとしての人間は人類が誕生したときから直立二足歩行と言語の使用というほかの動物とは異なった生物種としての優れた特徴があり、そのために成長過程における経験や学習により個人特有の精神世界を形成する能力をもっている。すなわち外部の新たな刺激や情報の入力により日々認知構造を再編成し、再構造化し、精神世界を深化させ、精神的な進化を遂げてゆくのが人間である。この刺激や情報の源泉として書物は格別に重要であり、読書による新たな知識は既存の認知構造にある知識と照合しながら知識を再配列し、長期記憶に定着させ、新たな認知構造を作ってゆく。すなわちミクロコスモスを能動的に変容させる能力をもつ読書という行為は個人の精神世界、人格形成に不可欠である。》(147ページ)
 この認知科学的理論の導入による読書からの知識の学習、習得、脳内格納等のダイナミズムは尾鍋さんの創見によるものらしく、世界各地でもこの見地からの講演などをしてきたことがうかがわれる。ここで昨今の電子書籍と冊子本の読書行為にどのような違いが生ずるかが検討されている。
 人間は紙の本であれ電子書籍であれ「読む」という行為を通じて情報処理をおこない記憶する。情報処理システムとして人間を捉えることができると尾鍋さんは言う。文字でも画像でも情報として視覚から脳内に入った場合、情報処理過程を経て記憶装置に格納されることになるが、その記憶装置には「短期記憶装置」と「長期記憶装置」があるとされる。「紙の書籍の場合には記憶を妨げる要素はなく、安定的に深く記憶装置に入っていくと考えられ」、「それまでに蓄えられた知識を新しい知識が入れ替えながら長期記憶装置に定着させ、人間の新たな知識となり、知性の向上に寄与することになる」(154ページ)が、電子書籍の場合には「紙の書籍にはない違和感が記憶を阻害し、短期記憶装置に留まってしまい、長期記憶装置に移行しにくい」(154-155ページ)。結論的には「電子書籍はとりあえず情報を読み取れるので一時的な情報の検索や娯楽および格別の目的を持たない読書には役立つが、知識が長期記憶装置には定着しにくいので、人間の知的な向上への寄与という面では紙の書籍が今後も優位性を持ち続けるだろう」(155ページ)というのが、本書全体を通じて尾鍋さんが一貫して主張している眼目である。
 尾鍋さんがしばしば引用するマクルーハンのメディア理論によれば、「一般的に新しい技術が出現するとその新規性から市場形成能力が過度に評価され、既存技術に対する代替能力が過度に評価されがちとなるが、結局は新技術を人間と社会が受け入れるか否かが重要な点となる」ということであり、人間の親和性が最終的な審級であることになる。その点ですくなくとも尾鍋さんの世代やわたしぐらいの世代では、一時絡的な情報や知識の獲得のためならともかく専門書を通読し深く理解しようとするには紙の書籍による以外にはありえないとする結論が導かれることになる。
 またアメリカでの電子書籍の広がりについても、アメリカでは西欧や東アジアのような紙の歴史も書物の歴史も浅いために書籍文化への敬意も薄いためだと一蹴している。
《人間の持つ好奇心という性質はどの民族にもある普遍的なものなので、電子書籍が市場に登場した初期段階ではどの国民も興味を持つと思われるが、紙や紙の書籍の長い文化的伝統を持つ国々では電子書籍の市場はアメリカほどには拡がらないだろう。》(158ページ)
 こうした紙の書籍への信頼と敬意こそが書物の必然的存在理由を自明のものとすることは書物に深く関わってきた者にとってはわかりやすいところであるが、生まれたときからパソコンや携帯電話やネットに囲まれて生きていくことになる若い世代がこれからこうした書籍への信頼や敬意をもつ機会があるのかどうか、そうした世代が電子情報からの知識の習得、長期記憶装置への格納などの能力をどうやって身につけていくことにできるのかどうかも心配なところである。原発問題でも防衛問題でもそうだが、電子書籍の導入にあたっても、アメリカ主導の大国主義への無批判的追随はもういい加減にやめにしたらどうか。現世代が後世のために禍根を残すことのないように、目先の利益や新規性に短絡的に飛びつくのではなく、慎重な配慮をもって事態に取り組むべきであることを指摘しておきたい。
 最後になるが、電子書籍がほんとうに商売として成立するかどうかへの危惧も尾鍋さんは指摘している。このこともしっかり検討しておくべき問題である。
《デジタルとネットワークはいったんそこに情報が載せられると、個々の情報の価値を限りなくゼロに近づける危険性を秘めている。電子書籍端末やネットワーク環境がいかに進化しようと、電子書籍ビジネスには利益が出にくいと言われるゆえんはこのような原理が背後にあるからだ。》(38ページ)(2012/5/6)