未来の窓|2002

 
[未来の窓58]

鈴木書店破産の教訓をどう生かすか

 十二月七日、かねて経営の不安をかかえていた専門取次の鈴木書店が東京地裁に自己破産を申請し、五十三年間にわたる取次業務を終息した。負債総額は三八億とも四〇億とも言われている。創業者の鈴木眞一氏が亡くなられた一九九五年以後、たった六年で取次界の良心とも呼ぶべき鈴木書店が破綻したことを思えば、好むと好まざるとにかかわらずこれまでの出版流通がここであきらかに時代の岐路に立たされていることがはっきりした。鈴木書店を取引先としている中小出版社、とりわけ小社のような人文・社会科学系の専門書を主体とする小出版社にはきわめて深刻な事態であると言わざるをえない。
 前日の六日と当日の七日にいくつかのマスコミの取材に答えることになって、おのずから今後の出版流通のありようについて考えをめぐらせざるをえないことになった。この間のインターネットでのさまざまなうわさや放言の垂れ流しを見るにつけ、こうした出版業界人の無節操ぶりや無責任な反応にもいささか嫌気がさしたところで、当日の夕方、わたしは小社のホームページにつぎのようなメッセージを掲載した。
「人文・社会科学系の専門書取次、鈴木書店が十二月七日に東京地裁に破産申請の手続きをすることになりました。小社も長年にわたって多面にわたるお世話になり、恩恵にあずかってまいりました。ここにいたっての破産申請は、出版不況と出版業界のすべての矛盾を一手に引き受けた結果という感があり、刀折れ矢尽きた凄絶な最期でした。いろいろな可能性を最後まで探ろうとする真摯な姿勢をみせたにもかかわらず、出版社のさまざまな思惑や無理解、周辺をとりまくさまざまなメディアや情報の乱舞のなかで万策尽きてしまったわけです。取次業界の良心であっただけに非常に残念であるとともに、今後の出版流通、さらには出版界そのものの行方がどのようになっていくのか大変な危惧を感じます。これをひとつの契機に、これまでの出版流通のありかたを構造疲労という観点から抜本的に考え直していくようにならなければ、同じ悲劇はさらに繰り返されることでしょう。目先の利益にとらわれようとするあまり、出版の本来の姿や読者の存在を見失うことのないように出版人は襟を正してこの苦難を乗り越えていくことが必要だと思います。」(字句の一部を修正)
 いまさら言ってもしかたないことではあるが、鈴木書店が破産に追い込まれる経緯には端倪すべからざる力学が働いた。はっきり言って、鈴木書店の苦難と破綻は出版社、取次、書店、生協など業界すべての共同責任であり、構造不況のなかでともども構造疲労を起こしているにもかかわらず、トカゲのしっぽ切りよろしく、身にふりかかりそうな火の粉からはいちはやく遁走して我が身の保全だけははかろうとするような自称「おとな」の業界人たちがあまりにも多すぎたということだ。現に主力取引先四〇社を集めて買掛金三六パーセントの放棄が提案された十一月二十一日の説明会、それを受けて取引出版社四二〇社を集めておこなわれた十一月二十九日の債権者集会のそれぞれ翌日から取引停止、出荷停止といった措置をとる出版社が続出し、鈴木書店をめぐる環境の悪化が一段と加速した。その段階でこれまでの流通量が約一五パーセントに激減し、出荷をつづけている社がわずかに七〇社といった実質的な機能マヒ状態に陥ったうえに、生命線たる大書店チェーンからも帳合変更、支払い停止といったかたちで最後の命脈が断たれたのである。
 そこにはインターネット時代の情報流通の早さとその影響力の大きさもおおいに手伝っている。匿名ゆえに情報がひとり歩きしていく姿には恐ろしいものさえある。そうした情報に先導されたことも原因のひとつだろうが、まだなんとか再生の道を探ろうとしているやさきに、雪崩をうってマイナスの方向へ足を引っ張ることになった業界紙、中堅大手版元数社、大書店の対応なども、やはり思慮に欠けるものと言わざるをえない。ここで自社の損益を最優先に考えることが業界全体の足を引っ張らなかったかどうか、それぞれ厳しい現実があることは承知のうえだが、これだけはぜひとも再省してもらいたい。率先して鈴木書店に見切りをつけておきながらマスコミの要求に平然と鈴木書店をたたえる文章を書いたり、その破綻を残念がってみせるという厚顔無恥にはもはや先がない。こうした出版社の思惑や浅慮が今回の破産を急速に破綻に導いたのである。鈴木書店の自己破産を対岸の火事と受けとめているような業界関係者しかり、これをチャンスとばかりにみずからの利得拡大に走ろうとするような業界関係者しかり、いずれにしたってこういうひとたちに出版の未来をまかせるわけにはいかない。
 いずれにせよ、これまでいわゆる「神田村」の「村長」的存在であった鈴木書店の破産によって、懸念されることは大取次二社の専門書版元への取り組みである。従来、鈴木書店は、利益効率の悪い(と思いこまれている)書籍流通、とりわけ人文・社会科学系専門書の流通という領域を確保することによって存在理由をたもってきたのだが、そのために他の大取次、中堅取次はワリの悪い仕事(と思いこまれているもの)から手を抜くことができたのであり、この理由そのものによって鈴木書店の存続を必要としてきたのであった。今回の鈴木書店の破綻によって、こうした防波堤が決壊し、取次と出版社が厳しい利権確保競争(一種の正味戦争)に短兵急に走ろうとする傾向がはやくも見えはじめていると聞く。すでに書いたように、こうした物取り主義的な発想からは第二、第三の鈴木書店を生むことはあっても業界の健全な存続は望めないだろう。
 出版界の構造不況はきわめて深刻であり、なかでも専門書を志向する出版社にとって既成の出版流通のチャンネルではいかんせん限界が見えている。しかるべきかたちで自主流通の必要性を考える出版社が集まって、オンライン書店のようなものもふくめて、小さくてもいいからなんらかの新しい流通チャンネルを組み上げていくような方向性が見出せないものだろうか。そのときには、たしかにこれまでの出版社と取次の関係を変えるようななにか新しい流通形態が生まれうるのであり、そのときこそ鈴木書店が残した教訓が生かされるだろう。

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[未来の窓59]

『出版のためのテキスト実践技法/編集篇』刊行報告

 予定よりいくらか遅くなってしまったけれども、ようやく『出版のためのテキスト実践技法/編集篇』の最終校正を終えてホッとしているところである。昨年十二月二十五日に入稿、最終日の二十八日に初校出校、正月明けの七日に責了、いろいろ設定上の不具合が出たが、印刷所の頑張りで十一日に青焼き責了、十二日に印刷というプロセスを経て、この十七日には見本ができる予定である。したがって本誌がお手元に届くころには、確実に本は入手できることになっているはずである。
 実質的に入稿から半月足らずでの刊行ということになるわけだが、今回は正月休みをはさんで、しかもその間に原稿修正がじつはかなり入ってしまっており、理論通りにすべてがうまく進んだわけではなかった。今回は初校ゲラが出た段階で、つまり年末年始休暇にはいった段階で、わたしのテキスト処理方法論の恩師とも言うべき高橋陽氏からゲラ通読のお手伝いをしていただけるという願ってもない申し出を受けた結果、細かい表現の問題からSEDスクリプトの不具合にいたるまで、いろいろ修正が入ってしまったのである。もっともまとまった修正やややこしい部分はデータで渡したので、修正の多いわりには初校責了を貫徹することができた。
 ともあれ、昨年四月に『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』を刊行し、予想以上の反響もあって今回の『編集篇』刊行を期待していただくかたがかなり多く、そうした声に励まされてようやく形を成すことができた。昨年四月の東京国際ブックフェアでの読者との約束はこの四月のフェアまでになんとか刊行するということだったから、前倒しでこの約束を果たしたことになる。わたしとしては異例のことである。とにかくこの八か月ほどのあいだに約三五〇枚の原稿をゼロから書き下ろしたかたちになる。
 こうしたことが可能になったのは、いくつかの好条件に恵まれたことによる。その一は、すでに述べたように、『執筆篇』が好評で業界的にわりあい広く認知されたことである。その二は、前回にひきつづき[編集のためのテキスト実践技法]という連載をさせてくれた「週刊読書人」の好意にある。『執筆篇』刊行にあわせて最初の連載[出版のためのテキスト実践技法]を途中で打ち切るというわがままを許してくれたばかりか、今回も同じくこの連載を途中で切り上げることを認めてくれた読書人編集部にはお礼のことばもない。さらにはひきつづいてあらたな連載[執筆と編集のためのパソコン技法]まで可能にしてくれたことで、これからの著者と編集者のための、より具体的で広範なパソコン技法を考えていく契機になることができそうだ。
 また三番目の好条件としては未來社ホームページという中間発表形態があったことで、ここに具体的な技法のノウハウやSEDスクリプトにかんする技術的な部分を「編集篇ベータ版」として発表することができた。これは『編集篇』の中核になっている第二章にほぼ該当する。ここの部分は問題のある箇所も多いので、ちかく削除する予定であるが、未來社ホームページのなかでもっともアクセス数の多いページのひとつであった。
 こうしたことを背に受けてともかくここまで一気に刊行にこぎつけた『編集篇』だが、いざ刊行予定が見えてくると、はたしてこんなむずかしそうなパソコン技術論をまともに読んでくれる編集者がどれだけいるものか、あらためて不安になってきた。『執筆篇』のときにかなり意地の悪い批評が二、三あったこともあって、もともとの[出版のためのテキスト実践技法]がどういう構想だったのか、悪意ある評者が見くびろうとするような低レベルのものではないことを明らかにするために、若干の力みがあったかもしれない。またSEDという編集者にとって強力な武器になるツールにほれこむあまり、いくらかパソコン・オタクふうに見られてしまうようなところもあるかもしれないと反省するようになったのである。これまで高橋陽氏の(わたしに言わせればSEDの聖典ともいうべき)『sedによる編集&DTP[実践]自動処理テクニック』(一九九八年、技術評論社)という本をはじめとしてSEDにかんする本は、残念ながら、それほどの売行きを示したものはないらしい。内容が専門的になってしまえばしまうほど読者は減少するという厳粛な法則がここでも貫いているのかもしれない。
 しかしそんな不安の一方で、今回の『編集篇』はとにかく実用的でもあることをめざしているので、SEDスクリプトの機能のしかたに十分な理解が得られずとも、とりあえず本文中や巻末に収めた各種スクリプトを実行してみることによって、実際的な効果のたとえ一端でも知ってもらえば、わたしの意図は通ずるのである(ちなみに、このスクリプトファイルは未來社ホームページの「未來社アーカイヴ」ページで公表する予定なので、そこからコピーしてもらってかまわない)。実践が先にあれば、理論的な理解はあとからでも間に合うのである。
『編集篇』の原稿の最後の仕上げにかかっている段階で、前号でも触れた専門取次・鈴木書店の自己破産という事件が生じて、わたしはたいへんなショックを受けざるをえなかった。もちろんこれまでの長年の有力取引先が突然消滅することによって経営的にもダメージがあるからでもあるが、今度の『編集篇』の販売においても鈴木書店は『執筆篇』のときと同様、力になってくれるはずだったからである。専門書出版社との取引の多い鈴木書店だからこそ、[出版のためのテキスト実践技法]のような専門書の著者や編集者を読者に想定した本は広めてもらう必然があったわけなのに、間に合わなかった。いまはそのことが残念でならない。
 その一方ではさいわいなことに、この『編集篇』刊行にあわせてすでに二つのセミナーが準備されている。ひとつは見本予定の翌日(一月十八日)に熱海のニューフジヤホテルで開かれる出版労連・全印総連の合同シンポジウムであり、もうひとつは印刷会社・平河工業社主催の「ヒラカワ少部数書籍印刷セミナー」(二月七日、同社北池袋事務所プレゼンテーションルーム)である。業界人の関心をあらためて惹くことができればさいわいである。

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[未来の窓60]

平河セミナーその他を終えて

 前回このページでお知らせしたように、『出版のためのテキスト実践技法/編集篇』刊行にともない、二つのセミナーで講師をする機会があった。ひとつは出版労連・全印総連の合同シンポジウムであり、もうひとつは平河工業社主催の「ヒラカワ少部数書籍印刷セミナー」である。
 前者はかならずしも[出版のためのテキスト実践技法]のみの関連ではなく、鈴木書店自己破産にともなう出版界内外の危機感を共有する出版労連(と全印総連)の企画によるものであり、近い将来に合併を企図する両組織の、春闘へむけての討論集会のおもむきをもつものであった。小出版社とはいえ、経営者のはしくれであるわたしのような者に話をせよとはどういう風の吹きまわしかと思いきや、もはやたんなる賃上げ闘争に終始するわけにはいかない出版企業人としての危機意識の反映であることが、事前の打合せに来社された出版労連幹部の共通の認識であることがひしひしと伝わってきたのである。
 わたしがこのシンポジウム参加を引き受けたのは、ひとつにはこうした出版人たちの問題意識に共鳴するものがあったからだが、もうひとつの理由としては印刷現場にいるひとたちに[出版のためのテキスト実践技法]の有効性を訴えてみたかったからである。
 出版社と印刷所の関係は、その需要と供給の関係において、またそのコストと支払い関係その他の商取引上の諸問題において、ある意味ではかならずしも利害が一致するわけではない関係にある。ある大手版元などはある印刷所にたいして年間の仕事量の一定以上の供給を保証するかわりに、すべての単価やコストを自分で決めているばかりか、請求書まで発行してしまうというような驚くべき実態がある。これに類した関係のなかで出版社が印刷所にたいしてとうてい平等とはいえない関係性を強いているのが一般的な実態である。
 合同シンポジウムのなかで全印総連側の講師、月岡政雄氏(三省堂印刷)が印刷所の意見として出版労連のひとたちに訴えたのがじつはこの点である。出版社の都合によって帰宅時間や休日まで自分の自由にならないという現実があること、しかもそうした仕事を通じて得られるはずの売上げ請求が不当にコスト削減を強いられること、揚げ句のはてにいつ換金できるかもしれない手形払いであり、しばしば倒産等によってただの紙切れになってしまうこと、などを冗談めかしながらも切々と話されたのが印象的であった。
 出版社の人間はおうおうにしてこうした関係を見損なっていることがある。自分の仕事にたいする愛着もあろうが、自分が仕事を供給する側にいることに慢心していないか、あらためて考えるべきであろう。編集者がやるべきことを印刷所に押しつけることによって、印刷所は請求書に反映させることのできないむだな仕事をかかえこむことになる。いわばシャドウ・ワークとしての原稿整理、ファイル整理などが印刷所の仕事のかなり大きなウェイトを占めている。
 わたしの[出版のためのテキスト実践技法]はその意味でも、著者や編集者のみでなく印刷所のオペレーターにおいても有効だということを知ってもらいたい。編集者は印刷所に入稿する原稿とファイルのすみずみまで整備しておくことができれば、どれだけ印刷所の仕事からむだな手間ひまが削減できるか、ということであり、このことの意識化と実現への努力をおいて出版社と印刷所の共存共栄ははかれないし、ましてや出版労連と全印総連の組織合同も実現がむずかしい。そういうような話をさせてもらったが、じっさいにどのように受けとめられたかいまひとつ判然としない。
 そのあとに二月七日に開かれた平河工業社主催の「ヒラカワ少部数書籍印刷セミナー」は、より具体的な問題に集中して話をすることができたという点ではよりいっそう意味深いものだった。予定をはるかに超える一〇〇名以上の参加者のほかにも、予約なしで来られて後方で立ち見をされていたひとがかなり見受けられた。平河工業社の和田社長が古くから提唱されている「少部数書籍印刷」と、わたしの提案しているテキスト編集技法が合体して専門書の少部数出版が実現しうるなら、今後の専門書の出版事業の可能性もおおきく開かれるのではないかという感想をもった。
 このセミナーは平河工業社が外部の講師を招いておこなう最初のセミナーだそうだが、さいわいにもいろいろ呼びかけをしてくれたおかげで、わたしの編集技法に関心をもってくれている出版人、編集者、オペレーターなどが集まってくれ、わたしの実演もふくめた出版論、編集論に耳を傾けてもらうことができた。『編集篇』一冊を購入して方法をマスターすれば、一六〇〇円の本代で一冊の編集をするのにその一〇〇倍から二〇〇倍ぐらいは簡単にモトがとれますよ、と冗談で言ったのがよかったらしく、持参した『編集篇』四五冊、『執筆篇』二〇冊もすべて売り切れてしまった。その後、そのセミナーを聞いてくれた愛知県の女性が未來社ホームページから買いそびれた分を注文をしてくれたことなどもあり、昨年の東京国際ブックフェアでの『執筆篇』の反響と同じぐらいの手応えを感じるセミナーだった。
 昨年もいくつかのセミナーをやらせてもらったが、こうしたセミナーをつうじてつくづく感じていることがひとつだけある。押しつけがましいことはあまり書きたくないのだが、思いきって言ってしまえば、小出版社、理科系出版社、大手出版社、編集プロダクションなどの思いがけない出版社が多数参加してくれる反面、わたしがもっとも念頭においているような人文系専門書出版社の編集者がこうしたセミナーにさっぱり来ないことである。わたしに言わせれば、わたしの技法がもっともマッチしているはずの人文系専門書出版社の編集者がこうした方法の有効性に耳を傾けようとしない現実こそ、編集者という存在の自覚のなさの証拠であり、十年一日のごとき方法への故なきこだわりこそ、専門書出版の困難を倍加させているのだという認識の欠如、というか甘えなのだ。もともとわたしは編集者に幻想をもっていないから、知ろうとしないで損をしていようといっこうかまわないが、いま編集者だからという理由で許容されるものなど、なにひとつ存在しないのである。

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[未来の窓61]

ベストセラー論議再論

 二月下旬から三月上旬にかけてかなりの数の地方紙で「ベストセラーは必要か」という刺戟的なタイトルの出版関係のおおきなインタビュー記事が掲載された。確認できただけでも北は「秋田さきがけ新聞」から南は「琉球タイムス」におよんでいる。インタビュアーとまとめ役は共同通信社編集委員の朝田富次氏。《争論》というものものしい振り付けがなされたもので、本の文化にとって〈ベストセラー〉と呼ばれるものははたして存在理由があるか、という視点からの挑発的な特集ページである。もちろんこの設問の裏にはベストセラーなど必要ない、というメッセージが秘められているのは言うまでもない。この挑発に乗った(乗せられた?)のがわたしと筑摩書房専務の松田哲夫氏のふたりである。ともあれ、このページの一部が「ジャパン・タイムス」にも翻訳、掲載されたところをみると、その筋ではかなりの評判になっているのかもしれない。
 言いたいことを存分に言ってくれてかまわないという朝田氏の事前のつよい慫慂もあって、すっかりその気にさせられてしまったわたしとしては、おおむね自分の主張がきちんと伝えられていることにひとまず納得しているところである。とはいえ、朝田氏には申し訳ないが、やや短絡的な表現になっているところもところどころにあり、誤解のおそれのある部分が気になる。
 そのなかでもっとも問題があるのは、わたしがベストセラー本にたいして全否定的な態度をとっているかのような記述である。これは最初に話をもちかけられたときにもはっきり断っておいたことだが、朝田氏のベストセラー否定の論脈とは主張をやや異にして、ベストセラーのなかにもすぐれた本はいろいろあるし、わたしもそれらの本をしばしば読むことはある。だからベストセラーがいいか悪いかという問題設定自体に問題があらかじめふくまれているのではないかと指摘しておいたはずである。すぐれた内容とわかりやすさをあわせもつ本がたまたまベストセラーになることをわたしは否定したことはいちどもない。ただ吟味に耐える内容もその資格もないのに、虚偽の宣伝や力づくでベストセラーにしたてようとする出版手法をわたしは断固として否定しようとしているだけである。朝田氏のまとめ文のなかに「取材を通し、西谷さんのベストセラーに死を!の気持ち、いい本を出したい思いがよく分かった」とあるのは、わたしからすればちょっと勇み足、ということになる。「ベストセラーに死を!」とはあまりにも穏当さに欠ける。
 そんなわけでせっかくの全国ネットの特集記事にいささか苦言を呈したように思われるかもしれないが、これもわたしの主張に反発するであろうと予想される一部の出版人のためにあらかじめ釘を刺しておこうとする配慮のためにすぎない。朝田氏が出版文化擁護のために、ベストセラーよりもロングセラーを、とするわたしの主張の眼目を原則的に支持してくれていることを多としなければならないのである。じっさい、これからの出版はマスプロ、マスセールを錦の御旗として成長してきた量志向の「出版産業」にかわって、多様性と質志向の「出版文化」への転換を余儀なくされていくであろう。インターネットやモバイル機器による多様性への志向性(悪く言えば「ミーイズム」)が日本人特有の同一化志向をゆるやかに解体していこうとしているのであり、そのなかでさして取り柄もない一過的な読み物などが淘汰されていくようになるのは時代の必然だからである。
 その意味で興味深いのが、今回の「争論」の相手とされた松田哲夫氏の発想である。もちろんここでも、インタビューによる不正確さと遺漏はまぬがれがたいので、あくまでも大筋のところで理解できた範囲の問題である。もとよりこの「争論」というのはべつにわたしも松田氏も意図したわけではなく、朝田氏による戦略的配置にすぎないので、結果としてベストセラーというものへの異論を述べあったかたちになっているだけである。両者とも相手を意識したことなどないはずである。
 しかしベストセラーを続々とヒットさせる編集者としての松田氏とはちがって、わたしにはベストセラーというものへの信仰も経験もない。ベストセラーを一面的に追う出版人や取次人、書店人のためにロングセラー志向の本がどんどん居場所を奪われているという日々の惨状をいやというほど経験しているだけだ。そうした経験から判断すれば、「ベストセラーが出版界全体の浮揚につながっています。ベストセラーのついでに他の本も売れ、地味な本の出版も可能になる」という松田氏の楽観的な発言にはやはり首をかしげざるをえない。とはいえ、「ロングセラーも健全に育つ出版界でありたい。編集者を会社から解き放ち、企画で勝負させるなど出版界を変革する時期に来ていますね」という最後の発言には安心させられると同時に時代の要請とも思われる鋭い問題意識も感じられる。
 とりわけ、編集者を会社のなかに埋没させずに、その企画力と実現力によって評価するという考えかたにはおおいに賛成である。ごく一部のベストセラーによって出版社が支えられ、業界全体も繁栄するという幻想の時代は終わった。ベストセラーや広告収入に寄生する編集者(だけではないが)はようやくその安逸をおびやかされつつある。社名に依拠しているだけで努力のない一部有名出版社の編集者も同じだ。これからも出版をめざし、あるいは継続しようとする編集者は、みずからの実現した企画とその成果によってその存在理由が明らかにされるべきであり、必要な評価を受けるべきである。俗悪さや一時的な評判を狙う本よりも、継続的な評価、しかるべき評価を受けるような本を製作するほうが長い目で見て有利になるような評価の基準を確定していきたいものである。
 すぐれた編集者は著者をも読者をもつくりだす。出版不況もここまでくると、ごまかしが利かなくなる。同工異曲のものを再生産してきただけの著者も編集者も早晩退陣を迫られるだろう。逆説的に言えば、それだからこそ真の「編集の時代」はこれからなのかもしれない。従来の手法に凝り固まった編集感覚ではこの不況の時代に光を見出すことは不可能なのである。

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[未来の窓62]

専門書出版存続のマスタープランを展望する

 以前、この欄で出版業界の規模縮小の可能性と現実性について書いたことがある(「業界の縮小という選択は可能か?」、「未来」二〇〇〇年十一月号)。そのさい、専門書出版社の存続のためにある程度の規模縮小を考えざるをえないことも示唆したつもりである。かつてのように新刊を刊行すればなんとか売れるような時代は遠く去ってしまい、いまはどこも売上げ減に歯止めをかけることがむずかしい時代に突入している。売上げ減にともなって、おのずと余剰人員の問題が浮かび上がってこざるをえないのである。
 小社内部のことに限ってみても、この問題が顕在化しつつあったところで、なかばは予定通り、なかばは思いがけぬかたちで解消されようとしている。予定通り、というのは昨年からことしにかけて定年を迎えるひとたちがたまたま集中していたことであるから自然減と言うべき現象だが、思いがけぬかたち、というのは予定外の退職者が出てきたためである。激動の出版界にあって、出版編集、専門書編集のありかたについていろいろな考えかたがあるのはしかたないが、現実に対応する努力をしなければならないのはどの業界でも同じである。こういう状況のなかで退職希望者が出たという事態は、これまでの小社の歴史にはあまりなかったことである。それだけ厳しい現状を反映していると言うべきであろう。
 しかしその一方で、昨年秋に未來社ホームページでの公募をつうじて入社してきたひとたちは、さすがに厳しい出版状況をあらかじめ覚悟してきているだけあって、これからの出版編集、専門書編集はどうあるべきか、出版社はどうあるべきかについて甘い幻想をもってはいないように見える。それどころか、わたしの提唱するパソコンを積極的に利用した[出版のためのテキスト実践技法]をすすんで取り入れようとする努力もあり、編集してみたい企画の実現のためになにをしなければならないかをよく理解してくれているようだ。
 こうした社内事情は多くの読者には無関係のことであるのは承知のうえであるが、これからの専門書出版の問題としてある種の共通性があるのではないか、という観点からもうすこし小社なりの今後の存続のためのマスタープランを展望してみようかと考えるのである。
 といっても、そんなに特別な妙案があるわけではない。一般的に考えれば誰でも大なり小なり同じような観点にいたりつくのではないかと思うことばかりであろうから、ここではあらためてひとつの考えかたを述べてみるにすぎない。
 小社のような小専門書出版社において必要なことは、編集・広告宣伝・営業の三部門において、限定つきかもしれないが厳選された対象、方法を戦略的に選択することによって効率のよい仕事をしていくべきではないか、とまず考えてみる。「戦略的な選択」とはわかりやすく言えば、みずからの現状と実力に即した仕事を選択し、必要以上に仕事を拡散させないということである。
 これまでの未來社は小さいなりに人文・社会科学系の総合出版社をめざしていたところがあった。それもある時期まではそれなりに実現できたところがあったかもしれないが、最近の内外の情勢からみても、そうした総花的な出版姿勢はあまり得策ではないばかりか、無理な負担をみずからに強いてきたのではないかという反省もある。小出版社というのは人数が少ないから、ひとりの編集者の意思やコンセプトがその社の出版物にかなり強く反映するところがある。小社の出版物もやはり同じように、編集者の入れ替わりにともない時代とともにずいぶん様変わりしてきたはずである。外から見ると、関心のもちかたによってそれほどちがって見えないこともあろうが、内側からみるとそれがよくわかる。ここ二十年ぐらいのあいだに、ジャンル的にみれば、政治学や経済学といった社会科学系のもの、民話や民芸的な土俗的なもの、演劇書などがかなり縮小し、かわって哲学・思想書や歴史書、さまざまな種類の批評書などの人文科学系のものがより大きなウェイトを占めるようになってきた。この方向はしばらく続けていくつもりである。その意味では、おのずからある種の絞り込みがなされつつあると言えようか。
 こうした選択がなにを意味するのかといえば、刊行ジャンルやテーマをある程度限定していくとともに、特定の著者との関係をいっそう緊密にしていくことである。核になる著者を中心に周辺の新しい著者の発掘を心がけていくべきなのはもちろんのことだが、必然性を超えてまで刊行点数を増やさない禁欲が必要となろう。なかには採算のとりにくい企画も出てくるかもしれないが、さいわい、[出版のためのテキスト実践技法]を適用することによって時間や経費の無駄を大幅に削減しうる方法論でなんとかクリアーできそうだ。刊行ジャンルを広げすぎることなく納得のいく本作りをすることだけに専念するなら、編集者を無理にふやすことも不要になる。それにともない、これまでの新刊の刊行ペースや刊行手順などを再考することも新たな課題になってくる。
 これは営業部門においても同じである。小社は注文制をとっている以上、もともと書店と幅広くつきあっているほうではない。むしろ間口を狭くした分だけ、密度の高いおつきあいをしてこなければならなかったはずだが、現実はなかなかそうはいっていない。専門書を置いてくれる書店がますます減少している以上、これからはむしろ特定の書店の理解と協力をより徹底してもとめていく方向に動いていくべきだろう。
 また広告宣伝部門においてもこれまで以上の絞り込みが迫られているなかで、本誌「未来」の内容充実、読者拡大を図るとともに、未來社ホームページやインターネットを使った情報発信にいっそうの努力を傾注することがのぞまれる。未來社ホームページはわたしの「日録」をはじめ、「未來社アーカイヴ」ページの情報発信に力を入れているせいか、かなりのアクセス数やヒット数を確保できている。そこへしばらく中断していた「メール新刊案内」が再開できるようになって、読者や知り合いへの直接的な情報発信ができるようになった。新聞広告や雑誌広告のような間接的な広告も必要だが、「未来」のような自前の活字媒体やインターネットのような電子媒体をつかっての直接的な読者との交流も今後のマスタープランの軸となるはずである。

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[未来の窓63]

二度目の東京国際ブックフェア

 小社はことしも四月十八日から二十一日にかけての東京国際ブックフェア(TIBF)にブース参加した。昨年にひきつづき二回目の出展である。成績で言えば、昨年のやや異常とも言える賑わいにくらべれば、ことしはいまひとつといったところだろうか。それでも、まだ部数が確定していない某大手書店による一括購入の商談もあり、新しい総合図書目録やPR誌「未来」の大量配布など今後の宣伝効果まで計算に入れれば、とりあえず良しとするべきかもしれない。
 とにかく昨年同様、この四日間ブックフェア会場に精勤して出版社の知り合い、著者や読者の方たち、印刷関連業者や友人など、小社のブースを訪ねてきてくれた多くのひとと会ったり話したりすることができたのはおおいに意義のあることだった。ふだんなかなか時間をとれないわたしのような者にとってはこうした機会は非常に貴重なものである。熱心な読者とじっくり話ができたりしたのもこういう機会でもないとできないことである。
 昨年は小社としても初の出展であり、わたしの『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』が「朝日新聞」で大きく取り上げられたこともあり、またパソコンをもちこんでデモンストレーションをおこなう約束をしてしまっていたので、まわりを見て回る余裕がほとんどなかった。ことしはその意味ではある程度見て回る余裕があったので、このブックフェアをいくらか客観視することもできるようになったと言えるかもしれない。そこで来年へむけての抱負のようなものもふくめてこのブックフェアへの考えをまとめておきたい。
 主催者側の発表によると、来場者登録数は四日間で四二、五六五名、出展関係者参加者数が六、九三六名、あわせて四九、五〇一名で昨年よりやや増加とのこと。わたしの個人的な印象でも、最終日の日曜日があいにくの大雨だったにもかかわらず、全体ではかなり来場者が増えている感じがあった。本来、一般に開放されていないはずの木曜日、金曜日の数字がかなり高いこともそういう印象を与えることになったのかもしれない。業者の名札を借りて付けた著者や友人がこれらの日にかなり見かけられたこともその裏づけになる。とにかくこうして四日間にわたってまんべんなく入場者が多かったというのもおおかたの印象である。その割には公式の入場者数がそれほどの増加でないのはやや意外であるが、そういった印象を与える理由のひとつにはひとりひとりの入場時間平均が長くなっているのかもしれない。だとすれば、それだけこのブックフェアが定着してきたことを示していることになる。
 全体の売り上げがどのような結果になっているのかまだわからないが、一部出版社を除けば、入場者数の割には財布の紐が堅かったというのが残念ながら一般的な見方である。地方からわざわざリュックをしょって本の買い出しに来られるような熱心な本好きはことしもたしかに見られたが、経済不況の影響はさすがに大きいようで、最終的には目的買い以外の本については買い控えがあったような気がする。
 こうしたなかで昨年、出版界の危機をテーマにした『だれが「本」を殺すのか』で話題になった佐野眞一氏の基調講演がことしのTIBFの呼びものであったのは皮肉である。佐野氏の新著『だれが「本」を殺すのか 延長戦』(プレジデント社)がこのブックフェアにあわせて配本されたとも聞く。だれが『本コロ』をどう読んだか、という二番煎じものであるが、話題の継続においてなかなかうまい本造りだと思う。わたしが本欄で書いた文章ほかも付録で収録されているので、のちに送ってこられたが、さてこの本が前著に比してどれほど売れるものか、興味深いところである。
 ところで、小社の場合はことしは昨年のような目玉があったわけではなく、事前の準備もいささか不十分だった。前回の出展のさいに書棚など大きな機材をもちこんだ割にはブースの構造上あまり効果がなかったことを考慮して、ブースとセットの棚のほかには小さなワゴンを借りるにとどまった。そのためもあって、展示したアイテム数が少なくなった。事前の招待券の配布にももっと力を入れるべきだったろう。昨年の五〇周年記念につくった目録+アーカイヴ用CD-ROMのような目新しい工夫にも欠けるところがあった。
 そんななかにあってわたしの『出版のためのテキスト実践技法/編集篇』は昨年のTIBFでの読者との約束を事前にはたして一月に刊行していたこともあって、このフェアでは『執筆篇』とあわせて一〇〇冊ほど売れた。刊行とTIBFが同時だった昨年ほどではなかったにせよ、まずまずの成果である。思いがけぬ読者との対話に時間を割くことができたことも良かったと思う。この一年のあいだに自分の本を介してずいぶんいろいろなひととの接点ができたことを感慨深く思うことしきりである。
 これ以外では、すこし傷んだ古い本を半額にしたコーナーとか、重版の見込みのなくなった資料室の重版用原本の一部を最後の一冊として販売したものがかなり人気があった。準備不足でもっと出荷できるものがあったはずである。最新刊をワゴンセールのかたちにしたのがまずまずだった割には、奥の書棚に並べた既刊本に動きが乏しかったのは、導線の工夫とディスプレイ上の課題を残したと言えようか。
 総じていえば、東京国際ブックフェアとはたんなる年に一度の業界のお祭りではなく、出版社が読者にむけて自分たちの手法なり意志を公開する情報発信の場としてとらえかえしていく必要がある。全体的に華やかな雰囲気のなかで、われわれのような専門書出版社がブースを並べている人文書出版社コーナーは出している本やパフォーマンスは地味だが、だからと言ってけっしてひとが集まらないわけではない。むしろ読者がじっくりと本選びしている姿が見られるのはわれわれのコーナーが一番なのではなかろうか。その意味でも、もっともっと多くの専門書出版社が出展してくれることを望みたい。いままでは逆の立場だったものが急にこういうことを言い出すのはおこがましいかもしれないけれども、より多くの専門書出版社が同時に出展することによって、より魅力ある東京国際ブックフェアになれれば、読者の新たな掘り起こしにもつながると思うのだが。

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[未来の窓64]

〈書物復権〉の新しい局面に期待する

 ことしも〈書物復権〉の季節がやってきた。ことしで六年目を迎える〈書物復権〉の運動は、一九九七年に岩波書店、東京大学出版会、法政大学出版局、みすず書房の四社の会として発足し、翌年には勁草書房、白水社、未來社をくわえた七社の会に拡大され、その後さらに紀伊國屋書店をくわえた八社の会として定着し、現在にいたっている。
 年の始めに各社一〇点ずつの候補書目をノミネートし、読者のハガキやインターネットをつうじてのアンケート投票を得て、これを参考に各社五点ずつの復刊書目が決定され、六月初旬に書店店頭に並べられる。年々あらたなテーマを設けて各社が財産としてかかえている豊富な専門書群のなかから厳選された書物が〈復権〉されるのである。ちなみにことしは一九七〇年代の本を中心に選書されている。
 こうした方法で未來社だけでもこれまで二六点の復刊を実現してきている。なかには初回のE・H・カー『[新版]カール・マルクス』や今回の竹内好著『[新版]魯迅』のように、あらたにページを組み直して読みやすくしたものもふくまれている。こうしたきっかけでもないと、とくに古い版のものなどなかなか重版ができなくなっているのが現状だから、それぞれの書物からしても〈復権〉になっていることは疑いない。さらにこのノミネートされた候補書目のなかから別途に独自復刊している本もあるから、未來社ぐらいの規模になると、かつてのロングセラーがかなりの程度〈復権〉しているということになる。あとは読者や図書館がどれだけ購入してくれるかにかかっている。
 昨今の出版不況をさかのぼる六年ほどまえに、みすず書房元社長の小熊勇次氏によって命名されたこの〈書物復権〉なるネーミングは、当初わたしにはやや悲壮すぎるように響かないこともなかったが、いまとなってみると書物の危機の深さにたいする先見の明を示していることに驚かざるをえない。たんに本が売れない、専門書が売れない、という泣き言ばかりでなく、グーテンベルク以来五〇〇年の書物という形態と読書の歴史が深刻な危機に瀕していることへの警鐘だったのである。
 それにつけても、この国の教育行政の貧しさからくる若年層の識字能力の低下にはおそるべきものがあり、本を読む習慣の解体、本から知識をもとめようとすることへの意欲のなさがすっかり恒常化してきてしまっている。このまま推移すると、日本国民の知的衰退、日本経済なみの二等級格下げといった事態になりかねない。
 佐野眞一氏は『だれが「本」を殺すのか 延長戦』(プレジデント社刊)のなかで、日本の近代化において学校と本とがこれまで果たしてきた役割を強調している。ところがいま小学校ではすでに円周率をただの3に単純化して教えるところまで行きついてしまったことも紹介している。また、学校に行くことができなくても本を読んで大成したかつての偉人たちの例を紹介しながら、本を読むことが知識の学習につながるばかりでなく、人間の質を高めること、ひとが生きていくうえでのさまざまな環境や変化に対応する判断力が身につくようになることを強調している。この点はまったく同感である。佐野氏は、いま流通している本の多くが『携帯着メロ本』やタレント情報本のように一過性の情報を得てしまえばそれですんでしまう本に偏りがちな点を指摘し、本とは〈遅効性のメディア〉であることをくりかえし主張する。つまり読んだときにはなぜかわからないが強い印象を残し、それが人生への問いとなってそのひとのその後に長く生き残るような本が必要であることである。逆に、読むことによってすぐ回答が与えられるような本は信用できないこと、しかしそういった即効性をもとめるひとが多すぎること、そしてそういう要求に迎合しようとする本を出すひとが寄ってたかって本を殺しているのだというのである。
〈書物復権〉はその意味からも、本来の書物から失なわれようとしている英知の輝きを再認識し、とりもどそうとする試みであると言うことができる。人生への指針をたえず本の世界を参照することによって見出そうとすることは、本が〈遅効性のメディア〉であることと矛盾しない。本がいつでもなにか重要な指針や示唆を与えてくれるとはかぎらないとしても、次から次へ本を読むという習慣のなかから、たんなる知識や情報でない、奥の深い知恵や教養が育てられる。本来の書物とはそうした即効性はないかもしれないが、個人の実人生だけではなかなか得られない古今東西の複雑で多様な経験やものの考え方を発見させてくれるものであり、言ってみれば、つまらない一時的な享楽や快感をこえる永続する快楽をもたらしてくれるものなのである。本を読む喜びはいちど経験してしまうと、いつまでもそのひとの習性となってどこまでも本を読みつづけることになる。というより、本来の書物というものは、一冊読むたびにさらなる関連する書物への関心を誘ってやまないものなのである。
 ともかく、こうした書物本来の輝きを知らないひとが多すぎるのはもったいないことである。現代の視聴覚メディアが提供する、なにもしないでも自然に目や耳に入ってくる受動的な情報文化にくらべると、書物はたしかに自分でページをめくり、意識を集中する能動的な努力を必要とするものであるから、いまの若い世代にはなかなか習慣づけることはむずかしいかもしれない。しかしこうした習慣はかならず報われるものであることをどうしたらこのひとたちに伝えられるかが問題なのである。〈書物復権〉はこうした状況にたいする提案だったはずであるが、それがいまや切なる願いに聞こえかねないような具合なのである。
 こうした状況のなかで全国の書店はもちろんのこと、主要な二〇の大学生協がこれまで六年間に〈復権〉された復刊書全点を集めるフェアをおこなってくれる予定とのことである。本を読む習慣をこれから身につけなければならない大学生たちが、こうしたフェアをつうじて過去のすぐれた書物の森のなかに分け入り、読書をすることの豊かさと楽しみを覚えていくようになることを望みたい。こうした地道な読者への働きかけの努力がゆるぎなく実ってくれることを心から期待している。
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[未来の窓65]

日韓W杯サッカーに思う

 五月末から始まった日韓ワールドカップ・サッカーの一か月が終わった。この間、書店の客の入りもさっぱりで本が売れなかったことは困ったことではあったが、可能なかぎり多くの試合を(テレビで)見た者としてはさまざまな思いにとらわれざるをえなかった。そのいくつかをここで書きとめておきたい。
 まずなによりも、この国のサッカー人気の底の浅さを痛感させられたことがひとつ。ふだんサッカーなど見たこともないにわかサポーターがいかに多かったことか。イングランドのベッカム選手を追いかける若い女性たちの熱狂ぶりは世界のマスコミの笑いものになった。ワールドカップ・サッカーの実態をあまりにも知らない日本のサポーターは奇異な目で見られてもしかたない。もっともJリーグのレベルを考えると無理もない面もあるが、サッカーが見かけの洗練された技術や戦術にもかかわらず、一対一の場面での激しい格闘技の連続でもあることが理解されていなかったことが、この人気の底の浅さとつながっていると思う。その点で、サポーターと呼ばれる自国チーム応援団の応援ぶりに日韓両国民のサッカーへの意識差が明快に現われたことは間違いない。これが両国の結果の差だとは簡単に断定することはできないけれども、チームのモチベーションを押し上げるサポーターの応援の力の差はだれが見ても歴然としていた。
 サッカーのような集団性の強いスポーツは、良い結果を出すには、たとえブラジルのような個人技の卓越した選手を多く擁したチームにおいてさえ、チームとしての連繋性や共同の意思が強くもとめられる。必然的に集中力や精神力が要求される。それがえてしてサポーターのバックアップによって強くもなり弱くもなる。サッカーは国と国の〈戦争〉だというのが世界のサッカー関係者の常識だとすれば、日本のサポーターにはこうした意識が希薄であり、韓国のサポーターにはそれが濃厚であったと言わざるをえない。
 このことの良し悪しはいちがいに言えるものではなく、国民性の違いと言ってすむだけのものでもない。韓国のほうがワールドカップ参戦歴が日本よりもはるかに長いし、日本のプロ野球のように、国技と言えるほどの歴史をもっている。その分、これまでの戦績が示すように、敗戦の悲哀の深さも歴史が長いのである。韓国は一九五八年のワールドカップ初参加以来、五大会連続六回目の本大会出場でアジア・ナンバーワンの実績をもっているにもかかわらず、これまで一勝もすることができず、世界との差を味わわされてきた。一九九八年初参加の日本とはワールドカップ経験が四十年も違うのである。つまり初勝利への渇望の差にもなんと四十年の歴史の差があるのだ。事前のチケット販売の点で、韓国国民の関心の低さが取り沙汰されていたこともあっただけに、学校も会社も休んでしまう国を挙げての応援ぶりにはあらためて驚かされた。このチケット販売の遅れについても日韓で同一料金に設定したFIFAの判断ミスだったことが問題視されている。同じ値段でも貨幣価値の差が考慮されるべきだったのである。
 それはともかく、わたしがここでいちばん気になったのは、第一に、予選リーグ突破のあとの日本チームのモチベーションの低さであり、第二に、日本のマスコミやサッカー関係者の日本チームにたいする評価の甘さである。はっきり言って韓国との差は、サポーター云々よりもここに最大の問題があったと思えるのである。
 日本も開催国の意地にかけて予選リーグ突破を悲願としてきたはずである。前回のフランス大会で一勝もできないばかりか、勝ち点さえも上げられず、楽勝と見なしていたやはり初参加国のジャマイカ相手にさえ完敗したという苦い経験をもっている。かろうじてそのジャマイカ相手に中山選手の泥臭いゴールによる一得点を挙げたにすぎなかった。今回は対戦相手に相対的に恵まれたとはいえ、開催国であるという有利さとこの四年間の蓄積によって実力通りなら予選リーグ突破は楽にできる、という風潮があったことは事実であるが、これだって前回同様、相手を知らないだけの甘い観測である可能性もあった。いろいろな幸運もあって、なんとか予選リーグ突破(それも一位で)したことによって、もう日本チームの役目を果たし終えたかのような雰囲気ができてしまった。その段階ですでに日本はよくやったという任務完了の論調がマスコミとサッカー関係者のすべての反応だったのである。
 それにひきかえ、対戦相手の厳しいグループリーグにあった韓国は強豪ポルトガルに本来の実力通り負けてしまえば、そのまま予選陥落という危機にあった。ここに誤審と推測されたさまざまなファクターがからまったとはいえ、韓国チームのひたむきな執念が予選突破を招き寄せたことは疑いない。このあたりからチームとサポーターが一体となった韓国チームの驚異的な躍進が始まったのである。
 ここで日韓の立場がみごとに入れ替わる。余力のある立場で予選突破した日本は、これからが本番であるトーナメント初戦において甘くみたトルコになすすべもなく敗戦してしまったのにひきかえ、同じ日の夜におこなわれた韓国の対イタリア戦はそれこそワールドカップ史上にもその名を残すべき戦いだったと思う。わたしもこの試合を観て、はじめて韓国の実力とやる気に敬意を表する気になった。だからこそ、そのまえの日本の対トルコ戦のモチベーションの低さに我慢がならなかった。マスコミもサッカー関係者も日本の惜敗をいうことに終始していたが、そんなことはまったくウソで、日本は最初からモチベーションが下がったままだったから、ろくなチャンスもないままに完敗したのである。夜の韓国対イタリア戦によって日本チームの甘さがようやくはっきり露呈したが、すでに気がつくのが遅かった。
 紙数が尽きた。わたしが言いたいことはなにか。サッカーにかぎらず、この当事者意識の甘さ、マスコミや周囲の度しがたいなれあいの深さ、日本人すべてに蔓延しているこの弛緩しきった感覚は、日本チームの稀なる達成にもかかわらず、あらためて立証されたことである。このことの深刻な反省ぬきには次回のワールドカップの結果も見えている。なにしろ次回は開催国ではないのだから。
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[未来の窓66]

〈理想なき出版〉に抗して

 このひと月ちかく、ちょっとした中耳炎がきっかけで左耳の内耳障害を起こして入院させられるハメになってしまった。じつはこの原稿も退院をまぢかにひかえて病棟で書きはじめているところである。これまでにも短期間の入院生活は二度ほど経験したことがあったが、今回のようなひと月ちかくにおよぶ長期入院は初めてである。もっとも、とても病人らしからぬ元気と仕事ぶりには呆れられているぐらいだから、あまり心配していただくには及ばない。機能の回復もほぼ順調である。とはいえ、多くの方にご心配をおかけしたことをこの場を借りておわびかたがたお礼を申し上げたい。
 この間の入院生活は出版にかんするさまざまな問題をあらためてゆっくり考える機会になった。ここでその一端を書いてみたいと思う。
 まずなによりも、この入院生活のなかでパソコンとインターネットとがどれだけ役に立ったかということが挙げられる。未來社ホームページの「西谷社長日録」を見てくれているひとはすでに早くから気がついてくれているだろうが、ここで毎日の生活と仕事の進行が報告できたことは、もっぱらパソコンとインターネットのおかげである。もしこれが実現できなかったらよけいな心配や憶測を生むことになりかねなかった。なにしろ未來社ホームページのなかでもっともアクセスが多い「日録」なので、そこに大きな欠落が生じることになるわけだから。もっともこのアクセスしてくれるひとは業界人も多く、そのなかに必ずしも好意的にアクセスしてくれているわけではないひとがいることも、もちろんよく知っている。そんなことは気にしないだけのことだ。
 それはともかく、入院生活は規則正しいうえに、余分な労力を使うこともなく邪魔も少ないので、仕事の環境としては最高と言えなくもない。これまでのわたしの持論通り、原稿の編集作業にはパソコンは必須の道具であるが、今回はパソコン二台をベッド脇にもちこんだせいもあってふだんよりよほど仕事の能率が上がったのは、当然と言えば当然の話である。一種のカンヅメ状態だったのである。
 今回、こうした突然の入院によっていままでしたこともない座談会の「ドタキャン」ということをしてしまった。せっかく「本とコンピュータ」で学術出版の未来について専門家のひとと話すチャンスを与えられたのに、予定の前々日に入院ということになってしまったからである。まさかこんなこになるとは思わなかったのである。もっともそのおかげか、その代わりに頼まれた本の書評が出版についていろいろ考えさせてくれる点の多いものだったので、こうした機会を与えられたことは、偶然とはいえ、よかったことだと思っている。なにしろナースステーション気付けで書評用の本が届くという機会も今後あまりないだろう。
 その本の名はアンドレ・シフレン(勝貴子訳)『理想なき出版』(柏書房刊)。一部には知られている本かもしれないが、気になっていた本でもあったのですぐ引き受けたのだが、これが予想をはるかに超えて収穫の多い本だったわけである。原書名がたんに "The Business of Books"(出版稼業とでも言うべきか)というのを『理想なき出版』と改題したのはやりすぎではないかといまでも思うが、たしかに内容は、アメリカのメディア産業を中心としたコングロマリットによる大手・中堅・専門書出版社の買収につぐ買収、その後の使い捨て、出版物に見られる政治性も批判性も失なったアメリカ出版界の理想の喪失と崩壊を描いた本なのだから、こう名づけても差し支えないのかもしれない。ただ、著者はむしろ〈理想の出版〉をめざして長年活動してきた独立系専門書出版社の雄だけに、意図と反する誤解を読者に与えかねない。
 それはともかく、著者のシフレンは、第二次世界大戦中のフランスでヴィシー政権に出版界を追われた父をもつ亡命ユダヤ人である。父はガリマール社にあの「プレイヤッド叢書」をもたらした功労者だったにもかかわらず、ヴィシー政権に同調したガリマールから追放されたとのこともこの本から得られた驚くべき情報である。著者はこの父がニューヨークに来て創立したパンセオン・ブックスに時を経てかかわることになり、多くのすぐれた編集業績を残しつつも、親会社になっていたランダムハウスとのさまざまな経緯を経て、金もうけ主義一辺倒の資本家の論理によってつぶされていくのである。そこからさらにザ・ニュープレスという独立系出版社を起こして再起するのだが、その数十年にわたる出版人、編集者としての生き方こそがまさに出版のなんたるものか、出版はなにをめざすべきなのかを足跡そのものが語っているような人物なのである。
 五つのコングロマリットとその金もうけ主義に支配される現在のアメリカ出版界のなかで、なおも出版をすることの意味を追いつづけようとする一匹狼的な不屈の存在。メディア・ネットワークの支配の論理のみが優先するなかで、読者を啓発し、読者に受け入れられるために「待つ力」をもつ書籍の可能性を最後まで信じること。──わたしがこの本から得たなによりもの励ましは、おそらく日本においてもアメリカの出版界と同様の事態がおこってくる流れのなかで、今後の出版は少数の出版人による少数のすぐれた読者とのコミュニケーションがなによりも大事であること、そのためには出版社は同志的結合をもった人間たちで構成され時代に抵抗する企画の開発によってのみ存続しうること、そのことによってたとえ少数であっても読者の支持を得られるにちがいないという確信なのである。
 最後に、ドイツの出版人クラウス・ヴァーゲンバッハの次の力強いメッセージをこの本から孫引きしておきたい。
「新しい、変わった内容の、常識を越えた、知的刺激を与えてくれる実験的な本というのは、極めて少部数かそれを多少超える程度の部数でしか発行されないものなのだ。そういう本を出していくことが、小規模出版社の仕事なのである。私たちの任務だ。小さな出版社には、経営の専門家はいない。ただ本が好きで、主張を持った人々が出版に携わっている。彼らが働くのは、本が儲かるからでないことだけは確かである。自分たちで出さなければ、誰も出版しない本を出すためなのだ。
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[未来の窓67]

「絶版論争」の中間総括

「[本]のメルマガ」というメールマガジンでちょっとした「論争」に巻き込まれている。というか、わたしの書いたものがひとつのきっかけとなっていくつかの誤解、誤読、悪意ある中傷にさらされている。本に関心のある読者がかなり読んでいるメールマガジンなので(読者は現在五〇〇〇人を超えているそうだ)、本来は同じ「[本]のメルマガ」で反論なり意見を言うべきなのかもしれないが、ひろく公開している「論争」でもあり、この[未来の窓]で現時点でのコメントを記しておくことにしたい。
 まずこの「論争」なるものの経緯を簡単に紹介しておかなければならない。六月中旬に旧知の出版人K氏より電話で「[本]のメルマガ」での「公開討論『絶版論争:なぜ再刊できないか/いかに再刊するか』」への寄稿をもとめられた。わたしは「[本]のメルマガ」の存在は知っていたが中身を読んだことはなかった。そこでK氏にこの公開討論の第一回と質問状をメールで送ってもらい、これなら出版社の立場から回答してもよいと判断して「専門書重版のむずかしさ」と題する短文を書き送った。これが掲載されたのが、六月二十五日発行の「[本]のメルマガ」一〇九号である。(なお、このメールマガジンは[本]のメルマガのホームページ[http://www.aguni.com/hon/]でバックナンバーにアクセスできるので、後述の論とあわせて内容を確認してもらえばありがたい。)
 ともかく、わたしがこの短文で述べたことは、出版社が「基本文献」とされているような書籍でさえも「出版社の都合」で重版をしないのはけしからん、という読者の批判(非難)にたいして、まず業界用語としての「絶版」と「品切れ」あるいは「品切れ再版未定」が曖昧に、あるいは意図的に歪曲されて使用されている現状をふまえ、これらの本来の語義を簡単ではあるが説明し、読者の誤解や不信をまずは取り除こうとしたのである。さらに出版社の復刊運動などにもふれ、不十分ではあろうが、この出版不況のなかでの出版社の重版への取り組み、「基本文献」を品切れにさせないための努力の一端を披露したつもりである。こうした出版社の努力があるということを読者にも知ってもらいたい、というメッセージをこめてこの短文を書いたのである。K氏(「[本]のメルマガ」編集同人・五月氏)の質問にはこれでとりあえず答えたつもりであった。
 ところが反応は思わぬところからつづけてやってきた。
 その最初の反応は、翌七月二十五日発行の一一二号での岡本真氏の「出版社は自らの『特別意識』から脱却せよ」である(なお、タイトルは編集同人が付けたもの)。岡本氏は「ACADEMIC RESOURCE GUIDE」という学術系メールマガジンの編集兼発行人で、以前[未来の窓]の一文を掲載してくれたことがあり、いまだにその一文「未來社ホームページの試みと挑戦」へはアクセスが多い。しかし岡本氏は「絶版」「品切れ」等に関する業界用語にたいするわたしの規定には理解を示してくれるものの、《「基本文献」と呼ばれる本でさえもそうたやすく売れるわけではないのであるから、専門書出版社とその読者はこの厳しい現実にたいして共存こそすれ、敵対関係に立つべきではないと思う》というわたしの意見や、出版社のリスクを読者はあまりにも知らなさすぎるのではないか、という主張にたいして、それは出版社の特別意識であると言う。
「読者と出版社、還元すれば買い手と売り手の共存関係はそれはもちろん望ましいものです。しかし、共存関係とは一方が他方に対して、依存し一方的な要求をするところには成り立ちません。」というのはあきらかに論理の飛躍と矛盾がある。出版社は商品としての書籍を提供し、それをなんとか読者に知ってもらう以外にいかなる一方的な要求もすることはできない。読者に依存するのは、読者に本を買ってもらう以外に成立与件をもたない出版業の性格上あたりまえのことであって非難さるべきものではない。また、つぎのような論理も理解はできるが、首肯しかねる。
「そもそも出版業界に限らず、どのような業界でも買い手との関係構築には気を使うものです。買い手の理解が不足していると感じれば、まずは売り手側が自らを顧み、必要な対応を自らに課し、そこから買い手の理解へとつなげていくものでしょう。出版業界には、こうした常識はないのでしょうか。出版業界は自らの世界を特別なものと意識する傾向が強いと感じます。これは、売り手と買い手の関係をあえて出版社と読者と表現するところに、端的に現れているでしょう(中略)。そろそろ、こうした特別意識から脱却して、当たり前の努力、当然の工夫に取り組むことを切に望みます。」
 売り手と買い手の関係を出版社と読者の関係と表現することのどこに出版社の「特別意識」があるのか理解に苦しむ。たしかに岡本氏の言われるように、営業努力が足りないことは認めざるをえない。しかし「当たり前の努力」のなさそうな出版業といえどもこの資本主義全盛の世界では例外なく資本の論理に貫徹されている。岡本氏は出版業を単純な売り手―買い手関係に還元しようとするが、一部の大手出版社はともかく、専門書系小出版社はどれほど努力しても、大量の資金を投入してこそやっと「当たり前の努力」に見えるような無謀な投資をする力がないことを忘れているのではないか。正論はいつでも現実的であるとはかぎらないのである。
 この岡本氏の真摯な提言とは別にまったくの悪意と中傷の産物としか言いようがないシロモノが八月二十五日発行の一一五号での高岡某なる「良書出版という『気持ち悪い』言説」である。タイトルにもある「良書出版」とはだれの言説なのか。わたしはこんなことばをどこにも書いたおぼえはないので、すくなくともわたしの言説でないことは確認してもらえるだろう。ありもしない言説のでっち上げをしたうえでの批判(のつもり、だがなんという悪文か)など悪辣だし、それこそ「気持ち悪い」だけである。わたしが読者の疑問に応答することが「専門出版社が経営実情を業界内で語るだけでいい話」とするのは、そもそもこの「論争」の議論の場をこわそうとすることだし、出版社としての応答義務を放棄する、典型的な業界エゴではないか。
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[未来の窓68]

専門書出版と読者との関係構築再論

 前回、「[本]のメルマガ」でのちょっとした「論争」について論及したが、そのなかであえて論じなかった問題点がある。この問題がどうにも気にかかっているので今回はその問題を論じてみたい。
 前回にも触れたが、岡本真氏の批判する「出版社の特別意識」とは、出版社が他の業界のようには読者(買い手)にたいして「関係構築」に気を使っていないのではないかという出版社の意識のありようのことである。岡本氏の疑問ないし批判はすべてそこから発している。わたしが気になってしかたがないのは、前回この欄でその疑問ないし批判に一般論として反論したが、実際のところ、そういった「特別意識」がこの業界(の少なくとも一部)にないとは言えないのではないか、というところから問題を再検討する必要を感じるからである。もちろん、そう言ったからと言って、岡本氏の批判を全面的に肯定しているわけではないこともあらかじめことわっておかなければならない。問題はむしろその先にあり、より根源的に出版と文化や歴史とのかかわりにあるだろうということである。
 岡本氏の言うように、出版業もひとつの産業であるかぎり、その買い手としての読者との関係のなかで出版社がみずからにたいして特別な意識をもつのは独善であり、思い上がりであり、時代への感受性を欠いた古い体質の現われかもしれない。これが読者を高みから啓蒙しようとするものであったり、読者への一方的な押し売りであったりするならば、このような批判を浴びてもしかたがない。げんに専門書系出版社はそういうふうに見られがちであり、出版界内部からもそういった批判をしようとするひとたちがいることも事実である。
 しかしすぐには売れそうもないが文化的にか学問的にか価値があるだろうという本を出版しようとすることは、たんに一商品を生産し売りに出すことではない、という側面も出版においては存在する。そうした本は、テレビやマスメディアで大々的に広告しうるような対象ではもちろんないし、そもそもそういうことの可能な大出版社からは間違っても刊行されることはない。そうした文化的にか学問的にか価値があるだろうという本が売れることは稀である以上、なお出版してみようという行為はなにか特別な思い入れなしでは成立しない。すくなくとも現今の資本主義の論理のなかでは自殺行為に近いものがあり、銀行などの金融業者がお奨めするところの「もっと売れる本」でないことは確かである。もちろん、そうした本のすべてがマイナスの経済効果しかもたないわけではないからこそ、つまり小出版社であればなにかの要因がはたらけば若干でもプラスに転化しうるからこそ、そうした企画の実現が可能になるのである。もっともいまのような時代であればなおのこと、そういう千載一遇のチャンスの確率もいっそう低くなっているから、どうしても出版してみようという本はますます少なくなり、そういう本への思い入れはますます強くならざるをえない。しかし、むしろそうした出版物への思い入れを失なったら出版などたんなる一産業にすぎなくなる──というのが、わたしがあえてここで強調しておきたい論点なのである。
 これこそ絵に描いたような「出版社の特別意識」だと岡本氏はやはり言うだろうか。わたしはそうは思わない。出版物の価値は最終的に読者が決めるのであり、それも歴史的に淘汰されたかたちで決定されるのである。この峻厳な事実こそ、出版人は襟を正して受けとめなければならない最大かつ最後の審級なのであって、「出版社の特別意識」などその前にあってはしょせんたんなる思い込みにすぎない。あるのはただ最初からそうした歴史的な審級を必要とする出版物を刊行しようとするか、そんな必要のない一過的な消費物としての出版物かの選択であり、後者であれば、それをいかに量的にも期間的にも効率よく売ろうとするかだけが問題となるのである。そこからは読者への「関係構築」は他の業界と同様、最大限の努力がなされることになるのはことの必然であろう。ところが前者の場合は、その文化的あるいは歴史的価値を評価することはできてもおうおうにして出版物の潜在的な可能性に期待するだけで、売るための十分な努力をすることができないままになりがちである。ここから岡本氏の言う「買い手の理解へとつなげていく」「当たり前の努力、当然の工夫に取り組む」姿勢が欠如しているように見られてしまうことになる。出版社の側にいい本さえ出していれば、読者が理解してくれるのではないかというほのかな期待や甘えがあるのも否定しがたい。といって前回も書いたように、必要以上の経費や労力をかけて広告や宣伝する力もないので、必然的に、外から見れば営業努力が足りないということになってしまう。小出版社や専門書出版社はこのジレンマをかかえて四苦八苦しているのが現状なのである。
 さて、わたしはなにが言いたかったのだろう。岡本真氏の問題提起を受けて、出版社はみずからの出版物および出版行為にたいしてどのように考えていくべきなのかをあらためて考えてきたのだが、どうやら落ち着くべきところに落ち着いてきたらしい。未來社のような小出版社の場合もこれまで述べてきたことの例外ではなく、みずからの判断で出版する文化的または歴史的価値があると思ったものを刊行してきたし、これからも刊行していくというこの基本線を崩すことはないだろう。すぐれた少数の著者と読者、少数の理解ある書店および取次との関係をいっそう緊密にし、本誌「未来」や未來社ホームページのようなメディアを有効に活用するなかで、どこまで時代との接点をもつことができるかを試しつづけるしかない。出版物をつうじて時代にはたらきかけるしかないのが出版社の宿命である以上、さまざまな批判は避けがたいし、意味のある批判には応えていくしかない。
「[本]のメルマガ」での「論争」が今後どのように展開していくかは別にして、思いがけず出版社の意識のありかたへの問いが回答されてきたことをきっかけにいろいろ考えるところがあった。結論らしいものはまだないが、これからの専門書出版がどのような立場から読者との関係を構築していかなくてはならないか、という大きな問題が解決を迫られていることがはっきりしたと思う。
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[未来の窓69]

いま、なぜか宮本常一

 ひさしぶりに小社の『宮本常一著作集』の続巻を刊行することができた。なんと五年ぶりの新刊である。いろいろ事情がなかったわけではないが、読者から怠慢の謗りを招いてもいたしかたない。編集担当の引き継ぎもふくめ、これからはすこしでも刊行ペースのピッチを上げていきたいと思っている。
 今回の第四二巻は「父母の記/自伝抄」というタイトルにもあるように、宮本常一氏の生い立ちから家や両親のこと、みずからの民俗学者としての足跡を自伝ふうに語った文章を集めたもので、宮本常一ファンにとっては周知のことも多いだろうが、その独特の飾らない語り口にたまらない魅力を覚える読者も多いことだろう。
 ここには、雑誌等に既発表のもののほかに、尊敬する父の死を見守る過程を日記として記録した「父の死」や、アサ子夫人との結婚にさいして書かれた「我が半生の記録」といった貴重な自伝など初出の原稿が三篇ふくまれている。とくに後者は昭和十年(一九三五年)四月、友人の紹介でその後の夫人となる女性と出会ってから十日ほどのあいだにこれまでの自分の半生(数えで二十九歳まで)を一気に綴ったもので、宮本常一というひとがどれだけの努力と熱意のひとであり、清廉潔白なひとであったかがおのずからにじみ出てくるといった性格の文章である。この長文の記録の最後に「妻たる人に」という短い文があり、これから結婚しようという相手にむけてこれほど率直な思いを述べることはおよそ例外的なことと思われるので、その最後の部分を引いておきたい。
《私の家の財産は家の不幸のためにほとんどなくなりました。/そうして、何ぴとにもこれといって誇るものはありませんが、ただ一つ、祖先伝来の「無我奉仕」「同情」「正義」といったような心を持っていること。これはいささか誇っていいかと思っています。/私の家に来て下さるためには、つつみかくしのないところ、こんな悪い条件の石ころ道を歩いておいでにならなければなりません。/だから私自身としてはどうしても強いることができなかったし、またこれをかくす気にもなれないのであります。》
 これは一風変わった手紙であり、こんなものを結婚前に渡された女性は心底びっくりもさせられただろうが、この真情あふるる思いこそ宮本常一というひとの真骨頂だったのであろう。だからこれは巧まずしてすばらしいラブレターになっている。
 今回、この「未来」誌で佐野眞一氏に『宮本常一著作集』に寄せて感想を執筆してもらったが、断簡零墨にいたるまで宮本常一の書いたものは渉猟したと言われる佐野氏にしてなお、この未読の三篇には驚くものがあったと書かれている。くわしくはそちらを読んでいただきたい。よく知られているように大宅壮一賞を受賞した、この著者の『旅する巨人──宮本常一と渋沢敬三』(一九九六年、文藝春秋刊)によって、最近の宮本常一ブームはしっかりと定着したものになったと言えるが、それというのも宮本常一というひとの学問へのかかわりかたが、佐野氏も言うように、旅することによって人間や土地への地に足のついた人間観察への尽きない関心に裏づけられていることからくるのであろう。現代のようなひとの心のありかたがやせてとげとげしくなってきている時代にこそ宮本常一のようなひとが読み返される必然性があると言えようか。
 紹介をかねてこの本のなかから宮本常一というひとの生き方、考え方を髣髴とさせると思われる文章を以下に引いてみよう。
《民俗学という学問は単に過去の消えゆきつつある習俗を調査し記録していくものではなく、過去の生活エネルギーを現在を経て将来へどのようにつないでゆくかについてしらべる学問ではないかと思った。》(「自伝抄」)
《私の旅の目的はいわゆる民俗事象を採集することであった。しかしもっと大切なことはそれを保持継承している人たちの生活を見ることではないかと思った。さらにまた田舎とは何か、またなぜこのような形で存在しているのであろうかということであった。》(「自伝抄」)
《私は学者ではない。調査によってあたらしい理論を生み出したり、学説をとなえようとしている者ではない。渋沢先生が私を東京へよび出して全国を歩くように言われたとき、「おまえは学者になるなよ。学者はたくさんいる。おまえは事実をほりおこしてくることだ。……おまえには学問以前の仕事をしてもらいたい」と、私のいくべき道を示された。私はいまもそれを忠実に守っているつもりである。と同時に、私はすぐれた人の言葉には、異を立てる前にできるだけ忠実に耳をかたむけるように努めてきた。自己が自己を主張することも大切なのだが、相手の立場や言い分を知ることも大切である。》(「私の民俗学~民俗学への道」)
 こんなことばを読むと、現代の荒廃した人間関係のありかたに宮本常一のことばがなんとか響くようにならないものかと、痛切に感じてしまうのはわたしだけではあるまい。
 宮本常一はしかし学問のありかたにも厳しい批判の目をもつひとでもあった。たとえばこんな発言もある。
《学会にでていくと、よくみんながいってるですよね、これはわたしの専門外ですがって。あれほど愚劣な態度ってものはないと思うんです。それは、自分が責任をもって研究したことではないかも知れないが、だからといって、自分が責任をもって研究したのはなんだっていうことになったら、それはおそろしく幅の狭いものになってしまいますよ。しかし、それを支えてる場ってものは、ぼくは非常に広いもんだと思っているんです。》(「私の民俗学~理論と実践」)
 もうこれぐらいで十分だろう。こうした学問への姿勢の一貫性は地に足をつけた仕事の蓄積のうえにしか成り立たないのである。このことを確認できただけでもこの書の存在理由は明白である。このたび、こうした仕事の現代的価値を理解してくれた図書館流通センター(TRC)の協力によって全国の図書館への『宮本常一著作集』のセット販売の道が開けた。これを機会に読者層が拡大することを切に望むところであることを最後に付記しておきたい。
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