未来の窓|1997

 
[未来の窓1]

出版物の定価表示をめぐって
―─出版物の定価とはなにか(1)


[未来の窓]を開くにあたって

二十一世紀まで残すところいよいよあと四年足らずというところまできました。しかしながら出版という仕事は、一方ではマルチメディアその他のあたらしい情報システムの台頭によって、もう一方では出版流通機構の構造転換への必然的な要請等によってますます複雑さをまし、業界も混迷を深めつつあります。本年の四月には消費税率が上がることになっており、これだけでも出版業界にはたいへんな混乱がもたらされることになりそうですが、そればかりでなく再販制見直しという業界の根幹をゆるがす大問題がふたたび表面化しようとしています。

 こうした情勢のなかで、一専門書出版社にすぎない小社が生き残っていくにはいったいどうすればいいのか、このあたりでじっくりと腰を据えて考えていかなければならない時期にさしかかったようです。未來社という小さな出版社にかかわる立場から、〈出版〉という仕事のさまざまな問題点について、しばらく思考をめぐらせてみたいと思います。出版にたずさわる人間が、あるときは出版全般について、あるときは編集者の立場から、またあるときは出版営業の立場からどんなことを考えているのか、読者のみなさまのご理解に供するよう努力することは、これからますます重要なことになると考えるからです。


 出版物の定価表示はいったいどうなっているのか。本年四月一日をもって消費税が3%から5%に上昇するという日程をふまえて、まずはこのことから考えてみたい。

 二月九日付「朝日新聞」書評欄のコラムに「じわり消費税率5%の影」としてつぎのような記事が掲載されている。

「四月から消費税率が五%にアップする。一九八九年の税導入時ほどの混乱はないものの、出版界にも影響が見え始めた。/まず今年に入って、定価千六百四十八円の単行本、五百四十六円の文庫など新刊書籍の定価に端数が目立ってきた。本体価格をそれぞれ千六百、五百三十円とキリのいい数字に設定し、そこに三%の税を足して定価としているためだ。四月以降、書店が本体価格に五%分の税を加算して代金を出す場合、こちらの方が計算しやすい。」

 どうしてこういうことになっているのか、一般の読者にはいぜんとして合点のいかぬことが多いのではないだろうか。

 出版物が全国一律で定価販売されてきたことは―それが再販売価格維持制度(再販制)によって規定されてきたことはよく知られていなくても―一般読者には当然の事実だっただろうが、一九八九年四月の消費税導入以来、出版物の定価にはなにか奇妙な問題がつきまとうことになった。それまで「定価」として一元表示されていた出版物の定価に「本体価格」なる奇妙な名称がくっつくことになったのである。

 出版業界というのはときにきわめて不可思議な行動をとる団体である。いろいろ思惑やら裏工作やらあったらしいが、公正取引委員会と日本書籍出版協会(書協)・日本雑誌協会(雑協)の幹部らによる取引の結果、いつのまにやら「本体価格」などというわけのわからぬ名称が通用することになってしまったのである。これまでの定価にかわって出現したこの「本体価格」に消費税を上乗せした金額が新しい「定価」という概念に変貌させられたのはこのときからである。従来の定価は「本体価格」として新しい「定価」の一部として残存することになったわけである。しかも厄介なことに、定価販売を規定した再販制によってこの「定価」にはかならず金額が明示されなければならないということになったため、消費税が上がるごとに(あまりこういうことを前提にするのはおかしいのだが、現実だ)定価表示されたものがじつはもはや定価ではなくなるという混乱のもとをつくってしまったのである。これも当時の公正取引委員会や大蔵省のそれぞれの思惑やら対立がからんでいたのだが、こうした官僚的な体質の相手にたいして出版界がかれらの意向を先取りするかたちで「定価」概念の変更をしてしまった失態は忘れてはならない。

 ともかく、こんなわけで「本体価格」なる名称が流通してしまったわけであるが、今回の消費税アップにたいしては、この「本体価格」を流通の基本とすることで業界の一致をようやくみることができたのはおおいなる皮肉である。なんのことはない、もともと定価だったものを名前を変えてふたたび基本に据え直したにすぎないのだ。読者にとってはまったく説得力を欠く彌縫策だが、これだけはいまは了解していただくしかない。

 定価表示にかんしてはもうひとつ大きな問題がある。さきの「朝日新聞」にもあるように、なぜことしになってから端数のつく定価の本が急増したのだろうか。

 もともと消費税というものは本の値段に無関係に外から押しつけられたものにすぎないのだから、これまでの定価にたいしては外在的な意味しかもちようがないはずである。にもかかわらず、これまで多くの出版社が、あたかも消費税など存在しないかのごとき定価づけ(俗に「定価丸め」=内税)をおこなってきた。これにはキオスクその他の細かいお金のやりとりのむずかしいとされる販売ポイントに依拠することの多い雑誌や文庫・新書などのための方策でもあったが、こうした量販ものにあまり関係のない専門書出版社のかなりの部分は、消費税率などに左右されない定価づけ(俗に「本体価格」丸め=外税)をおこなってきた。これは、専門書は息ながく粘り強く販売していく以外にないという出版物の性格上、やむをえざるかたちでとられた消費税にたいする自衛策であると同時に、自立した情報拠点たる出版社としての原則的な主張でもあったはずである。

 今回の消費税アップにともなって、外税しか出版社がとるべき方法はないという考えに一部の大手出版社をのぞく業界全体がようやくいたりついたことは、とりあえず歓迎すべきことである。その意味で、一月三十日付「日本経済新聞」コラムの「書店の店頭では現在、税込みの販売価格で十円未満の端数が付いた出版物はまず見かけない」などという記事は、事実に反するばかりか、認識不足もはなはだしい不見識と言わざるをえない。

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[未来の窓2]

規制緩和と出版文化
―─鶴田俊正著『規制緩和』をめぐる問題


 いま、出版業界では鶴田俊正専修大学教授の書かれた『規制緩和―市場の活性化と独禁法』(ちくま新書)という本が二つのポイントで大きな問題になっている。なぜこの本が問題なのかというと、第一には、鶴田氏が公正取引委員会の諮問機関である「政府規制等と競争政策に関する研究会」の座長をつとめており、その座長たるひとが再販制否定の論理を展開しているのはルール違反ではないかというものである。また、第二には、業界内部の問題であるが、この本の刊行にいたるいきさつである。この本が某出版社の企画出版であったにもかかわらず、ゲラ進行の過程でとりやめになり、別の出版社の手を経て最終的に筑摩書房から出ることになったのはすでに関係者周知のことである。そしてここにもうひとつの問題が派生してくる。つまり、出版社の団体である書協のなかで重要なポストを占める人材を出している筑摩書房から、なぜよりにもよってこの本が刊行されなければならなかったか、ということだ。

 いずれにおいても、この本にとっては書かれた内容以前の、あるいは以後の問題であるが、その内容が直接的に出版界の根底的な制度をめぐる大問題に直結するだけに、コトはそう単純ではない。

 わたしが知りえた情報によれば、鶴田氏は最初の出版拒否にあって、自費出版での刊行さえも考えたそうである。それに筑摩書房が手を貸したことの是非はともかく、このことだけからも鶴田氏自身がこの本を刊行することによって政治的経済的利益をあげることにのみ関心があったとは思えないのである。その点で、鶴田氏がいわゆる「御用学者」と一線を画していることは認めておかなければならないだろう。

 問題を整理してみよう。

 ここでまず問われなければならないのは、この本がいったいなにをテーマとし、なにを主張しているのか、という問題である。そしてつぎに問われるのは、この本が現在の日本という社会において、そして日本の出版業界においてはたそうとする役割である。その主張が学問的良心にもとづいた研究者のひとつのヴィジョンの提起であるとするならば、著者が「規制研」の座長であるか否かは本質的な問題ではない。座長がみずからの見解をきちんと表明すること自体はけっしてルール違反ではないからである。そもそもそんなルールは、すくなくともこれまでの日本社会においてはないも同然だったのではないだろうか。したがって問題はそういった技術論レベルにはないのであって、思想そのものを問うという水準に移行しているのである。

『規制緩和』を貫いている基本的思想は、まさに近代的経済合理主義の立場からの日本経済批判であり、これまでの後発国型保護行政からルール型規制への転換の主張である。銀行をはじめとする日本の基幹産業において、護送船団方式と呼ばれる業界ぐるみの保護・育成政策があまねく浸透してきたことによって、一種の甘えの構造をはびこらせてきたという認識にたつ鶴田氏のヴィジョンはきわめて合理的かつ健全なものである。そしてこのルール型規制を中心とする経済政策が規制緩和と独禁法の強化に向かうのは必然と言わなければならない。「政府規制制度と独禁法の適用除外を見直し、また、独禁政策を強化する視点は、国際社会における機会の平等を確保することと同義」(序章)ということになるのである。ここから出版における再販制という「原則的に独禁法違反」の制度は「時代遅れ」であり、業界人は「既得権益にしがみつくだけ」ときめつける結論までは一直線である。

 この一見すると整合性のある論理展開にたいして、ここではっきり指摘しておかなければならないことは、ここには出版の特殊性への考察、つまり出版が文化的な行為であり、それ自体が重要な思想的営為であるということへの考察が決定的に欠けていることである。経済の論理がそのまま文化の世界に通用するわけではない。経済合理性によってすべてが解決されるかのような、きわめて楽天的で大雑把な見解が散見されるのは、まったく説得力を欠くというべきであろう。

「自由な競争による自然のリズムの中で財・サービスが供給され、経済・産業が発展し、消費者利益が確保され」(第四章)るという絵に描いたような図式だけでは、当該の業界にたいして無責任と言われてもしかたあるまい。「自然のリズム」とか「市場のリズム」などという曖昧なタームで通過できるのは、純粋に経済至上主義の論理が貫徹されている業界の場合だけだろう。

 この経済至上主義の発想からはたしかに出版文化への考察など出てくる余地がない。この点が公正取引委員会の出版文化論無用論の発想に通じているのは容易にみてとれる。しかし、出版にかかわる者としてこの論点を抜きには出版について語ることはできない。言うまでもなく、たしかに一律に出版文化といっても、およそ〈文化〉の名に値しない出版物が数多く出されているのも厳然たる事実である。しかしそのことをもって、出版文化などというものも他の物質文化と同じものにすぎないなどと考えるとしたら、それは文化にたいするおそるべき冒涜であり、官僚主義的な画一主義にすぎない。げんに文化大国を誇るフランスなどでは、部分再販の制度のなかでも、出版物の内容によって歴然とちがう税率が掛けられているのであって、すぐれた文化的出版物はしっかり保護されているのである。

 ここではっきり言ってしまおう。今世紀の言語論的転回にもとづく言語思想の進展とあらたな認識をまつまでもなく、〈文化〉とはなによりもまず言語の問題であり、こうしたあらたな文化的発展をうながすものは、いかなるジャンルにおけるにせよ、そのジャンルにおける専門家のたゆまぬ努力と研鑽によって発見され構築された言語による認識においてはないのだということを。ここに(専門書)出版の本質的な意義があり、このことは量にはけっして還元されえない出版文化の特殊な領域があることを教えてくれる。残念ながら鶴田氏の本にはそうした問題への考察が欠如していると言わざるをえないのである。

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[未来の窓3]

コンピュータと出版の未来

 金曜の夜などに秋葉原に行くと、まるで別世界のような気がしてくる。駅の改札あたりはこれから行くひとと帰って来るひととでラッシュアワーの満員電車並みである。出版界はますます不景気だというのに、パソコン業界はあいかわらず好調を持続しているようだ。かく言うこのわたしもパソコンにはいろいろ投資している。というより、コンピュータの世界は、そこに入り込めばこむほど時間とお金を投資せざるをえないようになっているのだ。それがこの世界の恐いところでもありおもしろいところでもある。

 いま世の中はインターネットの時代に入ったと言われている。アメリカにおおきく遅れをとり、いや東南アジアの諸国さえよりも遅れて、ようやく日本もこのツールを使うことがあたりまえの社会になりつつある。日本という国は電波法やらなにやら官僚主導のつまらない規制の多い国で、NTT分離・分割問題などに端的に見られるごとく、郵政省や通産省の縦割り行政のあおりもあって肝腎の法整備が進まないあいだに、世界の動きにどんどんついて行けなくなりつつある。識者のあいだでは早くからこのことについての指摘があったにもかかわらず、なにごとも官僚的な差配によってしか動けなくなっているこの国の社会は、もはや世界の同時代性を鋭くキャッチアップしていくにはあまりにも腐敗が進んでしまったというべきだろう。このたびの原発事故にたいする動力炉・核燃料開発事業団(動燃)東海事業所幹部の堕落しきった隠蔽工作など、こうした官僚腐敗のたんなる一部にすぎない。このことと規制緩和がたんなる経済合理性の追求にむかっていることとは表裏の関係にあるのではあるまいか。

 ともあれ、いまやこれだけ世界をクモの巣状にネットワーク化したインターネットという情報世界は、どこに住んでいようとも人間を居ながらにして世界じゅうと瞬時にリンクしうる環境をつくりだしてしまった。このことは必然的に国境や民族や宗教を超え、言語をさえも超えてみせるのである。インターネットの原点がNASAの宇宙戦略に根ざしていたことを想起してみるまでもなく、もともと一国内におさまるような発想のものではなかったのであって、このことを考えればインターネットが疑似的にせよ世界を一元化し、ある意味ではすべての人間を同一の水準におこうとするスーパー平等主義の視点をもつことを否定することはできない。とはいえ、すでに企業の求人募集がそれぞれのホームページでしかなされていないというような事態が現実のものとなりつつある現在、インターネットへアクセスする能力があるかいなかが最初の選別の基準になってしまうという情報格差が存在するのも事実である。

 出版の世界においてもこのことはいよいよ問われはじめてきた。編集の場でのDTP(デスク・トップ・パブリッシング)導入の問題もコスト削減の可能性とソフトの改善とによって急速に現実化のメドがついてきており、編集者の仕事の質的転換がやはり問われはじめている。コンピュータにたいする理解と最小限の技術習得はこれからの編集者には必須のものとなるだろう。

 DTPの技術を身につけることによって印刷業者に依存していた細かい編集処理が可能になることは、おもしろいことに、本作りの原点への復帰を意味することにもつながるのである。専門書出版とはもともと〈手作り〉の要素が大きかったのだが、コンピュータの技術革新にともなって本の〈手作り〉感覚がふたたび現実のものとしてよみがえってきたともいえよう。サイクルがひと回りしたとでもいうべきか。さらに編集コストの削減は当然ながら一点あたりの刊行コストの大幅な削減にも直結するのであり、これまで採算基準に届かなかったことによって見送られていた企画の実現にも大いなる可能性が切り開かれたのである。

 専門書出版の持続を志す者にとって、このことはきわめて大きな勇気づけにもなりそうである。最近の若手の著者などは、DTPとまではいわなくとも、コンピュータの処理能力も当然のように身につけているひとが多い。こうした著者との連携によってコンピュータ技術を駆使した出版の可能性はますます広がってくるだろう。

 出版社にとってコンピュータは編集にのみ役に立つだけではない。商品の在庫管理や印税計算などの会社内部の処理ばかりでなく、いまやインターネットをつうじての自社のホームページ開設や取次など流通業者への情報提供も簡単にできるようになってきたのである。小さな専門書出版社にとっては、世界じゅうからアクセス可能なホームページの開設は弱体な宣伝力や営業力を補うことのできる有力なツールとして、いまや喫緊の課題になっているといっても過言ではない。げんにかなり多くの出版社が自社のホームページを開設しはじめている。ただし、いくつか覗いてみたかぎりではまだまだ使いやすいものとして構築されているとはいえないのが現状ではある。書協が「インターネット研究会」をつくりはじめたこともこうした実情を反映しているといってよい。

 先日もある取次関係者と出版VANの導入について意見交換をする機会があった。こちらが事前に考えていたようなむずかしい問題はほとんどないことがわかったので、この点でも流通の現場への情報提供が簡単にできることになった。こうした技術革新によって出版物の流通はもちろん、本の内容にもどれほどの変化があらわれてくるのか、今後の出版文化のありかたについても慎重にみきわめていかなければならないと考えているところである。

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[未来の窓4]

コンピュータと出版の未来著者と出版社の関係

 著者と出版社の関係はそれぞれ独特である。もちろん、著者が志向している著作物あるいは研究テーマとその出版社が一般的傾向としてもっている出版領域がうまく合致することがすぐれた書物がうまれる前提条件になっている。とりわけ専門書の出版にかんしてはこの条件はほとんど必須のものだと言ってよいだろう。専門書とは、それが当該ジャンルの最高水準の知にかかわるものであろうとするかぎりにおいて、その研究自体が要求する出版形態、体裁、記述スタイル等を必然的に要請するものであり、出版社はその要請に対応する準備がなければならないからである。

 それは具体的にはどういうことだろうか。ひとつには、著者が全力をあげて取り組んでいる研究には他者の容喙を許さない部分があり、出版社の売れ行き部数偏重の要求はしばしば専門書のあるべきかたちを歪めてしまうことになりがちだということがひとつある。げんにある種の出版社では編集者が執筆内容のいちいちに口を出すということが当然のことになっているらしい。出版という営為はたしかに著者と編集者のコラボレーションであり、編集者はその経験と業務上の立場から著者をサポートすることができることが望ましい。わたしは編集者の役割は一種の〈産婆術〉だと思っている。しかしこうした役割には一定の限度とわきまえがあることも同時に知らなければならない。売らんかなの姿勢ばかりが先行して、もともと難解になることもやむをえない専門的主題の展開についてまで「ふつうの読者」を想定した「わかりやすさ」を無理やり要求するようなことは編集者の越権行為であるばかりか、著者をも読者をも愚弄する行為である。すぐれた書物はいかに専門的に高度な内容をもっていても、いずれは読者の広い支持を得ていくものであることはいまさら言うまでもない。

 ところで、ここで著者と出版社の関係について述べようとしたことは一般論であって、書物の誕生には著者と編集者の現実的な出会いがなければならない。出版社サイドから言えば、個々の編集者が自社の出版への姿勢なり方向性なりを十分に認識したうえで自発的に著者へのアプローチがなされるべきであり、そこからしか実践的な仕事はうまれない。編集という仕事もまた出版というかかわりを通じて豊かな創造性をもちうるとしたら、著者の仕事の全域をカバーしうるだけの知識および情報をもたなければならないのである。編集者がこのような力量をもつときに、出版社の財産はなによりも人材であるという定式が成り立つのかもしれない。

 こうしたいわば自明のことを書かずにいられないのも、昨今の出版業界内外での議論のなかに〈出版文化論〉をあえて避けて通ろうとする立場こそが賢明であるかのような倒錯した考えがまかり通っているからである。どこで文化的出版物と非文化的出版物との線引きをするのかというような議論はその典型であろうか。誰の目にも明らかなように、出版物にはすぐれた文化的な書物と、むしろ悪質ともいうべき非文化的エセ書物があり、その中間にあってもなくてもいいような多くの書物がある。業界内の誰もそんなことを言わないのは、それが再販制を規制緩和の対象にしようとする政府と一部の学者の主張に重なるように見えるからであり、また業界人として同業者を批判するかのような行為は慎まなければならないと考えられているからでもあろう。しかしこうした事なかれ主義こそいつに変わらぬ日本的土壌というものではなかろうか。下らぬ出版物が横行している現状で、きびしい出版文化論なしでほんとうに出版界はやっていけるのか。

 今回はそもそもこんなかたちで書くつもりではなかった。というのは、いまたまたま自分がかかわっている小林康夫氏の新著『大学は緑の眼をもつ』についていろいろ書きたかったことがあるからである。

 もとより小林氏とのかかわりは十年ほどまえになるが、東京大学教養学部の若手(当時)の教師たちと「扉の会」という読書会とも研究会ともいえるようなものを組織したときあたりから始まり、小林氏の知へのあくなき姿勢におおいに共感するところがあって、氏の小社での最初の出版、『起源と根源――カフカ、ベンヤミン、ハイデガー』(一九九一年刊)が結実をみたあと、その交流は親密さをます一方にあると言っていい。その間に、この「扉の会」の仲間でもあった船曳建夫氏との共編で東京大学出版会から出されたいわゆる〈知の技法〉シリーズ(『知の技法』『知の論理』『知のモラル』)が大ベストセラーになったことはよく知られていよう。今回の新著はそのタイトルにもいくらかあらわれているように、小林氏の大学人としてのトータルな姿勢を示している。〈知の技法〉シリーズについてさまざまに発言した記録も一部収録されているものの、これは氏の仕事のほんの一部にすぎないことがよくわかるのである。

 そういえば、このシリーズが世間をにぎわしているころに、わたしがよく耳にした批判は、〈知〉に技法などというものはありえないとか、そもそも東大の権威を笠に着てベストセラーを作ったにすぎないとか、言ってみれば本人のコンプレックスの裏返しか知の貧しさを露呈するだけのようなものが多かった。もちろんそうした要素を全面的に否定はできないにせよ、そんなことは先刻承知のうえで戦略として提出されていることがあまり理解されていなかったことは、事情のよくわかっているわたしとしては残念だったが、今度の新著によって小林氏の大学人としてのスタンスはまず全面的に打ちだされていると言える。

 すくなくともこの本は、たんに小林康夫というひとりの大学人あるいは著者の生きる姿勢や営為をいさぎよく示しているばかりでなく、大学にかかわる者、知にかかわる者にとってなんらかの指針をあたえてくれるように思える。紙数の関係上くわしく書く余裕がなくなったが、どれほど親しくとも、書かれたものを通じてしか発見できないそのひとがかかえている深い真実があるということを、わたしはこの本の編集をしながら何度も実感することができたのである。 (小社代表取締役)

*四月号掲載の小論にたいして再販規制研座長の鶴田俊正氏より事実誤認にかんする訂正依頼がありましたので、氏の『規制緩和』出版にさいし、「別の出版社の手を経て」を「友人の手を経て」とここに訂正させていただきます。

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[未来の窓5]

専門書とインターネット

 前々回でコンピュータと出版の未来の関係について若干論じたつもりだが、そのときには主として本の制作においてDTPのもつ可能性がいかに大きなものになってきたかについて触れるにとどまった。今回は、こうした編集技術上の問題とは別の観点から出版におけるインターネットの利用可能性について考えを述べておきたい。

 というのも先日、書協主催の「第2回インターネット研究会」なるものに参加してあらためて確認できたことがいくつかあったからである。まずなによりも、その参加者数に驚かされたことである。最近の書協主催の報告会は、消費税率変更にかんする定価表示問題あるいは再販制にかんする業界側の対応の説明など、それぞれの出版社にとって現実的な対応を迫られるか、経営に直接ひびく問題が対象だっただけに非常に多数の参加者があったのはいわば当然としても、インターネットともなると各社それぞれの社内事情もあろうから、いったいどういうひとたちが集まるのだろうと、ちょっとした関心もあって出かけたのである。第1回のときもかなりのひとが参加したという情報もあって早めに出かけたのだが、一〇〇人以上入る大会議室が定刻にはほぼ満席になっていたように思う。これまで同様、原則として一社一名だから、書協加盟社五百弱のうち二割をゆうに超える出版社が出席していたことになる。この数を多いとみるか、それほどでもないとみるかはいろいろ意見があろう。

 もうひとつ気がついたことは、その出席者の多様性ということである。この多様性というのも二種類あって、そのうちのひとつはかなり年齢のバラバラな世代が同席していたことである。思うに、今回の出席者の顔ぶれはこれまでの消費税問題・再販制問題のときとは別のひとたちがそれぞれの社を代表して来ているのであろうか、相対的に若いひとが多かったように思う。やはりその社でコンピュータが一番わかるひとが出席しているケースが多いのだろうが、その役職も編集というよりは経理・総務系のひとか営業のひとのウェイトが高かったのではなかろうか。ともあれ、各社それぞれの事情でなんとかインターネットについての情報を得ようと努力していることが察知されて、やはり時代はここまできているのかと痛感した次第である。

 ところで、出席者の多様性といったが、もうひとつの特徴は、出席した社がかならずしもいわゆる大手・中堅の版元ばかりではなく、少人数の比較的歴史の浅そうな版元が多く参加していたことである。というより、むしろ本来ここに来ていて当然のような老舗の版元が少ないわりには、こうした新興版元の出席が目立ったということになろうか。これはどういうことだろうか。もちろん、すでに自社のホームページを開設してしまっているような版元はわざわざ足を運ぶ必要もないと判断したからかもしれないが、どうもそういう話もなさそうな老舗の専門書版元の参加がすくないのは、なんとも気にかかる。そういう意味での出席者の多様性なのであって、今後も専門書を出すことでなんとか出版文化を支えていこうとしていると思われる中堅版元が立ち遅れているとしたら、やはり問題ではなかろうか。わたしがかつて所属していた「人文会」という専門書版元のグループなどもそうだが、全般に社員の平均年齢が高齢化している版元ほどこの傾向があると言ってよい。

 小社もふくめて専門書を出している版元は、現在の出版状況のなかではどうしても店頭展示される機会が少なく、あまり売れないこともあって在庫さえもってもらえないのが実情である。そういう版元の場合、これまでは高額の新聞広告を無理してときたま打つ以外には、自社目録や新刊案内をこつこつ送りつづけたりPR誌を発行したりしてなんとか読者とのコミュニケーションをはかるのがやっとだった。そうした版元にとって救世主的存在として脚光を浴びようとしているのがインターネットだというのは、いささか楽観的にすぎるだろうか。とはいえ、知的なひとであればあるほどコンピュータ操作やインターネットの利用などに積極的であるというのがいまや一般的であるとすれば、これまでの情報流通もおおきく変わってこざるをえないはずである。ラジオからはじまってテレビ・ビデオにいたったメディア情報が、これからは電子情報としてのインターネットによって加速されていくだろうことだけは間違いない。誰もがひとしなみに享受対象とされたマス・メディアの時代から、それぞれのひとが自分に必要な情報だけを選択的に取り出すことのできるミニマルなメディアへの移動。グローカルな情報化時代と呼ばれる事態とはこういうことを指すのであろう。

 ともあれ、専門書の読者ほどこうした情報環境にいるというのが現実になってきつつあるとすれば、われわれのような小専門書版元が生き残る道はもはやここにしかないといっても過言ではない。あとはいかにその情報を専門書の読者にも納得してもらえるようなレベルに上げられるのかという技術の問題になるだろう。アメリカではすでにヴァーチャル書店というものさえ現われている。ここでわたしが考えているのもややおおげさに言えば、そうしたたぐいの情報なのであって、確かな情報でさえあれば、物流はそれに付加されるものとなる。誤解のないように急いでつけくわえておけば、われわれの最終的な目的はあくまでも書籍の普及なのであって、情報がインターネット上をひとり歩きすることをよしとするわけではない。

 さいわい書協でもホームページの立ち上げと各社のホームページとのリンクも進められているようだ。この研究会では出版社ホームページのデモなどもあったが、小社としても自社のホームページ開設という段階にようやく到達しかかっているときだけにおおいに興味深かった。ちなみに今回は今後のためにも早めに自社のドメインネームの取得が課題とされたが、小社としてはさっそく“www.miraisha.co.jp”というもっとも小社にとって必要なドメインネームを申請し、とりあえず取得することができたことは良かったと思っている。こうした他にもつけられそうな名前は先着するしかないのである。



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[未来の窓6]

本の値段

 わたしには昔からいくつか持論がある。かならずしも十分に検証されたわけでもなく、どう転んだところで多かれ少なかれ独断(独善?)的で一般性に欠けることだろうが、それでも出版という世界でいろいろな部署や役割にたえず同時多発的にかかわってきた人間としては、言っておくべきことはやはりそのつど言っておかなければならない。本欄の発言にもいろいろご意見を頂戴することがふえてきたが、なんらかの共通認識をもった出版人もきっといるだろうと考えている。いずれこの場所で披露させていただきたいと考えている。

 今回はその一端として本の値段とはなにかということを考えてみたい。〈値段〉とはここでは価格のことであると同時に価値のことでもある。

 本の価格についてはこのところ再販制(定価販売)をめぐる議論との関連でもなにかと論じられている。曰く、再販制があるから本の価格は安く抑えられている、再販制がなくなれば本の価格は必ずや上昇するだろう、云々。再販制を撤廃したフランスやそれが事実上崩壊したイギリスの例をみるまでもなく、そうした予想はおそらく当たっているにちがいない。規制緩和をめざす政府や公正取引委員会はそんなことはあまり気にもしていないようだが、現在の日本の文化環境あるいは読書環境についてすこしでも真摯なかかわりをもとうとするなら、そうした事態を引き起こしかねない政策論議はもっと慎重にしてもらいたい。

 とはいえ、ここでこの問題について考えたいのはそういう当座の議論にくわわろうとしてのことではまったくない。誤解のないようにあらかじめ言っておけば、わたしはいま議論されている水準でのくわしいデータはもっていないし、あまり興味もない。木を見て森を見ず、と言われようが、本の値段を構成しているものはそういった大ざっぱな流通論、経済論によってのみ割り切られるものではけっしてないのである。そこで問われているのはなによりも著者の長年にわたる研究成果であったり芸術的・文学的営為の産物であって、そこに編集者の工夫や我慢、印刷・製本・用紙等にかかわる多くの関連業者の努力が付け加わっているのである。こうした点をつぶさに検討してみなければ、本の値段を画一的に論じたところでなにほどのことが言えよう。

 わたしの持論を端的に言えば、本の値段は多くの場合、安すぎるということになる。すくなくとも専門書の場合、著者や出版社のかけた努力やコストからみたら、本の値段は本来はいまの倍になってもやむをえないのではないか。かつてわたしは、ある専門書出版社グループとある大きな図書館との懇談会でこうした発言をして、座を白けさせた前歴がある。しかしわたしに言わせれば、出版社ほど本の定価について憶病な人たちはいないのではないか。本は安ければ買うというものではない。たしかに読者の立場にたてば、高いより安いほうがいいに決まっているが、しかしそれはその本自体の潜在的な購読者の範疇に入っているひとの場合であって、それ以上の売上げを見込んでまで安く定価設定することができない事情が出版社にはあるのである。われわれはそのことを読者にもっと理解してもらう必要がある。

 今回この稿を書くにあたって刺戟を受けたひとつの論考がある。流通産業研究所の木下修氏の「書籍再販制度を検討する」という「流通産業」本年五月号に掲載された論文がそれであるが、そこで木下氏は再販制度の歴史を通覧しながら、主として本の価格について検討されている。

「日本の出版物の価格はリーズナブル、適正といえるのであろうか。再販制度が長く維持されてきたことによる弊害が価格において顕著になってはいないだろうか」と木下氏はまず問いかける。ここで木下氏が論じていく方向は、わたしとは論点の位相がちがうとはいえ、おおむね出版界の現実をよく押さえ、その再販制擁護の主張の弱点をも的確にえぐり出していて、よく整理されている。読者の価格意識についてのアンケート調査をはじめ、出版における原価率の問題、関係各省庁によるさまざまな調査、諸外国との比較などにおいて、価格の問題にはさまざまなファクターが働いていることを知り抜いたうえで再販制の今後を占っているのであるが、わたしの関心に即して言えば、木下氏の見識はたとえばつぎのような論脈に現われているだろう。

「再販制度下では出版社の設定した価格は小売価格を拘束する力をもっており、価格設定権をもつ出版社はこの意味でも書店や取次から不満が出ないようなリーズナブルかつフェアな価格設定をすべきであろう。/価格の妥当性とは、廉価(チープ)であることだけを意味せず、その価格が消費者にとってリーズナブルプライス、納得価格であるかどうかが問われる。メーカーが下請業者を叩き、あるいは卸売業者、小売業者の流通マージンを不当に低く押さえて、低価格政策が実現されていたり、また大手小売業がバイイングパワーを行使して不当に安い価格で仕入れて低価格販売が実現されている場合は、フェアプライスとはいえない。」

 いちいちもっともであり、木下氏は控え目に述べているが、これが日本の出版界(だけではなくすべての業界にも言えることであるが)の実際のありようであることは残念ながら事実である。ある老舗の印刷業者の話を聞いたことがあるが、某大手出版社への請求書が当の出版社自身によって発行され、当然のことながら赤字を強いられているという実例など、これに類するありえないような話は出版界にはごろごろ存在するのである。

 ともあれ、本の値段は出版社の規模とその出版物の性格によって、その取次・書店や取引業者との力関係、取引条件の違いがあるのであって、その点からも安易な比較や画一化は無意味であるばかりか、場合によっては文化にとって必要不可欠な差異さえも抹消してしまう危険をもっているのである。本の価値はほかの本では得られない知識なり情報なり思考のありかたなりが痕跡をとどめているところにあるのであって、そのような本の場合は金太郎アメのような本とはおのずとちがった価格体系が必要にならざるをえないのである。簡単に量産できるような本が安くてすむのはあたりまえだが、すべてそのような本ばかりではないのである。

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[未来の窓7]

文化をなめてはいけない
―─「再販問題シンポジウム」での中条発言をめぐって


 すこしまえのことになるが、リベラルな経済学者である佐伯啓思氏がつぎのようなことを書いている。「リヴィジョニストによる改革の思想は、基本的にグローバルな市場経済にすべてをゆだねようとするものである。グローバルな市場競争が個人の自由と消費者の利益を実現するという。/しかし、このように定義された個人の自由、消費者の利益とは一体、何であろうか。グローバルな市場競争が、社会の信頼関係をますます崩してゆくことはまず確かであろう。では、安定した社会の、あるいは人間の間の信頼関係に基づかない個人の自由などというものが存在するのであろうか。放埒の自由、止まるところのない自己利益の追求の自由、共同社会に対する義務を負わない自由、などというものは自由ではない。個人の自由は、彼が依存する社会の土台やルールを進んで受け入れるところからしかでてこないだろう。」(「信頼の崩壊」)

 佐伯氏はここで消費者利益という錦の御旗のもとに社会的な営為すべてを市場競争原理に委ねてしまおうとする規制緩和論者を「リヴィジョニスト」(修正主義者)と適切にも呼んでいる。ここで「リヴィジョニスト」とは、社会的な現実的諸関係が歴史的に成立してきたプロセスをいっさい無視し、社会をみずからの思い込みに強引にしたがわせようとする論法をもつもののことである。こういう論者が危険なのは、ドイツにおける歴史修正主義者がアウシュヴィッツにはガス室などなかったと主張するのと同じように、また最近の日本のある種のレヴィジョニストが従軍慰安婦の存在を否定しようとするのと同じように、日本の社会がこれまでつくりあげてきたあらゆる制度や仕組みを経済学の論理一本やりで裁断しようとすることであって、そこにあるのは歴史や文化の生成というものへの無理解であるとともに、そうした無理解を恥じることなく、むしろ歴史や文化を捨象しうるところにこそ、経済学者の本領があるとでも思っているところにある。

 こうした懸念は先日七月二十九日に行なわれた「再販問題シンポジウム」においてやはり現実のものとなったと言わざるをえない。今回はその報告をかねて、パネラーのひとり中条潮氏(慶応大学教授)の発言について検討してみたい。

 木下修氏の問題提起をうけた中条氏の発言はいきなり「再販制はなくなっても大丈夫」という断言から始まった。政府系の規制緩和小委員会と再販規制研のメンバーであり、そのもっとも強硬な再販つぶし論者として知られている中条氏は、聞くところによると、再販擁護の立場の出席者が多いだろう今回の再販問題シンポジウムに単身で乗り込んで日頃の再販反対論をぶち上げ、擁護論を粉砕してみせるつもりだったらしい。残念ながら今回の一連の中条発言を聞いたかぎりではとんだ猿芝居である。中条氏は論理性も説得力もない発言に終始したと言ってよく、こんな程度の認識が二つの政府系諮問機関で一定の影響力をもっているのだとすれば、こんな組織の出す結論は仕組まれたおおいなる茶番だと言わざるをえない。当人によれば、規制緩和小委員会と再販規制研は民間人の集まりで、むしろ反政府的だそうである。それならなんで政府の行革にそった結論を出そうとするのか。

 ほかにもいくつかの人格を疑わせるような発言についてはこのさい目をつぶっておくとして、問題の性格上どうしても黙認できないものについてだけ触れておこう。

一、冒頭発言の「再販制はなくなっても大丈夫」という主張については中条氏はスウェーデンの例を挙げていたが、はたしてそれだけで文化的にも歴史的にも、そして流通量的にもおおきく異なる日本社会に適用できる保障がどこにあるのだろうか。その程度の根拠にもとづいて現実的に機能している制度を簡単に覆そうとするのは、それで生活を営んでいる多くの人がいることを忘れているか、見くびっているのだろう。経営努力もしていない書店などはつぶれてもしかたがないなどと平気で発言しているそうだが、気楽なものだ。

二、再販制度は形骸化しており、ほっておいても崩壊すると中条氏は予言する。それならなにも声を大にして多くのひとを敵にまわしてまで再販つぶしにはしる理由があるのだろうか。自分の長年主張してきたという規制緩和の理論を際立たせたいためだけのパフォーマンスならやめたほうがいい。冒頭で引いた佐伯氏の言うとおり、規制緩和などというものは理論と呼べるようなものではなく、歴史的なるものへのリヴィジョニスト的な清算主義、還元主義にすぎないのだ。こういうひとが文化という歴史的な生成物にたいする意見を述べるとなると、とたんに馬脚をあらわすことになる。 三、中条氏によれば、文化的に価値はあるが売れない本がなぜ再販制で守られているのか疑問だという。そういう本は価格を下げるか、もっと売る努力をすべきだというのである。そのためには再販制がじゃまになるというわけだ。本は安くすれば売れるというものではないと一方では言っておきながら、どうもこのひとにかかっては論理の矛盾も気にならないようである。売れない専門書を出しつづけている小社のような出版社からすれば、聞き捨てならない問題である。失礼ながら価格をなるべく低くおさえる努力やそれなりの売る努力は、中条氏などが想像する以上に小出版社はやっているはずであり、そんな簡単な処方箋で片づけられる問題ではない。 四、中条氏はなにかとマーケット・メカニズムとか読者のニーズということで出版物を考えたがる。つまりニーズにあわせて出版すればいいという話になるのだが、これもきわめて単純な理屈だ。ごく一部には妥当するだろうが、個々の出版物はありきたりな読者のニーズを超えたところに成立するのが通常であって、むしろ出版物それぞれが読者の新たなニーズを発見し、生み出すのである。すくなくともそういう本でなければ、オリジナリティなどは存在しないし、いつまでも読まれうる本になることもできない。専門書とはそういう種類の文化的生産物なのであり、当座は大部数が出なくてもいつか価値を見出され読みつがれるものになる。そういう本を刊行することが文化を生み出すことであり、真の消費者利益なのではないか。中条氏のように、「文化、文化と思い上がるな」ということばは肝に銘じておくとしても、出版社が文化という観念をぬきにしたらただの出版産業の業者にすぎなくなるだろう。文化をなめてはいけない。

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[未来の窓8]

書協のホームページ探訪

 すでにこの欄でも触れたことがあるが、書協のホームページがいよいよ立ち上がることになった。九月九日の記者発表もなされ、いまのところ順調に推移しているようだ。  そこでさっそくアクセスしてみた(ちなみに書協ホームページのURLは 〈http://www.books.or.jp〉である)。まず出てくるのは「一九九七年六月までに発行され現在日本で入手可能な約五三万冊の書籍を検索し必要な情報を引き出すページ」というアナウンスであり、思ったよりきれいなメニューページである(というのはテスト段階であまり評判が良くなかったという話を聞いていたからだが)。アイテム数としては正確には五三二、六二〇冊の書籍が掲載されている。検索項目として「タイトル」および「シリーズ名」、「著者名」「発行年」「分類コード」「読者対象」「発行形態」「内容」「出版社名」「ISBNコード」とあり、どの項目からでもアプローチできるようになっている。

 たとえば「出版社名」のところで「未來社」と入力すると、一九九六年までの一二九九冊の小社の刊行物が掲載されていることがわかる。書名アイテム数だけなら全体の〇・二四四パーセントの占有率を示していることになる。この数字が小社のような小規模の専門書出版社にとって売上げや店頭での展示率などに比較して相対的に大きな数字であることだけは確かであって、このことは大ベストセラーでもきわめて専門的な研究書でも同じ一冊として平等に扱われるという意味ではたいへんありがたいことであり、インターネット上では取扱い数量のうえでの優劣は基本的に存在しないことが示されている。

 まえにも指摘したことだが、書店店頭に置かれにくい専門的な研究書ほどインターネット上での情報価値は高いはずである。専門書の読者はこうした電子情報ツールに親和する傾向が強く、書協のホームページ開設にともなってこうした本の在庫情報・内容情報の高さが要求されてくるだろう。今後は図書館などでの検索にも大きな役割を占めることになりそうだ。興味のあるひとはぜひ一度アクセスしていただきたい。

 ところで、出版社ごとの刊行物一覧に列記された「書名」のひとつをクリックするとその本の「詳細」が現われることになっているので、ついでにリンクしてみる。一覧での「書名」「著者(訳者・編者を含む)」「発行年」「本体価格(税別)」「出版社」のほかにそこにあらたに現われるのは、「判型」「ページ数」「サブタイトルまたはシリーズ名」「ISBNコードおよびCコード」だけであって、いささかものたりない。これはこれまで発行されてきた「書協総目録」の最新データベースを元にしている以上やむをえないのであるが、そこでそれを補完する意味で各社のホームページとのリンクが必要になってくる。

 その点では、残念ながらまだ十分に体制が整っているとは言いがたい。各社のホームページがまだそこまでの技術的なサポートができていないというのが実情である。書協加盟社四九八社(一九九七年九月現在)のうち、ホームページをもっていることが確認されている社は一一七社あるが、書協のホームページから各出版社のホームページへリンク(これを〈BookLink〉と呼んでいる)できるのは十一社にすぎず、対応予定の出版社も十六社にすぎない。つまり、せっかく書協の「books」のホームページで自社の刊行物にアクセスがあったとしても、該当する書物についての情報は、書協の最小限のデータ以上の提供ができるところまではいっていないということである。こうした読者向けの情報提供の努力は、出版社にとって技術上・コスト上の問題点はあるものの、いまや最重要な広告戦略のひとつとなったと言ってよいのではないか。

 こうしたハイパーリンクの技術をもって出版社のホームページ開設の事業を展開できる業者はまだまだ希少であり、たとえば小社の取引先でもある萩原印刷(URL : http://www.hg-prt.co.jp)などはそうした事業にいちはやく取り組んでいる数少ない業者のひとつだろう。出版業のノウハウに通じたこうした業者でないとなかなか思うようなホームページまではつくれないかもしれない。出版社というところは、情報を取り扱う業種でありながら意外なほどこういう技術に弱いところが多いのである。

 これからますます広がっていくであろうインターネットの世界を通じて出版社と読者の関係はこれまで以上に緊密に、しかも直接的になっていかざるをえない。再販制の帰趨がいぜんとしてはっきりしないとはいえ、出版文化の未来はあくまでも書き手としての著者、著作物をつくりだす出版社と、それを読んでくれる読者との深い信頼関係以外にありえない。それに比して流通部門が流通の調整を通じて文化に関与する度合いは低くならざるをえないだろう。規制緩和政策にともなう流通危機に対処するにこうしたインフラ整備が中小専門書出版社にとって急務なのは、こうした出版文化における原則的な理解にもとづいているのである。

 インターネットは、そういう意味では最近、小社でも導入した出版VAN(value-added network=付加価値通信網)とは著しく性格を異にするものである。インターネットがオープンな性質のものだとすれば、出版VANは受発注オンラインシステムなどに見られるように閉じた世界にむけて流通を活性化するためのツールでしかない。おなじようにパソコンを通じて電子情報として機能するものにはちがいないけれども、情報が主要な出版社、取次、書店を回流するだけで、注文処理の迅速化に役立つことはあっても(それ自体は重要なことは無論だが)、読者の需要をあらたに喚起することにはつながらないというのも事実だからだ。それでも読者の活字離れを緩和するぐらいの機能があることをやはり評価するべきなのかもしれないが。この閉じたシステムを外に開かれたインターネットに接続する技術はいつになったら開発されるのだろう。

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[未来の窓9]

学術専門書出版の可能性と現状

 今回は学術専門書出版の可能性について考えてみたい。昨今の学術専門書出版の厳しい現状についてはいまさら強調することもないだろうが、今日ほどそれぞれの専門領域において専門分化がはなはだしく、どの領域においても専門研究がひとしなみに閉塞状況にあるような時代はこれまでにはなかったといってよい。それぞれの研究領域だけでは出版が成り立つだけの専門的読者を擁しえなくなり、必然的に学術出版の非活性化、研究発表のチャンスの喪失という現象が生じてきているのである。そうした現実をふまえていまや多くの大学では教員の出版活動にたいして各種の出版助成金を出すのがふつうになってきている。公的機関さらには文部省の助成金制度もあらためて見なおされてきたようだ。

 もちろんこうした制度の発展ないし定着は手放しで喜べるわけのものでもない。むしろ制度によってしか支えられなくなっている学術出版の非自立性こそが問題なのだ。

 学問研究とはそもそも社会や制度とは独立した次元をもつものであり、社会や制度にたいする相対的な自立性を獲得してきた。大学とはそのような独自の役割をもったものとして成立してきたはずである。そこには実学的な側面もあろうが、多くは社会や歴史の構造を批評的に解読し分析する視点を保持することにその存在理由があったわけである。わたしがかつて大学に入学した一九六〇年代後半という時代にはそうした認識は自明の前提であり、大学の「自治」なるものはたとえ幻想にすぎなかったにせよ、大学人たちの意識をある程度は拘束していたのではなかったろうか。そこでは学問は体制に奉仕すべきものではなく、体制に抵抗し批判的に関与するものとして存在していた。いまから見れば信じられないことであるが、学問研究には社会や制度との接点でまさに生きた学問としてみずからの存在自体を問うという自己言及性というか自己批評性が必要とされたのである。学問は象牙の塔に閉じこもることは許されなかった。

 その意味からすれば、いまほど学問研究のアクチュアリティが失なわれている時代はないのかもしれない。あるいは個別の学問領域が十全に発展しうるには、今日の高度に発達した情報化社会ではあまりにそれぞれの研究者に過剰な負担がかかりすぎるようになってしまったのかもしれない。真に専門家でありつづけるためにはその専門領域だけでもじつに膨大な資料が渉猟されなければならないのである。必要な情報が入手されるためにはおそろしく無駄なエネルギーが消費されざるをえない。なにしろ有象無象あわせて年間六万点の新刊が刊行され、既刊本とあわせると五〇万点を超える出版物が横行している時代なのである。しかも情報は活字化された通常の出版物ばかりではない。インターネットやCD-ROMといった電子情報からテレビ、ヴィデオ、映画におよぶ旧来の視聴覚情報もある。学問研究はこれらの情報を取捨選択するなかから発展しつづけなければならないのであるから、これは相当に骨の折れる仕事とならざるをえない。

 学術的な専門書出版が困難になってきた背景には学問をとりまくこうした研究環境の変化というものも無視しえない。しかしなによりも問題なのは、専門研究という名目のもとに学問のタコツボ化が生じていることに気がつかれていないことではないだろうか。とりわけ社会や時代の進展とともに推移してきた社会科学系の学問体系それ自体が大きな問い直しを要求されているのであり、新たなパラダイム・シフトが形成されなければならないだろう。にもかかわらず、管見によれば、社会や制度との密接な関係にある社会科学系の研究者ほど、タコツボ状況への自己認識が不足しているように思われてならないのである。

 これはわたしの持論のひとつだが、現在のような専門分化の著しい学問状況にあっては、特定のジャンルの専門家はせいぜい五〇〇人以下、極端な場合には数十人という規模のものになっている。大小さまざまな学会があっても、おなじような問題意識や知識(情報)を共有できていて共通の言語で語り合うことができる研究者はおどろくほど少ないようである。むしろおなじ学会に所属していながらまったく言語が通じあわない関係のほうが多いのではなかろうか。これではそうした専門領域の学術書が出版されることはきわめて困難なものとならざるをえない。売れない専門書出版の経験からそう判断せざるをえないのである。

 学術専門書が出版できるのは基本的に二つの場合しかない。ひとつは専門領域において高いレベルの業績でありながら、超域的な読者を獲得することができそうな問題意識の広がりと普遍性をもった本の場合である。かつてならクロスオーヴァーとでも言ったかもしれないような脱領域的な広がりのなかでみずからの専門領域の前提をたえず問い直し、その学問それ自体の自己批評にもとづいて検証された知見によって専門外の研究者の関心をもひくことができるようなすぐれた専門書。ひとことで言って〈売れる専門書〉――専門書出版社の「夢」とでもいうものがあるとすれば、まちがいなくこの種の専門書の発掘であり、そうした可能性を秘めた研究者の発見にあるだろう。だからこういう可能性のある専門書の出版は、出版社にとってひとつの賭けであるが、それはかりに成功しなくても意味のある賭けなのである。

 もうひとつが、残念ながら〈売れる専門書〉の可能性がさしあたり明確には見えてこないにもかかわらず、その専門領域において出版される意義のある企画の場合である。こうした出版物の場合、さきに述べたような各種出版助成金の力を借りることになる。学術専門書出版が困難なこの時代にこうしたさまざまな助成金を利用することはおおいに必要なことであるのはもはや言うまでもあるまい。

 それにしてもこうした学術専門書が三〇〇〇部ほどは図書館で購入されることが確実なアメリカとくらべると、日本の図書館行政というのはなんとも情けない。おそらく日本の図書館ではこうした学術専門書はせいぜいその一割程度しか購入されていない。図書館予算を削ろうとする政府も政府なら、読者のニーズという名目でどこでも手に入る一般書をそろえることしか考えていない多くの図書館。図書館が専門書出版を支えるような時代はいつかくるのだろうか。

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[未来の窓10]

専門書復刊事業の意義

 専門書が売れなくなって久しい。現在のような毎日二〇〇点から三〇〇点もの新刊ラッシュのもとでは、売れにくい専門書などはそもそも書店に並べてもらえないか、すぐ返品の対象になってしまう。まして再販制の撤廃という不安やあいかわらずつづく全般的不況のためもあって、書店現場ではこうした専門書をじっくり売っていこうとする余裕が経済的にも精神的にもなくなっているというのが現状である。専門書にこだわる出版社も相対的に少なくなりつつあり、年間六万点という刊行点数のわりには歴史に残るような秀れた専門書・研究書の刊行が相対的に減少してきているように思われる。さらにいわゆるロングセラーものも、採算ベースに合わなくなってきたことによって品切れ続出というのが昨今の実情であろう。

 こうしたなかでこういう風潮を良しとせず、なんとか本らしい本、とりわけ文化を根底から支えている専門書をなんとか持続的に出しつづけていく可能性を模索しようというのが、岩波書店、東京大学出版会、みすず書房、法政大学出版局の4社によってはじめられた共同復刊の運動であったが、このたび勁草書房、白水社とともに未來社もくわえた7社による共同復刊事業の試みがあらたに発足する運びとなった。〈書物復権〉という趣意書にもあるように、書店の状況は専門書にとって絶望的であり、コンピュータその他による売れ行きデータ至上主義は業界全体の主流になってしまっている。もちろん今日のような厳しい経済不況の時代においては背に腹は代えられないという版元や書店それぞれの事情もあり、無理を承知で言うのだが、いまここで頑張らなければいつ頑張るときがあるのだろう。経済成長一本槍でここまで無理を重ねて成長してきた日本経済と同様に、出版界もここらで成長神話からそろそろ解放されるほうがいい。別に売上げが前年比を割ったところでいいではないか。現に書籍などはここ数年ほとんど成長が止まっている。大書店の増床分による見かけだけの売上げ増もここへきて馬脚をあらわしつつあるのである。

 新刊ばかりに追われつづけて結局は自転車操業に陥っているのが現在の出版界の偽らざる実態であり、われわれ専門書版元もその例にもれない。そういうわけで、ここらで新刊とは別に、これまでわれわれが苦労して刊行してきた書籍への見直しがもとめられるようになったのもなにかの必然なのだろう。在庫品ももちろんであるが、採算ベースに合わなくなったという理由だけで品切れ状態にしている本がいかに多いことか、毎年の出版目録作成の時期が近づくにつれていつも思い知らされることである。学会などでよくあることだが、数は少ないかもしれないがそれをどうしても必要とする研究者との出会いなどがあると、やはりなんとかして復刊していかなければならないという気にさせられることもある。実際にそうした機縁があって復刊にいたったケースも最近いくつかあったし、今後も予定にのせている。

 そんなときにやはり同じ危機感と問題意識に衝き動かされていたにちがいない専門書4社の会からの共同復刊のお誘いがあったわけで、なんとも心強い味方を得ることになったものである。これら先行する4社はそれぞれ専門書出版社として着実な成果を上げてきているのはいまさらいうまでもないが、ここではたんに書籍の復刊にとどまらず、マスコミや書店への共通した目的意識に結ばれた働きかけ、パンフレット作りやさまざまなテーマフェアなどの具体的な提案、さらには編集者同士の交流といったきわめて実践的な活動がもくろまれているのである。かつてわたしが所属したことのある人文書版元中心の「人文会」という営業主体の団体があるが、そこでもこれほど緊密な共同性は存在しなかったし、いまも存在しない。人文書という正体のつかみにくい書籍を擁しながら、書店の棚の確保以外になかなか共通の販売手法が生み出し得ないというのがつねに変わらぬ課題であった。営業レベルにとどまらず、編集・広告も巻き込んだ全社的なかかわりをもった出版社の共同事業というのはこれまでほとんど実現しなかったのではなかろうか。この7社の会はそうした共同事業における限界への挑戦の意味をももっている。ある意味では、それだけ現在の出版界あるいは専門書の危機は深いといわざるをえないのかもしれない。専門書取次として実績のある鈴木書店を取引の中核に介在させようという判断も、専門書販売の原点に立ち戻って考えていこうという姿勢の現われである。産業界や銀行などとちがって、出版社の場合は吸収・合併などということは考えにくい事情がいろいろあるが、それでも今後ありうる業界再編の一端とでもいった程度の意味をもつことになるかもしれない。

 ところで、専門書というのはたしかに売れ足のいいものではないのが普通である。しかしそれが真に高度な専門性をもつことによって、専門領域を超えたある種の普遍性に達する場合がある。特定の専門領域に内在する諸問題をクリアーするということは、その専門領域を超越論的にとらえ直すことでもあって、しばしばその領域そのものを脱構築的に横断するような力をもつことになる。そうした場合、えてして時代に先行しすぎる書物は同時代のなかでは理解されないことがありうるのであって、そうした本はまったくと言っていいほど売れないこともある。文学作品などには古今東西よくあるケースだが、人文・社会科学にも少なくないのではないだろうか。この逆に、刊行当時よく売れて評判にさえなった書物が、時代の進展とともにまるで売れなくなってしまうこともよくある。これまた、スケールはともかく文学作品と同じで、やはり時代の刻印をおびつつ、時代とともにその役割を終えてしまわざるをえないものなのである。

 専門書復刊とはこの時代に見合った書物の再発見であり、読者の指摘に気づかせられながらも出版社みずからが自身の軌跡をたどりなおすなかから新たな力を汲み上げることでもある。さいわいにして専門書出版とは息の長い書物をめざしてこれまで営々として築き上げてきたもののはずである。なにもいまさらベストセラーを狙わずとも、着実に読者の要望に応えてきた書物群をいまの眼で見なおすというだけのことである。こうした出版の原点にたちかえる専門書復刊共同事業の試みにおおいに期待したい。

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