未来の窓|1998

 
[未来の窓11]

規制緩和小委員会の報告の意味するもの

 行政改革委員会の規制緩和小委員会が「著作物の再販売価格維持制度見直しに関する報告」を十二月八日に発表した。これは政府の諮問機関としての規制緩和小委員会の最終答申となる。かねてより再販制(=定価販売制)廃止論者が圧倒的多数を占めると言われていた委員会のものだけにいよいよ再販廃止ののろしを上げるのではないかと予想されていたのだが、意外にも全面廃止の提案とはならなかった。そこには論旨が奇妙に屈折した思考の痕跡がうかがわれるのであり、この報告が政治的に難産の結果であることを告げている。今回はこの報告について検討してみたい。

 まず明らかに読みとれることは、この報告は前提あって結論なしというお粗末な文章の見本であるということである。結論があるとすれば、「経済活動の基本ルールである独禁法上原則違法である」現行再販制が独禁法の適用除外とされるには「相当の特別な理由」が必要であるにもかかわらず、そうした理由があるとする「十分な論拠は見出せなかった」としているところであろうか。しかしこれとても、従来から規制緩和小委員会が主張しつづけてきた観点であり、その認識の方向にそってこの報告書が書かれている以上、再販制を全面廃止にするという結論が出てくるのが論理の必然というものであったはずである。しかし最終的な結論はそういうことはいっさい書かれていない。つまり再販廃止の文脈で書かれてきた前提のみがあって、問題は先送りないし曖昧にされているのである。むしろ再販廃止という結論がないこと自体が結論なのだ。

 ここには怪しげな政治的工作ないし配慮がありありと読みとれる。事実、聞くところによれば報告書の発表直前までは「全面廃止」の文句があったとされている。そうでなければ公式の報告書が混乱した論理のまま提出されるはずがないのである。書き替えの時間不足からこうした奇妙にねじ曲がった文章にならざるをえなかったのだとすれば、起草者にはお気の毒と言うしかない。

 とはいえ、これで再販制が自動的に維持されることになったと考えるのは早計であろう。報告書の最後に書かれている以下の文章は、出版業界に残された課題が解決されないかぎり、再販制の廃止という議論はつねに潜伏していることをつたえている。

《以上により、当小委員会が示した、現行再販制を維持すべき「相当の特別な理由」があるとする十分な論拠は見出せないとの認識が、国民に十分に浸透されていくことを期待するとともに、著作物の再販制度について、国民の議論を深め、その理解を踏まえて速やかに適切な措置を講じるべきである。(中略)まず、消費者利益の向上の観点からは、著作物に関する流通の改善・合理化を図る必要があるであろう。既に、新聞、出版、CD等においては、業界として流通改善への努力が始まっているが、こうした取組みを一層強化していくことが期待される。》

 これは公正取引委員会をはじめとする政府機関が規制緩和を経済政策の基本とするかぎり、「国民」を盾にしていつでも再販廃止の議論を再提起することができることを示している。流通改善というテーマが達成されないことを理由にあらためて議論がわき起こるということは十分に予想できることである。再販制廃止の議論がそうであるように、二度あることは三度あるのであって、そのときには三度目の正直という結論が待っていることになるだろう。

 ところで、わたしにとっていまもっとも関心があるのは、流通改善の問題もさることながら、規制緩和小委員会が提起している問題認識のなかで、出版物(著作物)における〈消費者利益〉とはなにかということである。

 規制緩和小委員会の報告書を読むかぎり、出版物は安く購入できることが消費者にとっての利益とされている。再販制度の存在によって販売店(書店)間の競争が阻害された結果、「消費者は商品を安く購入する機会と、より多様で良質な販売サービスを享受する機会を奪われ、消費者利益が侵害される」というわけである。しかし、ここで出版物を「消費」の対象と考える発想自体がすでにあまりにも経済主義的な観点ではないかというのが、そもそもわたしの根本的な疑問なのである。たしかに「書籍の多様性」についても報告書で言及されてはいる。書籍の多様性の再販制度との関係は明確ではないとしつつ、小売段階における多様性についてその画一化の問題に触れたあとで、「出版段階における書籍の多様性」についてはつぎのように述べている。

《売れにくいが学術的・文化的な価値が高いとされる書籍については、再販制度の有無によって需要自体が大きく変化するわけではないと考える。また、いわゆる売れ筋の商品の価格拘束によって得られた超過利潤で、売れない商品の赤字を埋める「利潤移転」の効果も一概には認められない。現状でも、出版社が、損失の発生があらかじめ予測できる書籍の出版に熱心だとは思われない。》

 前段はともかくとして、これははたしてなにを言いたいのか首をかしげざるをえない。すくなくとも中小の専門書出版社にとって、売れた本の利益によって売れなかった本の赤字を補填するという意味で「利潤移転」という結果が生ずることはあるとしても、最初から赤字覚悟の本を出すことに熱心になるわけがないのは言うまでもないことである。もちろん、そういう本は存在しないわけではないが、それはその書物が学術的にも文化的にも時代を超えた価値があるのではないかという特別な期待とともにしか存在しない。そして専門書とは、出版社の規模やその志向性にもよるが、ある程度の販売予測のもとにかろうじて成立すると判断されるものにほかならない。そうしたものが出版文化の可能性をぎりぎりのところで切り開いていくのであって、「書籍の多様性」というのもそうした特定の出版社の経営・営業努力によって支えられているにすぎない。たんに売れる本があったから売れない専門書を「利潤移転」するために出そうというのではないのである。報告書にはそうした出版社の実情の認識がほとんど現われていないと残念ながら言わざるをえない。

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[未来の窓12]

新年の不機嫌なご挨拶

 時代はいよいよ急速にひとつの時代の終焉へとカーブを描いているらしい。新しい年を迎えてもいっこうに回復の兆しを見せない日本経済はこのままドミノ倒しのように崩壊していくのかもしれない。これまでアメリカの援助交際的支援や独立後まもないアジア諸国を食い物にして成長してきた戦後日本も、最近のアジア経済の連鎖的凋落もあって、どうやら屋台骨がゆらいできたのである。資源も土地ももたない敗戦日本が奇跡の成長を遂げることができたのにはさまざまな偶然的要因も多いのだが、なによりも戦前の帝国主義的侵略政策をソフトな経済的隷属化政策へといちはやく転換することができたからである。いわば善意の顔をした支配政策をうまく機能させることができたのである。昨今の経済破綻はこうしたもともと虚妄の上に成り立ってきた経済構造の脆弱さが露呈してきたと言うしかないのだが、そのことにいったいどれだけの政治家や経済学者が気づいているのだろう。近代日本という国家は宗教も哲学ももたないできたために、いったん後退戦に入ってくると、かつての日本帝国軍隊のようにもう収拾がつかなくなるのである。

 これまで世界で一番優秀と自称してきた日本の官僚の実力なるものが、じつは未来への展望を欠き目先の問題に事なかれ主義で反応することのみ巧みな人種であることがこの間の金融ビッグバンへの対応ぶりからも明らかになった。なかには個人的には面白い個性の持ち主もいるにはいるにちがいないが、そうした個性がまったく生かされない制度が日本の官僚の体質を再生産しつづけているのである。しかもこの体質は上から下まであまねく日本の社会に瀰漫しているのであって、たんに官僚だけの問題ではない。

 こんな言わずもがなのことをつい口走りたくなったのも、この一月十三日に結論が出された公正取引委員会の諮問機関「政府規制等と競争政策に関する研究会」(鶴田俊正座長)の報告書が発表されたという新聞記事を読んだからである。前回で昨年十二月に出された政府・行政改革委員会の諮問機関である規制緩和小委員会の報告「著作物の再販売価格維持制度見直しに関する報告」について意見を述べたが、今回もまたおなじような意見を述べなければならないのだろうか。いまのところ報告書の全文を入手していないので詳述することは避けるが、新聞に掲載された要旨および関連記事を読むだけでもおよそのところは判断できる。それだけでも憂鬱になってくるのである。

 とりあえずいまの時点で言っておかねばならないことは、「政府規制研」=通称鶴田委員会の今回の報告に見られる顕著な特徴は、さきの規制緩和小委員会の報告と同様、再販制廃止の方向性を打ち出しながら、出版業界の言い分には形ばかりの理解と配慮をおこなうとともに急速な廃止への危険を示唆してみせるといった、きわめて手の込んだものだということである。成文上は玉虫色にしておいて、そこに相矛盾する論点があろうがなかろうが、とにかくあとは運用のレベルでうまくやってくれというわけである。

 この報告は、著作物の文化性の問題に言及し、再販制度が出版物の多様性を保証している側面があることを初めて公式に認めたかたちにはなっている。そこのところを「第1 総論的な検討」のなかの「3 著作物再販制度の果たしてきた役割及び問題点の検討」の箇所で確認しておこう。

《再販制度は、小売店等の経営を安定させるとともに、流通が安定することにより発行者ひいては著作者にも一定の経済的な利益をもたらすという事実上の効果を有していると考えられる。》

 つまり再販制度による安定した流通過程が、さまざまな問題点をかかえながらも、とりあえず書店・出版社・著者に利益を与えているというのである。しかしここでも注意しておかなければならないのは、それがあくまでも経済的な利益のことにすぎないのであって、わたしが主張しているように、ほんとうに価値ある出版物が刊行されること自体の文化的メリットにたいする認識が見られないということである。その証拠はこの報告書のすこしあとの各論のなかにすでに現われている。すなわち「第2 各品目の個別的な検討」の「1 書籍・雑誌」の項のなかにつぎのような箇所がある。

《書店での商品陳列や品ぞろえの充実の必要性、出版社の出版企画の多様性の必要性などが再販制度を必要とする最も重要な根拠として挙げられているが、必ずしも再販制度とこれらが直結しているとはいえない。》

 ここで出版企画の多様性というものが抽象的に実現しうるかのように考えられていることは明らかだ。なるほど、再販制度があるから出版物の多様性が実現しているとするには、いまの出版の現状から言っても、決定的な根拠は存在しないだろう。しかし、前回も言ったように、出版企画は、専門書のようにたとえ少部数といえども、採算を度外視してたてられるわけではないのであって、その実現可能性の予測を可能にするものがなければ企画自体が流産することとなる。もちろん現状でもそういった事態はいくらでも存在するのだが、間違いなく再販制度の廃止はこうしたボーダーラインにある出版企画の多くを流産に追いやるだろう。そのなかには日本の文化にとってきわめて重要な価値をもつだろう企画が数多くふくまれているにちがいない。なぜなら、未来を先取りする出版物の価値は、その定義上からも企画の時点での経済的観点──売上げ至上主義──からは推し量れないものが多いはずだからである。「読者のニーズ」に応えるのではなくて、それを新しくつくりだす出版物、それこそが出版の創造的可能性なのである。

 今回の報告では著作権者の保護のこともいちおう取り上げられている。しかしこれもおざなりな印象を受けるのは、すでに書いたように、そもそも出版が実現できない状況では著作権そのものが発生しないという単純な理屈を考えただけでも論理的な順序が逆であることが理解できよう。なにも文藝家協会の顔をたてるためにこうした付随的な問題への言及でお茶を濁すことはないはずである。

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[未来の窓13]

出版の文化性と多様性

 すこしまえにこの欄でも予告させてもらったが、小社もふくむ専門書7社の会(岩波書店、勁草書房、東京大学出版会、白水社、法政大学出版局、みすず書房、未來社)の〈書物復権〉という共同復刊の試みが着実に読者の支持を得て実現にむかっている。二月末で締め切られた読者アンケートを読んでいると、老若男女を問わず、じつに多くの真摯な回答が寄せられていて、版元としては思いがけない喜びとともに襟をたださざるをえなくなる。各社十点の復刊候補書を事前に知らせるパンフレットを書店店頭で見ての回答だけでこれだけの反応があるということは、じつにありがたいことであって、専門書をもとめる読者は根づよく存在しているのである。ここに顕在化した読者像はおそらく専門書をささえる読者群の氷山の一角だと認識しておいていいだろう。

 候補書目をあらかじめしぼってのアンケートだけに、専門書読者の目からすればもっと他の書目も対象にしてほしい、対象にすべきだという意見もすくなからず寄せられたのは、まことにもっともな話である。版元としてもこうした意見にはおおいに耳を傾ける必要があろう。むしろこうした情報交換の場があまりにもないということによって、版元のほうも自社の書籍の重版にもうひとつ自信がもてなくなってきてしまっていたのである。ましてやこの構造不況の時代にはなおさらだ。

 かつてはよく読まれた良書も時代の流れとともに忘れさられつつあり、毎日あふれ出る新刊の山のあいだに埋もれてしまう。昨年は年間六万三千点とも言われる新刊が出ているが、おそらく刊行点数のわりには今後も読みつがれるであろう良書のウェイトはきわめて低いのではなかろうか。この点はここ数年、顕著になってきたことである。その一方で、いわゆるロングセラーの落ち込みぶりには目を覆うものがあって、専門書版元の存亡が危ぶまれるのもここに主たる原因があるのである。

 この一文を執筆している三月中に再販制をめぐる公正取引委員会の最終答申が出ることになっており、予断を許さない情勢がつづいている。すでにいささか旧聞に属するが、二月十日に公正取引委員会の担当課長を招いての書協主催の再販問題会員説明会なるものが開かれた。こうした切迫した時点で当事者たる公取委の中堅幹部がいわば相手側に乗り込んでの意見交換というのもいささか異例ではないかと思うが、そこでの話を聞いているかぎり、こういう役人的発想では専門書というものがどういうふうにして企画され、実現するかということがほとんどまったくわかっていないという気がして、心さびしいものを感じた。公取委としても出版文化のことに言及しないわけにはいかないぐらいには、出版のもつ他の産業にはない特性を理解しようとする姿勢が出てきただけまだよいとする見方もあろうが、出版にかかわる者としてそんな甘いことは言っていられない。

 かれらが考えている再販制のもとでの「出版物の多様性」という論点は、あくまでも流通のレベルの問題にすぎない。店頭での出版物の多様性とはなるほど再販制によってかなりの程度可能になっている現象にはちがいないが、それでも書店の金太郎飴現象が指摘されているぐらいである。公取委の理解に決定的に欠落しているのはひとえに生産地点での出版の多様性がどこで保証されるのかという視点である。

 言うまでもなく専門書とは著者の高度な知識と書物刊行の意欲がまず存在しなければならない。しかしそうした知識や意欲を実現しようとするときには、どうしてもそうした専門書への理解のある版元の協力が必要になる。版元としてはこれまでの経験やら実績やらをもとにして企画の成立そのものを問い直し、ぎりぎりの採算点をにらみながら著者の意欲と運命をともにすることを選択するのである。いささか大げさに聞こえるとしても、こうした意志の存在をぬきにしては専門書出版社の存在理由はなきにひとしい。そこにあるのは売れる本でさえあればなんでもいいという考えとはおよそ対極にあるなんらかの使命感である。売れないことを前提にするわけではないにせよ、売る目標部数の設定をある程度低いところにおかざるをえないのである。文化とはそうした地点からしか成立しない。こうした専門書が自明のごとく出版され、流通に乗せられていることを前提にした(書店店頭における)「出版物の多様性」なるものがいかに内実のない、現実感覚に乏しい認識にすぎないかがわかろうというものである。

 再販問題の帰趨にかかわりなく、日本の出版の将来ということを考えるとき、出版人がみずからのレゾン・デートルである出版文化の本質を論じあうことを避けていることは自己矛盾であり、そこにこそすべての問題の根源もある。そこをどう考えていったらいいのか。

 というような話をじつは先日(三月七日)、日本ジャーナリスト会議出版部会というところで「書籍出版が生きのこる方途〔みち〕」という、考えようによってはおそろしいテーマのシンポジウムで話をさせてもらった。日頃考えていることを遠慮なくしゃべっていいという設定だったこともあって、わりあい言いたいことを言わせてもらった。それでも言い残したことが多かったが、いい議論の場があったものである。こうした議論の場を設定することによって、生産─流通─消費の関連の問題もふくめ、これらを出版文化総体の問題として設定しなおす議論があらためて俎上にのせられるべきときがようやくきたのかもしれない。それにしてもさまざまな出版人がいるものだ。衰退の一途をたどる書籍出版にももしかしたら一筋の光明が見出せるかもしれないという印象をもちかえりつつ、やはりいい著者と熱心な読者に支えられないかぎり専門書出版社は成り立たないし、おこがましく言えば、そのこと抜きには日本の文化も成り立たないということを意味するはずだ、とあらためて認識した次第である。

 現在の金満ニッポン国が、図書館の増設や専門書のため 図書予算の拡大など、文化政策によっても真の文化大国となり、政治家から官僚までもっとまともな文化意識をもつ人が台頭するぐらいになってから、あらためて再販制存廃の議論をするほうがいいかもしれない。お役人の出番はそれからでも遅くはない。

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[未来の窓14]

インターネット時代の書物

 三月末になってようやく公正取引委員会の「著作物再販制度の取扱いについて」という最終見解が発表され、再販制はとりあえず維持されることになった。どうも三年ほどなりゆきをみてから「制度自体の存廃についての結論」を出していこうという方向のようである。もともと再販制度自体が原則「違法」とされ廃止の方向で検討されてきたものだけに、法改正まではもっていけないものの現実的な法解釈・運用レベルで制度自体をなし崩しにしていこうという公取委の狙いも読みとれなくはない。これまで問題とされてきた各種割引制度やサービス券の提供等がむしろ小売業者における経営努力として推奨され、制度の弾力的運用と認識されるようになったのがその一例である。時限再販・部分再販にいくらかでも加担する方策は積極的に評価しようというわけである。これまでそうした方策は再販制への違法行為であるとしてきた公取委が、いまや君子は豹変するとでもいわんばかりの姿勢で、再販制の弾力的運用の方向に動きはじめたわけである。

 ともあれ、出版界は当面の危機を脱したことは事実である。しかし言うまでもなく問題は山積しており、再販制の是非をこえて解決していかなければならない個別の問題が多すぎるのである。そうした問題をひとつひとつ解決していくにはこの三年という時間はけっして長くはない。流通改善の問題ひとつとってもそのインフラの構築・整備は容易なことではない。現在、ここ数年の懸案であった長野県須坂市の出版社共同倉庫の設立がようやく現実的な日程に上ってくるところまできたが、ここにも出版社個々の業態にもとづく細部にわたる調整の課題が残されており、急ピッチでデータ整備などの作業が進められているようである。これにさまざまな思惑と計算がからんでくるのだから、実現への道のりはまだまだ険しいと言わざるをえないだろう。

 こうしたなかでひとつの光明と言っていいのが、書協の書籍データベースをインターネットで公開するという動きである。この八月から書協のホームページ(http://www.books.or.jp)で最新のデータベースが検索できることになり、しかもすでにホームページをもっている出版社とのリンクも可能になるとのことで、もしこれが十全に機能するようになれば、それこそ流通の問題は根本的に変容することになる。経費の問題と人材の問題があるとはいえ、今後の出版界のおおきな流れとして、こうした電子情報による在庫確認・受発注の方法は不可欠のものにならざるをえないだろう。すでに書協のホームページからの情報をもとに、さまざまな出版社の合同による別個のホームページ構築の動きや電子書店という新たな商売が始められつつある。適切なコンピュータ・サーバと有能な管理者さえあれば、書店のようなスペースも人員も要らないのであるから、これは流通改善に苦慮する出版界にとってコペルニクス的転回と言っても過言ではない事態の到来なのである。現に、書協のホームページには一日平均で一万件のアクセスがあり、昨年九月の公開以来一度も更新していないにもかかわらず、アクセス件数が減少しない稀有な例になっていると言われている。このホームページ公開が、書協幹部が豪語するまでもなく、出版情報としてはペーパーレスのものとしては他に代替物がないからであるにせよ、ここ一〇年ぐらいのなかでの最大のヒットであったというのは、このインターネット時代にあってはあまりにも当然の話なのである。

 最近刊行された石田晴久氏の『インターネット自由自在』(岩波新書)はとてもおもしろく参考になる本だが、石田氏によるまでもなく、これからはますます日常生活のなかでインターネットのかかわるウェイトが高まってくるであろう。技術の進歩とともにより高速化・大容量化とコストダウンがはかられ、端末がパソコンのみならず電話機やテレビでも可能になるということになれば、人間の生活も大きく変化するにちがいない。かく言うわたしもパソコン経験はまだ三年足らずだが、経理上の数字把握・分析から編集実務上のテキスト処理、さらには著者との電子メールによる情報交換やファイルの受取りなどまで、ほとんどすべてパソコン上でおこなっており、いまやパソコン抜きの仕事など考えられないほどになっている。出版社という情報発信の場にいることは他のどんな業務にもまして多様なパソコンの利用が可能であることを日々痛感せざるをえないのである。

 こうした仕事環境のなかにあってみると、あらためて出版とはなにか、出版物(書物)という形態とはなにかという問題に直面することになる。電子出版やCD-ROMという形態の情報もあり、ペーパーレスの時代に入りつつあるとも言われているこの時代に、なぜ書物という形態に意味があるのか。一方に、紙資源をめぐる森林保護のエコロジカルな問題があり、図書館などの保存・保管の問題もある。そういう書物をめぐる出版環境のなかでどういった出版をおこなうべきなのか、出版業界は一度この問題について真剣に議論をしてみる必要があるのではないか。

 わたしの持論を言えば、出版物という形態はグーテンベルク以来もっともすぐれたハードウェアとして存在してきたし、おそらく今後ともそうした存在理由をもちつづけるだろう。つまり持ち運び可能であり、いつでもどこでも開くことができ、しかも必要な箇所には何度でも立ち戻ることができるという、携帯性・用便性・反復性といった利点は、コンピュータの発展とは別次元にあるということである。この場合、人間の頭脳と眼が基本的なソフトウェアということになる。

 プラトンは『パイドロス』のなかで、文字の発見によって人間の記憶力の衰退がもたらされ、見かけだけの博識家がつくりだされるだけであり、「記憶の秘訣」ではなく「想起の秘訣」にすぎないと言って文字の効用を否定したが、そうした原則的な知のありかたにたいする了解はやはり欠くことができないにせよ、文字にたいするこの批判的言説自体が人間の無数の知の収蔵庫たる書物によって支えられてきたこともまた紛れもない事実なのだ。しかもそうした未来の古典たるべき書物は現在もなお生産されつづけているはずだ。この現実があるかぎり書物という形態は永遠にすたれることがないと確信しうるのである。

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[未来の窓15]

著作権と出版権

 最近は出版人が集まると、本が売れないという話ばかりに終始する。昨一九九七年はいよいよ戦後初めての前年対比マイナス〇・七%というデータが出た。新刊点数は三・八%増の六万五千点強ということだから、新刊一点あたりの売行きというのは実質的にさらに下がっていると言えるだろう。

 各社いろいろ打開策を講じていることはいるのだが、なかなか決定打が出せない。すでにお知らせしたように、この六月から専門書7社の会(岩波書店、勁草書房、東京大学出版会、白水社、法政大学出版局、みすず書房、未來社)の〈書物復権〉の運動が全国の主要書店の協力を得て動き出す。たんなる重版ではなく、読者のリクエストにも応えるかたちで名著を品切れのままにしておかないための試みであり、この運動がどのような成果をもたらすか、あわせて展開されるテーマ別ブックフェアの成果とともに、おおいに期待している。この機会に読者の方々が書店に足を運ばれるようあらためてお願いしたい。(各社の復刊書目は小誌巻末の広告ページを参照いただきたい。)

 話はもどるが、新刊点数のわりに本が売れないことの背景にはさまざまな問題がある。言うまでもなく、政権担当政党や官僚の無能ぶりに起因する経済秩序の崩壊からくる底なしの閉塞状況があり、読書にむけられるべき時間も経済的余裕もなくなっているという根底的な問題がまずある。それにくわえて、出版界内部にもこの状況を根本的に立て直そうとするような動きが出てきていない。新刊点数が増大しつづけるわりには良書と呼べるものの割合がますます反比例的に減少しているのではないかと思えてならない。

 ある会で出版点数が増えること自体をまずは肯定していくべきではないかという論者がいたが、わたしはそうは思わない。もちろん、言論統制などが絶対にあってはならないし、なにか権威的、制度的なものにすがろうとすること自体が出版人にとって自殺行為であることは百も承知のうえでの話である。しかし売れればなんでも出していいとか、風俗的にか思想的にか問題のあるような本(や写真集)が数多く書店店頭に並べられているのをみると、やはりこんなものが出版の自由かという思いがつよくなるのはいかんともしがたい。フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスが言ったように、自由とは倫理的なものであって、無際限の放縦のことではなく、なにものかによって命ぜられてあるもの、厳しい倫理的要請のもたらすものなのである。

 出版行為というのはそもそも著者の長年の研鑽の成果であり、編集・出版という仕事はそれを書物という形態にまとめあげるために専門知識をフルに動員させて実現されるものである。それは手間のかかる仕事であり、ときにはきわめて厄介な仕事である。しかし編集者は著者とともにそのプロセスに創造的にかかわってこそ、知的な文化事業としての出版の価値を最大限に引き出すことができるのである。それがなければ、ただの製造業者にすぎない。

 最近の出版社、編集者にはこのような出版の原点からかけ離れた志向の持ち主があまりにも多いようだ。郷ひろみの『ダディー』などという一時的なゴシップ的興味のために作られた(=製造された)本が、これまでの流通のありかたを無視するかたちでベストセラーに作り上げられるという事件が最近あった。著者も書名もヴェールにつつまれたままで事前に大量発注され、大量にばらまかれ、マスコミでのスクープとともに大きな話題になった。三か月もすれば誰も読まなくなることがあらかじめわかっているような本が突然あらわれて、泡沫のように消えるのである。書物の週刊誌化とさえ言われるような現象のどこに出版文化のかけらでもあると言うのか。あるベストセラー出版社の編集責任者がこの本の作り方にたいして「尊敬している」というのを聞くにおよんではなにをか言わんやだ。

 そんなことを憂えているところへ、東京大学出版会の出しているPR誌「UP」五月号の「出版契約書」というコラムを読んでおおいに共感した。そこで(W)氏によると、某大手出版社からの文庫化、著作集への収録依頼がつづき、しかも断ると著者からの個人的なお願いという手段に出られたとのことである。日本書籍出版協会の「出版契約書」にもとづく著作権の排他的使用、二次的使用という項目への著者側の理解があれば、こんな事態にはならないのではなかったかとも言われるのである。「著作権者と出版者、出版者と出版者との間には守り合うべきルールがある。それは、著作権者を保護するためだけではない。出版者を守るためだけのものでもない。総体としての出版活動・出版文化の、健全な発展にとって不可欠のルールなのだ」と(W)氏は結論づけている。

 こういうことは小社においてもよくあることである。著者にとって、たとえば文庫化というのは自分の本が安く広く読まれる可能性をもつだけにおおいに食指が動くのは理解できないわけではない。文庫出版社の編集者は著者にそういう口実で甘い罠を張るのである。編集者によっては著者の熱心な読者である場合もあって、悪意はないと思っているのだろうが、欲しいものはお金によって自分のものにしても構わないという、大手出版社にありがちな横暴にたいして無自覚な編集者であるという事実には変わりはないのだ。わたしにも親しい著者に某大手出版社から文庫化の話があってどうしたらいいか相談を受けたことがある。おおむねこれまで述べたようなことを話して了解してもらったが、こういうことはいまや日常化していると言ったほうがいいだろう。本がこれだけ売れなくなってくると、じっくり本を作っているヒマがないのだろうが、古い言い方をすれば「ひとのフンドシで相撲を取る」ようなマネだけは許すべきではない。

 小社でも、たいして売れない翻訳ものなのに、自分の思い通りにならないからといって一方的に出版契約を解除したいと言ってくるわがままな訳者も現われてくる始末である。こういう自分勝手は著作権の濫用と言っても過言ではない。さいわい書協でも出版権の法的整備を急ごうという動きもあるようだし、はやく欧米並みに著作権と同じ資格で出版権も存在し、それによって出版文化が成立しているのだという共通認識にたちたいものである。

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[未来の窓16]

編集技法としてのテキスト処理

 書籍出版のありかたがコンピュータ技術の急速な進歩につれておおきく様変わりしてきたことは、ここ最近十数年の印刷技術の変化に端的に現われている。グーテンベルク以来の活字組版とそれに関連する技術がほとんど消滅し、電算写植をはじめとする電子情報の編集処理の技術のみが今日の出版を支えていると言っていい。それにともなって印刷そのものが活版から平版(オフセット)印刷に転換し、いまや活版印刷は詩集や句集といった少部数出版、あるいは特別な意味をもつ出版物に限定されてしまっており、しかもこれらの消滅もいずれ時間の問題となってしまった。

 こうしたなかで、すでにこの連載でも触れたことだが、コンピュータの積極的な利用によって出版業に、そしてとりわけ編集業務にあらたな光明が見出されつつある。以前、この問題についてDTP(デスクトップパブリッシング)の大きな可能性について述べ、そこに「コンピュータの技術革新にともなって本の〈手作り〉感覚がふたたび現実のものとしてよみがえってきた」とやや過剰かもしれない意味づけをしたことがあるが、今回ここで述べたいと思っているのは、こうしたある意味では専門技術に近い編集技法を普遍化しようというのではなく、むしろ誰にでも操作可能な簡単な技術がこれからの本作りの仕事のうえでじつは大きな可能性を開くものであることである。

 専門書出版を中心としている小社のような出版社では、著者からの原稿入稿は最近はほとんどフロッピーによるものとなっている。それがワープロ専用機によるものであれ、パソコンのワープロ・ソフトによるものであれ、原稿がすでに電子情報化されているということは、すでに編集実務の半分が終了していることを意味する。もちろん実際は残り半分が重要な作業であるとしても、原稿が著者によって入力されたままの文字データとしてそのまま利用可能であるということは、この段階のままで原稿の内容的な吟味から徹底的な変更、校正まで可能であるということを意味する。つまり印刷所に入稿するまえに完璧な文字データの完成を実現できるというわけである。印刷所にやってもらうのは、レイアウト上のさまざまな設定、つまりタイトルや見出しをふくめた書体や文字サイズ、行間やスペースの指定、ルビや傍点、写真や図版の組込み、といった編集作業のみとなる。基本的には文字データの流し込みと特定部分の割付け編集をするだけだから、よほど凝ったレイアウトにでもしないかぎり、比較的単純かつ短時間でできる仕事にすぎない。この方法をもってすれば、初校ゲラは最終仕上がりの確認のためにのみ必要な工程ということになり、初校校了というこれまでの編集業務では考えられない夢のような本作りが可能となる。

 これがたんなる夢物語ではなくなったことは、わたしがこの間に試みた小社でのいくつかの仕事が証明している。ひとつのモデルケースとして紹介しておきたいのは、つい先ごろ刊行されたカール・ポパーの『フレームワークの神話』という本である。これはポイエーシス叢書という哲学・思想・批評を中心としたかなり専門度の高いシリーズの一冊であり、レイアウトも戸田ツトム氏に依頼して下段に脚注を組み込むというかなり難度の高いものであるが、この三八〇ページを超え欧文や索引もふくむ本が事実上、初校責了で刊行にこぎつけたのである。

 じつはこれにはいくつかの前提があることもあらかじめ言っておかなくてはならない。この本の訳者グループの推進者となった小河原誠氏(鹿児島大学)は、すでにポイエーシス叢書で著書と訳書を三冊上梓している実績をもっていて、このシリーズのレイアウトにくわしく、そのためもあってすでに原稿段階で擬似的にページレイアウトされたワープロ文書ファイル(Microsoft Wordによるイメージ・ファイル)と同時にDOS形式のテキストファイルを電子メールによって送稿してくれることによって、可能なかぎり高速かつ正確でわかりやすい原稿作成をしてくれたのである。こちらの編集作業とは、結局のところ、送られてきた原稿ファイルをページのかたちに出力し、通読作業をつうじて内容上の問題点や疑問点をはっきりさせるとともに、電子メールを使って校正作業をすすめるということであった。念のため出力した原稿を送って赤字を入れてもらい、それの戻りをまって印刷所渡し用のテキストファイルを修正しただけのことである。原稿の完成度がきわめて高かったせいもあって、赤字修正に要した時間もたいしたものではなくて済んだし、したがって印刷所に原稿とフロッピーを渡してから本になるまでにはひと月ぐらいしかかかっていない。興味のある方がおられたら、ぜひこの本を手にとって出来映えを確認していただきたいと思う。

 このケースはいささか特殊かもしれないが、本の製作プロセスを認識してもらえば、どの著者にも、どの編集者にも参考にしてもらえる新しい本作りの技法であることが理解してもらえるだろう。この技法についてのくわしい説明はいずれきちんと体系化して書いてみたいと思う。

 ここではこれ以上くわしく書くことはできないが、ひとつだけ言っておけば、すくなくとも専門書を志す著者もその原稿を受け取り手を加える編集者も、原稿は基本的にテキストファイル形式(できればDOS形式のテキストファイル)でやりとりできるということが必要かつ十分であることの認識が本作りのアルファにしてオメガであるということである。なんだ、そんな簡単なことかというなかれ。原稿は軽快なテキストファイルで処理することがもっとも有効であることをまず著者と編集者が(再)認識する必要がある。とにかくゲラにしてから編集をするという考えは無駄が多すぎる。ゲラにしてしまう前にすることがいまやいくらでもあるのだ。そのためには起動や入力、検索・置換などもふくめて高速処理のできるテキストエディタというツール(最小限の機能をもったワープロと考えてもらっていい)をフルに活用することである。著者のなかにはテキストエディタを使って原稿を書くひとがすでにいるが、文字だけの原稿なら重くて融通のきかないワープロなど使う必要はまったくないことを著者および編集者はとりあえず知るべきである。本作りのありかたがいまや大きく変わろうとしているのだ。

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[未来の窓17]

書物復権はありがたきかな

 これまで本欄で何度か触れた専門書出版社7社の会の〈書物復権〉のフェアがそろそろ収束の段階に入りつつある。成績は書店によってかなり大きな差があるが、新刊でもなく定価もかなり高い専門書が対象であるわりにはまずまずの売行きと言っていい。あわせて「20世紀の光と闇」というテーマ別フェアも同時開催してくれている書店も多いのだが、せっかくのフェアも案外知られていないままでいることも残念ながら事実のようだ。フェア以外からの普通注文がかなり多いのがその証拠ではないかと思う。版元によっては部数を抑えたところもあり、品切れになってしまった本がいくつも出てきている。こういう試みの場合、在庫調整がなかなかむずかしいのである。

 未來社では、こういう復刊書の場合、原則としてすぐには在庫が切れないように部数を少し多めに製作している。できればこのさいロングセラーとしても復活してほしいという願いもこめている。それにしても、本が読まれなくなったこの時代に、こうしたカタい本をもとめてくれる読者がまだまだ健在であることはうれしいことである。

 書物復権にかんしてうれしい話がもうひとつある。

 毎年九月一日から三日三晩、富山県婦負郡八尾町でおこなわれる「風の盆おわら祭り」という祭りがある。高橋治の一九八五年刊行の小説「風の盆恋歌」とそのテレビドラマ化ですっかりおなじみになったお祭りだが、この時期になると人口千人ほどの町に全国から数十万人の人出があると言われるほど有名である。小社の創立者である故・西谷能雄がかつてこの時期になると八尾詣でをしていたことを知るひとは、出版界ではもうほとんどいなくなったことだろう。その西谷夫妻がいつも泊めてもらっていたのが八尾の林淑子さんのお宅であった。じつはこの林さんのお父上が林秋路さんという板画家で、「風の盆」の祭りをモチーフに独特の詩情豊かなタッチの板画作品が数多くあり、その作品の集大成とも言える『林秋路板画集/越中おわら風の盆』というB5変形版の画集が一九七九年に未來社から刊行されている。昨今の異常とも言えるおわらブームよりかなり早い時点での刊行であったが、それでも刊行当時かなりの部数が売れたデータが残っている。特漉き和紙に活版16色刷りという贅沢な造りのせいか、ファンにとってはまたと得られない貴重な財産になっているはずである。しかしこのような画集のため制作原価がきわめて高くつくこともあって、通常の重版はとても見込めないままに長いあいだ品切れになっていた。八尾の林さんのところにも復刊をもとめる声がずいぶんあったそうである。その本が思わぬ経緯でこの秋の祭りにむけて復刊されることになり、現在急ピッチで製作中なのである。林さんに復刊の話をお知らせしたところとても喜んでくれたのは言うまでもないことである。

 どうしてこういうことになったかというと、あるときトーハンの金田万寿人副社長と別件で話をしていたときに、金田氏のほうから『越中おわら風の盆』の在庫状況についての照会があり、品切れ中であることを伝えると、なんとか復刊してもらえないかというありがたいお話があったのがきっかけである。というのはいろいろ理由もあるのだが、この本が刊行されてまもなく金田氏に販売協力をお願いしたところ、トーハン北陸支店を中心にかなりの部数を売ってくれた実績があり、また金田氏がそのとき以来この本に相当の愛着をもってくれているからなのである。この話のあといろいろ検討してもらった結果、トーハンの一手販売という条件でならなんとか復刊できるメドが立ち、そういう販売形態は未來社としても初めてのケースであるけれども、金田氏の熱意に勇気を得て思い切った復刊に踏み切ることになったのである。

 八尾には書店が一軒もない。そこで前回のときもそうだったとのことだが、富山市の書店と八尾の観光協会がタイアップしてこの本を「風の盆おわら祭り」のいわば記念品とも特別な土産ともいうようなかたちで売りたいとのことで、そういう商品の性格上あまり高値にするわけにもいかない事情があり、部数もある程度まとまる必要があった。さいわい八尾の林さんのほうにもさっそく引き合いがあるとのことで、この思い切った企画もおおきく発展していく可能性が見えてきたのである。書物というものはみずからの存在を主張しつづけているのであり、時と人を得ることができればかならず復権することができるのだとあらためて思った次第である。

 そこでひさびさに『越中おわら風の盆』を開いてみることになった。まだ一度も行ったことのない八尾だが、そこにはしばしば話で聞かされた坂の町のたたずまい、踊り唄うひとびとの姿が林秋路板画の喚起力によって髣髴とイメージされてくる。風の盆を撮った写真集で見る現代的なにぎわしさとは明らかに異なった、もの悲しげな情緒、長い歴史を感じさせるひなびた味わいこそがむしろ本来の「風の盆」の世界ではなかろうかと想像されてくる。

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[未来の窓18]

シェアテキストという思想

 前回、『越中おわら風の盆』という板画集の復刊について書いた「書物復権はありがたきかな」にはいろいろな方から思いがけないほどの反応があった。その後この話はますます発展してトーハンをつうじて共同通信社系の地方紙にプレス発表が配信されることになり、思わぬ展開になってきた。これを書いている八月九日現在、ことしの越中八尾の祭りでどんな結果が待ち受けているのかは不明だが、いずれにせよ相当な反応が出るだろうことだけは期待できる。

 ところで、こういう特殊な制作過程をとらざるをえない本の場合は別にして、一般に小社のように専門書が中心の版元の場合、どうしても一定程度以上の売行きが見込めない書物は「品切れ重版未定」ということになる。もちろん今回のように復刊されることが時にはあるから、かならずしも「絶版」というように永久欠番になることとは事情が異なるにせよ、ものによっては復刊するにも学問的価値がなくなってしまったというような理由によって事実上の絶版ということもすくなくない。そのあたりの判断は出版社としてはむずかしいことが多く、読者の不満を解消するにはなかなかいたらない。

 そんなときに最近出た『デジタルテキストの技法』(ひつじ書房刊)という本を読んで、〈シェアテキスト〉という考えがあることを知った。著者の家辺勝文氏によれば、これはインターネット上で流通しているシェアウェア(sharewear)というソフトウェアの配布と売買の形式を書物に適用させてみようということで、すでにニフティサーブをつうじて実験的に試みられているとのことである。コンピュータをある程度以上やっているひとなら周知のように、市販のアプリケーションやユーティリティ・ソフトのほかに、インターネット上でじつにさまざまなソフトがダウンロード可能であり、パソコン雑誌の付録CD-ROMなどで収録もされている。これらはそれぞれのパソコン上で試用することができ、気に入ればそこそこの料金を郵便振替その他で支払うことによって製作者側に正式に登録され、使用を認可されるという仕組みになっている。シェアテキストという概念はそこから来ているのである。

 この考え方はこれからの専門書出版を考えるうえできわめて示唆的な問題提起であることをまず認めておかねばならない。これはつまり、版元品切れで流通不可となった書物をその内容をディジタル情報化することによってインターネット上でダウンロード可能にすることであり、書物の形態をとらずとも閲覧・検索・引用することを可能にすることである。言うまでもなく、この場合、エキスパンドブックなど本格的な電子情報とは異なり、書物と同一の情報は文字部分に限定される。いわゆるテキストファイルとしてどのパソコン上でも読むことのできる文字データを電子情報化することによって、初期コスト(データ入力その他)以外のコストを不要とすることができるのである。つまり、出版物のように重版という一定のコストをかけることなく、無限に再生産が可能であるということである。

 このことは、専門書のように書物の性格上、現在の流通システムの恩恵にあずかることのすくない著者とその書物を必要とする読者にとっては望ましい事態の出現であると言えよう。どれほど部数は少なくても、そのひとにとって価値のあるものこそが書物としての意義をもつことになるからだ。このことの流通上の可能性は大きいと言わざるをえない。

 したがって問題はそうしたデータの交換価値ということになる。インターネット上にフリーウェアとしてアップロードされているソフト類は、言ってみれば製作者の好意によって無償で配布されているものであるが、〈シェアテキスト〉という概念はとりあえず有償のものとして設定されている。もちろん著者ないし製作者側の同意さえあれば〈フリーテキスト〉という考えもありうる。問題になるのはそのテキストが一定の文化的価値を有しているとともに、それが商品としても対価を払われることを要求している場合である。

 その問題にかんして家辺氏は前述の書物のなかで、シェアテキストの対価を得るというかたちで著者の権利を守ることを主張しつつ、つぎのように指摘している。

「知的財産を共有するとはどのようなことを意味するのだろうか。作品の対価を支払うということは、もとより作品を自由に処分変更してもいいということを意味するものではない。商品を丸ごと買い取るのとは対価の意味が違う。いわば具体的な表現形式をもった作品へのアクセスに対して対価を支払うのである。その場合、対価には二重の意味がある。作品のアクセスを認めると同時に、作品の譲渡ではないという積極的な制約である。少なくとも、このことを対価によって明確にすることができる。無償で配る場合には、この点があいまいになりがちである。」

 ここに通常の出版物におけると同じように著者の著作権擁護の姿勢は明確に打ち出されている。それとともにオリジナル出版物の版元にも出版権があり、それにたいする権利擁護が必要になる。ただ問題なのは、シェアウェアがそうであるように、ソフトは気に入れば何度でも使用可能であり、それどころか日常的に愛用するものも多いが、それにたいして代金が支払われている割合はまだまだ少ないということがあるように、支払いは利用者側の善意にまかされざるをえないということだ。ソフトの場合、それでもなんらかの歯止めをかける工夫がこらされているためにやむをえず払うことになる場合があるけれども、シェアテキストのようにいちど情報が読まれてしまえばそれほど反復使用されることが多くないようなものに利用者の善意を期待するのは、やや無謀かもしれないという思いが消せないのである。ましてもともと高額の専門書の場合など、書物と同じ対価を設定することはむずかしいのではなかろうか。これから具体的な検討を要する問題であろう。

 とはいうものの、こうした〈デジタルテキスト〉(家辺氏の用語)の可能性は原理的に有用かつ必要であり、出版社としてもペーパーの出版物だけでよしとする従来の考え方から一歩すすめて考えていかなければなら

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[未来の窓19]

専門書取次の危機

 出版界とは不思議なところで、年間売上げ一千億を軽く超える大手出版社があるかと思えば、一千万円にも満たない小零細出版社も存在しうる。企業規模がかならずしも出版社の存在理由とステータスを決定しないところがミソなのだが、かと言って両者が平和的に共存しているわけでもない。そこには歴然と経済的な、また待遇等における格差が存在する。しかし出版という仕事は、どれだけの部数が売れたか、売上げがどれだけあるかということにのみ帰着するわけではない。なにがどのように読者に受容されたか、どれだけの評価が得られたかが一番の問題なのだとわたしは思っている。売上げはおのずとついてくる、と言いたいところだが、どっこいそうは問屋が卸さないのが昨今の異常とも言える出版不況なのだが、だからこそ出版の姿勢が逆に厳しく問われる時代だとも言えるのではないだろうか。

 そんななかで取次業というのは、同じ出版業界に属するとはいえ、基本的には取扱い量をモノサシとせざるをえない業種である。日販とトーハンという二大取次が全流通量の七割以上を占めるとされ、しかもその比率はますます高まる一方であるこの業種では、出版社のようにその気さえあれば簡単に参入できるというわけにはいかない。ここしばらく新たな取次会社が設立されたことがないことをみても、この業種がスケール・メリットと信用をいかに必要としているかがわかるだろう。取引上の豊富な経験とさまざまなノウハウの技術が積み上げられてはじめて機能するのが取次の仕事であるとすれば、優秀な人材やしっかりした設備、さらには出版社との取引関係の確立がまず必要になるのであり、やる気があるだけではなかなか実現できないのが取次の仕事なのである。

 こんなあたりまえのことをいまさら言ってみても仕方がないのだが、出版社にとっては現在の構造不況のなかで既存の取次各社の動向に注意を払わなければならなくなってきた。これまでのように、自分たちが企画する書籍の製作と販売に専念していればいいというものではなくなってきた。取次会社といかに協力しあえるかということも出版社にとって考えにいれておかなければならなくなったのである。

 そんな情勢のなかにあってわれわれ中小の専門書出版社にとって心配の種になっているのが、専門書取次としては中心的な存在たる鈴木書店の経営危機の問題である。すでに業界紙その他で明らかになっているのでもうオープンにしてもいいと思うが、今回はじめて取引関係にある専門書出版社から経営立て直しのための役員派遣がなされることになった。みすず書房前社長の小熊勇次氏が専務に、岩波書店営業担当常務の坂口顯氏が常務に、この八月末の臨時株主総会を経てそれぞれ就任した。この態勢がどういう結果をもたらすものになるかはこれからの問題だが、これに先立って「鈴木書店の新たな飛躍に向けて」という文書が「出版社有志一同」の名のもとに公表された。要旨は以下の通りである。

「(前略)現在未曾有の低迷下にある日本の経済は、返品率の激増をはじめ様々な形で鈴木書店に非常な苦戦を強いているという現実をも直視しなければならない。加えて業界内の競争激化は、専門取次としての鈴木書店の活動に深い影を投げかけている。」

「われわれは鈴木書店のこの窮状を座視することは断じてできない。なぜなら鈴木書店の専門取次としての存在は、良質な出版活動を根幹において支えるものであるからだ。万が一にも鈴木書店が膝を屈するような事態が生じるならば、それは直ちに良質な出版活動に携わる版元・書店の営業活動に支障を来すことになる。そしてそれが日本文化に深刻かつ決定的な打撃を与えることも確実なことだからだ。」

「(前略)われわれ専門書出版社は、これまでの長年にわたる鈴木書店のご厚誼を省みて自ら襟を正し、何よりも時代の要請に真に応える積極的な出版活動に専念することを誓うとともに、鈴木書店に対して経営の抜本的な改善となおいっそう活発な営業活動の推進を心より要請せずにいられない。

 われわれ専門書出版社は、同様に苦戦を強いられているけれども、鈴木書店の再生と新たな飛躍に向けて、できる限りの物心両面に亘る支援を行う所存である。」

 このような声明文が出されること自体、きわめて異例のことであるが、われわれのような中小の専門書出版社にとって鈴木書店の存在はそれだけ重要かつ不可欠であることの証拠である。端的に言って、鈴木書店の行き詰まりはわれわれ中小版元にとっては死活問題なのである。一部には出版社の人間が取次業務のことがわかるのか、と疑問視する向きもないではない。しかし、今回の版元の経営参加の意味するものは、鈴木書店の健全な存続を第一義的に考えた、むしろ積極的な版元の意志の表われと考えたほうが生産的なのではないか。 一部の業界紙でこの問題をめぐって誤解を招きかねない記事が出たことは非常に残念なことである。新役員の仕事がまだ明確になりようもない段階から、社員のリストラだとか出版社との取引条件の見直しだとか、憶測でしかない記事がつまらない憶測をさらに呼び寄せてしまう。すべては鈴木書店をいかに再生するかという一点にかかっているのだということを見失わないようにしなければならない。それ以外に版元が介入する必要もなければ余地もないのは明らかではないか。

 創業者の故・鈴木真一氏の遺志をつぎ、専門書という一見すると非効率なジャンルを専門的に引き受けてきた鈴木書店のありかたは、大取次の売上げ中心主義の姿勢からはなかなか出てこない立場の選択であり、だからこそ良質の出版文化を支えようとする志の表明であったはずである。出版文化の足を引っ張ろうとする低俗さと安直さを指向して恥じない出版社が数多く存在する厳然たる事実が一方にあり、そうした出版社がそもそも大取次指向なのにたいし、われわれ専門書出版社は鈴木書店を中心になんとか販路を確保することをめざしてきたのであって、そこに出版活動を通じて文化のさらなる発展を望む専門的な著者と読者を結ぶ回路がかろうじて築かれてきたのである。文化とはいつでもこうしたすぐれた少数者のたゆみない努力によって形成されてきたのであり、このことはおそらくいつの時代にあっても変わることはない。鈴木書店の再起を切にのぞむ理由である。

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[未来の窓20]

人文書に未来はあるか

 小社もくわわっている人文系専門書出版社の会である人文会が、ことしで三十周年になるのを記念して『人文書のすすめII――人文書の流れと基本図書』を刊行した(取扱いはみすず書房)。出版社の任意団体である会が共同でこうした出版物を刊行すること自体、きわめて異例なことである。

 人文会では二十周年のときにはじめて『人文科学の現在――人文書の潮流と基本文献』を刊行して以来、二十五周年には『人文書のすすめ――人文科学の動向と基本図書』をまとめるなど、五年おきにこうした人文書マニュアルとでも言うべき出版物を提供してきた。さいわいにして初回のときに新聞その他が好意的にとりあげてくれたこともあって、こういうものとしては非常に好評であった。一般読者から意外なほど注文が多かった。もともと書店や取次、図書館など関係団体やマスコミ関係者などに配布するのが目的であったから利益など考えていなかったにもかかわらず、二度にわたる重版のおかげで製作にかんする費用が浮いてしまったことが思い出される。

 通常の出版物がなかなか重版にならず、したがって利益も出にくいのに、こうした利益を度外視したものが売れたということは、定価が相対的に安かったこともあるが、専門書でもなんとか売れるものを考えてきたはずのわれわれ専門書出版社にとって大いなる皮肉な現象であったと言わざるをえない。やはり人文書というものについての一般的なマニュアルが存在しなかったという事情によるのだろうが、みごとに盲点をつかれたわけである。

 二冊目の『人文書のすすめ』は残念ながら初回ほど評判にはならなかったが、内容的には前回以上の質量を誇ってよいものであった。そのポイントのひとつは機関誌「人文会ニュース」で継続的に掲載してきた「人文書講座」を大幅に拡充して、有力な専門家によるそれぞれの学問の新しい動向と読書案内が読めるようになっていたことである。さらにもうひとつのポイントは、人文書の大項目のひとつとして従来の「哲学・思想」「心理」「宗教」「歴史」「社会」「教育」のほかに「批評・評論」をあらたにくわえ、それにかなり大きなスペースを割いたことである。

 わたしは当時、小社の人文会担当者としてこの試みを積極的に提唱し、推進した覚えがある。カントの『純粋理性批判』はいまでこそ哲学の専門書以外のなにものでもないように思われていようが、その発表当時は、純然たる哲学書というよりは既成のドイツ講壇哲学にたいする「批判」として批評的に提出されたことを考えてみるべきである。新しいアクチュアルな思想はかならず既成のジャンルを根底から疑い、ジャンルをうち壊すようにして出現するものである。ある意味では、古いジャンルを解体し、新しいジャンルを生み出すこともしばしばある。その点では「現代思想」とひろく呼ばれているものとかぎりなく近いと言ってもよい。そうした観点からみるならば、「批評・評論」というジャンルは、これまでの六つのジャンルに追加されたもうひとつのジャンルというのではなく、むしろそれらを横断し連結し統括するもっとも「人文書」的な本質をもったジャンルなのである。したがってこのジャンルが時代の流れをきわめて敏感に反映するものであり、学問研究の新しい動きとともに流動性に富んだジャンルであることは、こうした意味からすれば当然のことなのである。

 今回の『人文書のすすめII』もジャンルにかんしては基本的に前回の試みを踏襲している。ただ残念なのは「批評・評論」ジャンルの分類の中項目が五年前のままだということである。このマニュアルに選ばれた書目が書店の人文書コーナーの設置にある程度利用されることを考えるならば、もうひとつ工夫があってもよかった。

 さきほど述べたように、人文書の尖端部分としての「批評・評論」はたえず更新される学問研究や思想的冒険の見本市のような場所であり、ときには一冊の重要な書物の出現によってひとつの中項目ができあがってしまうような事件が起こる可能性の場所なのである。言うまでもなく、そこでは知のパラダイムチェンジが起こりうる。中核になる書物の出現によって、これまで曖昧かつ一面的ななかたちでいろいろな項目に分類されていた他の関連する書物がひとつの切り口のもとに再結集させられるのである。たとえば、最近の批評で言えば、冷戦後の世界経済のグローバリゼーションを反映したポストコロニアル批評の多様な動き、カルチュラル・スタディーズの動向などはそれぞれ十分にひとつの中項目として成立しうる思想的インパクトをもっている。こうした中項目の設定によってこれまで別の項目に組み込まれていたか、どこにも場所を与えられていなかった重要な書物が浮上することになる。このあたりの新しい潮流をできれば大胆に組み入れてもらいたかった。なにしろ「人文書」は鮮度がいのちなのであるから。

 まあ、こんなないものねだりのようなことはこのさいこれ以上は慎もう。いずれにせよ、どんな専門家でも「人文書」のすべてを知り尽くしているひとは存在しえないし、書店の現場で一定以上売れなければ、こうした人文書マニュアルのようなものも所詮マニアックな知のカタログになってしまう危険は避けられないのである。

 あらためて「人文書」とはなにか、その現在と未来はあるのかという問題はたしかに回答不能にせよ、何度でも提起されてしかるべきであろう。じつはこんなテーマで先日、人文会からお呼びがかかって出版社、書店それぞれ二人ずつ出席した座談会があった。その模様はつぎの「人文会ニュース」に掲載される予定だそうだが、わたしとしては書物という形態がなくならないかぎり、専門書=人文書の可能性は当分はなくなりようがないというのが結論である。わたしの考えるその具体的な方法論は、本誌七月号の「編集技法としてのテキスト処理」および、それをさらにくわしく論じた別稿(*)があるので、興味をもっていただける方は参照していただきたい。

*「本とコンピュータ」6号の拙稿「出版のためのテキスト実践技法序説」。

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[未来の窓21]

出版の原点へ

 出版不況が喧伝されてすでに久しい。出版界の人間が集まると返品率が五〇%を超えたとか、どこそこの出版社が危ないといった式の話でもちきりになる。わたしの友人知人にも物書きや研究者が多いが、そちらへもいろいろな社の編集者をつうじて出版不況の情報が具体的に伝わっているらしく、おまえのところは大丈夫かとなにかと心配してくれる。ありがたいことである。しかし専門書・注文制出版社というのはあらかじめ禁欲的であることによってこうした事態の先取りをずっとまえから引き受けてきたところがあり、自慢ではないが、この点にかんするかぎり、時代のほうが追いついてきたというにすぎない、と答えることにしている。

 出版は不況につよいという思い込みが出版界にはこれまでかなり根づよくあったらしいが、どうやらそうした思い込みもここへきてその神話性が明らかになりつつある。今回の中央公論社の読売新聞社による吸収、子会社化(中央公論新社と名称変えになる)という衝撃的な事態をうけてますますその感を深くするひとも多いにちがいない。

 中央公論社といえば、わたしなどよりもっと年配の知識人や業界人には複雑な思い入れがあるはずである。岩波書店の「世界」と中央公論社の「中央公論」という二大総合雑誌が日本の進歩的な言論界をリードしたのは敗戦直後から六〇年代末期の大学闘争にかけての二十数年間ぐらいのことであろうか。わたしのような戦後生まれ世代にとっては、「世界の歴史」「日本の歴史」にはじまり「世界の名著」「日本の名著」、そして中公新書として結実してくる、高度に啓蒙的で良質かつ廉価な教養書を供給してくれる信頼のできる出版社というイメージのほうがつよい。こうしたシリーズが日本の出版文化と読者層の質をどれほど底上げしてくれたかを考えるとき、ことは一出版社の衰退にとどまらない問題を提起していることがわかる。 「朝日新聞」十一月九日号夕刊に元「中央公論」編集長の粕谷一希氏が「中央公論社を惜しむ」という一文を寄せている。そこで粕谷氏は中央公論社の歴史をふりかえりながら、この出版社がはたしてきた役割と意味についてふれている。そこでも述べられているように、出版社とは主宰者に人を得ることができるかどうかだという指摘はまことに重いものがある。どれほど名声と歴史のある出版社であっても、しょせん出版という仕事は手仕事であり気の入れ方によって結果が左右される仕事であって中小企業的な規模の業種である以上、そこに人を得ることができなければたちまちその基盤も崩壊することになる。中央公論社の場合も、嶋中鵬二氏の死去にともなう新たな主宰者が出現しなかったということになるのだろう。あるいはそれ以前からの経営状態の悪化がどうにも建て直しのできないところまですすんでいたからなのかもしれない。いずれにせよ、こうした良質な出版社のひとつが時代の波に押され事実上の倒産にたちいたったことは、昨今の不況の根深さを示すとともに、出版業そのものが大きな転換期にさしかかっていることを象徴するものであると言えよう。

 粕谷氏もさきの「朝日新聞」での一文の最後につぎのように書かれている。

「現代は解体と統合の時代であるという。日本の解体現象は中央官庁や金融界だけではない。出版界も再編の波が拡がってゆくかもしれない。週刊誌時代、コミック時代、情報時代は、人間の品位を失わせ、人間の知性や思考能力を低下させる傾向がある。/古典的出版社の没落が、日本語の衰退、知性と品位の下落につながらなければ幸いである。」

 この警鐘をどのように受けとめるべきだろうか。出版社の社会的使命という問題と、出版社といえども一企業であり企業防衛という見地から売れるものを優先させるべきであるという論理との葛藤はますます深刻であり、なかなか解消できる問題ではない。しかし昨今の状況は、これまで売れた本や雑誌でさえもいままでのままではもはや売れつづける保証がどこにもないことを示唆している。売れ行き優先のシステムが転換されなければならないことは誰の目にも明らかになりつつある。日販、トーハンという二大取次が「量から質への転換」をうたいだしたのも理由のあることなのである。  しかし、そうは言っても、すくなくとも良質な書物が商品としてはむしろそんなに売れないものであるという厳然たる事実をあらためて認識しなおすことが肝要である。これは日本あるいは日本語というマーケットを考えたとき、必然的に出てくる結論である。そうすると、おのずからでてくる問題は、出版における適正規模とはなにかということになる。これは日本の出版業界が、出版社・取次・書店それぞれにおいて必要以上の過剰生産・過剰流通・過剰在庫をかかえこんできたことと関連する。それだけ過剰な業量をこなさないと必要なアガリが得られないという構造自体がこれまでの日本の出版業界の成長を支えてきたわけだが、この仕組みのもつ矛盾がここへきて完全に露呈したと言わざるをえない。それだけの無駄を吸収する余力が出版業界にはもはや存在しなくなったのである。ある取次の大幹部が、出版社の出す書籍に力がなくなると業界全体が縮小均衡路線に向かわなければならないと言っているのは一面の真実であるが、とりあえずはこれまでの肥大しきった過剰生産・過剰流通・過剰在庫という無駄を除去するところから手をつけていかなければならないのであって、一時的な縮小均衡をおそれてはならないと思う。そのことによって人員削減ないしは待遇の劣化を招こうとも、これまでの日本経済のバブル性が異常であったことを考えれば、むしろこれは健全化なのではないか。

 わたしはなにも一律に縮小均衡すべきだなどと言うつもりはない。このことは誤解されないためにも何度でも言っておく必要があろう。以前、アメリカの出版社を訪れたときに印象に残ったことがある。そこは社員数百人をかかえる一流の出版社であったが、出版にたずさわる人間というのは本が好きでやっている以上、ほかの業種とくらべてかなりの薄給にもかかわらず喜びにあふれて仕事に参加しているという誇りをもっていた。出版とはそもそもそういう種類の意志的な仕事だったはずである。出版の原点に立ち戻らなければならない時期になったような気がする。

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