未来の窓|2001

 
[未来の窓46]

新世紀と未來社五十周年の年頭にあたって

 あけましておめでとうございます。そして新しい二十一世紀をともに迎えられたことを読者の皆さんと喜びあいたい。

 さて、二〇〇一年。ジョージ・オーウェルの未来小説『一九八四年』('49)やスタンリー・キューブリックの未来映画『二〇〇一年宇宙の旅』('69)といった近未来に材をとった小説や映画を読んだり鑑賞したりしていたときには、そんな時間が現実に到来するなどということにはまだリアリティを感じられなかったことをいまさらながら思い出す。しかしそうした時代がすでに過ぎさり、あるいはいままさにやってきたのである。東京オリンピックやオイル・ショック以後に生まれた若い世代にはなかなかわかってもらえないかもしれないが、フィクションの時間が徐々に現実にちかづいてくるにしたがい、ある部分は真実味を増し、ある部分はちょっとイメージとちがってきたな、といった経験は時間認識の厚みとなってその時間を迎えるわれわれの意識に反映しているはずである。書物や映像で育ってきた人間にとっては、あまりにお手軽に情報や知識を入手し交換できるインターネットや携帯電話によるヴァーチャル・リアリティや疑似的な人間関係のありかたに、いまひとつ不安定なものを感じてしまうのはいたしかたないところである。なんとか書物の形式で未来への夢や世界についてさまざまなことを考える契機を与えられるようなものを作っていきたいとあらためて念願しているところである。

 出版界の不況は今後も長期化することはおそらく間違いないだろうと覚悟すべきであるが、それでも書物文化は当分は廃れることはありえない、というのがわたしの譲れない信念である。そうしたなかでことしは小社創立五十周年にあたる。さきほどの話と同じで、二〇〇一年が非現実的だったように、以前には創立五十周年というのも非現実的だったのである。まことに時間の経過には驚かされるが、この新しい世紀の最初の年が小社にとっても大きな節目の年になるわけであり、停滞を打ち破るきっかけの年としたい。

 この機会に小社としては、あらためて出版とはなにか、出版社はこれからどうあるべきか、著者と読者はもちろんのこと、書店、取次、印刷・製本・用紙その他おおくの取引先との関係はどうあるべきか、といった実践的で具体的な問題について再考していく必要があると考えている。とりあえず創立五十周年を記念していくつかの試みを予定している。

 そのひとつは、これまでも五回にわたって刊行してきた社史『ある軌跡』の五十周年版を作成する予定である。これまで十五周年、二十周年、二十五周年、三十周年、四十周年と五回にわたって発行してきた社史であるが、今回は五十周年ということもあって、従来のものよりいっそう充実した内容にしたい。社史という性格上、小社の公私にわたる歴史について現時点での総括的視点からの整理と展望が必要になるだろうし、細部にわたる事実の確認や必要事項の記載漏れなどのチェックもできるかぎり厳密になされなければならないだろう。そしてなによりも四十周年版のときに試みた、それぞれのジャンルの優れた執筆者たちの小論文形式による学問の未来にたいする展望や新たな可能性への論及を、今回もなんとか実現したい。とりわけ今回は二十一世紀の学問や知のありかた、学者や研究者、知識人であることはどういうことかという、新しい知の地平へむけての自己言及的な問いをふくむものになるだろう。それは、小社のような出版社がこれからも存在理由をもつことができるかどうかの深刻な問いをもふくむものになるはずである。

 もうひとつ、これと関係する面もあるが、これまで小社が刊行してきた約二六〇〇点余の書物のなかで、いまも要望のある大型本の復刊を実現したい。一例としてあげれば、宮本常一著『瀬戸内海の研究』は一九六五年刊行の大著で、これまで創立四十周年のときに少部数を記念復刊したことがあるが、さいわいなことに高価(二万八千円)にもかかわらず短期間で全部売れてしまい、その後も引き合いが続いている。地図の折り込みなど、手のかかる造本ということもあってなかなか再刊できないものであったが、こうしたたぐいの書物をできれば復刊して読者の要望に応えたい。数は相対的に少なくても、強い要望に応えられるようにすることも出版社の義務と考えているからである。

 さらにこれらの復刊書もふくむ記念フェアなどを特定の書店でおこなうことができればありがたい。不況の波をもろにかぶっている書店がどこまで協力していただけるか、なかなか現実は厳しいところであるが、無理のないところでなんとか実現できないものかと期待している。

 そしてもうひとつ忘れてはならないことだが、新しい世紀の出版らしい企画の実現を図りたい。読者の寄稿もふくめた「書物と私」をめぐる書物文化論のシリーズ、コンピュータにかんするそれぞれのかかわりを具体的に述べてもらう「コンピュータと私」シリーズをなんとか実現してみたい。これらはいずれも出版文化の根底に触れる問題を提起してくれるはずであり、同時に今後の出版のありかたを指し示してくれるのではないかと期待できるからである。そしてこれからの読者を育てることにいくらかでも貢献できるのではないかと考えているからである。

 いま出版社は出版不況という経済問題だけでなく、もっと深刻な危機にも同時にさらされている。すなわち、読者の急激な減少という事態である。これには小社もふくめて出版社の責任はきわめて大きいものがあると言わざるをえない。比較的安価で質のよい書物の普及という基本的な努力を怠ったことがすくなくとも今日の読者減少の一因を成していることは疑いない。小社などもかつては演劇関係書(未来劇場、未来一幕劇シリーズ、てすぴす叢書)や社会科学ゼミナールなどの小冊子、ハンドブックなどを通じてささやかながらも出版界の読者開拓の一翼をになってきた。しばしば専門研究者の口から、若いときは未来劇場のお世話になったとか、社会科学ゼミナールで基本的な学習のいくつかをさせてもらった、などと言われることがあって驚かされることがある。その意味からも新しい読者の開拓への努力に遅まきながらも取り組みたいと思うのである。

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[未来の窓47]

文化はケータイできない──書物の世界の再構築を

 新年と新世紀を迎えても、わたしの憂鬱と不機嫌はいっこうに解消されない。昨年末から新年にかけていやな事件がつづいており、人心がすさんでいることの結果でもあろうが、この二十一世紀はちっとも期待できるような時代の幕開けではなさそうだ。年末の東京都世田谷区で起こった一家四人惨殺事件は、たまたまクルマでよく通る道沿いの比較的近所の事件でもあり、こうした暗い時代の象徴のような事件である。警察の捜査官によれば犯人外国人説もでているぐらいに、その手口の残忍さと人間の生命の尊厳への軽視が従来の日本人の死生観とはあまりにもちがいが目につくそうである。もしこれが若い日本人による殺人事件だとしたら、この国の若い世代に起こっている精神的荒廃はいまやとてつもないものになっていると考えなければならない。つい先日には各地の成人式記念式典での新成人たちの幼稚な暴れぶりが報道されたが、こういう世代が担っていくことになるこの国の将来はいったいどうなるんだろうと思ってしまう。

 こんなことをあげつらっていたらキリもないというのがこの国の社会の現状であろう。それにしても電車という閉ざされた公共空間での破廉恥ぶりで、わたしなどが気になってしかたないのが携帯電話のことである。いまや誰でも持っているのがあたりまえになってしまったケータイ(いまではこう呼ぶのが常識になっているそうだ)を人目をはばからずに電車内で話しているのは、なにもアホな若造ばかりではない。いいトシをしたおじさんがけっこう使っているのである。わたしだっていちおう携帯電話ぐらいは持っているが、電車内でコールされるぐらい恥ずかしいことはないと思っているので、ふだんはかけるときしか使わない。渋滞中のクルマなどのときには携帯電話はたしかに便利なのでツールとして役に立つことは理解しているが、ふだんはそんな必要はあまりない。四六時ちゅう監視されているような生き方だけはしたくないと思っているだけだ。

 ところが例の成人式記念式典のときにもそうだったらしいが、いつでもケータイで話をしていないでいられない若者が増えてきている。もちろん話の内容などたいしたことはないに決まっている。問題はこういうかたちでしかコミュニケーションができないということなのだ。いまや話のできないときには簡単なメールで読み書きでのやりとりができるから、電車のなかなどではケータイでメールを読んだり書いたりしているひとが急増している。一心になにかを見つめているその先がケータイなのだ。ましてケータイでEメールができるようになったからなおさらである。こういうコミュニケーションしかとれないからこそ、さまざまな凶悪犯罪や幼稚な行為が起こるのである。

 こういうひとたちがかつてなら雑誌でも文庫でも、あるいはせめて漫画でも読んでいたのだ。いま電車のなかで新聞はともかく、本を読んでいるひとを見かけることがずいぶん少なくなった。中身を問わなければ、いままでだったら車内の二、三割のひとはなにかを読んでいたのではないか。それがいまでは一割にも満たないだろう。わたしなどの世代ぐらいまでは活字世代で、いつでも時間のあるときにはなにかを読んでいないと損をするような気がするものだ。だからいまでも若者でなにか本を読んでいるひとを見かけるとホッとしてしまう。

 書物という形態(ケータイではない、念のため)は、なんといっても知識をコンパクトにまとめた最強のハードウェアであるというのがわたしの基本認識である。ケータイのように一過的な情報交換のためのツールをいくら使っても、書物から得られる確固とした知識や情報は取得できない。そんなことはわかりきっているのだろうから、ここでわざわざ指摘するのも憚られるぐらいだが、それでもこうしたその場かぎりの生き方をしてしまう若者たちをどうしたら書物の豊かさに目を向けさせるように導くことができるだろうか。教育行政の問題もさることながら、NTTをはじめとするケータイ開発産業の売上げ至上主義にも若者白痴化の責任はおおいにあるはずだ。ケータイ文化は文化ではないし、そもそも文化はケータイできないものである。

 こんなことを書くのは、いかにも書物という古い形態にこだわりつづけている自分たちの業界の不勉強と努力の足りなさを棚上げしての物言いに映るかもしれないが、これは書物という形式をとおしてたえず新たな知や感動や価値の魅力を発見し、発掘し、広めようとしてこなかったわれわれ自身の責任であることも間違いない。書物というツールがけっして価値を失なうものでないならば、いまからでも遅くはない。インターネットやケータイというこれまでに存在しなかったライバルが現われただけの話であって、こうした新しい環境を取り込みなおした書物の世界を構築しなおす必要があらためて浮上したというにすぎない。

 いつも新しい年を迎えると、現実と理想とのあいだのジレンマに不機嫌になってしまう。ことしは新世紀という節目の年でもあり、公正取引委員会による再販制度への最終方針も出る予定の年だからなおさらかもしれないが、どうやらやるべきことだけは見えてきたようだ。

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[未来の窓48]

東京国際ブックフェア初参加への期待

 本欄の前々号で小社の五十周年記念についての抱負をいろいろと述べた。社史、記念復刊、記念フェア、新企画といったアイデアについて触れたが、ここでさらに別のプランがもちあがってきた。

 そのひとつは、この四月十九日(木)から二十二日(日)の四日間にわたって東京ビッグサイトでおこなわれる東京国際ブックフェアに、初めて単独ブースを出すかたちで参加することである。人文会という専門書系出版社グループで参加したことが一度はあったが、これまでも何度かイベント会社から誘いを受けていたのに参加を見合わせていたのは、経済的理由もさることながら業界内部のお祭りにはあまりかかわりたくないという小社創業以来の_¨伝統¨_があったからである。再販問題のからみもあるせいだろうか、一昨年あたりから自社ブースでの小売販売価格への拘束がなくなってきたこともあって一般読者が多数参加するようになり、真の意味でオープン化が進んできた。小社のように日ごろ読者との接点がなかなか得られない出版社としてはこうした機会は、なかばお祭りとはいえ、ある意味で貴重なデモンストレーションと交流のチャンスととらえなおそうと思う。読者はどこにいるのか、という日常的に感じているギャップをなんとか埋める方途を探りたい。その意味で個人的にもできるだけ時間を割いて会場でのいろいろなひととの意見交換とか交流にのぞみたいと考えている。

 今回はなにしろ初めての試みなのでどこまで準備できるのか、どうしたらお客さんをうまくナビゲーションができるのか、よくわからないところがある。しかしせっかく本好きの読者が集まるのだから、在庫僅少本セールとかシリーズものの特価セールのようなこともできればしたいと考えている。なにしろ近傍のホテルに宿をとり、リュックサックをしょってまで本をまとめ買いに来る読書人が多数集まるという、いまどき得がたい読者との交流のチャンスなのだから。今後の出版界の命運をにぎるこうした読者の存在をしっかり目に焼きつけておきたいものである。また書店との商談会(市会)というかたちでブースでの書店との直接売買交渉も可能とのことで、五十周年ということもあり、ふだんはやれないようなサービスも考えている。

 そのためもあって前々回で予告した宮本常一著『瀬戸内海の研究』という大著をこのときにあわせて特別復刊することに決定した。五十周年記念復刊計画の第一弾というわけで、読者からの要望も強いものだからである。秋にはこのほかの記念復刊も考えているのだが、『瀬戸内海の研究』だけでも東京国際ブックフェアに間に合わせたいと思う。本誌の読者をはじめとしてさまざまな読者、さらには著者や書店人との出会いをおおいに楽しみにしているところである。

 もうひとつの試みとしてぜひこの機会にぶつけたいと思っているのが、わたしがこの間とりくんでいる[出版のためのテキスト実践技法]のマニュアル本である。昨年から「週刊読書人」で隔週連載している本作りのための実践的なマニュアルに大幅な増補と整理をくわえたものをとりあえず著者向けの小冊子にして刊行し、読者の感触を確かめたいと念願している。今回は時間のつごうで著者のための「執筆篇」だけしか間に合わないが、これはつぎに編集者のためのより高度な「編集篇」の刊行を予定しており、あわせて[出版のためのテキスト実践技法]全篇として読んでもらいたいと思っているものである。

 この[出版のためのテキスト実践技法]は今後の専門書出版において著者と編集者をもまきこんだ革命的技法として、わたしが年来考えかつ実践していることの広く業界へむけての提案なのである。一種のハウツーにはちがいないが、著者が原稿執筆(入力)にあたって心がけてほしいポイント、する必要のない原稿整形の努力の無効性を具体的に明らかにし(執筆篇)、また編集者には最小限必要な原稿処理の技法とそのためのツールを用意し、新しい編集者像を提示するもの(編集篇)である。この技法の一般化によってすくなくとも専門書出版はこれまでよりもはるかに安価に、またスピーディーに実現するようになるはずである。

 こうした実践的なマニュアルがこれまでまったく刊行されたことがなかったことにわたしはかねがね疑問に思ってきた。最近のパソコンの技術革新によってようやく可能になった面もあるからやむをえなかったのかもしれないが、とにかく、言われてみればあたりまえのことでも、なぜそうなのか、そうでないのかを出版の編集現場から著者に知らせることをしなければ、著者はどうするべきかを知らないまま、とりあえず自己流で原稿執筆にいたらざるをえない。だからこれはパソコンを使っての原稿入力にあたっての交通整理したものであると言ってもさしつかえない。

 ただ、これはたんなる業界用のマニュアル本ではない。むしろこれをもとに多くの著者(およびその予備軍)や編集者が実践的に活用し、より使いやすくわかりやすく仕上げていくためのたたき台なのである。LINUX(リナックス)という無償のオペレーティングシステム(OS)がウィンドウズの独占支配を打ち破ろうとするのが支持されているように、この技法は啓蒙の書ではあっても、なにかを独占しようとするものではまったくない。知識や知的な作業は独占されるべきものではない。一般に公開され、著者もふくめた業界の共有財産として多くのひとたちの知が結集されるようなものになっていければそれでよしとされるべきなのである。すくなくともそのあかつきには、世の中に出るべきものはもうすこし楽に出版されることになり、出版の世界はいまよりは価値のある本が多くなるだろう。

 そんな願いと期待をこめてわたしの[出版のためのテキスト実践技法]はいま最後のまとめにかかっている。いまや読者をまきこんでの出版界の最大の祭りになりつつある東京国際ブックフェアだからこそ、この技法書がそこへむけてリリースされる必要があるのかもしれない。小社の五十周年でもあり、長年そのなかで活動してきた出版界になにがしかの貢献をしうるチャンスである。いそがしい春の到来が待ちどおしいこのところである。

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[未来の窓49]

カード型CD-ROM製作という試み

 本誌が刊行されるころには公正取引委員会による再販制への最終判断が下されているのだろうが、目下のところではどうも問題は先送りになりそうな気配だ。この国では総理大臣はじめ問題をあいまいにやり過ごすのが通例となっている。株価の下落はもはやとどまるところを知らないし、不況感はとことん蔓延してしまい、脱出路が見出せそうもない。それは出版界とてなんら変わるところがないのはあいかわらずだが、それにしても本が売れない。どこかにほんとうに本を読みたいと思っている読者はいるのだろうかとさえ考えてしまう。そんななかでふと松浦寿輝氏のつぎのような文章に出会ってすこしうれしくなった。

《新世紀の読者にわたしがいちばん手渡したいと思うものは、実を言えば「書物」というこの物質的な形態それ自体──「書物」のページとタイポグラフィーの物質性の魅惑に反応して震える感性それ自体なのである。》(「現代詩手帖」三月号)

 松浦氏は詩人としての立場からつぎのようにつづける。 《実際、「現代詩」とは「書物」のことでなくていったい何だろう。(中略)「現代詩」にとって決定的に重要なのは、どんな版型(判型が正しい──筆者注)、どんな活字、どんな本文紙、どんな表紙、どんなノンブルの入れかた、等々、無数の問いによってかたちづくられる「書物」の物質感なのである。》

 ここで松浦氏が指摘している本の物質的側面こそが、どんな情報流通にも対抗しうる書物形態の魅力なのである。目前を流れ消失してしまうデジタルデータの情報にたいして、書物の活字がその物質的側面とともにもっている独特の手ざわり、抵抗感が情報をたんなる情報に終わらせないで、ことば独自のありかたを指し示すことになる。消費されない言語こそがなによりも必要なのだというように。書物形態をつうじてもっとも大事なもの、残され伝承されるべき文化が息づいているはずだというのは納得できる。それを松浦氏が〈詩〉と呼んでおきたい気持ちはよくわかる。

 もっとも松浦氏の文章は、このあと書物の「ペーパーレス化」、現代詩の衰滅化へといちじるしくペシミスティックな方向へ向かっていくのだが、わたしがいまやろうとしているのはそれとは反対のことになるかもしれない。

 というのも、この四月におこなわれる東京国際ブックフェアに間に合わせるために作っている自著『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』の付録として、またフェアで配布しようとして準備しているものが、出版目録のデータと出版・編集関連のコンテンツを収録した名刺カード型CD-ROMだからなのである。これは編集部のI君の発案で、まだどこも使っていないはずの新型CD-ROMなのである。通常の8インチ型のCD-ROMとちがってこのカード型は小型で35MBと容量も小さいのでいろいろ工夫が必要であるのだが、とりあえず入れたいと思っているものはなんとか入る。こうした新しい試みも小社五十周年記念の一環であり、おおいに興味をもっていただければさいわいである。東京国際ブックフェアでは本を買ってくれたひとには希望されれば無料で配布したいと思っている。

 このCD-ROMのミソは、ひとつは出版目録の基本データが入っていることであり、フリーワード検索やジャンル別検索でCD-ROM内の書名、著者名、解説文から該当する書籍を検索できることである。さらにはこれらで検索された書名リストのどれかをクリックするとブラウザが開き、未來社ホームページの該当する書物のページにインターネット接続することができるようにしたことである。これはハイパーリンクという方法でとくにめずらしい仕掛けではないが、こんな小さなCD-ROMからそこまでできるのはちょっと便利ではないかと考えたのである。

 このCD-ROMのもうひとつのミソは、未來社ホームページの「未來社アーカイヴ」にあるようなコンテンツをHTML(Hiper Text Mark-up Language)文書として提供することである。『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』のテキストそのものもHTMLで収録することにした。紙媒体のものにくらべると図版類が省略されているかわりに、相互リンクが可能であって、オンラインマニュアルとして利用してもらえるとありがたい。また、そこで推奨されているテキストエディタなどのソフトあるいはユーティリティのプログラムファイルが圧縮ファイルで収められていることによって、わたしの主張していることを試みてもらえるようにもした。これは容量の問題と著作権の問題もあって、ほんらい入れたいプログラムファイルのすべてが収録できているわけではないが、主要なテキストエディタはすべて最新ヴァージョンを収録することができたし、テキスト関連ソフト・ユーティリティもいくつか収録できた。これに入れられなかったプログラムはこれから未來社ホームページの「アーカイヴ」ページに収録するようにしたいと思っている。

 関心をもってくれた読者、著者や編集者にはどんどん使ってみていただきたい。これを機会に新しい出版のありかたを共同で探っていきたいと考えているところである。

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[未来の窓50]

だれが本を生かすのか

 佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』(プレジデント社)が売れに売れているらしい。この出版不況の時代に、出版不況のよって来たる原因を多方面にわたって取材し存分に切りまくっていく本が売れているというのも妙なめぐりあわせのような気もするが、ここまで言ってくれるとある種爽快な読後感がある。もちろんこれだけの分量の本で問題にすべき箇所には事欠かないけれども、現状の出版界は、かたや物言えば唇寒しの事なかれ主義と、一方では再販問題にたいする対応に見られるような体制順応主義とその裏返しにすぎない徹底抗戦主義とが相俟って、出版界のとどまるところを知らない荒廃が進行しているのだから、佐野氏のような外部の人間からの叱咤は必要なのだ。もっとも知っているかぎりでは、大手出版社のひとたちにはこの本の評判はよろしくない。

 当然と言えば当然だろうが、佐野氏の批判の主要な眼目のひとつは大手出版社の横暴と売上げ至上主義の経営姿勢にあるからだ。もっとも、佐野氏は返す刀で中央公論社や平凡社をはじめとする老舗出版社や中小の専門書出版社のひとりよがりの姿勢についても厳しい批判を忘れない。どちらかと言えば、角川書店や幻冬舎、草思社といったこの不況のなかを独自の戦略をもって生き残ろうとしてきた出版社の努力を高く評価している。たとえば、こんなふうだ。

「失業予備軍をかかえてなお出版文化を言いたてる空想的出版社や、知名度だけはあるが、誰が読むのかわからないような本や、読者をなめきっているとしか思えない企画を連発している大手出版社よりは、少なくとも次代をとらえようとしている角川の方がまだずっとマシだとはいえる。」(本書二一一ページ)

 なにが「ずっとマシ」なのかはともかく、ここで佐野氏が指摘している「空想的出版社」または「誰が読むのかわからないような本」を出しつづけている(のかもしれない)未來社のような出版社も同時に批判の対象になっているらしいことがうかがわれる。ある地方出版社経営者の口を借りて「堅い本一本ヤリの未來社」ではなく、「どんな本でも出す講談社」のようでありたいと言わせているのは、ご愛嬌だと言うしかない。どういうわけでそういうレッテルを貼られているのかよくわからないが、もし外側から見れば未來社が「堅い本一本ヤリ」と見られているのだとすれば、むしろ望むところだ。地方出版社としては「どんな本でも出す」必要があるのだろうが、東京の出版社がみんなそうなったらどうしようもなくなってしまうではないか。堅い本も出すが、やわらかい本も出すというふうに、器用に立ち回れないし立ち回りたくないだけのことだ。

 佐野氏の本を読んでいると、しばしばこういった大手でもなく中小専門書版元でもなく、独立プロ的な出版人(それに書店人、図書館人、ライター、編集者)への熱いシンパシーが感じられるところがあり、それはそれでおおいに結構なのだが、しばしばかれらがもっているルサンチマンをそのまま代弁しているかのような印象をもつ。われわれにだってルサンチマンはあるが、こういう陰口の引用はあまり感心しない。ただ、版元論の最後につぎのように言っているのは全体の文脈のなかでややパセティックな紋切り型のトーンに変調しているように思えるが、やはり首肯せざるをえない。

「いま液状化する一方の状況のなかで、出版社がなお自立して生き残ろうとするならば、自らにつきつけられた抜本的な意識改革の刃を恐れることなく受けとめる勇気をもつことである。そして、自分らがつくる本を待っている読者が絶対にいるという確信と、それをどんな方法をもってしても読者に届けようとする強い意志をもつことではないだろうか。」(本書二一二ページ)

 ここまでのところ本書の出版社に直接かかわる部分にやや拘泥しすぎたかもしれない。さまざまな論点や発言は得がたい資料となっているところも多く、ここまで取材しまとめあげた佐野氏の努力というか不思議な情熱は、「『本』の世界をいわば串刺しに」したかどうかはともかく、やはり多としなければならない。

 ところで本書でもうひとつの大きな論点になっているデジタル化の問題についても言及しておきたい。出版界の現在の〈制度疲労〉について語る者は本の未来についてもそのヴィジョンをなにがしか語らねばならない。佐野氏の基本認識は「プロローグ」においてはやくも示されている。

《いま「本」にかかわる者は誰でも、自分の意志があるなしにかかわらず、デジタル化の波に取り囲まれている。著者も編集者も、デジタル化によって大きな変革期を迎えている出版流通の最低限の仕組みを理解しなければ、もう「本」をつくることすらできない。》(本書一三ページ)

 自称アナログ人間の佐野氏は、オンデマンド出版や電子出版の将来性について理解はするものの、最終的な場面でのみずからの抵抗を隠さない。かく言うわたしだってどれほどパソコンに習熟したとしても、電子本があれば紙の本などなくてもかまわないという一部のひとたちのようには考えない。つまり編集者および出版社というチェック機関の存在を全面的ではないまでも肯定する。本を生かすひとも多くはないが、存在するのだ。

 著者はどんなにすぐれた知識や感受性や特殊能力をもっているとしても、〈編集〉というプロセスを経ないではその知の世界に最終的な構成力を与えることはできない。技術的な処理ひとつとってみても、これまでかかわった仕事において万全な内実をもっていたものは残念ながらひとつもあったためしがない。どんなによくできた原稿でも〈編集〉の目から見たら完全ということは本来的にありえないのである。ここにこそ編集者または出版社の存在理由があるのであって、編集者が〈壁〉や〈権力〉のように感じられるとしたら、こうした試練を乗り越えようとする力や意志が足りない者の言い分でしかないだろう。もちろん、なかにはとんでもない考えちがいをしている編集者もいるから、そんな編集者はさっさと見切りをつけてしまえばいいだけのことである。著者の協力者としての編集者の価値──このあたりについては佐野氏と意見が一致するらしい。

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[未来の窓51]

『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』の反響その後

 この四月十九日から二十二日にかけて東京国際ブックフェアが東京ビックサイトを会場としておこなわれた。以前に本欄でも触れたように、小社はことしが創立五十周年ということもあり、初めての出展を試みた。それにあわせていくつかの新刊書を刊行したが、そのひとつがわたしの『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』であった。たまたま直前の四月十六日の「朝日新聞」文化欄で大きく報道され、付録をかねた名刺カード型CD―ROMを先着三〇〇名にプレゼントするということが呼び水となったこともあって、ブックフェア初日から初参加の小社としては思いがけないほどの来客に恵まれた。『テキスト実践技法/執筆篇』が売れていることはフェアのなかで同業出版社間ではちょっとした話題になったくらいである。当初一〇〇冊持っていったところが、初日の午前中で売り切れになってしまい、急いで取りに行ったほどである。結局、四日間で六九三冊の売上げを記録した。

 この四日間、わたしもデモ実演用として自宅のマッキントッシュのデスクトップ・パソコンとソニーのバイオノートをブースに持ち込み、来客の質問や応対につとめた。「朝日新聞」の記事を見て、これだけのためにやって来ましたというひとだけでも十数人を数えたのは驚きだった。以前にも書いたように、このブックフェアにおいては熱心な読者が全国から集まってくるという情報があって、この目でそうした読者の存在を確かめたいという気持が強かったのだが、その意味では大変に意を強くすることのできた有意義なイベントだったと思っている。

 今回このフェアにあわせて『テキスト実践技法/執筆篇』を急いで仕上げようと思ったのにはいくつかわけがある。現在もひきつづき連載中の「週刊読書人」の隔週連載(いまは[編集のためのテキスト実践技法]と改題して続行中)は、本来はその後につづけている編集篇とあわせて一冊になれば相当にインパクトの強い本になるはずだ、という確信ははやくからわたしにはあった。しかし現在の出版不況を思うにつけ、この連載のペースではなかなか一冊にまとまらないうちに、出版不況のほうがますます泥沼化してしまうのではないかという恐れが強まってきた。連載のうち、四月十三日号掲載予定分までは著者の執筆(入力)のための基礎篇をかねた出版のためのパソコン入門篇のつもりで書いた部分であり、これだけ独立して出版してもとりあえず著者のためには役立つだろうと判断し、不足分を一気に書き上げて東京国際ブックフェアに間に合わせたわけである。なにしろ、出版の原点は著者にあるのだから、著者が出版のための原稿入力の基本的なルールを知ってくれるだけでも業界的にはおおいに意味があるだろうと思ったわけである。しかも著者のためのこの手のちゃんとしたマニュアルをまだ誰も書いていないのだから、業界的にも必要なはずなのである。だからこれはなによりも著者およびその予備軍のためのマニュアルであり、協力要請をかねた啓蒙書のつもりである。

 もうひとつわたしのなかにあったひそかな狙いとしては、世の編集者というものにたいする不信というものが抜きがたくあり、どうせ編集篇とあわせて出しても編集者はそれほど熱心に読まないかもしれないと思っていたことがある。編集者というものはよく言えば一匹狼的なところがあり、あるいは自分の不勉強を棚に上げたがる人種だから、著者のほうから編集者の意識を突き上げるようなかたちでしか多くの編集者はこの本の意義を認めたがらないだろうという予感がした(じつはいまでもまだしている)からである。

 こうした半分ヒネた思いで刊行したところがあるから、いくら朝日新聞の応援があったとしても、すぐにこれほど売れるとはとうてい思えなかった。その意味では、わたしの思い込みもおおいに揺さぶられるところがあった。ブックフェア会場でなによりも痛感したのは、ひとつには編集者のなかに同じ問題意識をもってそれぞれ真剣に実務的に取り組んでいるひとたちがすくなからずいるということ、それから同業者のなかには編集費のコストダウン、仕事の効率化という問題がこれほど切実に共有されていることであった。経営の立場のひと、それも少人数の出版社や編集プロダクション、フリーの編集者と思われるひとたちがやって来てくれて、いろいろ質問されたことにそれぞれのひとたちの出版にかける意欲を感じさせられたのである。

 会場でわたしは何人かの優秀な編集者と知りあえたことをとてもうれしく、心強いことと思っている。そうした編集者たちや見知らぬ読者の方たちからのハガキや電子メールにも熱い共感をしめしてくれるものが多く、この現況をなんとか打開しようという勇気を与えられている。

 そればかりではない。ふつうわれわれのような専門書出版の世界では考えられないような別の世界との接触が始まっている。わたしなどとはパソコンのキャリアがはるかにちがうような専門家との接点ができつつある。たまたまフェアで小著を購入してくれた専門家がさっそく細かい用語の間違いなどの注意をしてくれたし、知りあいになった編集者から教えてもらった鐸木能光という著者の『ワードを捨ててエディタを使おう 第2版』(SCC刊)という本を読んで、ウィンドウズ用のQXエディタというすぐれたソフトの存在を知ったばかりでなく、著者との連絡のなかからあらたに『テキストファイルとは何か?──知らぬでは済まぬ電脳社会の常識』(地人書館刊)という新刊を送ってもらうことなどにより、急速にこの世界のひとたちの姿が見えはじめてきたのである。鐸木氏とは考え方に非常に近しいものを感じている。こうしたひとたちと今後あたらしい世界が築いていけるのではないかという予感もまた楽しい。

 また、神田神保町・東京堂書店では、佐野店長の話によれば、刊行後三週間ほどで四〇部以上売れたとのこと。おそらく単独書店ではいまのところトップだろう。さすがに出版社が集まっている街だ。編集者のなかにもつぎに予定している『出版のためのテキスト実践技法/編集篇』を期待してくれているという声が聞こえてきている。この編集篇はわたしとしても非常に自信のあるものだけにおおいに執筆意欲をかきたてられているところである。

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[未来の窓52]

出版界は崩壊するのか──『出版大崩壊』を読む

 小林一博氏の『出版大崩壊──いま起きていること、次に来るもの』(イースト・プレス刊)が業界人のあいだの話題になっている。前々回に本欄でとりあげた佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』とともに、いま出版界について書かれた本の二大ベストセラーと言ってよい。いずれも出版界の現状と未来についてのきびしい診断とけっして明るくはない見通しを述べていることで共通している。大手出版社による過剰生産が取次・書店をも巻き込んだ過剰流通をも同時にうみだすことによって出版不況に拍車をかけ、ほんらいの出版事業をおおきく歪めてきたことを両者とも指弾している。両者のちがいをしいて言えば、佐野氏が出版界の外部から横断的に、そしてやや思い入れたっぷりに出版のあるべき像を提出しているのにたいし、小林氏のほうは業界事情に精通した内側の人間としての視点から出版界のさまざまな病巣を歴史的・構造的にえぐりだし、具体的な提言をされているところであろうか。

 今回はこの小林一博氏の本からいくつかの論点を引き出してみたい。ただ、いま述べた小林氏の提言のいくつかは理想論に傾きすぎ、実際の出版不況のそれぞれの側面において現実離れしている感があり、実践的な指針としては必ずしも説得的でない。たとえば出版社の決算書の公開などはおよそ非現実的である。と言っても、長年この業界のさまざまな局面において実践的な活動をつうじてきたえあげられた知識と経験に裏打ちされた小林氏の著書から教えられること、示唆されることの多いわたしからすれば、この警鐘の書を論じることは、こちらに興味のあるいくつかの論点を現実の出版経営の立場から斟酌してみるにすぎないのかもしれない。

 ともあれ、『出版大崩壊』の展望するところの最大の眼目は、大手出版社が「新刊書の垂れ流し」をやめることによる出版業界全体の縮小均衡化の必然性である。トータルで現在の年刊六万数千点を三万点以下にすべきであると小林氏は提言する。さらにすべての本を取次―書店ルートで流通させなくてもよいという判断を示されている。また、取次は中小零細版元や中小零細書店にたいする取引格差を是正し、大手出版社や大手書店への優遇措置をやめよ、と提言されている。

 これらの提言にはもちろん大賛成であるが、問題は、大手出版社や大手取次、大手書店がこうした数量の優位性や既得権を放棄したり断念したりすることができるか、ということだろう。おそらく現実はそのようにはなかなか動くまい。なぜならこうした優位性や既得権それ自体が別の優位性や既得権から自己増殖してきたのであり、この無限連鎖をみずから断ち切ることは自殺行為にひとしいからである。利益が利益をうむという構造はなにも出版業界だけに固有のものではなく、よかれあしかれ資本主義社会の必然の論理なのだから、会社が倒産なり大幅リストラの必要に迫られないかぎり、ダウンサイジングというのは現実的な選択肢のなかにははいってこないのではなかろうか。すくなくとも大手出版社の現状から見て、主体的あるいは理性的にこうした縮小均衡化への動きがでてくることは考えられない。

 しかし、主体的な動きとしてはどうあれ、いずれ客観的な要請として業界全体の縮小均衡化は避けがたい事態となるだろう。印刷技術の進歩やインターネットの発達等の複合的理由によって紙媒体による冊子本は唯一絶対のものではなくなった。そうなれば、たんなる一時的な情報価値でしかないような種類の本や雑誌、一度読んでしまえば読みかえす必要のない本、他のメディアに取って替わられることの容易な種類の本は早晩淘汰されるか大幅に減少するだろうからである。これにさらに世代交替にともなう、読書そのものにたいする認識の変化や読書習慣の変化などがくわわって、この変容は加速されるだろう。小林氏の期待は、その意図に反して別の理由から現実のものになるにちがいない。ただ結果としてそうなったときにはもはや手遅れということになりかねないかもしれないのだが。

『出版大崩壊』のなかでわたしがいちばん痛切に考えさせられたのはつぎのような一節である。

「出版社はもともとベンチャー企業といえる。その原点に立って、企業も社員も保守・保身ではなく、新分野を含めた多方面に活路を求めるべきだ。編集も既得権に安住することなく、外部に出て、ベンチャー精神を発揮していけば、出版崩壊時代の編集やコンテンツビジネスなどの周辺分野において活路を見いだしたり、新たなビジネスチャンスをつかむ可能性も生まれてくる。(中略)インターネット配信などにより、著者、作家と読者が直結する方向、つまり産直関係に進む流れがある。その際、編集者も中抜きされる。それに備える新たな存在価値を見つけ確立していくためにも、編集者自身がベンチャー精神と創造力をもって自己革新を進め、みずから生き残りの道を開拓していく必要があると思う。」(二六九ページ)

 まことに大胆な指摘だと思う。ただ現実にはこうした条件と能力をそなえた編集者がどれだけいるかと言えば、お寒いかぎりだろう。現在のほとんどの編集者は組織の外部に出ればたちまち干からびてしまう存在にちがいない。出版社がそもそもベンチャー企業だという認識のないところにぬくぬくと育ってきた編集者が大部分だからだ。自分が企画し、編集した本がどれだけのコストがかかり、どれだけの売れ行きを示しているのかに無頓着な編集者は、出版社という既成の組織の幻想にも無頓着なのである。これは大手出版社だろうと中小の専門書版元だろうとたいして変わりはない。その出版社の規模なりにコスト計算や売れ行きの指標があるのだが、そういう数字にいっさい関心を寄せる必要なしでこれまでやってこれたからである。

 しかしこれからの出版は、小林氏の言うとおり、これまでの実績にかかわりなく、あらためてベンチャー的な業種として認識しなおしたほうがいいように思える。専門書版元というのはまず大きな幸運は望めそうもないが、それでもやりかたしだいではまだまだ可能性をもっている。本を出そうというすぐれた著者がいるかぎり専門書出版のチャンスは残りつづけるし、編集者のやる気と能力が活路を見出す可能性はいつでも開かれているのである。

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[未来の窓53]

編集者の今後への期待──大学出版部協会編集部会セミナーを終えて

 猛暑のなかの七月十四日夜、わたしはかなり上機嫌でこの稿を書きはじめようとしている。前日の十三日(金)午後に千葉県柏市の麗澤大学でおこなわれた大学出版部協会第6回拡大編集部会セミナー「編集者の意識革命──テキストデータ有効活用の手法」で多くの各大学出版部(局)の専門書系編集者を前にしての講演とそれにつづく質疑応答、さらには深夜におよぶ懇親会でのさまざまな会話のなかで、編集にかんしてこれまでに得られたことのない有意義な時間をもつことができたからである。

 わたしは一般に編集者という「人種」をもともとそれほど信用していない。というか、あまり期待しないほうが精神衛生的にいいというだけだが。とりわけパソコンに関することになると、とくに文科系の編集者にははじめからあきらめてしまっているか、アレルギーをもっているひとが多い。だからわたしの『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』のような、現在の出版における原稿執筆作業、それと関連する編集作業にとって必須の基礎篇となるべきマニュアル書がどのようにこのひとたちに受け取られるものか、非常に興味があった。その興味は現段階ではなかば満足させられるものではあるが、まだまだ多くの著者や編集者に理解してもらっているとは言えないし、なかには誤解もあるようだ。そんななかで今回のセミナーがおこなわれることになったのである。

 ただ今回はわたしの本に共感してくれた編集者が仕掛人になって催してくれたセミナーだったこともあり、聞き手が大学出版部(局)の編集者たちだということもあって、かなりの期待をもってその場に臨むことができたと思う。時間的にもたっぷりあったので、あまり性急に話をしなくてもよいという余裕もあった。質疑応答のなかで、DTPの組版技術に関連するテキストデータの処理のしかたなどについて突っ込んだ質問なども出て、まだまだいろいろな側面から考えることが必要だと思わされることもあった。しかし総じて言えば、手間とコストのかかる専門書出版という現場に身をおいて苦労しているという編集者たちだからこそ、共通の課題ははっきりしており、それをどう克服するのかという問題意識においてわたしの技法がその解決策のひとつとして求められたのだと思う。その成果についてはこれからの問題だが、今回のセミナーはそうした方向へむけての運動の端緒である。とりあえずおおむね好評だったというセミナー担当者からのメールが届いたので、ひとまず安心しているところである。

 考えてみれば、こういった編集者の定期的な会合や勉強会をもっている団体はきわめてめずらしい。わたしがかつて所属していたことのある人文会という専門書団体にしても、販売にかんする共同作業の構築をめざしたものであり、こうした編集者だけの集まりは構想されることもなかった。最近の書物復権8社の会(岩波書店、紀伊國屋書店出版部、勁草書房、東京大学出版会、白水社、法政大学出版局、みすず書房、未來社)でも、先年の「編集者を囲む読者の会」のような、書店現場を核にした会合を開く試みをしたこともあったが、なかなか継続性のある運動にまでは発展していないのが現状であり、それ以外に編集者同士が接点をもつという機会は実現していない。〈リキエスタ〉という新しい本の可能性発掘のための運動も、もうひとつ盛り上がりを欠いているようだ。

 だからこそ、大学出版部協会が編集者の定期的な共同研究を持続させていることの意味は大きいと言うべきであろう。もっとも、あらためて考えてみれば、大学出版部というところは、それぞれの事情や性格や規模もあろうが、なんと言っても、専門書出版社のなかのもっともコアになるべき出版社グループなのだった。だからこういう共同研究もある面では必然性があったのかもしれない。その意味では、専門書出版のための方法論であるわたしのテキスト実践技法がほんとうに効力をもつためには、まずはこうした学術専門書の編集者に理解され、受け入れられるようなものでなければならないのであった。

 このセミナーに先だって六月十五日におこなわれた日本電子出版協会(JEPA)のセミナー「専門書出版のためのテキスト実践技法──少部数出版への未來社の試み」の講師をつとめたときにも気がついたことだが、わたしのテキスト実践技法はもともと文科系の書籍の執筆・編集技法として構築されたものであるから、理科系の数式や図表の多い書籍や写真集のようなグラフィック中心の書籍、また執筆者の多い雑誌類などにはかならずしも適していない。あくまでもテキストデータ(文字)中心の処理を対象とするものである。理系の書籍や雑誌においては、たとえばアメリカでは著者も編集者もTex(テフと読む)の使用が標準化されていると聞く。これは一種のDTPである。わたしも試みたことがあるが、このソフトは日本語世界のなかではあまり発展できないでいる。やはりある種のタグ付けをするのだが、かなりわずらわしい処理をしなければならないからで、馴染みにくいからである。もっとも、わたしの技法も割付けにかんする部分ではブラウザソフトに対応しているHTMLタグと呼ばれる方式に近いものを採用している。これは相対的に馴染みやすい方法のつもりだが、はたしてどうだろうか。

 ともあれ理系の書籍をあつかう編集者にはわたしのテキスト実践技法をむしろ利用しつつ、自分にとって都合の良いように変更したり増補したりしてもらう必要があるだろう。いや、理系の書籍だけとは限らない。文系の書籍にあっても、それぞれの必要におうじてわたしの手法を応用してくれていいのである。わたしが主張したいことは、個々の技法や指定方式よりも、こうした方法論のもとに著者や編集者がより質の高い本を、ローコストで、しかもすばやく刊行しうるようにする共同作業こそが、これからの専門書の出版編集においてどうしても必要になってくることの認識なのである。

 そのあたりのことを大学出版部協会に所属する理系専門書出版社の編集者たちが理解し認識してくれたであろうことを期待する。この十六日(月)に予定されている日本書籍出版協会電子部会セミナー「これからの専門書出版編集」で強調すべき問題はなによりもその点にあることが今回のセミナーをつうじてはっきりしたと思う。

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[未来の窓54]

出版界の「常識」という非常識──前田年昭・野村保恵両氏の悪意と誤読に反論する

 世の中にはどうも自分の考えや限られた知見をもって他人の考えをアタマから否定しないと気がすまないひとがいるらしい。貧しい読解力といいかげんな注意力はそのままに、ひとを見くびるための悪意をこめた書評を書くひとがいるということを最近わたしは二度ほど経験した。

 わたしの『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』にたいする書評や論評は、インターネットをふくめると、ありがたいことにそこそこの数に上っている。そのなかで前田年昭というひとの「印刷雑誌」7月号の書評「『出版業界初の』『革命的技法』は何をどう変えようとしているのか?」は悪意と誤読にみちみちた程度の低い書評である。これにたいしてはすでに未來社ホームページでの「編集篇ベータ版」という文章(http://www.miraisha.co.jp/mirai/text/henshu_b.html#6)のなかで誤読の事実を指摘した反論を書いているので、これ以上対応するつもりはなかった。ところが、このひとが「出版のためのテキスト実践技法への反響」というメール配信をしていて、なにを間違ったのか、わたしのところにも送ってきたのであけてみて驚いた。

 驚いたのはこのメールが「『出版のためのテキスト実践技法』問題に関心を持つみなさまへ」と呼びかけられていることである。いつのまにかそんな固有名を付けられて問題化されているとは光栄だが、これが本来のまっとうな意味での問題化なのであれば望むところなのだが、このひとの問題化はどうもそういう次元のものではないらしい。前田氏の印刷業界人としての批判の骨子は、出版のための入稿原稿はテキストファイルであるというわたしの主張は、すでに印刷業界では二〇年以上前からの「常識」であって、いまさらなんの「新味」があるのかという点に尽きる。これにたいしてわたしの「編集篇ベータ版」での反論は以下のものであった。

「前田氏が主張しているのは印刷現場における常識にすぎず、印刷現場にいたるまでの著者から編集者のところでは、テキストファイルとはなにかという理解はおろか、パソコンに触わろうともしないばかりかそのツールとしての優秀性を認めようともしない怠惰なひとたちがまだまだ多く存在している、という基本的な認識が前田氏には欠けている。わたしが主張していることのひとつひとつには新味がないとしても、こうした常識ならざる『常識』を整理し、理解を拒もうとしたりとっつき悪さを感じているような著者(およびとりわけ編集者)になるべくわかりやすく記述すること、それも出版にかかわろうとするひとのために特化したマニュアルを作ろうとしたことは若干の『新味』であるのではなかろうか。」以下はぜひ前述の批判文を読んでいただければさいわいである。

 こうした前田氏のような出版業界の内実にたいする根本的な誤解はかなり根強くあるようだ。いずれにしても、こうした誤解のうえで書かれた批判は同じパターンになってしまう。「いまさらこの程度のものがなんで……」というパターンであって、表面化していないところでもそうした半可通の批判があるらしい。前田氏はこの反論にもかかわらず、さきほど触れたメール配信でご丁寧にも自分のもっと悪意のある元原稿までさらけ出している。わたしの反論まで入手できるように指示されているのだから、わたしの主張している意味がまったくわかっていなかったとしか思えない。あるいは、こういうことのやりとりを単純におもしろがるだけのひとなのか。これではとても話にならない。

 ところが類は友を呼ぶという格言通り、もうひとつとんでもなくお粗末な書評が現われた。「季刊d/SIGN」(筑波出版会)という新しい雑誌に野村保恵というひとの「これが、「『出版業界初の提言!』なのでしょうか」という書評がそれだ。のっけから「ざっと拝見したところ、何等新味のある内容ではありませんでした」で始まり、「出版業界では公知の事実を、自分が知らなかったからといまさらのように『大発見』されても困ります」とか「二五年も編集者をやってお書きになる本がこのレベルかと思うと情けなくなります」といった調子でひとを見くびる発言をくりかえし、徹底して自分の知見の優位性を誇ろうとしている。揚げ句のはてには、自著の宣伝とそれにかかわった印刷所の名前まで挙げて迷惑をこうむった話まで書かれている。書評者として最低限のルールも文章の書き方も知らないお粗末さだ。前田氏と口裏を合わせたような表現があまりに多いところから見ても、またJISの分科会委員をつとめていることから見ても、両者が示し合わせていることは明らかである。このひとたちは自分たちが出版業界の「常識」、著者や編集者の実態などをなにもかも把握していると思い込んでいるらしいが、まったく現状から遊離しているとしか思えない。批判しているつもりのことは、そういった誤読をしたがるひとがいるだろうことをあらかじめ想定して、ちゃんと書いてあることばかりで、最後までわたしの本を読んでいないか読めていないことが明らかである。「出版社という中間でピンハネする存在」などということばに端的にあらわれているように、このひとはなにか含むところがあってこの書評を書いているのである。

 にもかかわらずJISの委員がなにごとかだと信じているらしく、たとえば送りがなについても、わたしが「現在の日本語の送りがなの原則は『本則』または『全部送る』というダブル・スタンダードになっている」と事実を述べているところをつかまえて、「本則」と「例外」、または「許容」と「例外」というふうに内閣告示による規定があるということを得々と述べている。そんなものはいつだって実際に原稿を書くひとたちの通念や傾向にたいして後追いで行政がからんでくるだけの話ではないか。そういった権柄づくの考え方がこの書評ではやたら目につく。

 こういった細部にわたる話は当事者以外には興味もないだろうからもうやめたいが、ひとつだけ気になるのは、どうして出版業界には周辺のひとたちまでふくめて、自分たちの権益なり既得権なりを守ることに汲々となり、新しい状況のなかでこれからの出版のありかたを本気で考えようとしないのか、ということである。実際に真摯に出版に取り組んでいる著者や現場の編集者の苦渋の声をあらためて聞くべきではなかろうか。

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[未来の窓55]

営業部移転その他をめぐる近況

 この九月にはいって、未來社営業部が朝霞市三原のこの春オープンしたばかりの未來社流通センター(通称・三原倉庫)に正式に移転した。これまで自前の倉庫をもっていた時代もあり、最近は十七年間にわたって平凡社出版販売(平凡社の子会社、以前の名前はみやこ倉庫)に管理業務全般を委託していたが、新しい倉庫の整備もほぼ終了したのにともない、いよいよ営業部全体が移転し、業務の一元化をはかることになったのである。これまで会社の一部が本社とは別の場所に常駐のかたちで存在するということは一度も経験がなかったから、今回の移転は未來社の歴史のなかでも初めての企てということになる。さいわい倉庫管理会社の第一美創さんのお世話もあって、倉庫の横に事務所と作業場を確保することができ、作業能率も徐々に上がってきている。

 すでにこの欄でも触れたことがあるように、この十一月には未來社も創業五十年になるところである。そうした節目の年にもかかわらず、さまざまな力量不足もあって、いろいろやるべきことが手つかず状態になったままである。とりあえずこの秋から本誌の定期購読者と定期寄贈者への謝恩セールを始めることにした。また、営業部の引越しが一段落したところで「旧価格本・在庫僅少本フェア」のようなことも予定している。これらは重版にともなう定価改定によって生じた旧価格の本や、品切れ寸前でおそらく当分は重版することのむずかしい本をリスト化して、本誌および未來社ホームページに公表するつもりである。これらについてもかなり思い切った謝恩価格を設定する予定である。

 それとは別に、十月一日から一か月の予定で、神田神保町の東京堂書店で未來社五十周年全点フェアを開催する予定である。ここでも前記の「旧価格本・在庫僅少本」を多く並べてもらうつもりである。以前は書店でよくこうした本のフェアをしたことがあって、そのたびによく売れたものだが、最近は在庫管理もしっかりしてきたこともあって、目玉になるようなものが減ってきたことは事実である。それでも必然的に生ずる旧価格本やいつのまにか在庫僅少になってしまう本はいつでもある。未來社のような専門書系の出版をしているとその専門領域では評価の高い本でも品切れになるとなかなか重版できなくなる。古本屋さんで高値がつくような本でも重版することはなかなかむずかしいのが昨今の出版情勢である。書物復権8社の会の試みもそういう情勢の反映されたものであるが、現実はいぜんとしてきびしい。ともかく、こうした類の本をこのさい整理してあらためて売りに出してみようというわけで、東京堂書店で実際どれほど売れるのか、いまから興味深いものがある。

 いずれにせよ、これから来年にかけてこの種の催しをすこしずつでもおこなっていきたいと思っている。本の山がうしろに控えている流通センターだからこそ、早くて無駄のすくない営業活動が実現しうるのではないかと期待しているのである。

 こうしたこともあって、いまは主として編集部が文京区小石川の本丸を守るかたちになっている。この本拠地だってどうしても死守しなければならないものではない。経費節減のため、別の場所で仕事をつづけることはいくらでも可能だからである。じつはこのかたちはある意味で今後の小出版社のありかたを示しているのではないかとわたしはひそかに考えている。というのは、いまはやりのSOHO(Small Office, Home Office)という発想は今後の小出版社の生き残りにとって必然的な方法とならざるをえないからである。物流部門さえきちんと独立して機能していれば、本づくりという営為はべつに特別なスペースを必要とするものではない。かつて電話と机さえあれば出版社は可能だと言われたこともあったぐらいに、出版業というのは、とくに編集・製作というのは省スペースが可能な職種のひとつなのである。パソコンという道具ができたいま、ますます省スペース編集は現実味をおびてきている。

 それにしても世相は暗くなる一方だ。この文章を書く直前にアメリカ東部で起こった乗っ取り飛行機による超高層ビルへの自爆攻撃という前代未聞の同時多発テロは今後の世界経済をさらなる不況に追い込んでいくことは間違いないだろう。出版不況に拍車がかかる可能性も高い。自社の存続と安定化への努力は当然のことながらも、出版をめぐる環境の悪化にどこまで対抗しうるのか、予断を許さない事態がつづくだろう。

 そんななかで専門書取次・鈴木書店の経営悪化による出版社への支払い延期依頼というお願いを受けることになった。われわれのような専門書出版社としては、専門書を積極的に取り扱ってくれる鈴木書店のような取次店にどうしても生き残ってもらわなければならない。昨年十一月の板橋移転と大幅リストラによって体制ががらっと変わった鈴木書店がなんとか黒字をだせるようになってきたことに希望をもちたいところだが、業務の拡大に転ずるためには新しい社員の徹底した教育と、新しい状況に耐えられるシステム構築を急がねばならない。専門書取次としての特性をいかしたホームページづくりなども緊急課題ではなかろうか。

 こういう時期だからこそ、鈴木書店はシステムのための商品データベースへの情報提供なども出版社にどんどん依頼してみたらどうか。取引のある四〇〇社ほどの中小零細出版社のなかには対応できないところもあるだろうが、こうしたことをきっかけにして自社出版物のデータベース化が促進されることになれば、出版社にとっても結局は有利なことになる。一部の中堅出版社のデータとあわせてもそれほど巨大なデータにはならないのだから、鈴木書店が専門書出版社のための、そして書店や読者をもまきこんだ一大専門書オンライン書店をつくりあげれば、在庫とも有効に結びついて採算のとりやすい部門が確立するように思われるのだが。現に地方書店などには、なかなか入手しにくい書籍や新刊書籍の情報さえあれば、ネット注文したいと言っているところもある。大取次のネット販売が思うにまかせないいま、小回りのきく鈴木書店にこそチャンスがあるはずだ。打開策のひとつとしてぜひ一考をお願いしたい。

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[未来の窓56]

出版という自由への挑戦──渾大坊三恵氏の論説にふれて

 最近、なかなか興味深い出版論を読むことができた。朝日新聞総合研究センターから刊行されている「朝日総研リポート」一五二号に掲載された_^渾大坊三恵【こんだいぼう・みえ】^_氏の論文「出版という『_^ささやかな事業【コテージ・インダストリー】^_』──ネット時代に生き残るための試み」がそれである。渾大坊氏は朝日新聞社の編集者としての経歴をもつそうだが、そうした現場の編集者の経験も豊富であり、現在の出版事情についてもひろく目配りを怠らないで緻密なレポートをここで提出してくれている。

 じつは渾大坊さんとわたしのかかわりは、この夏に柏市の麗澤大学でおこなわれた大学出版部協会の拡大編集部会セミナーでわたしが講師をつとめたさいに渾大坊さんが特別参加してくれたときにはじまる。このときのセミナーに関連する記述が最初のほうに出てくるが、ここで渾大坊さんが展開しようとしている「現実から目をそらさず、いまできることは何かと、手探りを始めている人々」についてのレポートの一環にこのセミナーをはじめ、わたしの提唱している[出版のためのテキスト実践技法]が問題としてとらえられているのである。基本的にはわたしの主張の眼目は理解してくれているのだが、このなかには誤解もふくまれている。「編集から印刷までのフルデジタル化、CD-ROMからインターネット経由の電子本へと本の世界が刻々変化しているとき、少部数でもとにかく本を出しつづけるために、できることはなんでもするしかないからだ」というのはやや悲観的あるいは皮相的で、そうした流れにあることは一面の事実かもしれないが、わたしはそれほど切迫したかたちで自説を展開しているのではない。そうとられてもしかたない面があることはたしかだが、いささかモチベーションがちがうところがある。

 たしかに現在の専門書出版、学術書出版の状況はすさまじい状態である。どれほど話題性のありそうな本を提出しても、マスコミも識者もふくめて反応があまりにも鈍い。かつてのようなはばひろい教養人といった読者層が激減し、一部の専門家にしか読まれない運命にさらされている書物の現状とはやはり前代未聞のことかもしれない。しかし、わたしはそうした現状は本質的に出版という営為にふくまれているものだと観念しているし、すくなくともいまの日本の文化水準からいってもさほど大きなことは期待しないほうがいいと思っている。本の文化とは、書きたい著者がいて、それを読みたい(潜在的な)読者がいれば、あとは編集者がその著者と本にどれだけ精力を注ぎこめるかという一点にしかないし、あとは経済的な諸条件をどうとりそろえるかという問題にすぎない。わたしがもっとも言いたいのは、専門書編集におけるコストダウンの必然性の問題でもなければ、著者への協力要請(強要ではない)といったことではなく、むしろ編集者自身がつまらない単純作業から解放されて、もっとも精力を注ぎこむべきところにみずからの力を集中できるようにするにはどうしたらいいか、という編集者存在の意識革命なのである。コストダウンや著者への協力要請とはその派生物にすぎない。編集者はもっと自由で創造的でありたい。そのためにはパソコンによる技法の開発は絶対的に必要であり、その技法自体が楽しめるものでもなければならないと思っているだけである。著者には著者の楽しみかたがあっていいし、編集者には編集ならではの楽しみかたがあっていい。こんなことを書くと、また冷やかされそうだが、新しい条件を楽しもうとしないひと、楽しめないひとに新しい技法を強制するつもりはまったくないだけなのである。

 わたしはどんなに危機的であったとしても、出版そのものの危機、本の危機というものはまだ当分さきのことだと思っている。その点では、渾大坊さんも言及しているように、「経営の混乱」はあっても本の危機とは考えていない、本とはひとつの宇宙だという装幀家・中島かほるさんの意見にわたしは賛成である。

 ロジェ・シャルチエは「読者は死んだのか?」というエッセイのなかでこんなふうに書いている。

「いま確実に言えることがある──これから数十年間は、二種類の書物(冊子本と電子本)が、そしてテクストを記し、伝達するための三種類の様式(原稿、印刷物、電子出版物)が共存するだろう。平和共存できるとは限らないにしても、書き物の文化が失われたのは取り返しのつかないことだと嘆いたり、新しいコミュニケーション時代が到来したと見境もなく興奮するよりは、この仮説の方がはるかに合理的なはずだ。」(「季刊・本とコンピュータ」13号)

 だからこそ、わたしは渾大坊さんが論説のなかで紹介されている冬弓舎の内浦亨氏のような、インターネット上のウェブでさまざまな情報発信をしている書き手と手を結ぼうとする若々しい出版精神に共鳴するのである。ウェブ上にはたしかに垂れ流しのような文章をそれこそ倫理も社会性もなく展開しているものも多いが、そんなものは歯牙にもかけず「書くことに対する情熱と愛情」がきわだっているひとたちこそ、本の文化をこれまで支えてきたひとたちである。ここで触れられている内田_^樹【たつる】^_氏と言えば、エマニュエル・レヴィナスの翻訳などで知られる現代思想界の俊秀のひとりだが、自分の書きたいことを自由に書きまくることをつうじて広い世界へむけて情報発信しようとすることから、あたらしいこれまた自由な読者、自由な編集者との出会いが生じたのであって、これまでの書物の歴史のなかには存在しなかったまったく新しい事態なのである。出版の未来もそうしたチャレンジ精神にあふれた著者や編集者、出版人によって切り開かれていくにちがいない、と思わせるに十分なとてもいい話である。

 渾大坊さんの論説には、限定つきながらも、こうした方法にたいして「出版社と読者、著者と読者の距離を縮め、本を確実に読み手に渡すための方法のひとつではあるはずだ」という評価がなされている。このほかにもパソコンとインターネットにかかわって、オン・デマンド出版の可能性や青空文庫の運動といった、読者に本をとどけようとする新しい試みをさまざまな角度から確認し展望しようとする情報があふれている。冊子本であれ電子本であれ、この自由への挑戦こそ出版するという営為のあくなき出発点であることがあらためて確認できるのである。

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[未来の窓57]

ホームページの活性化──「デリダの部屋」サイトの公開にあたって

 これまでもこの欄で何度か出版社のホームページ、あるいは未來社ホームページ(http://www.miraisha.co.jp)のことについて書いた。(*)専門書出版社のホームページは、これからの出版業にとって書籍販売の面だけでなくさまざまな情報発信の場所として重要な地位を占めるようになるだろう、というのがその論点の骨子である。専門書系読者との密接な関係作りなども、そのコンテンツ作りをつうじてより高度な情報の送受信が可能ではないかと考えられるからである。

 先日、TRC(図書館流通センター)主催の通称「ほんわか会」という大きな集まりに出席してみた。TRCを母体のひとつとしているオンライン書店bk1(ビーケーワン)の説明会もあり、順調に業績を伸長させているとのこと。しかもこの十月からはこれまでの購買履歴をもとにそれぞれの購読者向きの新刊のお知らせメールサービスを始めたところ、前月比で二〇パーセントの売り上げ増を実現したとの説明があった。こうした手法などは潜在的な購買意欲を引きだすうえで過去の購買履歴がおおいに役立つ好例だが、コンピュータによる読者管理ができていなければとうてい実現できないものである。すでにアマゾン・コムなどが実施して成果を挙げてきた手法の日本版だが、このまま推移していけばある程度の業績アップは確実だろう。

 その点、出版社のホームページでは読者の多様性、商品の多様性にもおのずから限度があるから、こうした読者への働きかけがおおきな成果を挙げることはあまり期待できないだろう。むしろそうした読者の注意を喚起しつづけるだけのホームページのコンテンツの充実こそが重要で、月々に製作される新刊や重版情報、近刊情報のほかに、業界情報、著者情報、社内外の情報、などが必要である。読者との接点をいかに構築していけるかどうかに出版社ホームページの、ひいてはこれからの出版社の命運がかかっていると言っても言いすぎではない。

 未來社ホームページではこの四月にあらためてトップページのリニューアルをおこない、たまたま話題になった『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』の影響もあってアクセス数はこれまでのほぼ倍になった。リニューアル後の新たな展開としては、「西谷社長日録」をリニューアル当日から掲載し、いまにいたっている。また『執筆篇』の続篇である近刊『出版のためのテキスト実践技法/編集篇』の「週刊読書人」連載分、および『編集篇』後半部に収録予定の技術篇である「編集篇ベータ版」と称する連載を公開した。もちろんこの[未来の窓]も連載と公開を継続中であり、これらが「未來社アーカイヴ」というページを構成している。そしてこれらのページへのアクセスがもっとも多いのが実情である。とりわけ「日録」は同業者、知りあい、編集者、あるいは出版に関心のあるひとにとって気になるらしく、一日に数十におよぶアクセスがあり、ありがたいことにさらにすこしずつ増えている。

 最近、必要があって編集者の求人募集を未來社ホームページ上でしたところ、かなりの数の応募者があった。そのひとたちと面接する過程で、出版社に入社を希望するひとたちはていねいに出版社ホームページを(とくに求人募集ページを)見ていることがわかった。未來社ホームページは見るところが多いのでもともとよく見てくれていたという応募者もいて、こういうひとたちが読者であると同時に定期的なホームページ閲覧者なのだということも確認できた。こちらが気がつかないところで出版社ホームページは読者とのホットな関係を取り結んでいるという例である。

 ホームページのコンテンツ作りのうえで以前から作ってみたいと思っていたのが、誰か有力な著者なりテーマなりに関連する仕事の領域を網羅的に紹介するサイトの構築であった。これまでもいくつかアイデアはあったのだが、専門研究領域にかかわるだけにこちらでそれらを構築するにはやや荷がかちすぎることもあって、どうしても有力な協力者が必要ということになり、結局アイデア倒れに終わってきた。

 今回は、高桑和巳氏の協力を得ることができて「デリダの部屋」というサイトを立ち上げることができた。このところ小社ではフランスの現代哲学者ジャック・デリダの著書の翻訳刊行があいつぎ、今回さらにカトリーヌ・マラブー編『デリダと肯定の思考』が刊行されたのを機に、この訳書の監訳者のひとりである高桑氏がデリダ関連の最新の参考文献リストとデリダ関連サイトの紹介をしてくれたのである。見ていただくとおわかりになると思うが、参考文献リストは、「デリダ個人の単行本、およびそれに準ずるもの」、「デリダのテクストを含む論文集など」、「デリダや脱構築が多少の差はあれ議論の対象となっている本」で構成されている。これだけでも研究者や専門家必見の文献一覧になっているはずである。またこのリストは今後も定期的にメンテナンスしていく予定である。

 ここでわたしがやりたいと思っているのは、これらの文献リストに掲載されている他社の出版物との相互リンクである。それぞれのホームページの製作面での技術上の問題があってうまくリンクできないこともあるかもしれないが、可能なかぎり相互リンクを張ることができれば、デリダを読もうとする読者には非常に便利なサイトが完成することになる。それぞれの出版社にとっても販売に結びつくチャンスが増大するはずであり、こうしたネットワークをつくることの意義が見えてくるのではないかと思っている。

 これはひとつの小さな試みにすぎない。しかしさまざまな研究者がそれぞれに有力な書誌情報やデータをもっている。それらをオープンにしてもらう場としてこの「未來社アーカイヴ」ページを利用してもらうことを夢想しているところである。

(*)[未来の窓40]の「未來社ホームページの試みと挑戦」は昨年七月の未來社ホームページの本格オープンのときに書いた拙文だが、そのときに展開したプログラムはぼちぼち実現しつつある。この文章はその後、「ACADEMIC RESOURCE GUIDE」というメールマガジン (http://www.ne.jp/asahi/coffee/house/ARG/) の編集者に関心をもたれ、転載された。

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