未来の窓|2005

 
[未来の窓94]

二〇〇四年を振り返る

 新年あけましておめでとうございます。
 今回は、新しい年に向けての展望を得るためにも、本稿を書いている二〇〇四年十二月現在まだ終わっていない二〇〇四年という一年を振り返って整理しておきたい。というのもこの一年のあいだに小社をとりかこむ環境も小社の内部事情もかなり大きな変化が出てきたように思うからである。いつも変わらぬものと少しずつ変わるもの、劇的に変わるもの、そうしたさまざまなファクターが重なりあって一年一年が形成されていく。あたりまえのことだが、そうした変化に目をとめていかないかぎり、時代と自身の加齢とのあいだで流されてしまうものがあるのだ。
 ことしの出版業界での唯一の明るい話題は、七年連続の売上げ減少にようやくストップがかけられそうだという見通しである。もちろんこれを安易に鵜呑みにできないのは、あいかわらずこのデータが書店での実売ベースでなく、取次店から書店への卸売りベースで計算されているからである。このデータがわれわれ売れない専門書版元の実感と食い違いがあるのはすでに十数年まえからのことである。とはいえ、その食い違いさえも克服できずにきたここ数年の業界を思えば、まだしも改善されつつあることは喜ばしいことだろう。ことしは最初から書店での景気がやや回復基調にあるという風評があり期待されてきたことではあったが、さてこの間の中越地震でどういう結果に終わるのだろう。
 ことしは、公正取引委員会がらみの再販制にかんする議論にかんしては四月の定価総額表示の義務づけ問題以外には大きな問題もなく推移した。これだけでも出版人が無駄に労力を奪われずにすむ点は忘れずに指摘しておくべきだろう。
 とはいえ、ここでまた新しい問題が発生した。書籍のISBNコードが二〇〇七年を期して十三桁にしなければならなくなるという問題である。これは日本だけの問題ではなく、アメリカやイギリスを中心とした英語圏での電子ブック等の激増による番号の不足というネット社会が招来した新たな事態にたいする国際図書コード管理委員会による決定なのであり、これまでの消費税問題や総額表示問題などとは起源がちがう。これがなぜ問題かというと、ISBNコードは、国別記号(日本の場合は4)に出版社記号と商品記号をあわせた計九桁にチェック記号(いままでは0からx)が付いた十桁で構成されているのだが、このチェック記号は特殊な計算方法によって自動的に一価的に決定されるのであって、桁数が変わってくると計算式に違いが出ておのずからチェック記号が変わってしまうからである。詳しいことはまだよく掌握していないのでこれ以上は書けないが、いずれにせよ書籍流通上の大問題が発生することは間違いない。今後の本作りのうえでも見逃せない問題である。
 こうした出版業界の問題点は今後さらなる検討と研究の課題になろう。以下ではこうした環境のなかでの小社の変化をここで記述しうる範囲で書きとめておこう。
 小社にかんすることしの大きな事件のひとつは、四月の東京国際ブックフェアに書物復権8社の会として共同出展したことである。この件にかんしては本欄([未来の窓87])でも書いているので繰り返さないが、かなりの評判と成果をおさめた結果として来年(七月七日~十日)の共同出展もこのほど確定した。また、これと同時に書物復権運動も来年度の候補書物を絞り込むところまで進んできており、ことしの渡辺武信氏の『日活アクションの華麗な世界』合本が予想以上の成功をおさめたように、今回も〈隠し球〉的な候補を用意している。
 さて、先日もある要請があって来年度の目標や企画一覧を整理した書類を作成したところだが、この一年の小社の大きな流れとしては、長期縮小均衡路線から拡大路線への転換が見えてきたことであろうか。実際のところはまだまだ問題を無数にかかえているが、編集部の生産性がようやく上昇の機運が出てきたこと、それにともない営業の強化の成果がすこしずつ現われてきた結果として、徐々に経営安定路線へ移行しつつあると言えることである。
 また、前任者の退社にともないわたしが経理面を直接担当することによって、これまで手つかずだった経営合理化と資金繰りの見通しを確実につかめるようになってきたことも大きい。経理ソフトを使って省エネしながらも、経営のポイントになるところはほぼ掌握できるようになった。中長期的展望のもとに経営をできるようになりつつある。経理というとこれまで単調でつまらないものと考える傾向があったが、こうして直接手がけてみると、ひとつひとつの施策が数字となって具体化されてくるところがなかなかおもしろい。ここから新しい戦略を立てる楽しみも見つけていきたいとさえ思うようになっている。
 こうした観点から、わたしの仕事がこれまでの編集過重の立場から営業と経営のほうにシフトしていきつつあるし、実際にそうした場面での時間の配分が多くなってきた。取次や書店の人間と接することによって、これまでとは異なった側面から業界事情も見えてくるだろうし、小社の問題点もより見えやすくなるはずである。
 昨年夏以降、ちょっとした人の出入りがあって、ここ数年つづいた長い過渡期がようやく次のステップに入ったという感が強い。この一年余はそのための準備に費やしたことになるが、この間を通じて見てきたこと、してきたことはこれまでよりはるかに大きかった。まだまだ手をつけていない問題ややり残しは数多くあるが、それらの問題の所在がはっきりしてきたのもこの間の準備作業の収穫である。
 部外者にとってはあまり意味のない社内事情やら予定やらを書いてしまったが、いずれにせよ、新年のはじまりにあたって小社の今後の見通しを決意表明のかたちで述べてみたかっただけである。

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[未来の窓95]

編集者の熱意こそが出版の原動力

 前月号の本欄で昨年一年間の総括をし、これからのわたしの仕事が編集から営業と経営のほうにシフトしていきつつあることを報告したばかりだが、ことしに入ってもあいかわらず編集の仕事に追われる日々がつづいているところをみると、なかなか思うように転換ができていないことになる。前言撤回するわけではないが、ここしばらくは二足のわらじ、三足のわらじを履きつづけなければならないかもしれない。
 というのも、ここへきて古くからの知り合いである力のある著者との仕事がいろいろ実現できそうになってきたからである。前回も書いたように、ここ一、二年の人員の移動をふくむさまざまな変化をほぼ調整し終わった時点から、遅れていた企画の進行や手をつけずじまいだった著者との連絡がようやくできるようになりはじめたからである。やらざるをえない仕事の多くがかなり片づいてきたこともある。さらに昨年十二月にリブロ池袋店でおこなわれた人文会主催の《編集者の語る人文書の現在》なる催しについては本欄でも触れたが、このときに集まってくれた編集者たちとの討論や打合せの場をつうじて刺戟を受け、わたしのなかで作りたい本を作ることへの気持ちがあらためてよみがえってきたからでもあろうか。そこでも話題になったが、編集者の熱意こそが出版の原動力であることを思い出すひとつのきっかけになった。こちらさえその態勢ができれば、喜んで刊行を引き受けてくれたりみずから企画を提案してくれたりする有力な著者はいまでも十分にいるのである。これまで積み上げてきた小社の努力を評価して、ここからなら本を出してもいいと思ってくれる著者によって未來社は支えられている。
 これまでは編集の仕事はすべて自分ひとりでやってしまう習慣が身についてしまっていたために、同時にいくつもの仕事に手を広げることがだんだんできなくなってきていた。さいわい若いスタッフが揃ってきたこともあって、今後は古くからの主要な著者たちとの仕事を一挙に回復できるのではないかと思う。わたし個人としてはそうした企画の実現をすすめるとともに、取次や書店との接触をつうじてそれらの企画の販売面の強化をはかっていくこともできるのではないかと期待している。
 ここで自戒と公約の意味もこめて、わたし自身がこの一年で実現したいと思っている主要な企画の予定を(公表できるかぎりで)以下に列記しておきたい。このなかには著者とは最後のツメをしていないものも含まれるが、この一年のあいだにすくなくともなんらかのアクションを起こすつもりであるので、著者のご了解は得られるであろう。
 さて、すでに刊行が予告されているもので最大の懸案になっているものは、森洋子さんの論集『ブリューゲルとわたし』(仮題)である。企画当初はブリューゲルについての小論を中心としたエッセイ集のつもりだったものだが、準備をかさねていくうちに森さんならではの重厚な論集に変わりつつある。書名もそれにおうじて変更することになるかもしれない。とにかくなんとしても早いうちに刊行にこぎつけたい一冊である。
 つぎに粟津則雄氏による近代詩を中心とした文学講演集と対談集を予定している。多くの著作をもつ粟津氏にしていずれも初めてという講演集と対談集は、膨大な資料の山からセレクトされたものだけに、文学史的にも残すべき史料的価値のあるものになるはずである。粟津氏とは一枚の絵をつうじて画家を語る『眼とかたち』と美術論集『幻視と造形』以来の仕事で、文学関係は初めてになる。
 渡辺武信氏はわたしが駆け出し編集者のころからの長いおつきあいだが、そのころ手がけた『日活アクションの華麗な世界』が昨年の書物復権でこれまでの三冊本を分厚い合本にしてこのほど増刷になるぐらいに好評だったこともあって、〈プログラムピクチャー〉についての蘊蓄を傾けた新刊『プログラムピクチャーの栄光』を出そうということになった。洋画における〈プログラムピクチャー〉についても考えられるので邦画篇と別々に二冊の〈プログラムピクチャー〉論が完成しそうである。そんなわけで編成替えもあるので、予告したよりすこし遅れそうだ。
 昨年亡くなったフランスの哲学者ジャック・デリダの翻訳版権はまだいくつか残っているが、そのうち『エコノミメーシス』と『信と知』が湯浅博雄氏(前者は小森謙一郎氏との共訳)によって、また既訳の『パッション』『コーラ』との三部作『名を救う/名を除いて』が小林康夫氏によって予定されており、早めに実現したい。  そう言えば、間もなく刊行予定の小林康夫編『美術史の7つの顔』もあるし、その小林氏の〈エクリチュール〉をテーマとする新論集を出せないかと思っている。四月から東大駒場で開講する「哲学フォーラム」は相当に気を入れてやるとのことだし、ことしはいろいろ小林氏との仕事が増えそうだ。
 一昨年の『ヴェーバー学のすすめ』で学問のありかたへの批判の切れ味を見せてくれた折原浩氏が、その続篇でもありよりポジティブなマックス・ヴェーバー論として、ことしで刊行一〇〇年を迎えるヴェーバーの主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』についての論考を書き下ろしてくれることになった。この書物の全論証構造を明らかにし、同時代の思想との連関を示そうとする野心作となろう。ほかにもヴェーバー関連の企画を検討中である。
 石光泰夫氏と約束している論集が三冊分ほどたまっており、北川東子さんの『女の哲学』(仮題)の企画もことしこそは実現へ近づけたい。
 このほかに今年中に刊行の決まっているものが翻訳もふくめて十点以上あり、若手の編集者が企画して実現の迫っているものも原則的にゲラの段階ですべてわたしも目を通すことになっているので、ことしも休むひまはまずなさそうだ。ありがたいことである。

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[未来の窓96]

紀伊國屋マンスリーセミナー「書物復権」の実現へむけて

 来たる四月二日(土)、新宿・紀伊國屋ホールにて書物復権8社の会と紀伊國屋書店共催でトークイベントを開催することになった。「On Reading:『本』の底力(そこぢから)」と題する予定のこのイベントは、じつはこの春から書物復権8社の会持ち回りで毎月一回、紀伊國屋ホールもしくは紀伊國屋ホワイエで連続的に開かれる予定の新宿セミナー@KINOKUNIYA「マンスリーセミナー『書物復権』」のオープニングセッションとして開かれることになったものである。出演者としては宮下志朗、鹿島茂、今橋映子の各氏にお願いし、引き受けていただいている。それぞれ〈書物〉にかんしては一家言あるひとたちだけに、〈書物〉の歴史や現状をめぐっておおいに挑発的に、批判的に語ってもらおうという魂胆である。
 このマンスリーセミナーは紀伊國屋書店としても初めての企画だそうで、今後の講演会予定の詳細は紀伊國屋書店内のポスターやチラシ、各社のPR誌やホームページなどで順次、ご案内できるだろう。また講演会の内容も紀伊國屋書店の「アイ・フィール(i feel)」ほかで活字化される可能性も高い。おおいに期待をもっていただきたい。
 このイベント実現にあたっては紀伊國屋書店側からのありがたいお申し出があったことがきっかけになっている。昨年の岩波ブックセンター信山社での書物復権8社の会連続ブックフェアと、それに関連して各社持ち回りでおこなった岩波セミナールームでのトークセッションが成功したこともあって、このたびのマンスリーセミナー「書物復権」に発展したと言えようか。(ちなみに岩波ブックセンター信山社ではその後もこのトークセッションをつづけており、毎回参加されるお客さんも出てきて、うまくいっていると先日お会いした柴田信社長からうかがった。)
 当初は紀伊國屋ホールの入口にあるホワイエ(フランス語のfoyer、つまり「炉」、転じて集会室、劇場ロビーの意になる)を利用しての五〇人から六〇人規模の連続セミナーを提案されていたのだが、たまたま紀伊國屋ホールが四月二日の土曜日という、新学期が始まってすぐの願ってもない日が空いているので、この日を利用してなにか催しをできないかと新たな提案がされたのだった。せっかくのチャンスなのでなんとか実現したいということもあって、わたしのほうで古くからの仲間である宮下、鹿島の両氏に相談したところ引き受けてくれることになり、急遽実現できることになった。今橋氏には東大駒場の同僚である宮下氏のほうから話を進めてもらい、快く賛同していただいた。スケジュールの調整などでも不都合がないという幸運にも恵まれて〈書物復権〉というテーマにふさわしいメンバーがそろうことになった。この三人ならひとは集まってくれるだろう。あとは紀伊國屋書店やホールのプロのひとたちにおまかせしておけば大丈夫なので、気楽に当日を迎えたい。
 問題なのはむしろそのあとである。近く用意される「マンスリーセミナー『書物復権』」の予告チラシには〈書物に未来はあるのか? 近年多く発せられるその問いに、ズバリ、「書物なくして人類の未来はない!」とお答えする〉という強烈なキャッチコピーが用意されている(コピーの主は紀伊國屋書店総務部企画広報課・鈴木良憲氏)。この課題に応えられるような自前の企画を考えなければならないのである。当初のホワイエでのセミナー案ならいくつか用意しておいたのだが、できればホールを使ってみたいという欲もでてきたのだから大変なのである。四二〇席もある紀伊國屋ホールでイベントをするには最低でも二〇〇人以上のお客さんに入ってもらわなければ、出演者にもホール側にも顔が立たない。
 そう言えば、だいぶ以前に紀伊國屋書店本店で〈ハイデガーとナチズム問題〉という小テーマ・フェアをわたしの企画で実施したことがあった。そのときに当時の道端課長から紀伊國屋ホールでイベントをできないかと持ちかけられたことがあったのを思い出す。いまでもそうだが、当時はなおのこと、小社のような学術系(=売れない)専門書版元の出る幕ではないので、そんなことはとうてい無理だと思って辞退した。その後もそんなことは考えることもなく今日まで経過してきたのは言うまでもない。そこへもってきての今回の話である。しかもホール使用料は先方持ちという好条件である。いかに現実とイメージのギャップがあるか痛感しつつも、この千載一遇のチャンスを逃す手はないということで、小社としてもいろいろ知恵をしぼっているところである。
 今回のマンスリーセミナーのそれぞれのテーマが確定すれば、それにあわせたテーマ・フェアを講演会の前後一か月にわたって本店のどこかで実施しようという予定もある。これを八か月間、常設展として連続的に展示できれば、講演会と連動するかたちでさまざまな切り口のブックフェアが書物復権8社の会を中心にして可能になる。それぞれのテーマ・フェアの成績次第では、ミニ・コーナーとして今後も専門書の棚の一部に定着していくこともできるのである。こうしたかたちで実験と検証をかさねていけば人文書の新しい切り口、本の並べ方、売れ方が見えてくるかもしれない。その意味でも今回の企画は〈書物復権〉の名にふさわしい試みとなるだろう。
 最近は主要書店でのトークセッションやトークショーという催しがけっこう流行りである。その多くは新刊書にあわせたその著者の講演会だが、人気のある著者の講演会ばかりでなく、本のおもしろさや魅力、有益性などを広く訴え、読者の掘り起こしにつながるような地道な運動も必要であろう。今回の紀伊國屋書店のマンスリーセミナーもそうした地道な運動の一面をもっており、こうした広く開かれた公開の場で、著者と読者がじかに触れ合う機会を積極的につくっていこうとすることは、〈書物復権〉をめざすわれわれの今後に課された大きな命題のひとつなのである。

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[未来の窓97]

問われるメディアの権力構造

 いま堀江某率いるライブドアなる新興ネット企業がニッポン放送株の買収問題でフジテレビとその占有率をめぐって争っている。このほど東京地裁でフジ側のとった新株予約権発行という姑息な手段の違法性が裁決され、とりあえずライブドアに有利な展開になっている。国民の関心も高いようだが、このネット成金の若者のとった行動が右派メディアの代表的存在であるフジ=サンケイ・グループの牙城をどういう意図をもって攻略しようとしているのか、そこがよく見えてこないだけに不気味だ。昨年の近鉄球団買収への関与、新球団への異常なほどの執着も解せないものがあったが、こういういったん思いついたら命がけというファナティックな欲望が、とかく話題性のありそうな企業や媒体に触手を伸ばしていこうとする姿には、危険な匂いがする。その危険な匂いに若い世代が妙に共感を覚え、自分たち世代の旗手として支持していく流れは、大げさに聞こえようがいささかファシズムの予兆を感じさせられる。
 言ってみればなにやらいかがわしい意図をもった若者がインターネットでの成功とそこで得た莫大なバブル資金をバックに、旧体制へ果し状を突きつけているという構図である。裁判所がそれにたいして一見公正な判断をくだしているのは、フジ側のあまりにも見えすいた対応策のゆえでもあるが、もしかすると国家〈権力〉の発動のしかたとしてはいささかスキのある判定であるかもしれない。なぜなら、この争いは右派メディアの慢心に乗じ、しょせんちょっと反抗的な若者が資本主義的合法性すれすれの手段を使って既成のメディア権力を乗っ取り世代交代のチャンピオンとして権力ゲームに参加したいというだけの振舞いに見えるからだろう。どちらに転んだところでメディアとしての健全な主体性など期待できないのである。
 さて、すでに旧聞に属することになるが、昨年からことしのはじめにかけてNHKにかんするスキャンダルがつぎつぎと暴かれ、長年にわたってNHKに君臨してきた海老沢勝二会長が辞任に追い込まれた。これまでにもさんざん指摘されてきたNHKの半国営放送的な権力への迎合的姿勢、組織体としての陰湿さ(相互監視体制)、そこへもってきて経理のずさんさがこのたび明るみに出されたわけである。なんの法的罰則規定もないのにほとんど強制的に徴収されてきた受信料をいっせいに拒否する動きがひろがったのも当然である。小社の本多勝一氏の『NHK受信料拒否の論理』が広く読まれたのはすでに三十年も前のことである。NHKは何も変わっていないばかりか、ますます批判力を失ったメディアに成り下がっている。
 戦時中の「慰安婦」問題をめぐる企画の放映のさいに、NHKが自民党の一部極右勢力からの圧力を受けて番組を改竄した問題を「朝日新聞」が指摘したことがきっかけとなって、NHKと朝日新聞社が対決している状況がいまもつづいている。さきほどのライブドアとフジテレビの低次元な利権争いとは違った意味で、もっとも影響力の大きいメディア同士の対立であり、発端となった問題の性格上からも、このメディアの基本姿勢を旗幟鮮明にする対決はもっと注目されなければならない。
 このNHKによる番組改竄の真相は、昨年三月に小社から刊行された高橋哲哉氏の『証言のポリティクス』に収録された「何が直前に消されたか──NHK『問われる戦時性暴力』改変を考える」にくわしく検証されている。
 高橋氏はNHK教育番組で二〇〇一年一月二十九日から二月一日にかけて四夜連続で放映されたシリーズ「戦争をどう裁くか」全四回のコメンテーターとして出演したなかで、そのなかの第二回「問われる戦時性暴力」の部分が最初の企画の段階からいくらかの妥協をふくむ「修正台本」を経て、最終的に放映されたときの著しい改竄ぶりを高橋氏が所有する番組台本にもとづいて徹底的に検証している。右翼団体の放送中止の脅迫があり、自民党極右勢力からの政治的圧力があり、さらにはNHK「上層部」からの自己規制などの圧力がかかった結果、〈女性国際戦犯法廷〉の実体は隠蔽され、そこで提起された「慰安婦」の抗議の意味を掘り下げる議論や昭和天皇の戦争責任という二つのタブーに触れた部分はすべて回避された内容に改竄されたというのである。
 高橋氏はこの問題はNHKだけの問題ではなく、こうした社会のタブーに触れようとするメディアのほとんどにかかわる重大な試金石であることを提起する。現にこの一連の問題にかんして新聞・テレビのほとんどのマスメディアが論評はおろか無視する姿勢をとりつづけているのである。国際的にも歴史的にももはや動かすことのできない歴史認識とその解決への努力──「慰安婦」問題の国家としての責任の認定と謝罪・補償の実現要、昭和天皇の戦争犯罪の確認──を隠蔽してメディアの真の自立はありうるのか、と。
《この国のすべてのジャーナリスト、メディア関係者に私は問いたい。みずからに問うてほしい。_¨本当にこのままでよいのだろうか¨_。「慰安婦」問題について、「戦争責任」問題や「歴史認識」問題について、本当にこのまま、事実を直視せず責任も回避して、国際的に通用しない独り善がりの主張を振りかざすだけの勢力が力を強めるにまかせておいてよいのだろうか。本当にこのまま、この国とその国民がアジアの人々の信頼を回復できず、将来にわたって孤立し続けることになるとしても、それでよいのだろうか。》(『証言のポリティクス』一二五ページ、傍点は原文通り)
 わたしはこの高橋氏の真摯な呼びかけに強く共感し、深く受け止めたい。この問いかけに答えようとしないすべてのメディアや過去の亡霊勢力にたいして継続的に戦わなければならないと肝に銘ずるのである。われわれもふくめてメディアという権力の内実がきびしく問われている。
*この四月九日に東京堂書店6階会議室にて未來社フェアの関連企画として高橋哲哉氏の講演会が開かれます。ぜひお集まりください。(詳しくは本誌四八ページのご案内参照)

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[未来の窓98]

いま、この時代に哲学することとは何か

 桜も一挙に花開いたかと思うまもなく雨に打たれて早々と散ってしまい、いまや五月の連休も間近である。大学では新入生を迎えてのオリエンテーションやクラブの勧誘などもひと通りすみ、いくらか落ち着きはじめたところであろう。かつては「五月病」と呼ばれた青春期特有の挫折はいまの学生たちにも存在するのだろうか。本を読まない=読めないと言われる学生がキャンパスにあふれかえっている現状を憂えるだけでなく、こうした学生たちをどうしたら本を読む環境に導き、かれらに本を読む快楽を知ってもらうか、というわれわれがなすべき課題にたちもどらざるをえない。
 四月二日、東京新宿の紀伊國屋ホールでおこなわれた書物復権8社の会主催の《On Reading:「本」の底力(そこぢから)》と題するトーク・セッションは、パネラーのひとりである今橋映子さんがいみじくも述べられたように、本をどうしたら活性化させることができるかを考えているひとたちの〈総決起集会〉といった趣きがあった。そのなかでの今橋さんの主張によれば、いまの若いひとたちは一般に言われているよりよほど本を読んでいるのではないかとのことである。一部には読解力や創造力の豊かな若い読者が存在することはたしかだろう。こういう読者といかに持続的にあつい関係をとっていくことができるかが、出版界の今後をありうべきものにしていくうえでの最重要課題であることには変わりがない。
 一方で、大学生協で取り組まれている〈読書マラソン〉という試みも、どんな本であれ一〇〇冊の本を読んで感想を書き、本のおもしろさ、楽しさを仲間たちに伝えていこうとする運動で、かなりの成果を上げているようである。専門書出版社の一部にはこうした運動を自分たちの出すような専門書とは関係のないレベルの話であるとして軽視する向きもあるが、むしろこうした地道な読書運動を盛り立てる方向で考えていくべきではないかと思う。専門書の読者も最初から専門書を読んできたわけではない。どこかで本に出会い感動する経験があって、本を読むことを持続できるようになったはずだからである。
 こうした若い読者の問題とともに、書き手の側にも現状打開の動きがでてきている。先日、東大駒場で小林康夫氏がことしから始める哲学セミナーに出席する機会があった。これは小林氏を中心にしたUTCP(University of Tokyo Center for Philosophy共生のための国際哲学交流センター)というプロジェクトの一環として、既成の五つの部門をいわば横断的に〈いま、哲学とは何か〉という根源的なテーマ設定のもとに〈いま〉をとことん考え抜いてみようという目標をかかげて出発しようとするものである。そこには主として三十代の大学院生たちやすでに教職にあるひとたちもふくめて三十人ほどが出席し、活発な議論がかわされた。こういうひとたちにまじって、わたしとしてもひさしぶりに根本からものを考えるという貴重な機会を与えられた。大学教育のカリキュラムには属さない、フリーな教育的実践の催しであるとともに、それ以上に思想や学問の危機を哲学的に問い直す実践そのものの場としてこのセミナーは構想されたのである。
 わたしが出席することになったのは、これからの若い有能なひとたちが何を考え、どのような力量をもっているかをじかに見ておいてほしいという小林氏からの要請のためでもあるが、小林氏自身がいまの思想状況、学問状況をどのよう引き受け、どのように哲学的に切り開こうとしていくのかをリアルタイムで確認してみたいからでもあった。
 今回が初回ということもあって、小林氏がはじめにこのセミナーのためのプレゼンテーションをおこなった。そこでまずとりあげられたのがジル・ドゥルーズの『哲学とは何か』の冒頭の文章である。 「『哲学とは何か』という問を立てることができるのは、ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年をおいて、おそらくほかにあるまい。」
 ここでドゥルーズのことばを介して小林氏が提示しようとするのは、哲学を個別研究の対象としてではなく、また哲学的知見をもとになにか新たな理論や言説を立てることでもなく、〈哲学する〉ことそのものがこの時代を生きていくうえでの指針ともなり、世界を身をもって切り分けていくことにつながること、そのことに尽きてもよいという命題なのではあるまいか。どこか市川浩身体論を思い浮かべてしまうが、ドゥルーズにおける〈老年の哲学〉とはもはや〈学〉としてではなく、つまり学問的対象でも学問的方法でもなく、メタ学問としての哲学の高みからではなく、ごく日常的な地平から世界を理解するべく考えを展開していくことにあると言えるのではなかろうか。哲学、というよりも哲理あるいはポエジー。老年においてひとはアカデミズムでの野心や欲望を超越し、自分の固有の視角から世界をもっとよく見つめようとするとき、世界は哲学が描き出すようには存在せず、より直接的な具体性として現われているはずだ。おそらく小林康夫氏が目指そうとしているのもそうした等身大の地平からこの現実世界とその現象をあらためて読み解こうとすることなのではないか。
 とはいえ、こうした等身大の地平から知の運動をあらたに起こすこともとりあえず目指されてはいる。ここに集まろうとしている若い研究者たちのためにとりあえずの発表媒体が準備され、さらなるアウトプットの可能性として出版も射程におさめようとしているからである。その意味ではこの哲学セミナーはたんなる談話会でもなければ特定のテーマをかかげた研究会でもない。〈哲学とは何か〉をキーワードに学問研究の若い息吹きを立ち上がらせ、促進するための実践的な場としてのフォーラムでもあるのだ。こうしたフォーラムが若い研究者たちを巻き込みつつ、同時に小林氏自身の哲学的問いが今後どこまで実現されていくのか、おおいに期待したい。

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[未来の窓99]

よみがえる日本語の宝庫──『日本詞華集』の復刊に寄せて

 ことしも〈書物復権〉八社の会による名著復刊の季節がやってきた。ことしで九回目になるこの運動も業界の一部にはすっかり根づいたと言えそうだが、それでも受け皿となる書店の地図が毎年すこしずつ変化しているので、こうした運動をつうじてやはり時代の動きを敏感に感じ取らざるをえない。
 一時ほどの勢いではないが、ナショナル・チェーン書店の新規出店がいまもつづき、こうした書店が専門書に力を入れている関係もあって、〈書物復権〉の復刊本がこれらの書店店頭に多く並ぶことになる。それにひきかえ、かつての地方文化の華でもあった老舗書店の全般的衰退が目につく。これを受けてこの運動も大都市集中化の傾向を強くもつようになってきた。大学生協の弱体化もふくめて専門書の読者層の幅が狭くなってきたことを痛感する。その一方ではアマゾン・コムを中心としたオンライン書店の成長ぶりには目を見張るものがあり、読者の顔がいよいよ見えなくなりつつあるとも言える。現にリアル書店での〈書物復権〉アンケートの反応は年々減少しているようだ。この現状をどう考えていくのかが今後の〈書物復権〉運動の展開にも大きく関係してくるだろう。
 ことしは六月八日の取次搬入と例年よりやや遅めのスタートになるが、さっそくにも紀伊國屋書店新宿南店での書物復権フェアが動き出すのをはじめ、ことしから七月に移行した東京国際ブックフェアにも昨年にひきつづき〈書物復権〉八社の会共同出展が決まり、ちょうどできたばかりの復刊書を展示・販売することができるようになった。ちなみに、ことしの共同出展は昨年以上の規模になるとともに、それぞれ小さいながらも独立したブースを並べることになり、昨年とはちがった意味で読者との直接的な接触が期待できるようになった。わたしも読者や著者との接点をもつために、できるだけ連日自社ブースにいたいと思っている。
 さて、そんななかで小社はことしも五点の復刊をおこなう。そのなかには内田義彦『経済学の生誕』といった古典的名著や、昨年もノミネートされながら外れたがことしはトータルでトップの投票数を獲得した柴田寿子『スピノザの政治思想』もふくまれているが、なんと言っても今回の最大の目玉は四十七年ぶりに復刊することになる西郷信綱・廣末保・安東次男編『日本詞華集』である。
 わたしの長年の夢のひとつだったこの復刊アンソロジーは、聞くところによれば、古本屋さんでも超高値のつく貴重本になっている逸品なのだ。一九五八年初版のまま広く知られることもなく消えていたこの日本詩歌の粋を集めたアンソロジーは、たんに短歌・俳句・詩ばかりでなく、古代歌謡から風土記、神楽歌、催馬楽歌などを集めた古代篇、連歌や「梁塵秘抄」をはじめとする中世歌謡を集めた中世篇、「隆達節小歌」などの歌謡もふくめた近世篇、さらに近代篇といった四部構成になっているが、西郷信綱氏、廣末保氏、安東次男氏といった当時まだ四十になるかならぬかの少壮学者・現代詩人を擁して編まれたこのうえなく目配りの利いた贅沢な日本詩歌のエッセンス集なのである。このアンソロジーは、おそらく願ってもない最高の選者たちを得て、知るひとぞ知る幻のアンソロジーとして埋もれてきたのであった。
 さいわいなことに四十七年も前の印刷にしては活字状態が良く、新組みにしてでも出したいと思っていたわたしの願いが通じたのか、高麗隆彦氏の美しい装幀を得て、そのまま写真版で再刊できることになった。本文二段組み、ほかに脚注もある五百頁のこのアンソロジーは、もちろん近年の作品の収録はないものの、一定の時代の篩にかけられたひとつの定番アンソロジーとして今後も読まれつづけてほしい。すでに廣末氏も安東氏も故人になられたいまもご健在の西郷氏から今回、本アンソロジーの復刊のためにすこし長めの「復刊本へのあとがき」をお寄せいただけたのは、なによりもうれしいことである。このアンソロジーの再出発のためには力強い援軍を得たと言える。
「この本は何と、前書きも後書きもなしに出版されたのである。本文を充実させるのに全力を尽くしてしまい、それらをものする余力が三人とも、もう無くなっていたためらしい。現に、これはそれほど肉体的・精神的エネルギーを要する困難な仕事であったと今でも回想する。だから私のこの一文がその欠を補う序文めいた形になるのを、どうかお許し願いたい」と、この「あとがき」は始まり、「人麻呂や芭蕉や茂吉(あるいは宮沢賢治)の作とを、即座に同時に読めるのだから、この『日本詞華集』はまさにアンソロジーとしてかなり優れたものだといっても、決して不遜ではなかろう」と締めくくられている。
 西郷信綱氏ほどのひとが自賛するほどの、これはどこにも存在しえなかったアンソロジー=詩の華を集めたもの、なのである。山本健吉氏がかつて英仏独のアンソロジーに比して日本にそれが一つもないのは「詩人や批評家や国文学者たちの大きな怠慢」だと述べたことを西郷氏は紹介されているが、日本のように古代からのことば(言の葉)の長い歴史をもち、さまざまな短詩型文学の宝庫である国は、考えてみれば世界中にほとんどないのであるから、こうしたエッセンス(詞華)をあらためて熟読玩味する喜びを味わう特権にあふれているはずなのである。大岡信氏の『折々のうた』もその意味でこうした宝庫発掘の試みのひとつであったことがわかる。
 こう考えてみれば、本を読む習慣の欠如とはこうした過去の優れた日本語(やまとことば)の蓄積への無知と無関心にその源があるのではないかと思えてきた。あらゆる頽廃から守られてきた日本語の富が一堂に会したものがアンソロジーであるとすれば、この『日本詞華集』はその最大の成果であることをこれからもやめないであろう。〈書物復権〉の運動がこうした宝庫発掘につながったことを喜びたいとともに、このアンソロジーが広く読まれることを期待している。

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[未来の窓100]

秀丸エディタのすすめ──『秀丸フル活用術』の刊行予告

 いまやすっかり執筆や編集の日常のなかにも溶け込んでいる感のあるパソコンだが、そのなかでわたしが愛用している各種テキストエディタを使って作業をしているひとは、実際どのくらいいるのだろうか。理系のひとたちの場合はいざ知らず、わたしのかかわりの深い人文系の著者や編集者はあいかわらずWordとか一太郎といったワープロを使っているひとが多いようだ。もちろん徐々にではあるが、テキストエディタ(以下、エディタ)を使うひとも増えてはいるのだろう。最近はこれら各種エディタにかんするマニュアル書がいろいろ出始めるようになったのがその証拠だ。
 かつてはエディタにかんする本と言えば、三〇〇〇部どまりというのが業界の通説であったらしい。エディタはパソコンの専門家をめざすひと向けのツールであるという認識が一般的であったためでもあろう。だからパソコン系大手出版社からはこういった類のマニュアル本が出版されることはあまりなかった。むしろワープロにかんするマニュアル本のほうがマーケットが大きいということもあって、もっぱらそれらが書店店頭をにぎわせていたのであった。
 しかしどうやらここへきてすこし事情が変わってきたらしい。パソコンに精通したひとが増えてくるにつれて、ワープロのような執筆や編集にとっては余計な機能ばかりが目につく重いだけのツールではなく、エディタをふつうに使って作業するひとが急速に増えてきたのだろう。Windows系の代表的なエディタである秀丸エディタなどはユーザ数は一〇〇万とも二〇〇万とも言われている。こうしたユーザのほとんどがプログラマやパソコン専門家ばかりとは考えられないから、かなり多くの使用者がふつうの書き手や編集者なのであろう。ここ一、二年のうちに秀丸にかんするマニュアル本が三冊も出て、かなり売れているらしいという事実もある。
 たまたまその一冊『秀丸エディタハンドブック』(二〇〇四年、翔泳社刊)の付録にわたしが[出版のためのテキスト実践技法]で作成した「編集用日本語表記統一基準」が秀丸用マクロとして転用されることになり、それがきっかけとなってこの出版社からふつうの著者や編集者を対象とした秀丸エディタのマニュアル本を書き下ろすことになった。わたしもかなりマニアックなほうなので、ふだん活用しているさまざまな秀丸の活用法をコンパクトにまとめて皆さんに開陳しようということになったわけである。
 とにかくこの半年ぐらいのあいだに仕事のあいまをぬって三〇〇枚超の原稿を書くのは大変だったが楽しくもあり、このほどいちおう書き上げて翔泳社に渡したばかりである。書名はわたしの案では『秀丸フル活用術』としたいところだが、いまのところ未定である。それでもこの八月初頭には刊行予定となっているので、そろそろお披露目をしておいてもいいだろう。
 今回は、既刊の『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』『同/編集篇』(二〇〇一年、二〇〇二年、いずれも未來社刊)とは異なり、秀丸という特定のエディタのためのマニュアル本なので、一般的なエディタの紹介や方法論ではなく、かなり詳細に秀丸エディタの使い方を紹介した。秀丸という高機能エディタがどれほどすごいことができるのか、一般のユーザはおそらくここまではご存じないだろうというレベルまで説明したので、こちらとしても思い残すことはない。さらに今回はテキスト編集用に、『編集篇』で紹介したSED(StreamEDitor)のテクニックを秀丸用に作り直した表記統一のためのマクロ(目的を特化した小さなプログラム)を九種類用意した。これらは出版用の原稿の技術的な不備を整形し、また表記の統一を一気におこなうツールであり、実際に進行中の仕事でいろいろテストしたので、かなりの精度の高さがあると自負している。ちなみにこれらのマクロ・ファイル名は「ファイル整形マクロ」「不適切表記修正マクロ」「アルファベット、数字の置換マクロ」「欧文の半角処理マクロ」「漢字を開くマクロ必須篇」「漢字を開くマクロ選択篇」「送りがなの統一マクロ」「世紀、年月日にトンボの十を使うマクロ」「割付け用タグ付け一括処理マクロ」である。わたしの方法に多少なりとも関心をもっていただいているひとにはこれらのマクロが何をしようとしているのか、およそ見当はつけてもらえるはずである。一例としてあげれば、原稿のさまざまな数字の乱用(全角、半角の算用数字や漢数字の混在)を和文中の数字は一気に漢数字化するといった処理である。
 未來社ホームページにアップしてきたこれまでのSEDスクリプトの内容をこのさいかなりヴァージョンアップして秀丸に組み込んだので、従来のWindows系読者がSEDを使いにくかった不具合を、この秀丸用表記統一マクロを作成したことにより大きく改善したことになるだろう。
 というようなわけで、エディタを使って仕事をするひと、とりわけ書き手や編集者のためのわたしなりの方法論は、SEDというかなりとっつきの悪いプログラムから、ごく普通に使えるツールであるエディタでもほぼ同等の処理が実現できるマクロの利用という方向にも開かれることになった。もちろん、これですべてが解決するわけではないことはあらかじめ言っておかなければならない。出版のための原稿は内容の性格上それぞれ相当に異なる問題をふくんでいる以上、すべてにあてはまるオールマイティの技法というものはありえず、あくまでも一般的な問題に幅広く対応できるように設定してあるだけだからである。あとはこれらを利用して、使うひとそれぞれが必要な処理を追加してくれれればよいのである。
 とりあえずこの『秀丸フル活用術』の刊行によって、[出版のためのテキスト実践技法]以来の課題のひとつが解決されたと思いたい。あとはテキストエディタを使ってまだまだ実現可能な技法についてさらなる開発と研究につとめるつもりである。
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[未来の窓101]

東京国際ブックフェアへの共同出展──その位置づけの試み

 この七月七日(木)から十日(日)にかけて東京ビッグサイトで恒例の東京国際ブックフェアがおこなわれた。これまでの四月開催を七月に移行して最初のブックフェアである。さいわい梅雨どきにもかかわらずたいした雨も降らず、気温もさほど高くなかったため、入場者数は四日間で延べ四八〇〇〇人超でまずまずの入りだったようである。
 さて、今回も小社は書物復権8社の会(岩波書店、紀伊國屋書店出版部、勁草書房、東京大学出版会、白水社、法政大学出版局、みすず書房、未來社)のメンバーとして共同出展の一角を担うことになった。前回のように紀伊國屋書店とタイアップしたかなり装飾的でワイドな共同出展のかたちではなく、グループとしてまとまってはいるがそれぞれの社が独立したブースを並べるかたちで、比較的地味な共同出展だったと言える。前回より各社の出展料をふくむ総経費が大幅に縮小していることからもそれは確認できる。今回は三社が一ブース、五社が半ブース、レジと書物復権本の展示のための共同スペースが一ブース、都合六・五ブースという構成で、8社の会としてはスペースは拡大した。また夏時間ということもあって、終了時間がこれまでの五時から六時に延長されたことも大きな変化である。それだけ販売機会が増大したということになる。
 そうしたなかで売上げは残念ながら前回をやや下回るということになった。入場者数の増加、ブースの拡大、販売時間の延長、というプラス要因三つをもってしても成果としてはもうひとつの成績であったわけである。こうした事態をどう解釈するかは各社それぞれの事情もふくめてこれから考えていかなければならないところであろう。もし来年も同様な共同出展を前提にするなら、どこに問題点があったかをしっかり検討し改善策を講じていくべきだろう。
 すぐにも思いつくことは、前述したとおり、各社ブースが通路を隔てて横並びのかたちであったため、昨年のような書物復権8社の会としてのまとまりを欠いたうらみがあったことである。読者の目線からすれば、そこへいたる導線そのままの延長で各社のブースに行き着くことになるだけで、専門書出版社がただ並んでいるブロックといった印象にとどまったのではないか。「書物復権8社の会」の看板は目線のかなり上のほうにあり、多くの人が行き交う通路からは書物のほうに目線は動いても、グループとしてのメッセージを発信しているはずであった看板はあまり目立たなかったのではないかと思う。
 また、昨年のように、ある意味で共同出展を強調したかたちになる平台コーナーの集中展示ができなかったことも売上げ増に結びつきにくい理由であったかもしれない。全体のスペース拡大にもかかわらず、(とくに半ブース出展社における)平台部分の縮小ということがマイナスに作用した可能性は十分考えられる。集中展示をおこなうことによって読者の集中化を実現できた昨年のほうが効率的だったのかもしれない。そこにくわえて初めての共同出展という話題性や紀伊國屋書店のCD販売による客寄せ効果も、集客および販売増の大きな原動力になったはずである。さらに言えば、今回のブースの位置は前回にくらべて奥に追いやられた感じで、それもマイナス要因のひとつにあげておいてもいいだろう。
 こうしていろいろマイナス面をつらねてみると、今回の結果はそれなりに健闘したと言えるのかもしれない。各社のブースの独立展示という面は、読者とのコミュニケーションにおいては前回よりかなり向上したのではないかと思う。前回は本売りが前面に出すぎて、ブックフェアのもうひとつの主旨である読者とのコミュニケーションの面がややなおざりにされてしまったように思えるから、今回のような各社の独立性を尊重した方式もけっして否定すべきではない。問題はこうした独立性と集中化をいかにバランスよく設定できるか、ということになろうか。今後の重要な課題である。
 ところで小社としては、一部の好評書をのぞき、全般的に低調であったことは、独自の問題として今後の検討課題として残されることになった。ことしの書物復権で四十七年ぶりに復刊できた『日本詞華集』が六八〇〇円の高価格にもかかわらず一四冊の売上げをあげたことに示されているように、どうも《昔の名前》から脱却できない体質があらためて浮彫りにされてしまった。なんといってもこういう場所では強力な新刊群かその場で見てすぐ欲しくなるような話題書が必要で、旧刊本はそれらのサポートないしは補完的なものである。なにも東京国際ブックフェアのために新刊をつくるわけではなく、成果は日常的にもとめられており、その結果がこの場所に反映されているにすぎないとも言えるが、その意味では読者のきびしい選択にさらされるチャンスとしてこの場所を位置づけ直してみるのもひとつの考え方であろう。これからの一年はそのための準備期間とみなす必要がある。
 別の側面から言えば、読者の事前の購入意欲への働きかけにおいても小社は不足するところがあった。首都圏の「未来」読者への招待券の発送以外に、出品書目リストの提示などまだまだ試みておくべきことはあった。いずれにせよ、こうした販売チャンス(読者とのコミュニケーションチャンス)にたいしてもモチベーションが低かったことを反省せざるをえない。こうした課題をクリアするのは一朝一夕でできることではないから時間をかけてひとつずつ解決していくしかない。
 とはいえ、反省ばかりしていても始まらない。実際のところ、ブース展示のなかで二、三の現実味のある大きな商談の話が浮上している。これらの話が実現すれば、一発逆転の展開になりうる。こうした密かな楽しみがあるのもこの東京国際ブックフェアのもうひとつの現実なのかもしれない。ともかく来年は書物復権運動の十年目にあたり、いまから新しい模索が始まろうとしている。
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[未来の窓102]

折原ヴェーバー論争本の完結

 予定より遅れていた折原浩氏の『学問の未来──ヴェーバー学における末人跳梁批判』がこのほどようやく刊行された。さらにこれに続けて姉妹篇『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』もまもなく刊行の予定である。これで一昨年十一月刊行の『ヴェーバー学のすすめ』以来の一連のマックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの「倫理」と資本主義の《精神》」論文をめぐる論争がいちおう完結した。ここで「いちおう」というのは、この折原浩氏による批判の一方の当事者がいっこうにこの論争に正面から取り組んでこないかぎりにおいて、という意味からである。
 この論争にかんしてはわたしはすでに本誌二〇〇三年十二月号の本欄で「危機のなかの〈学問のすすめ〉──折原浩『ヴェーバー学のすすめ』の問いかけ」という文章で、この論争から本の刊行までのいきさつ、折原浩氏の学問への姿勢にたいするわたしなりの長年の思い、などについてひと通り述べた。ここではその後の展開、および今回の二冊のヴェーバー論に結実する過程について簡単に報告しておきたい。
『ヴェーバー学のすすめ』刊行後、折原浩氏は北海道大学経済学部の橋本努氏がホームページ(http://www.econ.hokudai.ac.jp/%7Ehasimoto/)に開設した「マックス・ヴェーバー、羽入/折原論争コーナー」に、『ヴェーバー学のすすめ』第二章をさらに発展させた、羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房刊)への批判文をつぎつぎと寄稿された。このコーナーはオープンな意見発表の場でもあって多くのヴェーバー研究者がさまざまな意見を寄せている。それにいちいち対応する応答文とともに、折原氏の羽入批判文は驚くべきスピードで執筆され、その分量はざっと二〇〇〇枚を超えている。
 これらの文章はすべて先の橋本努ホームページでいまでも閲覧できる。当初はこれらの寄稿文とともに論争の全容を編集した本の刊行も考えなかったわけではない。しかし論争本というには、一方の当事者が逃げを打ってしまってまったく反論もしない(できない)のでは一方的なものになってしまうし、またホームページへの寄稿という性格上どうしても内容が精度を欠きがちである、などの理由もあって、この案は見送りになり、折原浩氏の文章のみをまとめるかたちで羽入書批判第二弾『学問の未来』として構想されたのである。ここにいたる経緯のなかで橋本努氏が果たされた役割は大変おおきなものであり、『学問の未来』刊行にたいしても橋本氏の了解が必要だったことは言うまでもない。
 さて、そういう経緯があって、あらためて折原浩氏の寄稿文を通読し、その中身の濃さとともに、折原氏が日本の学問のありかたについて深く憂慮されている問題意識に共感せざるをえなかった。折原氏が「はじめに」で書いているように、「ごく狭い専門領域からではあるが、『学問とはなにか』『いかにあるべきか』をめぐり、日本の学問を将来担って立つべき若い人々を念頭に置きながら、具体的な題材に即して考えてきた応答をなしている」のが『学問の未来』である。
 大学をめぐる環境や教育の問題全般についても、昨今の「歴史教科書をつくる会」の反動的な教科書を採用する教育委員会や学校の相次ぐ決定をみてもわかるとおり、教育環境は日増しに悪化している。学問にまともに取り組み、批判的にものごとを検証するという学問や教育の基本がことごとく掘り崩されようとしているのである。羽入書とはまさにそうした環境の産物であり、さらにそれを助長する「山本七平賞」という右翼的な賞、およびそれらの選考委員らの無責任な「半学者・半評論家」の「末人」(ニーチェ)ぶりを暴き出す折原浩氏の筆鋒はなんとも鋭く痛烈である。この批判は大学院の論文審査のずさんさの責任追及から学会、専門学術雑誌、出版社の査読責任問題にまで論及している。学問の真正さに立とうとするかぎり、ことはそれほど深刻かつ重大だとの認識なのである。
 ともあれ、『学問の未来』の原稿を通読し、その分量もさることながら、折原氏がこの批判書をたんなる羽入書批判で終わらせないために、ヴェーバー読解のための基本的概念の整理や解説をところどころで仕掛けていることに気がついた。折原氏は『学問の未来』の「はじめに」でそのあたりのことをつぎのように書いている。 「筆者は今回、羽入書との批判的対決をとおして、『倫理』論文の読解案内から始めてヴェーバー歴史・社会科学の方法の会得にいたる入門書/再入門書の必要性を痛感した。」そこで、「ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」を「未来」に発表したのをはじめ、五つの補説を書き加えた。「ところが、それらは、事柄としていっそう重要であるため、羽入書批判としては均衡を失するほどに膨れ上がり、構成を乱すことにもなりかねなかった。筆者としては、羽入書批判を否定面だけに終わらせず、内在批判への徹底をとおして、かえってなにかポジティヴな内容を打ち出し、ヴェーバー研究にも寄与したいと力を入れたが、そうすればするほど膨大となって構成も難しくなるというディレンマを抱え込んだ。」
 そこでわたしが提案したのが、これらの基本概念をめぐる解説や理解の方法を、羽入書批判から切り離して独立の一冊に編むことによって折原ヴェーバー学の基本的コンセプトを提示したらどうか、という案だった。『学問の未来』があまりに大部になってしまうことを避けるための窮余の一策でもあったが、考えてみると、せっかくの折原ヴェーバー学入門書がこの大部の一冊のなかに紛れてしまうのはもったいないという思いもあったからである。さいわいこの意見は折原氏の快諾を得て姉妹篇『ヴェーバー学の未来』が誕生することになったのである。折原氏が「あとがき」で「まことに、一書を世に出すとは、編集者と著者との協働作業である」とまで書いてくれているのは編集者冥利に尽きることである。
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[未来の窓103]

テキストエディタ主義宣言

 本欄七月号で予告したように、この八月末にわたしの『編集者・執筆者のための秀丸エディタ超活用術』という秀丸エディタ解説書(マニュアル)が翔泳社から刊行された。本書の「あとがき」にも記したように、秀丸エディタの使用者はずば抜けて多く、たえざるヴァージョンアップがなされている人気エディタである。そのゆえもあってか、最近はこの秀丸を中心としたテキストエディタのマニュアルがすこしずつ書かれるようになってきた。パソコンが普及するにつれ、プロの編集者や執筆者のなかにテキストエディタを使って仕事をするひとがどんどん増えてきているからでもあろう。すこし前までは鳴り物入りで市販されるワードなどのワープロソフトの影に隠れて、プログラマや一部の専門家かマニアが使っていたにすぎないテキストエディタだが、徐々にその安価さ、高機能、軽快さが知られるようになって相当多くのひとに使われ始めてきたのである。
 このたびの『秀丸エディタ超活用術』はその意味では、一般ユーザに秀丸の便利な使い方を解説したマニュアル本ではあるが、ただそれだけの実用書ではないつもりである。実際に出版の仕事にたずさわっている編集者や日夜原稿書きに苦労している著者たちの立場にたって、細かいところまで具体的に役に立つように書いたものであり、いわばわたしの秀丸への愛着のなせるわざである。序にも書いたように、そもそもワープロのような見映えの良さを主目的にしているツールで満足しているひとには、わたしのマニュアルは不要である。帯の文句「Wordを使っている編集者・執筆者はプロじゃない!」はいささか挑発的にすぎるかもしれないが、わたしの本音とそんなに遠くはない。編集者や執筆者のなかには不快に思うひとがいるかもしれないが、それほどにエディタの効用が知られていないか、ワープロソフトにたいする思いこみが深いか、のどちらかである。だとすれば、わたしの挑発にもなにがしかの意味があったと言うべきであろう。なかには本を読まずに批判するひとがいるのは困ったものだが、いまに始まったことではない。
 わたしの理解しているところでは、[出版のためのテキスト実践技法]は編集者よりも若手の研究者やライターにかなりの支持者がいるらしい。今回、『超活用術』のアマゾン・コムでの予約先行販売で、先着一〇〇名に秀丸無料使用権付きプレミア販売をおこなったこともあってか、一時は売行きランキングで一〇〇番位台になったこともあったのは、ちょっとした驚きでもあったが、どうやらこうした著者の卵のひとたちが執筆用ツールとしての秀丸エディタを認識してくれているのが大きな理由でもあろう。熱心な執筆者が『超活用術』を買ってくれているのだとすれば、うれしいかぎりである。わたしの主観的意図として『超活用術』は人文系の著者・編集者・読者を念頭において書かれているからだ。
 そんなこともあって、テキストエディタ愛好者の情報交換会のようなものを作れないか、とひそかに考えているところである。じつは『超活用術』の「あとがき」でもそのことに簡単に触れておいたが、かなり本気である。そこで、このページを利用して以下にそのプログラムの骨子を書いておきたい。

一、この会の呼称は「エディタ主義者の会」(仮)とする。
二、会の目的は、テキストエディタにかんする情報交換、紹介、方法論議、研究発表等、エディタの普及と発展のための活動である。
三、参加者は、テキストエディタを使っているか、使おうとするひとであれば、年齢・職種その他はいっさい問われない。
四、入退会は原則的に自由である。
五、会員同士の相互交流と情報交換を積極的に推進するため、定期的な会合をもち、ホームページやメーリングリストの活用をおこなう。
六、相互の交流の成果がある場合には、単行本、小冊子、ホームページ等での公刊、発表なども視野に入れる。
七、会の運営の必要があれば、事務局ないし運営委員会のようなものを設置する(かもしれない)。
八、その他、規約等の必要が出てくれば会員の総意にもとづいて決定する。
 とりあえず思いついたところを並べてみた。この骨子は整備して近く未來社ホームページに掲載し、会員を募ることにしたいと思うが、いずれにせよ暫定的な措置になるだろう。必要が出てくれば、独自の拠点を設けることもありうるからだ。なにしろいまはまだわたしの思いつきの域を出ないのである。
 とはいえ、まずは手はじめに『テキストエディタ主義宣言』(仮)という論集企画を考えてみたい。その意図をテーゼふうに簡単にまとめておくと以下のようになろうか。
一、エディタ主義者は、文書を作成し、そのデータを編集するための最強のツールがエディタであることを認識する。
二、エディタ主義者は、エディタのさらなる処理能力向上と発展可能性のために創意工夫と学習に励む。
三、エディタ主義者は、各自の技術、技法を開示し、相互のエディタにたいする理解、関心、技術の向上に貢献する。
 こうした観点からのエディタにかんする原稿なら、自分のエディタにたいする思い入れ、さまざまな工夫の開陳など、ほかのひとに参考になりそうなものならなんでも歓迎である。内容的におもしろいものはまずは未來社ホームページに掲載させてもらい、つぎのステップとして単行本化を考えたい。これも近く未來社ホームページで応募原稿の仕様を発表するので、どしどし寄稿してもらいたい。原稿の採択は当面、西谷が担当させてもらうことになるが、こうした寄稿をつうじてさまざまな交流を開始するきっかけになればよいと思う。『秀丸エディタ超活用術』がそうした機運作りの一環となれば、著者としてこの上なく満足なことである。
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[未来の窓104]

「デリダの明日」のために──紀伊國屋ホール未來社セミナーのためのウォーミングアップ

 書物復権8社の会と紀伊國屋書店との共同企画、紀伊國屋ホールを利用しての紀伊國屋マンスリーセミナーがこの十一月三日、小社の主催でその第七回目を迎える。毎月ほぼ一回の割りで、すでに岩波書店、白水社、みすず書房、法政大学出版局、紀伊國屋書店、東京大学出版会の順で好評裡に無事終了し、いよいよ小社の出番となったわけである。
 今回の小社の企画としては、ジャック・デリダの没後一周年という時期にあわせ、なんとか刊行を間に合わせたデリダの翻訳『名を救う──否定神学をめぐる複数の声』(小林康夫・西山雄二訳)をひとつのきっかけとして、〈デリダの明日:二〇〇五年/危機と哲学――国家・政治・文化・想像力〉というテーマを設定した。昨今のいささか壊滅的な世界と日本の政治状況、思想や学問のありかたを分析し、哲学の視点から何が明らかにしうるかを問う場所としたいというのがこのセミナーの狙いである。
「21世紀初頭の世界は、日本はどうなっていくのか。迷走する政治状況のなかで、想像力の貧窮化にともなう文化の危機、学問の危機、大学の危機には底知れぬ不気味さがある。デリダ没後一年、この哲学者が存命していたら、いまの状況をどう見るだろうか。ファシズムが台頭した一九三〇年代のヨーロッパの政治危機とも対比させながら、気鋭・若手の論者が国家から文化の問題にわたる現状分析と批判を哲学的・思想的に深めるトーク・バトル。」
 以上は、このセミナーのために準備したチラシ用に書いたわたしのコピー文である。
 パネラーとしては、小林康夫氏(東京大学大学院総合文化研究科教授、表象文化論)、鵜飼哲氏(一橋大学言語社会研究科教授、フランス文学・思想、ポスト植民地文化論)というデリダとの関係もとくに深い論者のほか、若手研究者を代表して『名を救う』の訳者でもある西山雄二氏、さらには最近話題になっている『国家とはなにか』(以文社)の著者である萱野稔人氏というメンバー構成である。
 最初に小林康夫氏に「哲学の使命」とも呼びうる総合的な問題提起をしてもらい、鵜飼哲氏にそれを受けて「デリダとデモクラシー」といったテーマでレクチャーをしてもらう予定である。とくに後半生のデリダには政治的発言も多かっただけに、〈デモクラシー〉というテーマについてデリダがどのように考えていたのかを整理してみていくことは、今日とりわけ重大な問題のように思える。第二次小泉政権が国民の圧倒的「支持」のもとに成立し、自民党内部においてさえ反対者の政治的圧殺が平然とおこなわれるような強権政治がこのままいつのまにか独裁政治へと転化していくだろうことが、一九三〇年代のナチス台頭に前後するドイツで民主主義がいかに形骸化されていったかという歴史とパラレルにみえる、まさにこのような時代がいま現在の日本なのである。
 一九三三年のナチスの政権奪取によって、哲学者エドムント・フッサールはユダヤ人であるがゆえにドイツからほとんど追放されたも同然となっていた。そのフッサールが亡くなる三年まえのウィーンでの講演「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」は、ナチスによる公職追放のような生臭い現実にはいっさい触れることはないままに、こうしたヨーロッパ(じつはドイツ)の危機的状況について批判した歴史的な文書である。この講演の最後でフッサールは、「ヨーロッパ的人間存在の危機」の出口として、「精神に敵対する野蛮さへの転落」か「哲学の精神によるヨーロッパの再生」かの二つしかないことを述べたあと、さらにこう語る。
「もしわれわれが、『善きヨーロッパ人』として、無限に続く闘いにも挫けぬ勇気をもち、もろもろの危機のなかでももっとも重大なこの危機に立ち向かうならば、人間を絶滅させる不信という炎のなかから、西欧の人間の使命への絶望というくすぶり続ける火のなかから、積もり積もった疲弊の灰のなかから、新しい生の内面性と精神性とをもったフェニックスが、遠大な人間の未来の保証として、立ち現われてくるでしょう。なぜなら、精神のみが不滅なのですから。」(清水多吉・鈴木修一訳、平凡社ライブラリー版『30年代の危機と哲学』九四─九五ページ、表記は一部変更させていただいた。)
 この「精神」への過大なまでの信頼は、当時のドイツの現実政治、大学制度等への不信と絶望にたいするアンチとして提出されたものであることは明らかである。ここで「精神」とは、いかなる時代と環境に生きる人間であっても、時代の惰性に流されず、思考の働きをとめずに物事の善悪の判断を誤らないように努力をつづける知の別名であろう。だとすれば、今日の知的・政治的荒廃のなかの日本に生きつづけるわれわれにとっても、見すごすことのできない共通の課題がここで熱く論じられているとみるべきではなかろうか。
 それはともかく、〈デモクラシー〉というテーマにかんする鵜飼哲氏のレクチャーをもとに、『名を救う』の訳者でもある西山雄二氏からは、この本でデリダがデモクラシーについて述べている問題とからませて、現実政治の諸問題にかんする若い世代からの発言をしてもらう予定である。また萱野稔人氏からは、ひとまずデリダをはなれて国家論の立場からこれまでの議論をふまえた意見がなされるだろう。あとはモデレータとして熟練されている(?)小林康夫氏のリードで話をうまく進めてもらう予定である。
 というようなわけで、小社としても最初にして最後になるかもしれない紀伊國屋ホールでの主催イベントを紀伊國屋書店のご厚意で実現できることになった。〈文化の日〉にこうした政治と文化の危機を問い直すセミナーを実現できることは意味深いことであり、できるだけ多くの観客とともに有意義な会にしたいと念願している次第である。
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[未来の窓105]

未來社の二〇〇六年を早くも展望する

 前月号の本欄でお知らせした紀伊國屋ホールでのマンスリーセミナー未來社企画の〈デリダの明日〉もなんとか成功し、つづけて小社のことしの決算のための基礎的データ作りがようやく終了して、ホッとしているところである。決算処理をわたしがひとりでこの時期にするようになって三回目だが、手順にも慣れてきてみると、そろそろどこでどう手を打たなければいけないかが、見えるようになってきた。七期も社を代表する立場をやってきて、いまさらながら出版社経営のむずかしさとわずかであるがその可能性を再認識してきているところである。
 ことしのはじめに本欄で昨年一年をふりかえっていろいろ抱負を述べてみたが(「[未来の窓94]二〇〇四年を振り返る」の後半)、どうやらそこでの判断はいくらか時期尚早の面もあったようである。ここではやや早すぎるが、この一年を振り返って今後の準備としたい。
 その反省の第一は、当初期待したように「長期縮小均衡路線から拡大路線へ」の転換はまだ実現するところまではいかなかったことである。「編集部の生産性がようやく上昇の機運が出てきた」と以前の稿では希望的に述べたが、これはいまの段階においても希望的観測にとどまる。若い編集スタッフがそう簡単に習熟することができるほど専門書出版の世界は甘くはない。しかしその一方で、徐々にではあるが、その生産性の高まりが実現できつつあるのもまた事実なのである。その意味でこの「希望的観測」はことしももちつづけたいと思う。
 反省の第二は、わたし自身が「編集過重の立場から営業と経営のほうにシフト」しようという路線変更を考えていたにもかかわらず、編集中心の時間配分という制約からなかなか抜け出せなかったことである。ただし、これは他の編集スタッフの力量の問題もあるので、やみくもに「シフト」すればいいというものでもない。十一月に出版したジャック・デリダ『名を救う』のように、紀伊國屋ホールでのセミナーとの関係といった必要から緊急性のあったものを除けば、わたしの編集者としての仕事は、古くからのつきあいのある有力著者とのあいだで企画を立てることと、編集スタッフがファイル処理をして仮ゲラまで仕上げた原稿を通読して細かいチェックをするだけでよいことになってきたからである。
 これはわたしの[出版のためのテキスト実践技法]という編集方法が小社編集部内ではかなり会得されてきたことを示してもいるのであって、原稿のファイル処理による効率化と正確さの実現が印刷所に入稿する段階で相当程度できるようになっている。このことによって編集実務の大幅な短縮化と印刷所コストの削減に結びついてもいる。仮ゲラ化された原稿をわたしがきちんと読んでさえおけば、あとはまず問題なく世に出しても恥ずかしくない専門書がしかもスピーディーに刊行できるしくみができあがりつつある。このことが先ほど述べた「生産性の高まり」を期待できるというわたしの「希望的観測」の裏づけになっているのである。
 さて、これにたいして昨年来の営業強化策は経験のある新スタッフの加入もあって、徐々に効果を見せはじめている。ここ何年かにはまったく見られなかった営業展開がどんどん始まっていくなかで、小社の書籍の書店露出率もかなり上がってくるようになり、そのせいもあってか売上げがすこしずつ回復基調に向かっている。書店数のうえでも書籍アイテム数のうえでも、書店常備の拡大は昨年にひきつづき実現し、フェアなども着実におこなわれるようになっている。この年末に東京大学駒場生協でおこなわれる未來社フェアもそのひとつだ(ここはわたしの編集者としてのホームグラウンドともいうべき場所で、親しい著者も多く、そうしたひとたちとの本作りへのわたしの思いをポップにして提供することになっているというお楽しみ付きである)。
 こうした意味では、これは反省というより、ことしの大きな成果として評価しておくべきことだろう。来年がより大きな営業成果を上げられるかどうかは、可能性のある新刊がどれだけ実現できるかにかかっているのはいうまでもない。
 それと関連しているのは、来年もおこなわれる書物復権8社の会の復刊運動が、企画十周年ということもあって、初めての拡大ヴァージョンとして何社かの有力出版社がスポット参加するかたちで展開することになったことである。新たな展望がここから開けてくることをおおいに期待するとともに、8社の会としても頑張りどころとなるだろう。小社はことし安東次男・廣末保・西郷信綱編『日本詞華集』という四十七年ぶりの復刊が大成功したこともあり、意を強くして来年は平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文学論争史』上中下巻というとっておきの復刊(新組み復刊)を企画してさらなる飛躍をねらっている。重版を重ねて活字が擦り切れてしまい品切れにせざるをえなくなったという実績のある本だけに、文学好きの読者にはこの復活は喜ばれるだろう。これでまた「昔の名前」で健在をアピールすることになりかねないが、そうした遺産をたえず掘り起こす努力は、新刊刊行とともに怠ってはならないはずである。それにくわえて書物復権8社の会の東京国際ブックフェアへの三年連続の共同出展も決まり、ことしの紀伊國屋ホールでのマンスリーセミナーが来年も継続されそうな話も出てきている。
 こうしてみると、ここではいちいち触れられない企画もあるが、来年はけっこう楽しみがいろいろある年になりそうな気がしてきた。年末から始めようとしている「エディタリアンの会」という〈課外活動〉もそろそろ軌道に乗せられそうになってきているし、テキストエディタを使った[出版のためのテキスト実践技法]エディタ編も書かなければならないだろうし、どうやら来年はこれまでとはいくらか次元を異にしたおもしろい年になりそうである。
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