未来の窓|2006

 
[未来の窓106]

人文書のジャンル分けというゲーム

 いま、わたしが所属している専門書出版社十九社の集まりである人文会の企画グループでは、ひとつの大きなプロジェクトが進行中である。昨年五月の総会後から一年間の予定で人文書の中ジャンルの全面的見直しをし、人文書を積極的に売っていこうとする書店にたいして連携し、あるいは働きかけようとする試みがそれである。
 これは、すでに本欄の二〇〇四年一月号の「『人文書のすすめIII』の刊行」において、人文書ジャンルの見直しが十年以上なされていないことをわたしが指摘したことに端を発する問題で、会のなかでつねづね課題としてきたことが真剣に受けとめられた結果である。書店店頭を見るにつけ、人文書の現状をなんとかしたいというわたしの危機意識の現われとも言えようし、猫の目のように変わる人文書の最前線にたいしてジャンルという枠組み設定を更新して時代をたえずとらえ直したいという編集者的欲望の現われかもしれない。
 というのも、書店店頭における人文書の棚展開とは、わたしの持論では「ナマモノ」の世界と同じであり、鮮度が勝負を決するのであって、十年一日のごとく同じような棚展開、同じようなジャンル分けをしているようでは読者から見限られてしまうのは必定だからである。
 人文書とは、学問の地道な研究の成果や文化の底深い脈流を背景に、時代の要請のなかでさまざまな問いに答えようとするものであり、そこには当然のことながらさまざまな視角や潮流や方法論というものが同時に存在しうる。これらを基本的な流れに切り分け、そこに中心軸を見出す(書店店頭で言えば、売れ線を発見する)ことが人文書ジャンルのたえざる再構築(書店で言えば、棚展開)であって、そこでは時代の空気に敏感に反応し、時代の先を見越していく知的想像力にあふれた著者や書物が必要とされる。編集者や書店の棚担当者は、本をつくる側であれ出版された本を棚に配置する側であれ、そうした流れを意識しながら「編集」するという共通の立場の人間となるわけである。
 とりわけ書店の人文書担当者とは、たえず変動する人文書というナマモノの取捨選択(注文するかしないか)や棚構成(どう並べるか)をつうじて、「編集」した結果をただちに知ることができるという意味で、もっとも実践的で現実的な知のエージェントたるべきなのである。人文書の棚展開とは、ある意味では基本書と考えられる書籍群を「布石」とするゲームに似ている。これがうまく機能するかどうかは、その基本書の選択が正しいかどうか、その基本書の選択が正しいとしたらその周辺に集める書籍群の選択と配置が有効かどうか、という戦略と戦術のパズルゲームだからでもある。
 その意味でも、編集者はこれら書店エージェントの日々実践されるゲームの結果を学習する必要があるとともに、今度はみずからもそのゲームに参加させてもらうことをつうじて「営業」的にみずからの編集感覚を磨きあげる努力が必要になる。また書店の人文書担当者はこれら編集者の編集感覚と情報をもとにこの編集的パズルゲーム(棚展開)をより高度なものにしていくことで、よりよい結果を生み出してもらうことが期待される。こんな理想的な相互交流ができたらいいな、とわたしはつねづね考えているが、残念ながらなかなかできていないというのが現状である。とはいえ、この間、何人かの書店人に協力を依頼し、快く引き受けてもらえたので、この中ジャンルの見直しという作業をとりあえず見通しのつくところまでは実現したいと思っている次第である。
 さて、そういうわけで、人文書の既成ジャンルの見直しとして「哲学・思想」「宗教」「心理」「社会」「教育」「歴史」の各ジャンルの検討がとりあえず終了し、残るは以前「批評・評論」として設定したもっとも「ナマモノ」的なジャンルの再構築である。今回はこれを「現代の批評・評論」として設定し直すことにした。「評論」というネーミングには文芸評論的な意味あいが強く、なんとなく「売れない」という印象があるとの意見をくみ入れたのと、実際にここに集約されるのは既成の各ジャンルに定着し組み込まれる以前の、現代的な批評的主題群なので「現代」を強調する必要があるからである。
 そしてわたしがこのジャンルの継続に力を入れたいのは、これらの主題やそれに即した書籍群こそがもっとも現代的でホットな問題を提起しており、また話題にもなり、したがって書店の人文書売り場でもっとも売れるはずだからである。すこし前なら〈現代思想〉とでも呼ばれたであろうこれらの書籍群こそが、さまざまにジャンルを横断しながら転成し新しい切り口を刻みつけており、もっとも豊かな可能性とそれゆえの危うさを同時に示しつつ人文書の中核を担っているのである。
 それともうひとつこのジャンルを設定する理由としては、既成の人文六ジャンルの枠組みでは、これまではずされるのが常だった社会科学や自然科学、文学等のジャンルのなかから広く人文書としても読まれうる書籍群を組み込むことが可能になるからである。たとえば柄谷行人のように文学から出発して哲学的な主題に取り組むようになった批評家の全体を人文書の中核に据えることが可能になる。むしろ、傍流にされがちだった他ジャンルから越境してきた書籍のなかにも、現在の人文書の中心がありうることを、このことは示している。文芸批評や詩論の一部がたんに文学書であるだけでなく、人文書としても読まれるべきであるのはいまや当然のことである。
「現代の批評・評論」として選択的に取り出された書籍群がもつアクチュアリティには、それだけに可能性と同時に限界もある。それこそが「ナマモノ」たるゆえんなのだが、この「ナマモノ」の鮮度を保つためにはたえざるメンテナンスが必要なのはもはや言うまでもないだろう。その第一歩だけは近いうちに実現しておきたいと思っている。
▲up

[未来の窓107]

「エディタリアンの会」の発足

 もうすでにご覧になられた方もおられるかもしれないが、小社のホームページに「エディタリアンの会」というページへのボタンがある。本欄の第一〇三回「テキストエディタ主義宣言」の後半で予告しておいたように、テキストエディタという便利なツールを使って仕事をしているひとのためのフォーラムを作りたいということで、同志をなかば強引に募った結果、当初の「エディタ主義者の会(仮)」という名称をやめて、「エディタリアンの会」というフォーラムを立ち上げることになった。このフォーラムのページも「Xoops(ズープス)」というツールを使ってお手製で作ってみた。まあ、なんとか格好だけはついているといったところだろうか。
 このページのトップに「エディタリアンの会とはなにか」という案内がある。「エディタリアンの会とはテキストエディタを日常的に使用し、その優れた機能を利用しているひとたちのためのサイトです。ここではさまざまな情報を交換し、会員のいっそうの知識と技術の向上に寄与することをめざします。なお、エディタリアンとはエディタ愛好家といった意味の造語です。」というわけである。
 昨年、わたしが翔泳社から『編集者・執筆者のための秀丸エディタ超活用術』を刊行したことを機縁に、編集者を中心にこうした会を作り、昨年十一月には最初の会合も開くところまで順調に進んだ。その後、わたしの多忙のためになかなか会活動の新たな展開ができず、ホームページのコンテンツの充実も進んでいないというのが現状ではあるが、それでも小社ホームページからの入口ができたためか、アクセス数がかなり伸びてきた。以前から小社のホームページでは「未來社アーカイヴ」ページで、出版・編集関連のさまざまなコンテンツを公開してきており、さまざまな関連ツールやファイルなどの閲覧、ダウンロードもできるようにしてある。このページには毎日かなりのアクセスがあることはログを見ているので、よくわかる。だからこのページと「エディタリアンの会」のページは相互にリンクできるようにして、関心のあるひとにはどちらのページからもアクセスすることができるようにするつもりである。
 さて、この会でどういうことをしようとしているのか。これも「テキストエディタ主義宣言」で想定したことと重複するが、初会合の議事録(ウェブで公開中)を参考に以下に記しておこう。
 まず「会の活動と目的」であるが、
・テキストエディタにかんする情報交換、紹介、方法論議、研究発表等、エディタの普及
・デジタルデータを紙に落とし込む作業(おもに出版)において発生するさまざまな問題を、エディタの活用によりどこまで解決できるかを追究する
ということである。
 さらに「活動方針」としては、
(1)「エディタリアンの会」ホームページの相互利用
(2)メーリングリストの活用。
(3)定期的な会合:コアメンバーによる会合または運営委員会のようなものによる会合。
(4)講演会、勉強会:必要におうじて研究、情報の公開の場とする。
(5)単行本等の刊行:エディタにかんする単行本刊行等。
というふうにプログラム化してある。
 もっとも、これだけだと絵に描いた餅みたいになってしまうので、コアメンバー数人がそれぞれ受け持ち分担してテーマを設定し、ホームページで記事なり原稿なりを随時発表して意見を交換する場を提供することにした。たとえば、「Wordに苦しむ編集者のユウウツ」とか「日本語表記はいかにあるべきか?」あるいは「『先生』と編集者のためのゼロから学ぶ正規表現」といった具合である。わたしに割り当てられている連載エッセイは「西谷が吼える!」となっている。まるでギンズバーグの詩みたいだが、コンピュータにまつわる馬鹿げた話やらありえないような事実をいろいろ書いていくことになっている。これらは初会合のあとの懇親会で盛り上がった結果でてきたアイデアの数々だが、半分は冗談としても、わたしとしても楽しみながらテキストエディタやコンピュータにかんする多様なネタを素材に、ひとに役立つワンポイント・コラムのようなものがどんどん書けたらいいと思っている。
 それと同時に、しばらく休載状態にある「未來社アーカイヴ」ページでの『出版のためのテキスト実践技法』増補・改訂版の「増補篇」を全面的に改訂し、テキストエディタを使った効率的で正確な編集作業がどこまでできるかをくわしく論じたい。日進月歩の世界のなかで、道具は変わっても出版における編集作業の内実はそれほど変わっているわけではないことを明らかにしつつ、それでもエディタというツールを駆使することでどれほど編集作業が楽になり、楽しくもなるかという妙味をひろく知ってもらいたいからである。テキストエディタを使って相当なことができることを示すことができれば、もっと前向きにわたしの手法に関心をもってくれるひとが増えるはずである。『秀丸エディタ超活用術』の付録とした編集処理用の秀丸マクロの改訂版がダウンロードされることが多いのも、そういった反応の現われだと思う。
 こういうふうに予告してしまうことで、読者のお叱りを受けながら、自分のやるべきことをすこしでも進めるためのプレッシャーにしようとするのが、本稿の目的でもある。多くの読者の方々がこうした試みに関心をもたれることを念願するばかりである。
関連URL/未來社アーカイヴページ(www.miraisha.co.jp/mirai/archive.html)、エディタリアンの会(www.miraisha.co.jp/texteditor)
▲up

[未来の窓108]

二年目の紀伊國屋ホール書物復権セミナー

 ことしも書物復権8社の会主催で紀伊國屋ホールでの〈書物復権セミナー〉が開催されることが一月の例会で確定した。昨年にひきつづき、紀伊國屋書店と紀伊國屋ホールのご好意で、まことに有利な条件でセミナーをおこなうことができることになったのである。
 昨年は初回の特別セッション(宮下志朗、鹿島茂、今橋映子の各氏が出演)のあと、各社もちまわりでほぼ毎月一回ずつ計九回の〈書物復権セミナー〉が開催され、各社の努力によりなんとか成功裡に終了した。その成果はこのほど作成することになった「書物復権マンスリーセミナー二〇〇五年度レポート」で報告されることになっている。
 こうした成果をみて紀伊國屋書店側もことしのセミナーの継続を申し出てくれたことはまことにうれしいかぎりである。余力さえあれば、ことしも昨年以上の努力でよりよいセミナーを実現したいところであるが、なんとしても紀伊國屋ホールといったハレの舞台を満員にするには一社の力ではいかんともしがたい面がある。すくなくとも小社のような専門書版元の地味な企画では四二〇席もある紀伊國屋ホールを埋めるべく読者に働きかけるには、宣伝力、動員力その他においておのずから力量不足を認めざるをえない。他社も多少の違いはあれ、ある程度は共通した思いをもっていたようだ。
 そんなこともあって、ことしは五月、九月、十一月の隔月で三回開催、それも書物復権8社の会共催というかたちになった。七月には東京国際ブックフェアへの共同出展という大きなイベントがあるので、ここは無理せず、しっかり準備して九月以降に備えようということにしたわけである。(なお、ことしの書物復権による復刊は十周年を記念して、新曜社、創元社、筑摩書房、平凡社の四社がスポット参加することになっており、その準備もあって九月に延期されている。こうした定例的な活動も着実に成果を収めているのである。)
 さて、そうしたなかでことしの〈書物復権セミナー〉第一回は紀伊國屋ホールと講師の都合もあって、五月十六日(火)に決定した。8社の会共催といっても、岩波書店と小社が第一回目を企画することになり、ことしのテーマは〈批評と教養〉のありかたを問うといったかたちで進めることになった。
 大学における〈知〉のありかた、教師のありかた、教育現場の問題をどう考えていくべきか、といった具体的なテーマから、かつてなら〈知識人〉と呼ばれた社会のオピニオン・リーダーの不在・消滅といった現実をふまえて、新しい知の仕掛け人、思想や社会への批判力をもった人間をどうイメージしていくのか、どうやって発見していくのかといった課題、さらにはいまや死語とも思われかねない〈批評〉や〈教養〉といったことばがいまでも意味をもつのか、意味をもつとすればどのような方向性において可能なのか、といった視点から現実批判、社会批判としての学問・研究のありかたを再検討していく、といった重い課題をことしのテーマにしようというわけである。いかにも書物復権8社の会らしい、ややまっとうすぎるテーマであることは承知のうえで、しかしこうしたテーマの追求は書物復権8社の会にこそふさわしいのではないかと考える次第である。紀伊國屋ホールといった晴れやかな舞台でこうした重いテーマを展開させるのは稀有の出来事になるかもしれないとやや不安を覚えつつ、これもこの時代のひとつの命運なのだと思わざるをえない。
 さて次の問題は、そんな厄介なテーマを引き受けてくれそうな講師を考えなければならないということで、岩波書店、みすず書房の担当者と頭をひねった結果、ずばり高橋哲哉氏、姜尚中氏、佐藤学氏という顔合せでなんとしても実現しようということになった。昨年、『靖国問題』(ちくま新書)でおおいに話題になり、その関連でますます忙しくなった高橋哲哉氏は、ことしはすこし充電したいというところを無理に出演をお願いすることになった。さいわいにして他の二人の講師の方たちも岩波書店からの依頼で出演を承諾してくれることになり、豪華な顔合せが実現した。そこで議論内容をすこしずつ煮詰めていく段階にはいったところである。前述したような内容の議案をひとまず並べてみて会員社に叩き台として提案したところまできて、さらにこの内容をどういう方向に設定できるのかのつづきを思案しているのが本稿なのである。
 こうした討論会は実際にやってみないとどういう方向に議論が動いていくのか、かならずしも予断することはできないが、この第一回ではできれば、このあとに予定されている二回分も先取りしたようなかたちの、いわば総論的な議論ができないものかと期待している。こういうことをあらかじめお願いすると、講師の方も負担を感じられてしまうので、ここだけの話になるが、われわれ書物復権8社の会としては、できることならこの講師陣に〈書物復権〉理念の再定義をしてもらいたいところである。昨年の〈書物復権セミナー〉第一回がさながら本好きの「総決起集会」であったという内部評価があったのとはまたちがった意味で、〈書物復権〉運動の十年目の再スタートを飾るにふさわしい明確な位置づけをしてもらいたいと思うのは、やや身勝手なことにはちがいないが、これだけのメンバーが一堂に会して書物の文化について真っ正面から論じてもらえるなら、期待しないわけにはいかない。そうした流れが実現できたら、このうえない僥倖というべきだろう。哲学の高橋哲哉氏、政治学の姜尚中氏、教育学の佐藤学氏とジャンルもうまい具合に割り振りができているので、議論も自在に、思いがけないスリリングな展開もふくめておおいに楽しみである。
 より詳細な内容や案内は、今後は紀伊國屋書店のホームページ、チラシをはじめ、書物復権8社の会各社のPR誌、ホームページ等を通じて明らかにされていくであろうから、ぜひご注目いただきたい。
▲up

[未来の窓109]

〈白バラ〉の問い──映画『白バラの祈り』の意味

 いま、〈白バラ〉をめぐる問いがあらたに発せられている。言うまでもなく〈白バラ〉とは、第二次世界大戦下のナチス・ドイツで大学生たちによって組織された反ナチ抵抗運動だが、この小グループの運動が一九四三年にゲシュタポによって壊滅させられるその経緯を、とりわけその中心人物ハンス・ショルの妹ゾフィー・ショルに焦点をあてて映画化した『白バラの祈り──ゾフィー・ショル、最期の日々』(マルク・ローテムント監督)が静かな感動を世界中に呼び起こしている。
 すでにこの映画は、昨年のベルリン国際映画祭での最優秀監督賞、最優秀主演女優賞をはじめ数多くの映画祭でも受賞作になっている。日本でも、日比谷シャンテ・シネでの上映が連日盛況で、今後も日本各地での上映が続々と予定されている。朝日新聞社が協賛していることもあって、強力なキャンペーンのもとにマスコミ各社もこぞって好意的な映画評を掲載するなど、話題にも事欠かない。この動きに呼応して、各地で〈白バラ〉関連の映画上映会、シンポジウム、写真展などが開催され、主要書店での〈白バラ〉関連本フェアも好調である。
 こうしたなかで、小社からも年頭にこの映画のオリジナル・シナリオが同題の本として急ぎ刊行され、映画とあわせて書評に取り上げられるなど、動きも活発である。また、既刊本のロングセラー『白バラは散らず──ドイツの良心 ショル兄妹』(インゲ・ショル著/内垣啓一訳)とひさびさに復刊した『白バラ抵抗運動の記録──処刑される学生たち』(C・ペトリ著/関楠生訳)も驚くほど売れ、日比谷シャンテ・シネでは上映期間中に〈白バラ〉関連本ですでに六〇〇冊を超える売行きになっているほどである。『白バラは散らず』は重版して一か月たたないうちに追加重版することになった。こんなことは最近の小社ではめったにないことである。脚本家フレート・ブライナースドルファーによるオリジナル・シナリオ版はもともと大部な『白バラの祈り』という原書の一部を抜き出して刊行したものであり、新資料にもとづく〈白バラ〉の歴史的研究をふくむ残りの資料篇も今年中には刊行できる予定である。ナチ研究の重要な一面が全面的に開示されるものとおおいに期待している。
 いまさらわたしなどが喋々するまでもないが、〈白バラ〉の抵抗運動とはミュンヒェン大学医学部の学生たちというインテリによる非暴力的な言説(ビラ撒きや落書き等)での反ヒトラー政府運動であり、一斉逮捕のあと、わずか六日間で国家反逆罪として一方的に断罪され、斬首刑に処せられるという無惨な結末を迎えている。しかし、こうした一見するとひよわそうなインテリたちの抵抗運動が、じつは強靱な精神によって支えられたものであったことが今回の映画をつうじて明らかにされる。とくに主人公であるゾフィー・ショルが抵抗運動をつうじ、さらには非道な裁判での言論闘争をつうじて、人間的にも一気に成長し精神的にも強くなっていく姿が強烈な印象をあたえる。おそらくこの姿が世界中のひとびとに圧倒的な感銘をあたえ、なにものにも屈せずに生きることの美しさを教えているのだろう。なにしろゾフィーはたった二十一歳だったのであり、兄ハンスに影響されたにしろ、逮捕前はごくふつうの少女にすぎなかったのだから。
 こうしたゾフィーの心の動きは、たとえばゲシュタポの尋問官ローベルト・モーアとの尋問への応答のなかで、最初のはぐらかしの姿勢からすこしずつ断固たる主張に変わっていくことからも見てとれる。「心から忠告しておくが、無条件にためらうことなく真実を答えたほうがいい」と言うモーアにたいして、ゾフィーはこう答える。──「ビラに関わっているなどということは、ぜったいにありません。兄はくだらないジョークをいったかもしれませんが、真犯人が見つかってないために、私たちに疑いがかけられていることは理解できます。しかし、ほんとうに無関係なのです。」(『白バラの祈り〈オリジナル・シナリオ〉』五七ページ)
 しかしこのゾフィーの発言は兄ハンスをかばうためのものであり、のちに動かぬ証拠を突きつけられたときに、兄といっしょにビラをまいたことを認めざるをえなくなり、こう言う。──「その通りです──私はそれを誇りに思っています!」と。(同前、八七ページ)
 ここから尋問官モーアとゾフィーとのことばのバトルがつづくのだが、この映画の見どころのひとつはこのことばによるバトルにあることは明らかであり、〈白バラ〉の抵抗運動が非暴力を貫いた言語の運動であったことがわかるのである。モーアはナチの小役人がつねにそうであるように(『イェルサレムのアイヒマン』におけるアドルフ・アイヒマンを想い起こそう)、いわばうだつの上がらない下層階級の人間がナチスによって成り上がった人間なのだ。だからモーアはゾフィーにこんな恨みがましいことを平気で言うのだ。
「君は特権階級なのだ。君と君の一味は、恥知らずに特権を濫用している。君たちは、われわれの金によって戦争のまっただなかで大学で勉強することを許されている。私は、糞みたいな民主主義の時代には、仕立屋の修業しかできなかった……(中略)ナチズムの運動がなかったら、私はいまもピルマゼンスで田舎警官をしていただろう。」(同前、一二〇ページ)
 だからこそ映画の最後で「人民法廷」裁判長ローランド・フライスラーというヒステリックで狂信的な男にたいして自分は「言葉で闘っている」(同前、一八〇ページ)ことを明言さえするのだ。そして最終判決を下そうとするフライスラーにたいして「私がいま立っている場所に、もうすぐあなたが立つことになるでしょう」(同前、一九五ページ)という決定的なことばを吐く。ことばを信ずることは、自分の来歴、現在を信ずることであり、未来を見通す視点を貫くことにつながる。ここにこの映画の感動の極みがある。
▲up

[未来の窓110]

「日本の民話」シリーズのオンデマンド化の実験

 本欄で「少部数出版の可能性」というタイトルでオンデマンド本について書いたのはすでに七年ほど以前に遡る(一九九九年八月号掲載)。これは取次会社日販の子会社として「ブッキング」が立ち上げられたときに書いたもので、オンデマンド本をふくめて少部数出版(というよりも増刷)の新しい可能性についてその時点での判断を述べたものであった。いま読み返してみて、そこで書いたことがそんなに的外れでなかったことが確認できた。というより、そこで述べたことは出版物の製作や編集にすこしでもかかわったことのある者であればすぐにわかることにすぎなかったからである。簡単に言えば、オンデマンド本とは原本さえあれば、一冊からでも印刷・製本ができ読者の要望に応えることができる簡易な印刷方式のことであり、そのための印刷機ができたことで可能になった方式である。品切れ本を流通に乗せるチャンネルを確保するという大義名分のある話だったからマスコミが飛びついたのも無理からぬことではあるが、品質の問題、管理コストの問題、著作権上の問題等いろいろな事情があってこれはそんなに簡単な問題ではなかった。案の定、ブッキングは初期の構想通りにアイテムが集まらず、大きな軌道修正を迫られて今日にいたっている。
 ところで、ブッキングの立ち上げに遅れることわずか三か月ほどで立ち上げられたオンデマンド出版会社がやはり取次会社トーハンの子会社であるデジタルパブリッシングサービス(DPS)である。これはトーハンがブッキングに対抗上つくった会社であるが、当初の会社設立の動機づけの曖昧さにもかかわらず、現在は順調に発展している。それはDPSがトーハンとかかわりの深い凸版印刷と連携して着々とアイテム数を増加させていくことに成功したからである。出版社の自発的意志によってはなかなか増やすことのできなかった品切れ本のオンデマンド化が、それらのデータを多く保有している凸版印刷を介在させることによって、有利な条件のもと、出版社の同意が得やすくなったからであろう。
 こうしたDPSの仕事に小社としても無関心であったわけではなかったが、ちょっとしたきっかけで旧知の関係をつうじてこのほど本格的にオンデマンド本の製作・販売に取り組むことになった。というのは、未來社のような専門書版元では、品切れになっても残念ながら増刷するには採算的にむずかしい本がたくさん出てきてしまうからであり、著者や読者の要望に応えられないことが多かったからである。こうした品切れ本のうちにもかつてならロングセラーと呼ばれもしたようなある程度まではコンスタントに注文がくる本が相当あり、それらは機をみては増刷したり、〈書物復権〉の運動のなかで陽の目をみられるようにしたり、いろいろ努力をしていないわけではないのだが、それでもおのずから限界があり、より注文数のすくない本ではそれさえも不可能だった。そうこうしているうちに少ない注文もますます減少していくことになり、増刷はますますむずかしくなってしまう。そうしていくと、増刷で採算のとれる本は非常に限られたものにならざるをえなくなる。こうした悪循環を断ちきり注文にたいしてなんとか応えるためにはオンデマンドという方法を取り入れるのはひとつの有力な打開策につながるのではないか、というのがわたしの判断なのである。「未來社はオンデマンド本の宝庫だ」と言うのがまんざら冗談ではないのは、そうした事情によるのである。そしてわれわれの仲間とも言うべき中堅・専門書版元のいくつかがすでにDPSと連携して仕事を進めていることもおおいに参考になった。
 今回は手始めに実験をかねて品切れの多い「日本の民話」シリーズ全七五巻・別巻四冊を新しい装幀のもとでオンデマンド化することにした。これらは昔のシリーズのため、活字も古く(いまの読者はご存じないひとも多いだろうが、五号活字というサイズの活字が使われている)、活版のため印刷もむずかしく、また内容の性格上からも低価格が望ましいため、かつては〈民話〉ブームに乗っておおいに売れたシリーズでありながら、最近は品切れになるがままにせざるをえなかった。ところが最近、テレビなどで小社のシリーズをもとにしたTBSの「まんが日本むかしばなし」が再放映されるようになったりとか、同じく小社でも著作集を刊行している故宮本常一氏の本が静かなブームになるなど、荒廃した日本人の心情に豊かさを取り戻そうとでもするかのような動きがみられるのに呼応して、このシリーズのオンデマンド化が浮上したのである。
 すこし前から準備していたこの企画がようやく動き出したところで、いま「日本の民話」シリーズの著作権者(またはその継承者)にたいして、オンデマンド本とはなんであるかの説明書とともに、オンデマンド版の出版許可をお願いしているところである。わたしも存じ上げない方がほとんどであるが、存命中のかたもご高齢にもかかわらずとても喜んでくださるかたが多いのにはあらためて驚いている。なかには早くも発注をしてくださるかたがいるなど、感触としても良好である。DPSのほうでも図書館へのセット販売などもふくめていろいろ販売計画を練ってくれているようなので、これも楽しみにしながら、こうしたことがきっかけとなって品切れ本の多くが復活できるようになったらいいと願っている。
 そしてじつはこの過程で二冊のオンデマンド化が決定した。メアリ・デイリー(岩田澄江訳)『教会と第二の性』およびマリオ・フラッティ(岩田治彦訳)『フラッティ戯曲集』がそれである。これらは少部数の教科書採用の依頼がきっかけだったり、訳者の要望があったりした結果だが、こういう方法があることを知れば、著者や読者からの要望も増えてくるだろうし、ぜひ要望を出していただきたい。条件さえそろえば、とりあえずはこうしたかたちでオンデマンド化が実現可能である。今後はこうした出版情報を必要とするひとにいかに伝達できるようにするかが問題となるだろう。
▲up

[未来の窓111]

ふたたび人文書ジャンル見直しという課題をめぐって

「人文会ニュース」98号(人文会発行)で紀伊國屋書店本店の人文書担当、和泉仁士氏が「『じんぶんや』の試み」という興味深い文章を書いている。二〇〇四年九月から毎月一回、本店五階の人文書・文芸評論書売り場の一角で始めた「じんぶんや」というコーナーについて、その概要と趣旨を説明している。意外と見落とされがなちコーナーだが、「本読みのプロ(著者や編集者)」にあるテーマで二〇~三〇点ほどの本をコメント付きで推薦してもらい、さらにそのテーマに沿った小エッセイを寄稿してもらったものを小冊子にして店頭配布している。暖簾ふうの看板などもプロのデザイナーに協力してもらって作っているそうである。こうした企画は以前も、たとえばリブロ池袋店などで「~の選んだ一〇〇冊の本」といったかたちで平台展開されてかなり話題になったものと似ている。それを継続的におこなうところにこの試みの意義があると思う。
 その点は和泉氏もよく自覚されていて、著者や編集者の協力を得て「各ジャンルの基本書や、埋もれつつある良書を掘り起こし、スポットを当てることができ」、また「回を重ねることによって、それら各トピックの基本書や良書のデータベースを作ることができ、社員教育に繋がる。(基幹棚にうまく反映させる)」ことができることを指摘している。書店における人文書の棚構成とは、こうした日々のたえざるメンテナンスと発見・発掘の努力の賜物であることがよくわかるすなおな文章である。ただ、こうした企画はどうしても手間や時間のわりには売上げに結びつく度合いがもうひとつということになりがちで、社員の負担は相当なものだとも言及されている。たしかにそうした側面はあるだろうが、出版社に声をかけて協力を要請することもふくめて、できれば可能なかぎり継続していってもらいたい。こうした試みは貴重であるし、紀伊國屋書店本店クラスでなければ実現できない企画でもあろうから、(わたしもふくめて)協力を惜しまないひとはいくらでもいるだろう。
 というのも、いま人文会で手がけている人文書中ジャンルの全面見直しという構想は、出版社サイドからの提案のかたちになるとはいえ、このわけのわからない人文書という巨大なジャングルを、ジャンル分けという解読格子を設定しながらなんとか解きほぐし、書店にわかりやすく提供しようとする試みであり、書店のこうした日常的な努力とリンクすることが可能かつ必要な試みだからである。この試みのいきさつは業界紙の「新文化」五月十一日号に書いたので、書店や取次、出版社には読んでいただいた方もいるだろう。
 ただ、なにぶんにも人文書というのは、既成の問題領域にあきたらず時代や状況の変化とともに開かれてくる新しい問題や課題に挑戦しようとするひとたちの学問的、批評的な営みである以上、これは本来的に変化しつづけるものであり、またそうでなければならないジャングルの世界なのである。人文書の世界に未知なるものがたえず生み出され、われわれの頭を悩ませながら、新たな切り口を要請する──この発想の転換をたえず要求するやっかいさがなくなったらもはや人文書とは言えないだろう。ましてやこの変化の激しい時代である。既成のジャンルにすっぽりと収まっているだけの本などは、純学術研究書であるならばともかく(それだってどうだか怪しいが)、もはや知的なインパクトを与えるものとは言えないだろう。
 こうして人文書ジャンルの見直しはとりわけこの時代の要請であり、終わりなき業界的課題のひとつであることが判明する。そうである以上、関心のある立場のひとそれぞれが協力しあい、たえざるメンテナンスが要求される。ハーバーマスのことばをもじって言えば、〈未完のプロジェクト〉として人文書に関与するすべての出版人、書店人、取次人が情報を提供しあい、意見を交換しながらすこしずつでも展望をひらけるようにするべきだろう。
 こう書いてくると、なんだか息苦しいばかりの話に聞こえるかもしれない。そんな面倒な世界なら最初から近づかないほうがいい、とされてしまいそうである。しかし、現実的には書店店頭ではちょっとした情報にもとづく棚展開の工夫ひとつで本が動くことが可能なはずである。人文書を置くことのできるスペースは書店の規模、立地条件などによってかなり限定されているだろうなかで、それでもいくらでも試みることができるのが人文書のおもしろいところである。本欄一〇六回目に「人文書のジャンル分けというゲーム」と題してこのテーマで書いたように、ひとつには〈ゲーム〉として人文書棚を構成するといった余裕もときには必要ではなかろうか。思いがけない発見や発掘はそうした〈ゲーム〉感覚から派生してくるかもしれないからである。
 そう言えば、この文章を読んだ地方の(関西方面らしい)書店人グループがわたしの提案に言及していて、やはり人文書ジャンルの研究をしている書店人仲間が編集者、著者とタイアップして活動していることをホームページに記している。書店名も規模もよくわからないが、こうした試みが現に存在することはこの問題の必然性を示しているように思われる。こうした問題意識を共有できるひとたちがいるかぎり、人文書にかかわりをもとうとする出版人は、ジャンルへの問題意識をもつべきだろう。すくなくとも自社で発行する本がどういうジャンルに属するものであるのかをたえず情報発信していくのが望ましい。
 今後、人文会ではこうした問題意識をもって、会以外の出版社の出版物もふくめて、人文書と呼ばれるジャンルのたえざる再検討、再設定、そのジャンルの基本書はなにか、といった取組みを恒常的におこなうようにしたい。出版社サイドのおせっかいにならない範囲で、書店の人文書担当者との情報交換(売れ行き情報、著者情報や学問状況にかんする情報)を重ねていけば、必ずやいまよりはいい結果が出てくるのではなかろうか。
▲up

[未来の窓112]

『現代政治の思想と行動』新組版刊行にあたって

 この八月十五日がくると、故丸山眞男氏の十周忌を迎える。丸山氏が亡くなってから、なんともあっという間に十年を閲したことになるのは驚きである。
 私事にわたるが、わたしが最後に丸山氏のご尊顔を拝することになったのは、亡くなる前年一九九五年四月三十日のことであったことをいまさらのように思い起こす。なぜその日なのかと言えば、その前日にわたしの父・西谷能雄が亡くなり、そのお通夜の晩遅くに丸山眞男氏が夫人とともにわざわざ大森山王の実家に来ていただいたからである。かなり弱られていて息苦しそうにもかかわらず、ちょうどお通夜の読経の終わったころに夫人に支えられるようにして縁側から丸山氏が入ってこられたときには、そこにいた一同とともにほんとうに息を呑む思いだった。さらに驚いたことには、お通夜に来ていただいていた木下順二氏、小林昇氏、田中浩氏らを交えて、延々(おそらく)二時間ほど、まったく疲れを知らぬいきおいで話し続けられていたことである。病身に障るのを気にしながら丸山氏の滞ることのないお話に聞き入っていたことをまざまざと思い出す。長いおつきあいをさせていただいた父にしてみれば、出版人冥利につきるありがたいことであったろう。この事実はたぶんほとんどどなたも記録されていることはなさそうなので、ささやかながらここに記しておきたい。
 さて、そんなことを思い出しながら、ここまでの十年間、小社としては丸山眞男氏の業績にかんしてほとんどなにも関与することのできないままに過ぎてしまったことを残念に思わざるをえない。そうしたなかで、丸山氏の主著のひとつである『【増補版】現代政治の思想と行動』をこのたび新装新組みにして刊行し直すことにさせていただくことになった。現在の版は、一九六四年にそれまでの上下二冊本(一九五六年、一九五七年刊)を増補合本にしてからすでに一五九刷一六五〇〇〇冊に達しており、A5判六〇〇ページにもなろうかというこの種の学術書としては破格のロングセラーになっている。ちなみに合本以前のデータを調べると、上巻が二七刷三一八〇〇冊、下巻が二五刷二九〇〇〇冊発行になっている。わたしが入社して以降のかなり長いあいだ毎年五回から六回の増刷で五〇〇〇部から六〇〇〇部ほど売れていた。みすず書房から『戦中と戦後の間』が刊行された一九七六年ごろは年間七〇〇〇部に達していたこともある。取次の鈴木書店が健在だったころには、店売用に引き渡すために小社の玄関脇に毎週三〇〇冊ずつ積み上げていたことがなつかしく思い出される。
 思えば、一九五一年創立の小出版社からわずか創立五年目にして丸山眞男氏の新刊が刊行されることになったことは、当時としても相当な業界的話題だったらしい。新興の未來社ごときに丸山氏の新刊をさらわれることになった老舗の学術書出版社が編集会議で大問題だとして物議をかもしたという話を聞いたこともある。丸山氏を缶詰めにして原稿を仕上げてもらった伊豆湯が島の温泉旅館も、そうした縁でその後かなり知られることになったとも聞く。
 苅部直氏の新著『丸山眞男──リベラリストの肖像』(岩波新書)を読むと、丸山眞男氏の生い立ちから人となりが具体的に書かれており、わたしが父から聞いていた情報といろいろ符合するところがあってたいへん興味深かった。一九六五年生まれの若い政治学者が毀誉褒貶もはげしかった丸山氏をこの本のように客観的に論じているのを読むと、時代の推移を感じてしまうが、苅部氏が「あとがき」で書かれているように、一九八〇年代初頭の高校の教室で『現代政治の思想と行動』や『日本政治思想史研究』に触れる講義がおこなわれていたという驚くべき事実と、それよりはるか以前、一九六〇年代半ばにわたしが当時通っていた東京のある私立高校の社会科の授業で『現代政治の思想と行動』が教材として使われることになり、その本を発行している出版社の息子として先生から紹介されてびっくりさせられた事実とが、どこかで一脈通じているのかもしれないとすると、丸山眞男氏の思想はかなりの長期間にわたって日本社会のありかたに関心をもつひとたちに深いところで強力な影響を与えつづけていたのだということがあらためてわかるのである。
 小社刊行の『現代政治の思想と行動』は丸山眞男氏の戦後民主主義にたいする思想を集大成した論文集であり、戦後日本がどういう道筋をとるべきかを指南した警世の書、思索の書である。大学闘争世代であるわたしなどからすれば、吉本隆明氏に代表される丸山眞男氏への批判──主として大学人、知識人としての処世法にたいする批判──にも納得してしまうところもあったが、政治的社会的状況のなかでものごとを根本から考える姿勢を貫くことがいかに重要なことであるかを教えられた点で、この思想家の存在は大きなものだったし、いまの時代を考えれば、それはますます大きなものとなっていくだろう。
 すでに述べたように『現代政治の思想と行動』は増刷に増刷を重ねてきたために、いまとなっては紙型も相当に傷んできてしまい、もうあと数回ぐらいの増刷がやっとということになってしまった。丸山氏の没後十年にもかかわらず、いぜんとして新しい読者が生まれつづけていることはしたがっておおいに歓迎すべきことであり、小社としてもよりきれいな活字で新しい読者に不朽の名著を提出する義務があると考えた次第である。出版にかんしてきわめて厳格だった丸山眞男氏のことを思うと、新組みにしてカバー新装にするというアイデアはいかがなものかと不安もあり、おそるおそる夫人に打診させてもらったところ快く了承していただけることになった。そんなわけでいま小社編集部をあげて大急ぎで校正に取り組んでいるところである。本書新装版刊行にかんする監修と編集実務にかんして丸山夫人の意向を受けた松沢弘陽先生のご協力もいただいて、なんとか十周忌までに新装新組版を刊行できないかと願っている。
▲up

[未来の窓113]

東京国際ブックフェア二〇〇六の中間総括

 東京ビッグサイトでの恒例の東京国際ブックフェアが終了し、いよいよ夏本番を迎えようとしているところである。書物復権8社の会として東京国際ブックフェアへの共同出展を始めてことしで三回目。いろいろ試行錯誤を重ねながら、各社それぞれの対応でここまでなんとか三年連続で共同ブースを開いてきた。ことしは梅雨時にしては比較的天候に恵まれたにもかかわらず、われわれ書物復権8社の会が店を張っている「人文・社会科学書フェア」コーナーの頑張りはあっても、全体的に昨年より賑わいに乏しかったように思う。書物復権8社の会全体としても昨年より売上げはわずかだが下回った。ことしの傾向としてデジタル・パブリッシング部門の拡張が目立った程度で、来年のブース予約はかなり増加しそうだとの主催者側の情報だが、はたしてそれほど活性化する方向でこのフェアが発展しているとも思えない。書物復権8社の会としても来年あたりが正念場のような気がする。
 例年六月はじめに一斉刊行される復刊書が、書物復権8社の会の十周年記念ということもあって拡大十二社による復刊運動として展開されることになり、ことしは九月刊行にずれこんでいる。そのためもあってか、昨年のように東京国際ブックフェアの場でお披露目することができず、そのことが小社のような新刊点数の少ないところでは端的に売上げ減につながってしまった。
 その代わりに、昨年は復刊書を並べた共同スペースが空いたこともあって今回は積極的に書店人に声をかけ、ブースに「商談席」を設けて来展してもらい、いろいろ話し合いをもつことができた。わたし自身はさほど面識のないひとが多かったので、営業部のほうで対応してもらったが、これからにつながる交渉や関係性のもちかたに新機軸を生み出すことになったのではないか。書物復権8社の会としてそれぞれの社の特徴をいかしながら、多様な組合せで今後のフェア企画などの実現が期待しうるようになったのは、今回の大きな成果と言えるかもしれない。岩波書店、みすず書房、東京大学出版会と小社とで「丸山眞男フェア」をあちらこちらで実現できそうなのは、なにもここでの商談の成果ばかりとは言えないにしても、ひとつの具体的な成果である。こうした連携企画が今後も続々生まれるような態勢が組めるようになれば、これはひとつの大きなきっかけである。
 ところで小社の売上げが伸びなかったのは〈書物復権〉本が九月刊行になったというほかにもいろいろ要因はあるが、話題性に富む新刊書の少なさとともに、値の張る既刊書をどうしたら購買意欲に結びつけられるのかその戦略性に乏しかったことでもあろうか。こういうフェアで大量に本を買う読者層を身近で観察していると、いくら二割引というインセンティブには魅力があるといっても、予算にはおのずから制約もあり、あらかじめ購入する意志のない本には手が伸びにくいのではないか、ということを痛感した。その反面、価格の安いものはあまり抵抗なくその場で決断ができるふうでもあり、語学書や実用性の高いものは価格がおおむね安いこともあって若い女性などがどんどん購入しているのが目についた。ことしは例年にもまして読者の懐ろ具合が悪そうだし、その意味でも読者の現実的なきびしい選択眼にさらされていたように思う。
 じつはこうした問題意識は昨年の段階でも感じていたことであり、そのことは本欄一〇一回目の「東京国際ブックフェアへの共同出展──その位置づけの試み」(昨年八月号所載)にも同様なことを書いて総括している。その反省がことしは活かされなかったことになるわけだ。準備段階で十分に時間をかけられない事情があったことにもよるが、いまはまだすこしずつ力を矯める段階であると割り切って捲土重来にかけるしかない。(あまりこういうことを書くと、ネットのブログなどで「時に愚痴にも思えてトーンダウンすることもある」などと書かれてしまうこともあるので、反省するだけにしておこう。)
 さて、さきほど時間不足のことに触れたが、この夏にむけては、前号の本欄でも記したように、故丸山眞男氏の没後十年をきっかけとして新装版『現代政治の思想と行動』を新組で刊行することになり、そのために本文六〇〇ページ弱の校正と通読に追われたほか、この九月の〈書物復権〉のために平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文学論争史』上中下三巻の新組版刊行を予定しており、8ポ二段組でなんと一〇七〇ページになろうという古いロングセラーをいまごろになってそれこそ血眼になって通読に追われているところである。ほかにもこのひと月ほどのあいだに読まなければならない新刊のゲラが最低二冊はあり、あわせると二〇〇〇ページを軽く超す通読をしなければならないのだから、まことにもってホットな夏になること確実なのである。
 さいわい小社の編集部の若手陣もかなり経験を積んできているので、ようやくこうした無謀とも思える仕事を集中的にこなすことも不可能ではなくなりつつある。以前にくらべれば生産性が上昇してきたことは確かなので、こうした成果がかたちを成すようになってくるこの秋以降は、どうやら何年かごしの生産性向上が実現できる見込みである。そうした機運をキープできれば、もしかりに来年の東京国際ブックフェアに出展することになっても、これまでの反省がようやく活きることになるだろう。
▲up

[未来の窓114]

小泉首相の靖国神社公式参拝にみる時代の危機

 この八月十五日(六一回目の敗戦記念日)、小泉純一郎首相は、首相就任時の「公約」としていた靖国神社への公式参拝を、近隣諸外国や周囲の反対や疑問にもかかわらず、ついに強行した。首相任期をあとひと月ほど残してこれが最後のチャンスとばかりに、これまでは非公式参拝としてさえ批判を浴びていた靖国参拝をなりふりかまわず断行したのである。あのタカ派として知られた中曽根康弘元首相以来、二十一年ぶりの首相としての靖国神社への公式参拝であり、小泉純一郎氏は歴代首相のなかでも屈指の軍国主義者としてみずからを位置づけたことになる。
 当然のことながら中国や韓国をはじめこの公式参拝には厳しい批判の声が挙がっているが、そんな批判などどこ吹く風というポーズをとるのが好きなのがこの男なのだ。再三にわたっての非公式参拝で中国、韓国との首脳外交は途絶したまま、この男は首相の座を去る。あとは野となれ山となれ、というのがこの無責任男の本性なのである。これまでは憲法で保障された個人としての思想信条の自由の行使としての参拝という建前をとってきたのだが(それ自体が首相という公的な身分であることを忘れた形式論理のみの理屈でしかないが)、いよいよ化けの皮がはがれたことになる。
 言うまでもなく、靖国神社とは第二次世界大戦の戦争犯罪人として重大な責任をもつA級戦犯を合祀している国家神道の権化としての追悼施設である。戦争で命を落とした無数の無名戦士は近くの千鳥ヶ淵に葬られているのにたいして、靖国神社は戦争犯罪人を特権的に祀っている神社なのである。
 A級戦犯容疑者でありながら占領軍の特別の計らいによって訴追を免れ、のちに首相にまでのしあがった岸信介を祖父にもつ安倍晋三氏がお忍びで靖国神社を参拝するのはこの意味で理由のないわけではないが、ポスト小泉のトップランナーと見られているこの男が日本の首相におさまるようなことになれば、今後の外交問題はますますひどいことになっていくのは目にみえている。自分の祖父をA級戦犯扱いすることを認めず、戦前の日本帝国主義のおこなったさまざまな野蛮行為をいっさい認めようとしないこんな世間知らずのお坊ちゃまが、どうして小泉首相が踏み抜いた近隣諸国との歴史認識をめぐる落差を埋めることができるだろうか。中国政府や韓国政府が、すでに命脈の尽きかけている小泉首相の公式参拝にこれでも意外なほど目くじらを立てずにいるのは、この男には何を言ってもムダだとわかってしまっているからであると同時に、ポスト小泉候補の言動により危機感をいだいているためでもあろう。
 その意味では、もうひとりの首相候補に躍り出てきた麻生太郎氏も然りである。この三井三池炭坑を食い物にしてのし上がった財閥のお坊ちゃまも安倍晋三氏と同じく強硬なタカ派であり、第二次大戦中のアジアへの侵略行為も侵略ではないと強弁するウルトラ右翼である。小泉純一郎氏は無責任でおめでたい自我拡張論者だが、安倍晋三氏と麻生太郎氏は、みずからの出自に必然的につながっている確信犯的な歴史修正主義者である。かれらは教育基本法さえも改悪して、自分たちへの批判勢力を押さえ込み、若いひとたちにまともな批判意識が育たないような教育方針を推し進めている張本人たちでもある。
 かれらが政権を担うようになると、日本の右傾化にますます拍車がかかるようになるのは間違いない。中学校や高校で現におこなわれている国旗(「日の丸」)と国歌(「君が代」)への起立拒否教師などへの教育委員会による監視と処罰の暴力的支配が、いずれ言論・出版の自由への規制や圧力となってあらわれてくるだろうことは予想できる。小泉首相によるイラク派兵が事実上の自衛隊の海外派兵の実現であったように、憲法で保障されているさまざまな自由が現実的な場面ではすでに歪曲や制約を受けており、平和憲法はみずからの手で守らなければなしくずしに崩壊させられるところまで近づいていることを、われわれ出版人も認識しなければならない時期にきたのである。
 小泉首相の靖国神社公式参拝を批判していた自民党の加藤紘一元幹事長の実家が、小泉参拝と同日の夕方に右翼団体幹部とみなされる男によって放火され、男も割腹自殺を図ったことが報道された。こうした一事をみても明らかなように、自民党幹部でさえも政権をになう主流派でなくなればこうしたテロに遭うこともありうる危機的状況になってきたのである。ヒットラーが政権を握ったあと、それまで手足として使ってきた突撃隊がじゃまになってくると一網打尽に殺戮したナチの恐怖の時代と、強者の論理がほとんど無抵抗にまかり通る日本の現在とをオーヴァーラップさせてみるのは、はたして行き過ぎだろうか。
 そう言えば、さきごろ昭和天皇の靖国神社批判がまことしやかに報道されたことがあった。A級戦犯の合祀された靖国には参拝できない、と昭和天皇が側近に語ったというメモが見つかったというのである。ことの真偽は定かではないが、もしそれが本当だとしたら、なぜこの時期にそういうものが公表されたかの裏を考えなければならない。
 ひとつは女性天皇をめぐる論議にもあらわれている天皇家存続の危機でもあるこの時期に、小泉首相の軽はずみな靖国神社公式参拝の累が天皇家に及ばないように予防線を張ったとみることが可能である。あらかじめ天皇家を免罪しておこうという打算が働いたという可能性は否定できない。
 もうひとつの可能性としては、ポスト小泉をねらう勢力が、小泉首相以上に靖国護持論者である安倍晋三氏と麻生太郎氏を窮地に追い込もうとするいささかミステリー的な陰謀説である。そんな力学が働くような場所のことにはうといので、あくまでも推測の域を出ないが、そんなことをおのずから考えさせるタイミングの良さにはなにか政治の裏側のおそろしい詐術が働いているのではないだろうか。しばらくはこの状況から目を離せないだろう。
▲up

[未来の窓115]

十周年の〈書物復権〉運動

 この九月に書物復権八社の会と拡大四社による〈書物復権〉の復刊書五二点・五五冊が刊行された。前々回の本欄でも触れたことだが、ことしは〈書物復権〉運動十周年ということもあって、新曜社、創元社、筑摩書房、平凡社の四社にスポット参加してもらうことになり、これまでの八社各五点計四〇点という原則からかなり拡大した復刊になった。これにともない、九月十一日の「朝日新聞」夕刊には全七段の連合広告という会では初めての大宣伝もおこなった。例年の六月実施をことしにかぎり九月に実施することになった結果、読書の秋へむけてタイミングのよい復刊運動になったかもしれない。
 紀伊國屋書店のホームページに置いてもらっている〈書物復権〉の復刊リストのページ(http://www.kinokuniya.co.jp/01f/fukken/fukkanlist2006.html)には「読者からのメッセージ」の抜粋が掲載されている。それらを読むと、この地道な運動が読者に着実な支持を受けて、これからも継続することを期待されていることがわかる。現在の書籍流通のありかたから読まれるべき本が店頭に置かれにくい現状への不満を述べる読者の声に、出版界の人間はもっと真摯に耳を傾けるべきであろう。
 いつもそうであるが、今回も各社の復刊リストを眺めていて、こんな本がこれまで品切れになっていたのか、という素朴な驚きを禁じえない。ここに挙げられている書籍の多くはなんらかの話題性をかつてもっていたし、いまでも十分に現役たりうるものである。だからこそ復刊されたわけであるが、それにしても各社の事情はあるにせよ、──自社のものを考えてもお互いさまなのだが──、こうした書籍群の在庫をつねに切らさないようにしておくことができないところに、現在の出版界の苦悩が集約的に表現されている。十年前に当時のみすず書房・小熊社長の発案でこの〈書物復権〉運動が始められたのであるが、この苦悩の質はますます深まるばかりである。その意味でも小熊氏の先見の明にはいまでも頭が下がる思いがする。自社の本を〈名著〉と呼ぶ臆面のなさを批判するひともいるが、それだけ古い本に愛着と自信をもっていることの証しであって、そうした本をなんとか読者の手に触れられるようにしていこうとするわれわれの運動の趣旨はけっして歪めて理解されてはならないと思う。
 復権される書物にもいろいろ事情のあることもあって、外から見ただけではそれらの事情がわかりづらいこともある。小社の例で言えば、ことしの復刊にはそうしたものが含まれている。
 そのひとつがウィリアム・E・B・デュボイスの『黒人のたましい』である。これは今回はじめてノミネートしてみたものであるが、読者の声のなかにこれをポストコロニアル批評の先駆的作品、アメリカ黒人解放運動の古典、などと高く評価してくれるひとが何人もいて、われわれとしても自信をもって復刊したものである。一九六五年初版(原書は一九〇三年刊)のこの本は、なんと最初は著者名がフランス語ふうの「デュボア」とされていたものであり、岩波文庫に収録されたときに正しく改名されたものだが、それだけ先走っていたことになる(岩波文庫版は品切れ中)。これはたまたまヒューストン・A・ベイカー・ジュニアの『モダニズムとハーレム・ルネッサンス』という最近刊行した本のなかで再三言及されるほどの名著であることをわれわれが再発見した結果なのである。こうした灯台下暗しの例もあるのだ。
 もうひとつは、これはすでに一九五〇年代に刊行され、増刷を重ねてきた結果、紙型が傷んでしまって二〇年以上にわたって品切れにしてきた平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文学論争史』上中下巻のケースである。旧字旧かな・8ポ二段組で合計一一〇〇ページ以上あるこのシリーズを、このたび新字新かな・9ポ一段組一六〇〇ページ以上にして新装新組版を復刊することになったために、ことしの夏は夏休みはおろか休日返上で死ぬほど校正に追われる日々だった。一九二五年から戦争中までの、しかも願ってもない編者三人を得て厳選された論争を集めたちょっと類書のない読み物でもあると同時に貴重な資料集でもある本シリーズは、いずれも一九七〇年代半ばまでに一八刷、一四刷、一三刷という実績を残していたものだから、三〇年ぶりに復刊すればかならず話題になるだろうという予想は立てていた。「朝日新聞」と「読売新聞」がさっそく記事にしてくれたのは、その意味では我が意にかなうものであったし、高値のわりにセット注文などで好調な動きを見せはじめており、まずはホッとしているところである。昨年やはり初版以来五〇年ちかくになる『日本詞華集』というアンソロジーを復刊してたいへん好評を博したのに味をしめて文字通り〈幻の復刊〉をめざしたものだが、どうやらほんとうに手間ヒマをかけて作ったものは長い歴史の篩にかけられても生き残りうるのだという認識をあらためて噛みしめているところである。
 現代のわれわれの出版(編集)の現場は、その意味で、あまりに時間に追われすぎているのかもしれない。ゴーストライターを使った政治家やタレントの一過的な本などは言うまでもなく、いまの著者はあまりに簡単に本を書き、知識を分散させすぎて薄っぺらになってしまった。編集者もそういう著者を追うばかりで、ほんとうに力を矯めている著者を発掘し、そうした著者の力作を世に送り出すことを怠りがちである。各社の新書本への力の入れようは理由なきにしもあらずだが、知識の切り売りに著者も編集者も荷担しすぎているのではあるまいか。
 と、ひさしぶりに慷慨調になってしまったが、〈書物復権〉の試みというのは、出版の原点がなんであるかということを何度でも思い起こさせてくれる絶好の機会なのである。小社もここまで九年間で五〇点ちかくの復刊書を出してきたことになるが(小社は二年目からの参加である)、先人の残してきた仕事を咀嚼しながら、いいものは極力残し、その精神を引き継ぐことの重要性をどう認識しなおすか、またリフレッシュできたところで考えてみたくなった。
▲up

[未来の窓116]

ホームページの活用再考

 未來社ホームページへのアクセス数がこのところ安定した高水準を保っている。一日平均して五〇〇弱、コンスタントに四〇〇台半ばから五〇〇台後半までのアクセス数ははたして一般的にみてどうなのか、出版社としてはどうなのかは不明だが、小社のような小出版社としてはまずまずの数字ではないかと思う。二〇〇〇年七月に仮立ち上げをしたころは月平均で二〇〇〇~三〇〇〇(一日平均で六〇~八〇)、二〇〇一年四月にリニューアル・オープンしたころは月平均で四〇〇〇台半ば(一日平均で一四〇超)といった具合で、しばらく一進一退をつづけながら二年ほどしてついに一日平均で二〇〇を超えるようになったのだが、ここ一年ほどのあいだに三〇〇台から四〇〇台に、そして五〇〇にも達しようとしているのである。
 これはどういうことを意味するのか。わたしは専門書出版社のホームページ活用の意味について本欄でも何度か持論を展開してきた。書店店頭での商品露出度の低い専門書の存在をいかに読者に知ってもらうかという必要からと、店頭での衝動買いというよりも目的買いという性格の強い専門書と専門的読者との結びつきという固有の性格からして、購入の判断のための情報さえきちんと提供できれば、いまの時代にあっては、出版社ホームページは十分に可能性のある媒体だと思っている。その可能性のバロメーターのひとつがアクセス数なのである。当然ながらアクセス数を獲得していくためにはさまざまな努力が必要なのは言うまでもない。出版物の情報だけでなく、出版や文化的イベントにかんするおもしろい情報とか役に立つ情報など周辺情報が充実していること、さまざまな情報源とのリンクが張られていること、などもそうした努力の現われと言える。
 しかし問題はいろいろある。たとえばアクセス数の増加だけで満足していることはできない。そこではアクセスの内容が問われるべきである。サーバーなどにはウェブ解析ツールがいろいろあるが、それらを使って調べてみるとアクセス数のほかにページ数などがカウントされており、これは誰かがアクセスしたあと同じサイト内でのサーフィン(つまりページを渡り歩くこと)の様子が反映されていることがわかる。もちろんこの数が多ければ、ホームページにそれだけ見どころがあるという証拠にもなろう。入口のところでおもしろくなさそうであれば、すぐ別のサイトに移動してしまうだろうからである。もうひとつのバロメーターはホームページへのアクセスポイントが数多くあることである。ホームページへの入口は必ずしもトップページばかりでなく、利用者のブックマーク(ウェブ上の栞のようなもの)や履歴機能からいきなり関心のあるページにジャンプすることができるからであり、それらもさきほどのウェブ解析ツールでどこからホームページに入ってきたかを分析することができる。それが多様であればあるほど、そのホームページには継続して読みたい箇所、見どころが多いことになる。
 パソコンを使うのがあたりまえになり、インターネットを通じての情報の送受信が増加の一途をたどっているからといって、それぞれのホームページのアクセス数が自然に増加すると考えるのはおおきな間違いであり、錯覚である。利用者が増え続けているといっても、ホームページの数も増え続けているのだから、利用価値のないものはどんどん淘汰されるか見向きもされなくなる。おもしろさか有用性、最小限このどちらかがなければホームページの可能性など、絵に描いた餅に等しいとも言える。その意味でこれもけっして楽な可能性の模索ではないし、ある意味で危険がともなわざるをえない。なぜなら、インターネットの世界ほど情報の伝播も早いと同時に無責任な発言、流言が許容されてしまう世界だからである。
 さてもうひとつの問題は、書籍の購入ルートにかんする問題である。昨今いわれているように、オンライン書店とりわけアマゾン・コムを利用する読者の数は増加する一方であり、リアル書店を圧迫している。出版社のホームページからの注文も読者への直送と結びつき、少ないパイがますます少なくなっている。紀伊國屋書店などでも店頭買いとネット注文からの在庫引き抜きが半々ぐらいになっているとも聞く。
 とはいえ、小社のホームページからの注文は、アクセス数の増加にくらべると、当初のわたしの予想に反して、さほど伸びているわけではない。二〇〇一年四月のリニューアル・オープンのときには『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』が刊行されたばかりで「朝日新聞」に写真入りで大きく取り上げられたこともあって、未來社ホームページでの一か月間の購入者数が一気に増え、つい先月、向井透史著『早稲田古本屋街』が刊行されるなどして購入者数がわずかに上回るまで更新されなかった。その程度には数字が伸びていないということでもあるのだが、その一方ではアマゾン・コムなどの利用には商品の多様性、送料無料の特典などがあるせいか、読者の最終的な購入先はオンライン書店に移行する傾向が強い。アマゾンのバックヤードとみなされる大阪屋の店売注文が大幅に増えていることでもそのことは確認できるのである。その意味で、出版社のホームページは直接販売にはたいして成果を上げていないように見えても、直接間接にオンライン書店あるいはリアル書店での販売に貢献していると考えていいのではないかと思う。
 ところで未來社ホームページへのアクセス数の増加に比例して購入書籍の冊数、金額がさほど上昇しないのは書籍購入へのインセンティブの不足にも原因があったのではないかと最近は思うようになった。『早稲田古本屋街』が著者の署名付き(希望すれば)というプレミアム販売でもあったからかなりの注文があったわけで、読者にとってなんらかのプラス要因のようなものがあれば、読者の直接購入をもっと喚起することができるのではないか。その観点から今後は、品切れ本のオンデマンド化など、読者へのサービスの質もくわえてホームページの活性化をさらに考えてみようと思っている。
▲up

[未来の窓117]

日本の出版界へのラディカルな問い直し──蔡星慧『出版産業の変遷と書籍出版流通』を読む

 出版ビジネスのなかで悪戦苦闘の日々を過ごしながら、出版とはほんとうにビジネスなのかと、ふと思うことがある。自分が力を入れて手がけた本が評判になったり、困難に思えたことが意外とうまくことが運んだりすると、ちょっとした満足感を覚えることもないわけではないが、たいていの場合はその逆である。小さな落胆、小さな失望の連続のなかでほんとうにこんなことをしてていいのか、という悲哀のようなものを感じるときがくる。
 出版はいまのところビジネスとして成り立っているかもしれないが、自分のまわりにいる若いスタッフを見ていると、かれらが今後何十年かにわたってこれまで通りのスタイルで出版業を継続していけるとは正直いって思えない。つまり出版はビジネスとして成り立ってはいかないんじゃないか、と思わざるをえなくなる。もしかしたら、いまでもすでに出版はほんとうはビジネスではないかもしれない。すくなくとも、わたしもふくめて、出版の仕事をビジネス本位でやろうとはしていない出版人、売行き至上主義とは異なる志向性をもつ編集者は少なからず存在するが、そういう人種はそもそもいまのような時代に出版界に棲息すること自体がどんどんむずかしくなっているのである。
 さて、こんなことを書こうと思っていたわけでもないのに、どうも生産性のある議論のほうにいかなくなってしまった。問題の立てかたがどこか間違っていたらしい。というのは、こんな時代になってもわたしのやろうと思っている出版のかたちはまだ当分のあいだはもつだろうし、やりかたしだいではいまよりすこしは良くなるかもしれないからである。そんなに先のことまで考えるのはわたしの趣味ではないし、業界全体の問題に口をはさむつもりはあまりないからでもある。とはいえ、そんなわたしでもたまには自分の仕事を全体のなかに位置づけ直してみようと思うことがある。
 蔡星慧さんという韓国人留学生が書いた『出版産業の変遷と書籍出版流通──日本の書籍出版産業の構造的特質』(出版メディアパル刊)という本を著者から送ってもらい、通読してみて大変勉強になった。出版ビジネスをこれだけ歴史的にも体系的にもきちんと整理して記述してもらえると、わたしのような怠け者にも、あらためて出版業というもののもつ歴史的意味と現在の実存的意味の交錯にたいしてもうすこし真剣に取り組んでおくべきかなという殊勝な気持ちがわいてくる。そう言えば、以前に上智大学の植田康夫氏の紹介ということで教え子の大学院生の蔡さんがインタビュー調査に来られたことがあり、そのときの成果が盛り込まれていることも本書を通読してみて確認できた。蔡さんはこの本のもとになった博士論文のために取次、書店、出版社の七〇人にこうした調査をおこなったとのことである。〈出版学〉とはなんとおそるべき堅実さに裏打ちされているものか、と怠け者のわたしは感心するばかりである。
 わたしが本書に関心をもったのはそうしたいきさつもあり、本書が出版ビジネスの歴史的成り立ちから今日の出版の根底を支えているかのように思われている委託制と再販制にたいする批判的考察まで展開しているからでもあるが、とりわけわたしの個人的関心は、本書のはじめのほうで、本書の目的のひとつは「今後の中小書籍出版の行方として特定専門ジャンルの特化による存立を考えるべきではなかろうかという問題意識に基づいている」とされているように、われわれのような小出版社にとっての今後の生き延びかたへの指針が得られるのではないかと思われたからでもある。
 ここではこの本の書評をするわけではないから、本書が提供しているさまざまな知識の集積やそれにもとづいた提言のそれぞれについて細かく触れることはできない。出版に関心のあるひとはぜひとも本書を繙かれることをまずはお奨めしておきたい。
 蔡さんの本書でのいくつかの提言のうちでも説得的なのは、現在の日本の出版界においてそれなしでは考えられないと思われている委託制と再販制が長い歴史的な経緯を経て実現していると同時に、さまざまな偶然の選択の結果であるにすぎないこと、また書籍と雑誌を同時に流通させるという日本に固有の出版総合流通体制が雑誌やベストセラーの大量生産、大量流通、大量販売に適していて出版界の量的繁栄を招来した反面、書籍流通にたいする取組みが欧米の先進諸外国にくらべて遅れをとったことをずばりと指摘している点である。しかも流通をめぐる問題点に気づいている業界人でさえも、取次、書店、出版社のいかんを問わず、委託制と再販制を自明の前提としていることの問題には自覚的でないことを蔡さんはラディカルに問い直そうとしているのである。かれらの指摘する「流通構造の改善は現行の流通制度の再考」にすぎず、「現行制度に関する批判的な観点が加えられているとは言いがたく、現行の流通制度に関して問題意識を持っているにもかかわらず、委託制や再販制〔へ〕の依存体制が成立している」のである。
 蔡さんの研究がけっして学問の世界にのみ充足してしまうのではなく、学術的であると同時に実践的な視野を広げていこうとしているのは、出版現場にたいする強烈な関心のゆえでもある。出版人の現実の営為を踏まえてこそ〈出版学〉が成立するという観点によってはじめて、学術的であることによってこそ現実的であるという可能性が切り開かれる。蔡さんがフランスやドイツの書籍出版の実情を踏まえて言うように、「再販制度を維持しようがしまいが、欧米の書籍出版産業は柔軟な対応を通じて成り立っており、保護されている。そういった構造体制の下で、専門書出版を含めた中小書籍出版も独自の世界を構築、維持している」という現実を、われわれはもっと柔軟に認識し直すべきではあるまいか。蔡さんのように外部から日本の出版界を見ることも必要なのだろう。
▲up